第11話 穴の名前
予備鍵がある。
それだけで、話は変わる。
手癖の悪い使用人が一人いた、では終わらない。
仕組みがある。
仕組みを作った人間がいる。
レナートは、その場で言い切らなかった。
「分かった」
それだけ。
でも、その短さは、もう「決めた」の合図だ。
⸻
夕方。
診療所の裏廊下に、帳簿係が立っていた。
「レナート子爵がお呼びです」
硬い呼び方。
公的な場の合図。
俺は短く答える。
「……はい」
⸻
小さな会議室。
中には、レナートとバルド、帳簿係、薬庫番がいた。
そして――伯爵もいた。
空気が一段、重い。
伯爵の視線が俺に落ちる。
測る目。
でも今日は、秤の上で動かない。
レナートが一礼する。
「閣下」
伯爵が言う。
「レナート」
レナートは淡々と報告した。
「洗濯室から、封印箱に通じる補助鍵が見つかりました」
薬庫番が震える。
「そんなもの、私は知りません」
レナートが言う。
「知っていなくていい。規定の穴だ」
伯爵が短く言った。
「穴を塞げ」
「はい。今夜中に」
レナートは帳簿係へ視線を向ける。
「記録を出せ。鍵の台帳だ」
帳簿係が紙束を差し出す。
「二重承認の鍵は二本。補助鍵の記載はありません」
レナートが言う。
「記載がないものは存在してはならない」
伯爵が言う。
「存在した」
短い断定。
ハロルドが低く言った。
「……当主側の者が、規定改定前の慣習を残していた可能性があります」
レナートはバルドを見ない。
淡い声で切る。
「可能性ではなく、事実を出せ」
冷たい。
怒鳴らない。
ただ、温度が下がる。
ハロルドが口を閉じた。
伯爵が言う。
「洗濯室の女は」
レナートが答える。
「ミラは職務から外しました。供述は途中までです」
伯爵が言った。
「泣けば終わる」
「終わらせません」
レナートの返事は短い。
伯爵の視線が俺に落ちる。
「診療助手」
俺は背筋を固くする。
伯爵が言った。
「お前は何を見た」
レナートが先に言う。
「閣下。必要部分だけ話させます」
伯爵は頷かない。
否定もしない。
俺は、必要だけ言う。
「ミラの石鹸の匂いに、鉄が混じってた」
「鍵の匂いだ」
「あと――」
言いかけて、止める。
(言うと刺さる)
でも、ここは伯爵の前だ。
刺さっても、逃げ道がある。
俺は続けた。
「ミラは『閣下もそう思ってる』って言った」
空気が止まった。
伯爵の目が僅かに細くなる。
怒りの形。
レナートの声の温度が落ちる。
「……閣下の名を使ったか」
俺は頷く。
伯爵が言った。
「それは、誰かが言わせている」
レナートが言う。
「当主側です」
ハロルドの眉が僅かに動く。
レナートは続けた。
「ミラが言った。『当主側が』と」
伯爵は短く言った。
「ハロルド」
ハロルドが頭を下げる。
「閣下」
伯爵が言う。
「お前の管理下で起きている」
ハロルドは言い訳をしない。
「……はい」
伯爵が言った。
「名を出せ」
ハロルドが一拍置く。
「……オルガです」
(出た)
レナートは表情を変えない。
でも、空気がさらに冷える。
伯爵が言う。
「呼べ」
ハロルドが言う。
「承知しました」
⸻
オルガはすぐに連れて来られた。
顔は整っている。
声も整っている。
「閣下。お呼びでしょうか」
伯爵が言う。
「封印箱に触れた」
オルガは即答する。
「触れておりません」
レナートが言う。
「記録がない立会いは立会いではない」
オルガが言った。
「私は、閣下の名を守るために――」
その言葉が終わる前に、伯爵が言った。
「黙れ」
氷。
オルガの顔から血の色が引く。
伯爵が続ける。
「私の名を使うな」
「使うなら、命令書を出す」
「命令書がないなら、私の名ではない」
正しい。
逃げ道を全部塞ぐ正しさ。
オルガは唇を噛む。
「閣下……私は……」
伯爵が言った。
「お前は、誰のために動いた」
沈黙。
この沈黙で、答えは出る。
レナートが淡く言った。
「派閥だ」
伯爵が言う。
「派閥は要らない」
短い。
処分の言葉だ。
オルガが息を吸う。
「閣下……私は……」
伯爵が言った。
「私の前で、泣くな」
オルガの喉が詰まる。
伯爵は視線をレナートへ。
「レナート。処分を」
レナートが一礼する。
「承知いたしました、閣下」
ここで、レナートの“怒り”は見えない。
声も薄い。
顔も動かない。
でも、場の温度は落ち続けている。
⸻
会議室を出た廊下。
人がいない角で、俺は小さく息を吐いた。
(終わった……のか?)
レナートが言う。
「終わっていない」
(読まれた)
「予備鍵は穴の一つだ」
「穴を作ったのは、オルガ一人ではない」
俺は言った。
「ミラも駒か」
「そうだ」
レナートは淡く続ける。
「駒は捨てれば終わる」
「だが、捨てた瞬間に別の駒が出る」
俺は舌打ちを飲み込む。
「じゃあどうすんだよ」
レナートの声は薄い。
「穴に、名前を付ける」
「名前を付ければ、規定にできる」
(理屈の人間)
でも、その理屈は正しい。
俺は訊いた。
「穴の名前って何だ」
レナートが言った。
「“私物化”だ」
「研究成果を、家のものではなく、派閥のものにする」
「それが今の敵だ」
俺は半歩後ろを歩いた。
診療助手の札は、ただの札じゃない。
俺が見て、言うことで、
この屋敷の“穴”に名前が付いていく。
名前が付けば、塞げる。
――でも、名前が付いた瞬間、敵も形を持つ。
次は、もっと露骨に来る。




