第6章.絶望を経つ黒き女王
第6章.絶望を経つ黒き女王
その日、パーティは珍しく王都の外れにある作戦会議所で依頼を受けていた。
内容は――魔王軍の補給路に関する古い記録の調査。
「滅多に行かない場所だから、注意しろよ」と、受付の隊員は何度も釘を刺した。
だが、報酬の額が良かったのと、「そこには魔王軍の隠し倉庫がある」という噂がテオの興味を引いた。
ルナは古びた羊皮紙の地図を広げて眉をひそめる。
「これ……百年以上前の記録じゃない。道が変わってるかも」
ガレンは肩をすくめた。
「まあ、行って確かめりゃいい。地形が変わってても何とかなるだろ」
そうして、4人は森を抜け、荒れ地を進んでいった。
しかし、悪い予感はすぐに現実となる。
地図に載っていた小川は枯れ、目印の廃塔は半壊して姿を変えていた。
何度も同じ場所を回っているうちに、太陽は傾き、空気が重くなっていく。
気づけば、周囲は瘴気を帯びた灰色の霧に包まれていた。
「……おかしい。ここ、魔王軍討伐隊の標準ルートじゃない」
ルナの声は硬く、テオの背筋に冷たい汗が伝う。
この地域は通常の討伐区域よりも、最低でも20はレベルが上の危険地帯だとされていた。
それを証明するかのように、地面の土には巨大な蹄の跡が深々と刻まれている。
ガレンが剣に手をかけた瞬間――森の奥から重い地響きが響いた。
次の瞬間、木々を薙ぎ倒しながら現れたのは、赤黒い皮膚を持つオーガの群れだった。
しかも1体や2体ではない。
「……10、いや、それ以上!」
ルナが悲鳴を上げる。
通常なら、2、3体程度であれば連携と魔法で対処できる。
だが、10体を超えるとなれば話は別だ。
しかもこの個体群は異様に凶暴で、筋肉の盛り上がりと目の血走り方からして、何らかの強化魔法が施されていることは明らかだった。
ガレンが先頭に立って受け止めるも、左腕に棍棒が直撃し、骨が嫌な音を立てる。
ルナは火球を放つが、数体を足止めするのがやっとで、残りはじりじりと包囲網を狭めてきた。
テオは盾を前に出し、治癒魔法で仲間を支えるが、その手は震えていた。
(この数、この速度……持たない……!)
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香ばしい匂いが立ちのぼり、魚の皮がぱりりと音を立てて割れた、その瞬間だった。
ミャウコの耳が、ぴくりと動く。
次いで、瞳の奥がわずかに細くなる。
遠くで、風が裂ける音。鉄と血の匂いが混じった、生温い空気の流れが頬をかすめた。
――獲物を追い詰める捕食者の気配。しかも、数が多い。
彼女は焼き網の上の魚から視線を外し、静かに立ち上がった。
焚き火の炎が一瞬揺らぎ、金色の髪に赤い光を宿す。
その表情に、先ほどまでの無防備な柔らかさはなかった。
「……嫌な風、吹いてきたにゃ」
釣竿を地面に置き、背筋を伸ばす。
次の瞬間、彼女の足元の草がふっと沈み、空気を切り裂くような速さで森の奥へと消えた。
それが――この後、戦場に“黒き女王”が降り立つまでの前触れであった。
テオは盾を前に出すが、手が震えていた。
その時――ミャウコは、ゆっくりと前に歩み出た。
金色の髪が、風に揺れて静かに垂れ下がる。
低く、凍りつくような声が響いた――。
「……闇を支配する」
ミャウコの金髪は墨を流したように漆黒へと染まり、瞳は深い夜を宿す。
肩を露わにした黒いドレスが、冷たく身体の線を浮かび上がらせる。
それは艶やかさではなく、骨の奥まで凍らせる禍々しさ――。
その変化を目にした瞬間、ガレンの背筋に氷の刃が突き立った。
ルナは無意識に杖を握りしめ、全身から熱が抜けていく。
テオは心臓を素手で握られたような息苦しさに膝をついた。
漆黒の女王が指先をわずかに持ち上げる。
最前列のオーガの首から上が――音もなく、世界から切り取られた。血も肉片も落ちず、断面だけが黒く揺らめく。
次の瞬間、別のオーガの片腕が消え、残された半身も闇に呑まれる。
逃げようとした者の腰から下が消え、上半身は宙を掻いたまま、闇に溶けた。
ブラッククイーンの唇が、わずかに吊り上がる。
それは歓喜でも嘲笑でもない。
「当然の結末」を告げるだけの冷たい微笑だった。
ガレンと女王の視線が交差する。
氷より冷たいその瞳に貫かれた瞬間、胸の鼓動が凍りついた。
――これは死ではない。もっと深い、存在そのものの抹消だ。
自分という頁が、この世界の本から破り取られる未来を、確かに見た。
視線が逸れた時には、膝が勝手に崩れ落ちていた。
隣のルナもまた、余波だけで魔力を手放しそうになり、指先から魂が抜ける感覚に息を呑む。
テオは冷気と闇に心を握り潰されながらも、その光景から目を逸らせなかった。
そして――音が消えた。
風も、草のざわめきも、オーガの咆哮すらも。
戦場を支配するのは、底なしの闇を形にしたかのような女。
紅い瞳がゆっくりと戦場を舐めるたび、空気が軋み、肌を刺す冷たさが走る。
その瞬間、誰もが悟った。
これは殺戮ではない。――裁きだ。
闇は舞い、そして踊る。
美しく、妖艶で、抗えぬ死を告げる鐘の音のように冷たく。
やがて最後のオーガが、闇に呑まれて消えた。
戦場には、血の匂いすら残らない。あったはずの命が、初めから存在しなかったかのように。
ブラッククイーンは一歩、二歩と静かに歩みを止める。
漆黒のドレスが微かに揺れ、深紅の瞳が伏せられた。
次の瞬間、その黒は溶けるように淡くほどけ――ミャウコが、いつもの無邪気な笑みを浮かべてそこに立っていた。
しかし、ガレンもルナも、すぐには近寄れなかった。
先ほどまでの“闇の女王”の気配が、まだ骨の奥に張り付いていたからだ。
そんな中――テオだけが、膝をついたまま彼女を見上げていた。
震えているのは恐怖ではない。
それを凌駕する、圧倒的な畏敬だった。
「……あれが……神の姿……」
目尻から熱いものが零れる。
胸の奥底、長く暗かった場所に、光と闇が同時に射し込んでくる。
かつて自分を何度も救ってくれた“奇跡”と同じ感覚が、確かにそこにあった。
――自分は、この存在を記録しなければならない。
テオは震える手でノートを取り出し、必死にミャウコの姿を描き写す。
黒きドレスの皺、視線の冷たさ、そして闇を舞わせた仕草の一つ一つまで。
ページの端に、無意識のうちに言葉が刻まれていく。
――神は踊る。神は裁く。神は、セクシーであられる。
戦いが終わっても、彼の手は止まらなかった。
この日、後に《ミャウコ教》と呼ばれる記録の第一章が、静かに産声を上げた。
➡7章へつづく




