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第5章. ルナのトラウマと心の壁

■壁の向こうにあるもの


 その夜、森は深い静寂に包まれていた。夜の帳が降り、木々の間を縫うように吹く冷たい風が、葉を微かに揺らし、かすかなざわめきを響かせていた。空には雲一つなく、満月に近い月が冴え冴えと輝き、森の輪郭を薄銀色に縁取っていた。焚き火の炎が小さくはぜ、その周りに集まる虫たちの羽音や、時折聞こえる遠くの鳥の鳴き声が、夜の静けさを一層際立たせていた。火のそばでは、薪が燃えるたびに小さな火花がバチバチと音を立て舞い上がり、闇の中で儚く消えていく。


 木々の枝の上では、昼間に“麗華”と名乗ってゴブリン軍を一掃したミャウコが、まるで猫のように体を丸めて眠っていた。彼女の寝息は規則的で穏やかで、その姿はまるでこの世のものとは思えないほど静謐だった。金髪のショートヘアが枝に垂れ下がり、月光に照らされてかすかに輝いている。昨日の戦場で見せた自信に満ちた笑顔や、敵を一瞬で薙ぎ払う華麗な動きとは対照的なその無防備な寝顔は、彼女の強さと脆さの両方を象徴しているようだった。少し離れた岩の上では、テオが崇拝ノートを膝に広げ、今日のミャウコの“雌豹ポーズ”を細かくスケッチしていた。彼のペンが紙を滑る音が、時折、焚き火のはぜる音と混じり合う。恍惚とした溜息をつきながら見上げる彼の瞳は、ミャウコへの憧れと尊敬で輝いていた。


 ルナは焚き火から数歩離れた平らな岩に腰を下ろし、両手で杖を握り締めたまま、じっと月を見上げていた。彼女の薄い金髪が風に揺れ、焚き火の光がその顔を柔らかく照らしていたが、瞳には過去の失敗と現在の不安が影を落としていた。杖の木目が手のひらに食い込むほど強く握りながら、彼女は小さく息を吐いた。その吐息は白く夜気に溶け、まるで彼女の内に秘めた迷いを形にしたようだった。


「眠れないのか?」


 背後から低く落ち着いた声が響き、ルナはびくりと肩を震わせて振り返った。そこには、剣の手入れを終えたガレンが立っていた。彼の革鎧は使い込まれ、所々に傷が刻まれているが、その立ち姿にはどこか頼もしさが漂っていた。 ガレンは無言で彼女の隣に腰を下ろし、焚き火に薪を一本くべた。火が勢いを増し、赤い光が二人の顔を照らし出す。


「……魔力の流れが、うまくいかないの」


 ルナの声は小さく、どこか自分を責めるような響きを帯びていた。ガレンは彼女を横目で見て、軽く頷いた。


「さっきの練習、火球が暴発しかけたな。あと少しで俺の眉毛が焦げるところだった」


 その軽い口調に、ルナは思わず苦笑を漏らした。しかし、その笑みはすぐに消え、彼女は膝の上の杖を見つめた。


「私ね……魔法学校を中退してるの。あの頃のことは、今でも夢に見るくらい鮮明に覚えてる。最初の授業で、火花ひとつ出せなくてさ。教科書通りに呪文を唱えたのに、杖の先から何も出てこなかった。クラス中が静まり返って、それからみんなが笑い出した。“ルナ・エラー”ってあだ名までつけられて……」


 彼女の声が震え、杖を握る手にも力が入る。ガレンは黙って聞いていたが、その目には静かな理解が宿っていた。


「その後も失敗続きだった。簡単な浮遊術だってまともにできなくて、先生には“魔力がないのかもね”って呆れられた。笑われるのが怖くて、次の日から学校に行けなくなって……結局、逃げ出したの」


 焚き火の光が彼女の顔に揺れる、悔しさと恥ずかしさが混じった表情を浮かび上がらせた。


「それでも魔法を諦めたくなくて、独学で勉強したよ。古い魔術書を読み漁って、火球も雷撃も撃てるようになった。でも……人に見られてると、どうしてもダメなの。昔の笑い声が頭に響いて、手が止まっちゃう」


 彼女の言葉が途切れると、森の静寂が再び二人を包んだ。ガレンはしばらく黙って焚き火を見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。


「俺は、昔、魔王軍討伐隊に所属してた」





 ルナが息を呑む。





「規律の厳しい隊だった。任務中、同じ討伐隊の女性と一緒になって……彼女を好きになった。一方的にな。でも、そのせいで判断を誤った。彼女を庇って命令に背いた。結果、除隊処分になった」


「そんな……」


「それからは、夜勤バイトで食いつなぎながら、フリーの戦士として生きてきた。討伐隊の仲間たちにも軽蔑されたよ。“正義より感情を取った裏切り者”ってな。彼女も責任を感じて俺の少し後に辞めたと聞いた。」


「……そっか」


 ルナは少しだけ表情を緩めた。彼女は夜空を見上げたまま、ぽつりと呟いた。


「……だから、ミャウコのこと、ちょっと羨ましいの。あの子、堂々としてるよね。昼間だって、あっという間にゴブリンを蹴散らして、笑ってた。私には絶対できない。あの自信が、私にはなかったものだから」


 彼女の視線が木の上のミャウコへと移る。眠るミャウコの姿は、まるで何も恐れていないかのように見えた。ルナの胸に小さな疼きが広がる。ガレンは焚き火に目を戻し、穏やかに言った。


「堂々としてるのは確かだ。あいつは自分の力を疑わないからな。でも、お前にはお前の強さがある」


「……そんなの、まだ信じられないよ」


 ルナの声は弱々しかったが、ガレンは彼女を真っ直ぐに見つめて続けた。


「なら、俺が信じる。お前が独学で魔法を習得した努力は、本物だ。失敗を恐れる気持ちがあっても、それを乗り越えようとしてる。それが強さだよ」


 その言葉に、ルナは一瞬言葉を失った。彼女は視線を逸らし、焚き火の光を見つめながら、唇の端を小さく上げた。


「……ありがと」


 その声は小さかったが、そこには確かに温かさが宿っていた。風が再び木々を揺らし、焚き火の炎が一瞬大きく揺れた。その光が、二人の間にあった見えない壁をほんの少しだけ溶かしていくようだった。


 次の瞬間、木の上でミャウコが寝返りを打ち、「麗華、参上……」と寝言を呟いた。ルナとガレンは顔を見合わせ、思わず小さく笑った。その笑い声が、夜の森に静かに響き合い、二人の心を軽くした。





➡第6章へつづく




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