第13話 帰還の知らせ
伯爵夫人の話は、屋敷の中では“天気”みたいに扱われる。
口にすると空気が変わる。
だから皆、なるべく言わない。
言わないけど、動きは出る。
⸻
翌朝。
診療所の廊下で、使用人が二人、布の束を抱えて走っていた。
走るのは規定違反だ。
でも、走っている。
「何だよ」
俺が呟くと、通りすがりの下働きが小声で言った。
「奥方様が戻られるんだって」
(奥方)
伯爵夫人。
旅行中で不在。
その不在が、屋敷の均衡の一部だった。
戻るなら、均衡が崩れる。
(……面倒)
俺は半歩後ろの位置を思い出す。
あの位置は、レナートが作った線だ。
線が崩れた時、俺は一番最初に弾かれる。
⸻
「ロウ」
レナートの声がして、俺は振り返る。
レナートはいつも通りだ。
薄い声。無表情。
でも、足音がほんの少しだけ早い。
「来い」
「……はい、子爵様」
廊下に人がいるから、俺はそう言った。
レナートは診療室へ向かう途中で、淡く言う。
「伯爵夫人が戻る」
言った。
珍しい。
必要な情報だからだ。
「いつ」
「三日後」
(三日後)
俺の頭の中で、いくつかの線が立つ。
•子ども好き
•レナートは近づけない
•俺は“触りやすい”
•触られたら、屋敷の噂が増える
•噂が増えたら、“配置”が再燃する
(終わってねぇ)
俺が黙っていると、レナートが続けた。
「お前は近づくな」
(……は?)
俺は思わず言い返しかけて止めた。
廊下だ。
「……はい、子爵様」
レナートは振り返らない。
「命令だ」
淡い声。
でも、命令。
(救出の匂い)
俺は腹の奥が少しだけ熱くなる。
助かる。
でも、腹が立つ。
⸻
昼前。
帳簿係が診療室に来た。
「レナート子爵。奥方様の部屋の準備について――」
レナートは淡々と答える。
「伯爵に確認しろ」
帳簿係が言う。
「奥方様が戻られると、診療所の運用にも影響が」
「影響は把握している」
薄い声で切る。
帳簿係は俺を一瞬見る。
(まただ)
札を見る目。
出自を見る目。
帳簿係が言った。
「診療助手についても……奥方様は、子どもに心を寄せられます」
(寄せる)
言い方が綺麗すぎる。
つまり、問題提起。
レナートは淡く言った。
「必要な時だけ動かす。それ以上はない」
帳簿係は引き下がった。
でも、目が言っている。
“奥方様の前では通用しませんよ”と。
⸻
午後。
俺は物品室で包帯の束をまとめていた。
そこへ、年配の侍女が入ってきた。
背筋がまっすぐ。
柔らかい顔。
でも目が鋭い。
「あなたが診療助手?」
(来た)
俺は顔を上げる。
「……そう呼ばれてる」
侍女は微笑んだ。
「奥方様がね、子どもがいると聞けば必ず会いたがるの」
「レナート子爵は、ああいうお方でしょう」
「だから……奥方様は、嬉しいのよ」
(レナートがあの性格だから)
確かに。
伯爵夫人が可愛がれる余地がない。
だから、俺に来る。
侍女は続ける。
「奥方様は優しい。あなたを守ろうとなさる」
(守る)
守る、は危ない。
守る者が増えると、奪う者も増える。
俺は短く言った。
「会わない」
侍女が驚く。
「まあ……どうして」
俺は言う。
「俺が目立つと、面倒が増える」
侍女はふっと笑った。
「賢い子ね」
その言葉が、嫌だった。
賢い子は、都合よく使われる。
侍女は声を落とす。
「でもね。奥方様の前で断るのは難しいわ」
(だろうな)
俺は息を吐いた。
⸻
夕方。
廊下の角で、俺はレナートを見つけた。
人がいない。
俺は小さく言う。
「レナート」
レナートの目が僅かに動く。
「何だ」
俺は言った。
「侍女が来た。伯爵夫人が俺に会いたがるって」
レナートの足が止まる。
顔は動かない。
でも、空気が冷える。
「……誰だ」
「年配の侍女。背が高い。目が鋭い」
レナートは淡く言った。
「分かった」
俺は言った。
「会わない方がいいだろ」
レナートは一拍置く。
「会わせない」
短い。
命令みたいな断言。
俺は少しだけ腹が立った。
「俺の意思は」
レナートの声の温度が、ほんの僅かに下がる。
「お前の意思で動けば、屋敷はお前を切る」
「切らせないために、私が線を引く」
理屈。
でも理屈の中に、救出がある。
俺は小さく舌打ちを飲み込んだ。
「……わかったよ」
レナートはそれ以上言わない。
言わないけど、歩き出す前に一つだけ言った。
「三日後まで、私の視界から外れるな」
俺は一瞬、言葉を失う。
(視界)
今までそんな言い方はしなかった。
レナートは、いつも通り薄い声で言っただけだ。
「事故が増える」
最後に理屈を付ける。
付けるのが癖だ。
でも俺は分かった。
理屈の形をした言葉の下に、
別のものが育ってきている。
伯爵夫人の帰還は、
屋敷の穴を揺らす。
そして――
レナートの“管理”の形も、揺らす。




