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少年ロウの観察事件簿  作者: ちわいぬ
第一章 灰銀液と“抜けた頁”

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第1話 消えた研究ノート

伯爵家の診療所は、治す場所というより、作る場所だ。


薬を。

医師を。

薬剤師を。

そして――伯爵家の優位を。



ここに入れるのは、基本、家紋のある家。

それか階級を持つ者。

市民が列を作る場所じゃない。



臨床が足りないから、レナートは時々、市井へ降りる。

決まった場所があるわけじゃない。

俺はまだ、その理由を全部は知らない。


でも、この施設の空気が「研究」寄りなのは分かる。

匂いが静かだからだ。


血より薬。

叫びより手順。


俺はその静けさが苦手だった。



治療期間、レナートは必要以上に来ない。


診察と処置。

それだけ。

淡々と縫って、淡々と薬を塗って、淡々と帰る。


俺も、喋る気力がなかった。

傷が塞がるまでは、考える余裕もなかった。



だから――


俺が“喋った”のは、今日が初めてだ。



「ロウ」


呼ばれて顔を上げる。



レナートが立っている。

金髪。疲れた目。声は薄い。


「客間へ移す」


それだけ言って、歩き出す。


(客間?)


預かりの子どもを客間に?

普通じゃない。

でも普通じゃないのは、たぶん俺の方だ。


俺は黙って、半歩後ろを歩く。




客間へ向かう廊下は、綺麗すぎる。


絨毯の毛並みが揃ってて、足音が吸われる。

吸われるのに、遠くの音だけは妙に届く。



その時、鼻の奥に引っかかる匂いがした。


(……変)


痛みが引いて、頭が動くようになったせいだ。

頭の奥が勝手に切り替わる。


(来るな)


来ると遅れる。

でも止まらない。


「……この廊下、匂いが変」


自分で言ってから気づいた。


(喋った)



レナートが足を止める。


「何だ」


声は薄い。

いつも通り平坦。


でも、表情が一瞬だけ動いた。


眉が寄る。

目が細くなる。


――怪訝、ってやつだ。



俺は口を閉じた。

今さら説明しても、面倒が増える。


それでも、匂いが気持ち悪い。


「……甘い」


俺は言った。


「蜂蜜みたいな匂いが混じってる」



レナートの眉間の皺は消えない。


「この廊下は薬庫ではない」


(だろうな)



俺は肩をすくめる。


「だから変」


「薬の匂いじゃないのに、薬の匂いを隠す匂いがする」


言い終えて、やっと自分でも意味が分かる。


(匂い隠し)



レナートは一拍置いた。


怪訝は残っている。

でも、否定はしない。


視線が一度だけ、廊下の先へ流れた。

客間の方向じゃない。

薬庫の方。



その時、遠くで小さな声がした。


「……ない。どこに置いた」


別の声。


「知らない。昨日のままだ」


次に、ガラスが小さく触れ合う音。


キン。


(瓶)




俺の口が、また勝手に動いた。


「……瓶、動いた」



レナートの怪訝が、別のものに変わった。


理解できない顔じゃない。

“繋がった”時の顔だ。



表情は崩れない。

でも目が、はっきりと動いた。


「何の話だ」


淡々とした声。



俺は息を吐いた。


「硝子が触れた音」


「慌ててる声」


「探し物してる」


「それで匂い隠し」



レナートは黙って一歩だけ歩く。

進む方向が、客間じゃなくなった。


「……子爵様?」



俺が言うと、レナートは歩きながら言った。


「客間は後だ」


「確認する」


確認する、という言い方が冷たい。


でも、その冷たさは仕事の冷たさだ。


レナートが足を速める。


「――来い」



短い。

判断を切り替えた時の言い方だ。


俺は頷いて、半歩後ろを歩く。



「ただし」


レナートが歩きながら言う。


「喋るな」


「聞かれたら答えろ」


(……試されるやつだ)



俺は短く返す。


「はい、子爵様」



薬庫の前は、少し騒がしかった。


音は大きくない。

でも、揃ってない。


人が集まる時の音じゃない。

何かを探して、足並みが崩れてる音だ。



レナートが近くの研究員に声をかけた。


「何か無くなったか」


研究員が慌てて答える。


「いえ……あ、いや」



間。



「薬庫の記録用の瓶が……見当たらなくて」


(やっぱり)



俺は黙ったまま、足音を見る。


三人。

探し方が散ってる。

一人だけ焦ってる。


焦ってる奴は、踵を少し引きずる。



レナートが俺を見る。


「言え」


(聞かれたら答えろ、か)



俺は短く言った。


「割れてない」



レナートの目が僅かに細くなる。


「根拠は」



「落としてたら、音が派手」


「さっきの音は置き直し」



レナートは即断しない。

代わりに研究員へ指示を出す。


「最後に触った者を呼べ」



研究員が走る。


「他にもあるか」


(まだ試す)



俺は壁を見る。

布が擦れた跡。


「外套」


「医療区域の人間じゃない」



戻ってきた研究員が言う。


「瓶は……別の棚にありました」


「誰が」


「……書記です。『場所が違う』と」



レナートは何も言わない。


ただ一度、俺を見る。

疑いじゃない。確認だ。


「さっき焦ってたの、その人」


「歩き方が違う」



空気が変わった。



レナートは小さく息を吐いた。


「――来い」



短い。

判断を切り替えた時の言い方だ。


俺は頷いて、半歩後ろを歩く。



薬庫のさらに奥。

“研究保管室”と札のかかった扉の前に、人が集まっていた。



薬庫番。

帳簿係の書記。

若い研究員が二人。


全員、顔色が悪い。




扉の前には伯爵がいた。


無口で、動かない。

立っているだけで空気が締まる。


伯爵の視線が俺を測る。

赤い髪。拾いもの。屋敷の外。



レナートが一礼する。


「閣下」



伯爵は短く言った。


「話せ」



書記が震える声で続ける。


「灰銀液の研究ノートが……一冊ではなく……一部だけ、抜けています」



抜けたのは一冊じゃない。


棚に残った冊子の背は揃っている。

でも一冊だけ、厚みが違う。


綴じ糸のところが少し毛羽立っていて、

紙の段が、途中で不自然に落ちている。


(抜いた。必要な頁だけ)


持っていくより、厄介なやつだ。



伯爵は余計な説明を許さない目で研究員を黙らせる。

研究員が口を開きかけた瞬間、空気が締まった。



レナートが言った。


「確認する。開けろ」



薬庫番が鍵束を震わせた。



伯爵が短く言う。


「開けろ」



錠が鳴り、扉が開く。


中は薬草の匂いじゃない。

硝子と金属、紙とインク。

研究の匂いだ。


棚に並ぶ箱。

封。

印。


その印が一本だけ、歪んでいる。



俺の頭の奥が勝手に切り替わる。


(……来るな)


来ると遅れる。

でも止まらない。


俺は口に出した。


「この封、押したやつ違う」



空気が止まった。


研究員が反射で言いかける。


「子どもが何を――」



レナートが淡く言った。


「黙れ」


止めない。

でも、場を締める。



俺は続けた。


「印が浅い。いつものはもっと潰す」



薬庫番が青くなる。


「それは……私は……」



伯爵が言った。


「お前が押したのか」



薬庫番は首を振る。


「押していません……封は昨夜のまま――」



俺は棚の下、床の角を見る。


小さな紙片。

繊維が違う。研究ノートの紙だ。


(落とした)


「紙が落ちてる」



書記の顔色が変わった。


「それは……掃除で……」



俺は書記の指先を見る。

インク染み。黒じゃない。青寄り。


(研究用)


「手、青い」



書記が反射で手を隠す。



レナートが前に出る。


「今は否定も弁明もいらない。確認する」



伯爵は黙って見ている。

評価じゃない。観察だ。


(要観察)



俺は封の蝋に鼻を寄せた。

甘い匂い。


「甘い匂いがする」



薬庫番が呟く。


「蜂蜜……?」



「匂い隠し」


場がもう一段冷えた。


レナートが伯爵に向き直る。


「今日は閉めます。騒げば動く者が出る」



伯爵は少し間を置いて言った。


「よい」


許可はレナートに向けたものだ。

俺には向いていない。


でも、今すぐ追い出されもしない。



レナートが俺に言った。


「今日は戻る。見たことは忘れるな。誰にも言うな」


「分かってる」



レナートは一瞬だけ俺を見る。

止めない目。

でも“勝手に喋るな”の目。


俺は口を閉じたまま、半歩後ろに戻った。

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