第14話 奥方様の手
伯爵夫人が戻る日、屋敷は朝から静かに忙しかった。
走らない。
音を立てない。
笑わない。
そのくせ、動きだけは速い。
廊下の隅に花が増え、窓が磨かれ、布の匂いが新しくなる。
(面倒)
俺は物品室で包帯を数えていた。
札は袖の内。
革紐は服の下。
見られたくないものが増えるほど、居心地は悪くなる。
扉が開く。
「診療助手」
侍女の声。
昨日の年配の侍女だ。背が高い。目が鋭い。
「奥方様が到着されました。――お会いになります」
“お会いになります”は命令だ。
俺は言った。
「会わない」
侍女は微笑んだまま、言う。
「奥方様の命です」
(命)
貴族の命令は、断ると罪になる。
俺は息を吐いた。
(レナートはどこだ)
視界を動かす前に、廊下の向こうから足音が近づいた。
レナートだ。
薄い声、無表情。
でも今日は、足が速い。
「ロウ」
(来た)
「……はい、子爵様」
人がいるから、俺はそう答えた。
レナートは侍女へ言う。
「奥方様には私が伺う」
侍女が僅かに眉を動かす。
「子爵様。奥方様は子どもに会いたいと――」
レナートは淡い声で切った。
「私が伺う」
二度目。
命令の確定。
侍女は引き下がらない。
「子爵様。奥方様は旅行の土産を――」
レナートの空気が、ひとつ下がった。
「……それは私が受け取る」
侍女が一拍置いて頭を下げる。
「承知しました。子爵様」
侍女が去る。
廊下に残ったのは、俺とレナートだけ。
(人がいない)
俺は小さく言った。
「レナート、無理だろ」
レナートは振り返らない。
「無理ではない」
「奥方様は子ども好きだぞ」
「知っている」
「俺、捕まる」
言った瞬間、俺は自分の言葉に腹が立った。
捕まる。
まるで獣みたいだ。
でも、正しい。
伯爵夫人の“優しい手”は、拒めない。
レナートが淡く言った。
「捕まらせない」
救出の断言。
(腹立つ)
俺は言った。
「俺が断ればいい」
レナートの声の温度が下がる。
「断るな」
「断れば、お前は礼を欠く」
「礼を欠けば、配置の議題が復活する」
「議題が復活すれば、お前は切られる」
理屈の階段。
俺は息を吐く。
「……じゃあ、どうすんだよ」
レナートが言う。
「私が先に行く」
「私が、奥方様の手を止める」
(止める?)
止められるのか。
伯爵夫人の優しさを。
レナートは歩き出す。
「来い」
「……はい」
俺は半歩後ろへ戻る。
⸻
応接間。
扉の前で、空気が変わった。
花の匂い。
紅茶の匂い。
布の匂い。
研究棟とは違う。
ここは“家”の匂いだ。
扉が開く。
中にいたのは伯爵夫人。
年は分からない。
でも、目が明るい。笑い皺が柔らかい。
「まあ!」
声が明るい。
屋敷で久しぶりに聞く種類の声。
伯爵夫人の視線がレナートの後ろへ飛ぶ。
――俺だ。
「その子? その子なの?」
(来た)
俺は反射で半歩下がる。
でも下がれない。レナートが前にいる。
伯爵夫人が立ち上がった。
「可愛い……!」
子ども好きの反応は、直球だ。
「レナート、あなたが連れてきたのね?」
伯爵夫人はレナートの名を呼ぶ。
呼び捨て。家の呼び方。
レナートは一礼する。
「奥方様。お帰りなさいませ」
伯爵夫人は笑った。
「相変わらず堅いのねえ」
「でも、いいの。あなたが堅いから――」
伯爵夫人の視線が俺に落ちる。
「私がこの子を可愛がれるのが嬉しいのよ」
(やめろ)
俺の腹が冷える。
可愛がる、は危険だ。
守る、も危険だ。
伯爵夫人は俺へ手を伸ばした。
「おいで。こっちへ」
手が温かそうだ。
拒むと角が立つ。
俺は動けない。
その瞬間、レナートが一歩だけ前へ出た。
伯爵夫人の手と、俺の間に入る。
「奥方様」
薄い声。
でも、硬い。
伯爵夫人が目を瞬く。
「何?」
レナートは言う。
「診療助手は、今は動かせません」
(診療助手)
伯爵夫人が笑う。
「まあ! お仕事なのね!」
「えらいわねえ、この子」
伯爵夫人の手が、もう一度伸びる。
今度は俺の頬へ。
俺は反射で顔を引きかける。
その前に、レナートが言った。
「触れないでください」
空気が止まる。
伯爵夫人の笑いが消える……かと思った。
消えない。
伯爵夫人は、面白そうに目を細めた。
「レナート」
声音が少しだけ低くなる。
怒ってはいない。興味だ。
「あなたがそう言うの、珍しいわ」
レナートは表情を変えない。
「必要です」
必要。
理屈の言葉。
伯爵夫人はくすっと笑った。
「必要、ね」
「この子、あなたの“必要”なのね」
俺は息が止まりかけた。
(言うな)
伯爵夫人は悪意じゃない。
ただ、核心を軽く踏む。
レナートは否定しない。
否定しない代わりに、言った。
「奥方様。お土産は後ほど拝見します」
話を切る。
いつもの手だ。
伯爵夫人は頷いた。
「分かったわ。じゃあ――」
伯爵夫人は俺を見て、柔らかく言う。
「無理しなくていいのよ。ここは怖い人ばかりじゃない」
怖い人ばかりじゃない。
それが一番怖い。
優しさは、境界を溶かす。
伯爵夫人が笑って言った。
「あなた、名前は?」
俺が答えようとした瞬間、レナートが先に言った。
「呼び名はロウです」
(……先に言った)
伯爵夫人が嬉しそうに繰り返す。
「ロウ。可愛い名前」
「ねえ、ロウ。あなた、甘いものは好き?」
(終わった)
捕まる。
俺は諦めかけた。
その瞬間、レナートが淡く言った。
「奥方様。診療助手はまだ治癒途中です」
伯爵夫人が目を丸くする。
「まあ……怪我を?」
レナートは頷く。
「はい。触れれば痛みます」
嘘じゃない。
痛みは引いても、線は残ってる。
伯爵夫人の手が止まった。
伯爵夫人はすぐに顔を曇らせる。
「ごめんなさいね……!」
「触らない。触らないわ」
優しい人は、簡単に引く。
引けるから優しい。
伯爵夫人は俺に向かって柔らかく言う。
「あなた、無理しないでね」
俺は短く答えた。
「……はい」
伯爵夫人の目が輝く。
「返事が可愛い!」
(やめろ)
⸻
応接間を出る。
廊下に出た瞬間、俺は息を吐いた。
「……助かった」
レナートは振り返らない。
「当然だ」
「奥方様、怖ぇ」
レナートの声は薄い。
「怖いのは優しさだ」
(同意)
俺はふと気づく。
さっき、レナートが先に言った。
俺の呼び名を。
奥方様の前で。
俺の線を、俺の代わりに引いた。
そして、伯爵夫人の手から――救出した。
救出は、理屈の形をしていた。
でも、救出の回数が増えるほど、
理屈は薄くなる。
そういう予感がした。




