第10話 洗濯室の鍵
レナートは、その場で何も言わなかった。
「分かった」
それだけ。
それだけで十分だった。
この人は、決めたことを喋らない。
喋らないまま、動く。
⸻
その日の午後。
俺は診療室の裏で、包帯の束をまとめていた。
札は袖の内。革紐は服の下。
“名が付いた者は名で守る”。
伯爵の言葉が、胸の奥に残っている。
でも守りは、自分から出るものじゃない。
守る側が出すものだ。
(待つのは嫌いだ)
包帯の端を揃えていると、影が落ちた。
「診療助手」
声が硬い。
振り返る。
帳簿係だ。
目が妙に忙しい。
「レナート子爵がお呼びです」
(公的な呼び方)
俺は立ち上がる。
「……はい」
廊下に人がいるから、俺は短く返した。
⸻
薬庫の前。
扉は閉まっている。
でも中は、もう“いつも通り”じゃない。
鍵束の音が増えた。
立ち位置が変わった。
見張りの目が、硬い。
そこにレナートがいた。
薄い声、無表情。
そのままのくせに、空気だけが冷たい。
ハロルドもいる。
そして、洗濯室の女がいた。
女は腕を組み、顔を上げている。
被害者の顔だ。
泣く前の顔。
俺は一歩手前で止まった。
(ここ、人がいる)
俺は声を整える。
「……子爵様」
レナートは振り返らずに言った。
「そこに立て」
俺は半歩後ろ。
いつもの位置。
レナートが薬庫番へ言う。
「鍵を出せ」
薬庫番が震える手で鍵束を差し出した。
レナートは鍵束を受け取らない。
視線だけを向ける。
「数は」
「二本です。二重承認の二本」
レナートが言う。
「昨日、封印箱に触れた者は」
薬庫番が目を伏せる。
「……当主側の立会いと称する者が」
レナートは淡く言った。
「記録は」
帳簿係が答える。
「ありません」
レナートが言う。
「なら、立会いではない」
薄い声。
でも全員が黙る。
洗濯室の女が口を開いた。
「子爵様、私は関係ありません」
“私は”を先に出す。
聞かれてないのに出す。
(焦ってる)
レナートは見ない。
見ないまま言った。
「名」
女が僅かに顎を上げる。
「ミラです」
(名が出た)
レナートが言う。
「ミラ。お前は洗濯室の管理だな」
「はい。診療所の布類を」
「鍵を触る理由は」
ミラは即答する。
「ありません」
「なら、触っていない」
「触っていません」
(即答)
即答は強い。
強いのは、準備してるからだ。
レナートが薬庫番へ言う。
「封印箱を出せ」
薬庫番が小箱を差し出す。
削れた封蝋。
欠けた痕。
ミラの目が一瞬だけ動く。
箱へ。封へ。
(見た)
レナートが言う。
「診療助手。必要なら話せ」
俺は一瞬だけ迷う。
人がいる。
俺が言えば、俺が矢面になる。
でも、言わないと終わらない。
俺は息を吐いた。
「この封、刃物じゃない」
ミラが笑った。
「何を言ってるの? 子どもが」
レナートが遮る。
「黙れ」
凍る。
ミラの笑いが消えた。
俺は続ける。
「爪で抉ってる。欠けが丸い。線がない」
帳簿係が固まる。
薬庫番が青くなる。
ミラは即座に言った。
「爪? 馬鹿みたい」
「そんなことする人、いるわけない」
俺は言い返さない。
言い返すと“喧嘩”になる。
レナートが淡く言った。
「いる。現に封は削れている」
ミラが唇を噛む。
レナートはミラを初めて見る。
目だけで。
「ミラ。右の人差し指を見せろ」
場が止まった。
ミラの手が、僅かに背中へ回る。
(隠した)
レナートの声は薄い。
「見せろ」
命令だ。
ミラは笑おうとして、失敗する。
「そんな……屈辱です」
レナートが言う。
「屈辱を避けたいなら、規定を守れ」
ミラの手が、ゆっくり前に出る。
右の人差し指の爪。
欠けている。
欠け方が、新しい。
白い。削れたばかり。
空気が一段、冷える。
レナートは声を荒げない。
ただ、言う。
「一致した」
ミラの顔が青くなる。
「違います! たまたまです!」
レナートが薬庫番に言った。
「封印箱に触れた者を、記録に残せ」
薬庫番が震えながら、頷く。
ミラが叫びかける。
「子爵様! 私は――」
レナートが言った。
「黙れ」
叫びを殺す声。
怒鳴っていないのに、叫びが止まる。
ミラは息を詰める。
レナートが続ける。
「お前は、誰の指示だ」
ミラが目を泳がせる。
「……指示なんて」
レナートが言う。
「閣下の名を使ったな」
ミラの顔が止まる。
(刺さった)
ミラは言葉を探す。
「私は……皆のために……屋敷の秩序を……」
レナートの声の温度が、さらに下がる。
「秩序を口にする者ほど、秩序を壊す」
ミラが震える。
「私は……ただ……赤毛が……」
「診療助手だ」
レナートが淡く訂正する。
名で守る。
その訂正だけで、場の線が変わる。
ミラが吐いた。
「…あの子がいると……当主側が……」
言いかけて、口を噤む。
(出た)
当主側。
レナートは、それ以上追わない。
追うと、ミラは“泣いて逃げる”。
レナートは淡く言った。
「ハロルド」
ハロルドが頭を下げる。
「子爵様」
「ミラを預ける。身柄ではない。職務から外す」
ミラが反射で叫ぶ。
「そんな! 私は働かないと!」
レナートが言う。
「働く場はある。ここではない」
冷たい決定。
ミラの目が俺に刺さる。
「あなたさえ来なければ……!」
俺は何も言わない。
言ったら負ける。
言わなくても、俺の札はある。
レナートが俺に言った。
「診療助手。洗濯室へ行け」
(え)
ここで俺を動かす?
レナートは俺を見ない。
見ないまま言う。
「鍵の匂いがしたと言ったな」
「残っているなら、まだ隠し場所がある」
(……釣りか)
俺は息を吐いた。
「……はい、子爵様」
⸻
洗濯室。
湯気。石鹸。湿った布。
さっきの女の匂いが残っている。
俺は桶の下、棚の隙間、石鹸箱の奥を見た。
――鉄の匂い。
(ここだ)
古い布の束。
その中に、金属。
鍵。
薬庫の鍵ではない。
でも似ている。
小箱用の、補助鍵。
(予備)
予備があるなら、規定は穴だらけだ。
俺は鍵を掴まない。
掴むと“盗んだ”になる。
俺は布を被せたまま、位置だけを覚える。
そして廊下へ出て、レナートを探した。
曲がり角。
レナートがいた。
人がいる。
俺は短く言う。
「……子爵様。洗濯室に、予備鍵があります」
レナートの足が止まる。
顔は動かない。
でも、空気がまた冷えた。
「場所は」
「石鹸箱の奥。古布の束の中」
レナートは淡く頷いた。
「分かった」
それだけ。
でも分かる。
ミラは一人で動いていない。
予備鍵があるということは、仕組みだ。
――屋敷の中に、まだ“穴”が残っている。
そして、俺を追い出したい連中は、
まだ終わっていない。




