第16話 薄い甘さ
検査室の扉が閉まった瞬間、応接の空気がさらに冷えた。
女がいない。
男だけが残る。
男の笑顔は整っている。
整っているまま、目だけが動く。
逃げ道を探す目。
レナートは薄い声で言った。
「診療助手が見た。針穴、粉の痕」
男が笑って返す。
「子どもの観察です。誤解でしょう」
誤解。
便利な言葉。
レナートは男を見ない。
紙へ視線を落としたまま言う。
「誤解なら説明できる」
「説明しろ」
男は小さく息を吸った。
「彼女は弱い。婚約者として支えているだけです」
「薬も、健康のために」
健康。
これも便利。
俺は匂いを拾う。
男の袖口に、薄い甘さ。
香水じゃない。蜂蜜でもない。
乾いた甘さ。
粉の甘さ。
(……糖衣?)
薬を飲ませやすくする粉。
でも貴族なら、砂糖は珍しくない。
ただ――甘さの奥に、苦い金属。
(毒)
俺は言い切らない。
言い切れば、男は“被害者”に回れる。
レナートが淡々と問う。
「針はどこだ」
男が笑う。
「針? 何の話ですか」
「首に跡がある」
「薬を飲ませただけです」
レナートは声の温度を落とす。
「飲ませたなら、針はいらない」
男の笑顔が僅かに崩れた。
「……彼女は、注射を望んだのです」
レナートが言う。
「医師ではない者が?」
男が言った。
「私は医療に明るい。家族に医師がいます」
同じ台詞。
覚えた台詞。
レナートが淡々と言う。
「その医師の名を」
男の目が一瞬だけ泳いだ。
「……遠縁です。今は遠方で」
(出せない)
レナートが言った。
「針を出せ」
男が笑う。
「証拠もないのに、私を疑うのですか」
疑い。
責め。
貴族が一番嫌うやつ。
でも、伯爵家は医療で立ってる。
体面より、事故の方が重い。
レナートはそれを知っている。
「私は疑っていない」
薄い声。
「私は確認している」
言葉だけで相手の足場を崩す。
男が口を開きかけた瞬間――
扉が開いた。
伯爵夫人が顔を出す。
「ねえ、レナート」
声が明るい。
空気を壊す明るさ。
(頼む)
伯爵夫人は俺を見る。
「ロウ、怖い顔してるわよ?」
(やめろ)
俺が動く前に、レナートが一歩ずれて壁になる。
「奥方様」
薄い声。
「今は診療です」
伯爵夫人が頬を膨らませる。
「分かってる。でも心配なの。あのご令嬢、顔色がね」
心配は本物だ。
だから厄介。
レナートは淡々と言った。
「検査中です」
伯爵夫人は一歩入ろうとする。
その瞬間、レナートの空気がすっと冷える。
「奥方様。ここから先は危険です」
危険。
伯爵夫人が止まる。
「危険って……何?」
レナートは余計な説明をしない。
「感染ではありません」
「ですが、原因が不明です」
伯爵夫人は優しい人だ。
優しいから、止まれる。
「……分かったわ。邪魔しない」
そう言いながら、伯爵夫人は俺を見て微笑む。
「ロウ、あとでお茶ね」
(終わった)
俺は黙って頷くしかない。
伯爵夫人が去る。
扉が閉まる。
男が、薄く笑った。
「……奥方様は、お優しい」
(こいつ、利用する)
優しさを盾にするタイプだ。
レナートは薄い声で言った。
「奥方様の名を使うな」
男が肩をすくめる。
「私はただ、彼女のために――」
レナートが遮る。
「黙れ」
氷。
男の笑顔が止まる。
レナートは続ける。
「診療助手。匂いを言え」
(匂い)
俺は短く言う。
「甘い粉。袖口」
男が即座に言った。
「砂糖です。彼女が薬を嫌がるから」
レナートが言う。
「砂糖なら、ここで確認できる」
レナートは薬庫番を呼ばない。
自分で小皿を取り、湯を用意した。
応接は一瞬で“簡易検査”の場になる。
伯爵家の診療所は、こういう時の速度が違う。
レナートが命じる。
「袖口を見せろ」
男は笑った。
「失礼だ」
レナートの声の温度が下がる。
「失礼より、患者の命が重い」
男は渋々、袖を出す。
俺は見える。
袖口の内側。
布が少し硬い。
粉が擦り込まれてる。
(わざと付けた)
砂糖を“自然に”ここまで染み込ませない。
レナートが淡々と言う。
「布を切る」
男が顔色を変えた。
「待て!」
レナートは止まらない。
小さな刃で、袖口の内側を一片だけ切り取る。
男は椅子から立ち上がりかける。
その瞬間、レナートの声が凍る。
「座れ」
男が固まる。
怒鳴っていない。
でも、立てない。
(これが怒り)
レナートは切り取った布を湯に浸す。
粉が溶ける。
甘い匂い。
でも、もう一つ匂いが立つ。
――苦い金属。
俺は息を止めた。
レナートの目が僅かに細くなる。
声は薄いまま。
「砂糖ではない」
男が笑おうとする。
「子爵様、それは――」
レナートが遮る。
「黙れ」
氷。
レナートが淡々と言った。
「検査室へ連絡する。血を調べる」
男が言った。
「彼女は元々弱い。血がどうこうで――」
「元々弱い者ほど、毒は通る」
レナートの言葉が、初めて“断定”に寄った。
断定に寄った瞬間――男の笑顔が崩れた。
そして、男は最後の盾を出す。
「私は婚約者だ。彼女の意思で――」
レナートは薄い声で切る。
「意思なら、本人に聞く」
「本人が話せるうちに」
⸻
扉が開いた。
検査室から、若い研究員が顔を出す。
「子爵様。ご令嬢の血色が……さらに落ちています」
(進んでる)
レナートは即座に命じる。
「解毒の準備」
「はい」
男が青くなる。
「待ってください。解毒など――」
レナートは男を見ない。
「診療助手」
俺は一瞬、迷う。
次の一手は、俺が言うと決まる。
でも、言わないと死ぬ。
俺は短く言った。
「こいつ、袖に粉を擦り込んでる。わざとだ」
男が叫びかける。
「違う!」
レナートが言った。
「違うなら、今ここで針を出せ」
男は息を詰まらせた。
出せない。
そして――出せない者は、逃げる。
男が扉へ向かって動いた。
その瞬間、レナートの声が、ほんの僅かに低くなる。
「止めろ」
(誰に?)
俺は反射で動く。
掴まない。
掴めば俺が罪を背負う。
俺は男の進路に身体を入れた。
男が俺を押そうとして、躊躇した。
子どもを押すと、罪が目に見える。
その躊躇の一拍で、ハロルドが現れた。
「レナート子爵」
ハロルドの手が男の肩を押さえる。
静かに。逃げ道だけを塞ぐ。
男が低く呻く。
「離せ……!」
ハロルドは淡々と言う。
「命令です。子爵様の」
(格の差)
男は動けない。
レナートは薄い声で言った。
「婚約者。今から聞く」
「彼女に何をした」
男の整った顔が、初めて崩れた。
“優しい婚約者”の顔が落ちて、
下にあったものが出てくる。
(やっと本体)
次は、本人の口から引き出す。
そして、毒の“名前”を付ける。
穴を塞ぐように。




