悪役令嬢の本質に関する簡潔な考察(早口)
これまで謎多き悪役令嬢アンヌ・マリー・ド・バトロワゼルと彼女の周囲の令嬢たちの物語を語ってきた。
話がさらに佳境に進む前に、ここで悪役令嬢とはなにか、について少し考察してみたい。
悪役令嬢、という単語は、「悪役」と「令嬢」の二つに分割できる。
「悪役」の方はさらに「悪」と「役」に分割できるのだが、そちらに関する立ち入った考察はもう少し後で行うことにしよう。
まずは「悪役」と「令嬢」である。
この二つの単語のどちらが「悪役令嬢」の本質なのだろうか。まずはそこを考えてみる必要があるだろう。
すでに述べたように、「悪役令嬢」とは言うものの、その本質が絶対的な悪であった例は極めて稀である。
転生者に意識を乗っ取られていない悪役令嬢は、確かに悪事をする。
しかしその悪事というのは乙女ゲームのヒロインに対する加害行為にほぼ限定されている。ほぼ嫌がらせの域を出ていない、と言ってもいい。
ゲームの舞台となっている王国や公国の住民が、明日から生きていけなくなるような災厄をもたらすことはないのだ。
それは彼女らの本質が「悪役」ではなく「令嬢」であることが原因である、と思われる。
「悪役令嬢」の人生の目的はなにか。
それは幼い時に親同士の約束で決められた婚約者と結婚し、幸せではあるが刺激のない生活を送ることである。
親が勝手に決めた婚約者であるはずなのに、95%(作者推定)の悪役令嬢は婚約者である王子や公子にぞっこんLOVEだ。
そこに突如光魔法を操ったり聖女の宣告を受けたりした平民女がしゃしゃり出てきて、最愛の婚約者を奪おうとするのである。
悪役令嬢としては定められた幸福を守り抜くために、平民女の企てを全力で阻止しようとする。
平民女が王国・公国の人民すべてを幸福にする力を持つ聖女として認定されていたとしても、知ったことかなのである。
ちなみに悪役令嬢がその領民の幸福について無関心なのは、彼女の本質が悪であるからではない。
深窓の令嬢として大切に育てられてきたのだ。幼少期のゴータマ・シッダールタのように庶民の生活の苦しみに関する知識をどこからも得ることができなかっただけなのだ。
王子との結婚という自分の幸せ以外に興味関心がないのも同様である。
彼女たちの頭の中には、国中の人に祝福され、純白のドレスを着て大聖堂で王子・公子との結婚式をあげる、という夢以外ほとんど何も入っていないのだ。
おそらく幸せな結婚式の後、夜の寝所で自分がどういう目に遭わされるか、ということも予測できてはいない。
深窓の令嬢の周囲には、あんなことやこんなことを教えてしまう不埒なメイドや従僕などは存在しないのだ。
いたら「お父様」が絶対的な権力を振るってその存在を消すことだろう。ちなみにほぼすべての悪役令嬢は、自分の婚約者の次にお父様が大好きである。
隠して悪役令嬢は、この世の害悪にほとんど触れることなく成長する。
だから彼女の行動の根底に悪意はない。単に無知なだけなのだ。
読者諸姉諸兄もだいたい理解してきたと思われるが、「悪役令嬢」の本質は「悪役」の部分にあるではなく、あくまでも「令嬢」の方にある。
王子・公子との結婚しか考えられない重度の恋愛脳の持ち主。それが悪役令嬢なのである。
さて、次からは「悪役」という言葉の意味について解説していこう。
「悪役」とは「悪を演じるもの」である。悪そのものではない。
すでに述べたように、悪役令嬢は、ヒロインが登場しさえしなければ、その婚約者と結婚式を挙げ、その後箸にも棒にもかからないが当人からすれば幸せな生涯を送ることになる。
五十年ほどそういった日々を送った後、悪役令嬢は老衰して眠るように息を引き取り、最愛の夫がちょっと先に葬られた教会の大聖堂(結婚式を挙げたのと同じ場所だったりする)に、棺桶を並べて永遠の安らぎを得るのだ。
善人というか、ほぼ聖人に近い人生である。
王子や公子との結婚以外に欲望というものを抱かないのだから、まあそうなるよな、と読者諸姉諸兄も納得されることだろう。
これまでの考察から断言できるのは、悪役令嬢が行う「悪事」は、彼女自身の意思に基づくものでも、彼女自身の発案でもないということだ。
悪事を思いつきそれを実行するための知能と知識は、一般的な悪役令嬢には存在しない。
ここせ悪事を行う知能がない、と述べたが、それは悪役令嬢全般が先天的にどうしようもないアッパラパーであるという意味ではない。
悪役令嬢全般の潜在的知能は、むしろ高い部類に属する。知的な雰囲気に包まれた上級貴族の家庭で育てられたのだから、ほとんど何もしなくても知性的な行動をとる素地はあると言っていい。
問題は平和な時期の悪役令嬢が、文字通り「何もしない」点にある。
繰り返してきたように彼女たちの人生の最大にして絶対的な目標は、婚約者との結婚とその後の愛の日々である。
結婚前も結婚後も、自分の中にあるすべての愛を……いや、亡くなるまではお父様の分も十分の一ぐらい分けて置くとして……伴侶に注げばいいのである。
伴侶との間に子ができたとしても、そんなものは放置である。ほっといてもメイドや従僕たちがそれなりに育ててくれる。
元悪役令嬢であった母親たちは自分の子に冷淡ぎみなのはこれが主な理由である。
ちなみに娘が生まれた場合、夫の方は最愛の妻とよく似た愛らしい生き物がこの世に出現したのであるから、妻同様に溺愛する。
過度に愛された結果、次の世代の悪役令嬢は「お父様大好き」になるのである。
悪役令嬢全般は、このように善人悪人どちらかに分類するとすれば善人ばかりになる。
そして異世界からの転生者にその体を乗っ取られると、その善良さはさらに加速するのである。
転生者たちには前の人生においていくばくかの経験を積んできており、元の悪役令嬢ほど純粋無垢な存在ではない。
だがほぼ全員が前の人生において挫折感を味わっている。つまり成功者はいないのだ。
小市民としてのささやかなものでしかないが、多少の人生経験があるため、彼ら彼女らは知識として「悪事」を知っている。
しかも絶対的な恋愛脳でもないため、その「悪事」はいつ誰に対して発動してもおかしくはない。これについては恋愛のライバル相手以外には発動しない元の悪役令嬢の方が異常なのだが。
このように転生者は元の悪役令嬢と比べれば、悪の素養を持っているのだが、実際に悪事を働くことはまずない。
この歯止めになっているのが、転生者であるから知り得ることができた「破滅の運命」そのものである。
悪役令嬢の肉体を乗っ取った転生者は、破滅フラグをへし折るために全身全霊を尽くす。
破滅回避のためなら、内心「こいつ苦手だ」と思うような相手でもへりくだって良好な関係を構築しようとする。
破滅回避のための仕込みが忙しすぎて、悪事などしている暇がない、というのもまた一面の事実であったりするのだが。
転生者はほとんどの場合底抜けの善人でお人好しなのだが、それでも元の悪役令嬢のように一点の曇りもない透明な精神を持っているわけではない。
なので、破滅フラグを折るために善人の仮面を被り続けていると、いつか心に闇が芽生え、気がつくとそれに飲み込まれてしまう、などということも理論的にはあり得るのだ。
しかも転生悪役令嬢たちは、魔法学校でのポジション維持や、王子・公子に自分を有用な人材であると印象付けるためにさまざまな方法で努力を重ねる。
レベルやスキルといったものが存在するゲーム世界では、努力の成果は不可逆的に蓄積される。
そのレベルやスキルは、最終的には聖女になったりならなかったりするヒロインの実力を上回るようになるのだ。
国内屈指のレベルとスキルを持ちながら、闇に取り込まれそうな心の弱さを持つ存在、それが転生悪役令嬢なのである。
危険だと、思わないか?