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少年ロウの観察事件簿  作者: ちわいぬ
第ニ章 洗濯室の視線

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第10話 洗濯室の鍵

レナートは、その場で何も言わなかった。


「分かった」


それだけ。


それだけで十分だった。

この人は、決めたことを喋らない。


喋らないまま、動く。



その日の午後。


俺は診療室の裏で、包帯の束をまとめていた。

札は袖の内。革紐は服の下。


“名が付いた者は名で守る”。


伯爵の言葉が、胸の奥に残っている。


でも守りは、自分から出るものじゃない。

守る側が出すものだ。


(待つのは嫌いだ)


包帯の端を揃えていると、影が落ちた。


「診療助手」


声が硬い。


振り返る。


帳簿係だ。

目が妙に忙しい。


「レナート子爵がお呼びです」


(公的な呼び方)


俺は立ち上がる。


「……はい」


廊下に人がいるから、俺は短く返した。



薬庫の前。


扉は閉まっている。

でも中は、もう“いつも通り”じゃない。


鍵束の音が増えた。

立ち位置が変わった。

見張りの目が、硬い。


そこにレナートがいた。


薄い声、無表情。

そのままのくせに、空気だけが冷たい。


ハロルドもいる。

そして、洗濯室の女がいた。


女は腕を組み、顔を上げている。

被害者の顔だ。

泣く前の顔。


俺は一歩手前で止まった。


(ここ、人がいる)


俺は声を整える。


「……子爵様」


レナートは振り返らずに言った。


「そこに立て」


俺は半歩後ろ。

いつもの位置。


レナートが薬庫番へ言う。


「鍵を出せ」


薬庫番が震える手で鍵束を差し出した。


レナートは鍵束を受け取らない。

視線だけを向ける。


「数は」


「二本です。二重承認の二本」


レナートが言う。


「昨日、封印箱に触れた者は」


薬庫番が目を伏せる。


「……当主側の立会いと称する者が」


レナートは淡く言った。


「記録は」


帳簿係が答える。


「ありません」


レナートが言う。


「なら、立会いではない」


薄い声。

でも全員が黙る。


洗濯室の女が口を開いた。


「子爵様、私は関係ありません」


“私は”を先に出す。

聞かれてないのに出す。


(焦ってる)


レナートは見ない。

見ないまま言った。


「名」


女が僅かに顎を上げる。


「ミラです」


(名が出た)


レナートが言う。


「ミラ。お前は洗濯室の管理だな」


「はい。診療所の布類を」


「鍵を触る理由は」


ミラは即答する。


「ありません」


「なら、触っていない」


「触っていません」


(即答)


即答は強い。

強いのは、準備してるからだ。


レナートが薬庫番へ言う。


「封印箱を出せ」


薬庫番が小箱を差し出す。


削れた封蝋。

欠けた痕。


ミラの目が一瞬だけ動く。

箱へ。封へ。


(見た)


レナートが言う。


「診療助手。必要なら話せ」


俺は一瞬だけ迷う。


人がいる。

俺が言えば、俺が矢面になる。

でも、言わないと終わらない。


俺は息を吐いた。


「この封、刃物じゃない」


ミラが笑った。


「何を言ってるの? 子どもが」


レナートが遮る。


「黙れ」


凍る。

ミラの笑いが消えた。


俺は続ける。


「爪で抉ってる。欠けが丸い。線がない」


帳簿係が固まる。

薬庫番が青くなる。


ミラは即座に言った。


「爪? 馬鹿みたい」


「そんなことする人、いるわけない」


俺は言い返さない。

言い返すと“喧嘩”になる。


レナートが淡く言った。


「いる。現に封は削れている」


ミラが唇を噛む。


レナートはミラを初めて見る。

目だけで。


「ミラ。右の人差し指を見せろ」


場が止まった。

ミラの手が、僅かに背中へ回る。


(隠した)


レナートの声は薄い。


「見せろ」


命令だ。


ミラは笑おうとして、失敗する。


「そんな……屈辱です」


レナートが言う。


「屈辱を避けたいなら、規定を守れ」


ミラの手が、ゆっくり前に出る。

右の人差し指の爪。

欠けている。


欠け方が、新しい。

白い。削れたばかり。


空気が一段、冷える。


レナートは声を荒げない。

ただ、言う。


「一致した」


ミラの顔が青くなる。


「違います! たまたまです!」


レナートが薬庫番に言った。


「封印箱に触れた者を、記録に残せ」


薬庫番が震えながら、頷く。


ミラが叫びかける。


「子爵様! 私は――」


レナートが言った。


「黙れ」


叫びを殺す声。

怒鳴っていないのに、叫びが止まる。


ミラは息を詰める。


レナートが続ける。


「お前は、誰の指示だ」


ミラが目を泳がせる。


「……指示なんて」


レナートが言う。


「閣下の名を使ったな」


ミラの顔が止まる。


(刺さった)


ミラは言葉を探す。


「私は……皆のために……屋敷の秩序を……」


レナートの声の温度が、さらに下がる。


「秩序を口にする者ほど、秩序を壊す」


ミラが震える。


「私は……ただ……赤毛が……」


「診療助手だ」


レナートが淡く訂正する。

名で守る。

その訂正だけで、場の線が変わる。


ミラが吐いた。


「…あの子がいると……当主側が……」


言いかけて、口を噤む。


(出た)


当主側。



レナートは、それ以上追わない。

追うと、ミラは“泣いて逃げる”。


レナートは淡く言った。


「ハロルド」


ハロルドが頭を下げる。


「子爵様」


「ミラを預ける。身柄ではない。職務から外す」


ミラが反射で叫ぶ。


「そんな! 私は働かないと!」


レナートが言う。


「働く場はある。ここではない」



冷たい決定。


ミラの目が俺に刺さる。


「あなたさえ来なければ……!」


俺は何も言わない。


言ったら負ける。

言わなくても、俺の札はある。



レナートが俺に言った。


「診療助手。洗濯室へ行け」


(え)


ここで俺を動かす?


レナートは俺を見ない。

見ないまま言う。


「鍵の匂いがしたと言ったな」


「残っているなら、まだ隠し場所がある」


(……釣りか)


俺は息を吐いた。


「……はい、子爵様」



洗濯室。

湯気。石鹸。湿った布。


さっきの女の匂いが残っている。

俺は桶の下、棚の隙間、石鹸箱の奥を見た。


――鉄の匂い。


(ここだ)


古い布の束。

その中に、金属。


鍵。


薬庫の鍵ではない。

でも似ている。

小箱用の、補助鍵。


(予備)


予備があるなら、規定は穴だらけだ。

俺は鍵を掴まない。


掴むと“盗んだ”になる。

俺は布を被せたまま、位置だけを覚える。


そして廊下へ出て、レナートを探した。

曲がり角。


レナートがいた。


人がいる。

俺は短く言う。


「……子爵様。洗濯室に、予備鍵があります」


レナートの足が止まる。

顔は動かない。

でも、空気がまた冷えた。


「場所は」


「石鹸箱の奥。古布の束の中」


レナートは淡く頷いた。


「分かった」


それだけ。

でも分かる。


ミラは一人で動いていない。

予備鍵があるということは、仕組みだ。


――屋敷の中に、まだ“穴”が残っている。


そして、俺を追い出したい連中は、

まだ終わっていない。

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