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彼女遥々

 私はそれまで、しがない本好きの中学生だった。真似事をして、平凡な物語を平凡に書き綴ることはできたが、それも本好きと下手の横好きの域を出なかった。

 いつからか学校に行けなくなって、私はいつも近所をぶらぶらしていた。隣人のこともよく知らないのに、近所の人とかち合ったところで不利益も何もないと私が気づくのは早かった。昼食代に母親が置いていく金を持ってジュースとお菓子(と、時々昼食)をスーパーに買いに行き、一日に一度は外に出る、同級生にはちょっと言えない日々を送っていた。

 その散歩にちょうどいい距離にあるスーパーへ行く道には、川があり、おじいちゃんおばあちゃんとか子連れとかがよくいる遊歩道があった。その下の河川敷で発声練習をしている大学生なんかも、たまに見た。私の“書きたいもの”になったあの女性も、髪を茶色く染めた大学生だった。

 甲高くなく透き通った、ミュージカル女優みたいな声じゃないタイプの声が声出ししているのを聞いて、私は足を止めた。あんまり大声を出したら喉を痛めてしまいそうに繊細な声で、単に、もっと聴いていたいと思った。春の人好きのする気候はあんまり防寒とか熱中症のことは考えなくてよかったから、私はいそいそと何メートルも離れたところで足音を殺して階段に座った。

 あー、あー、と彼女が音程に合わせて手を上げ下げしながら歌うのを眺める。

 ザ・発声練習、みたいな母音の連続と、ザ・コーラス、みたいな歌を歌った後、彼女はぽすんと手近なベンチに腰掛けた。のびのびと猫のように姿勢を崩して川を眺めた後、柔らかい旋律をまた口ずさみ出す。私はよく聞き取れず、膝を抱えるように前のめりになった。

 嗚呼、と彼女が歌いながら我慢しきれないように立ち上がった。

 古びた小さなベンチも、とても綺麗とは言えない川も、背景に似合わない向こう岸の工場も、その途端、美しく見えた。

 春の美しさを歌いながら、彼女はさながら桜の精のように茶色い髪を風に委ねてはためかせる。全力を傾けて歌っているのか、彼女は時々拳を握ったり前のめりになった。それがすごく緑に似合っていて、笑んだ声は爽やかな青空を暖かく満たすようで、私は彼女を中心に回る世界に目を、意識全てを奪われた。

 強い風に、私の後ろに植えられていた桜の花びらが彼女の肩を叩くように側を掠めた。それに、彼女が笑ってこちらを振り向く。

 二人してびくんと肩を跳ねさせ、私は慌てて立ち上がりその場から逃げた。そのまま駆け足ともジョギングともつかない中途半端なスピードで走り、私は頭上の桜を見上げた。

 スーパーに行く気は、失せそうでむしろ増した。全ての時間を私にもたらされた私にしか書けないものに注ぐために、まるで夏休みの宿題を先に終わらせておくように、必要なことは全部先に済ませておこうと思ったのだ。

 早足に、時々気が急いて数歩走りながら、私は急いで引きこもり用の食料を買って家に帰った。ぜぇ、ぜぇ、と久しぶりに運動らしい運動をして息が切れた。靴を脱ぎ散らかし、リビングテーブルにドンとジュースを置いて自分のスマートフォンを手に取る。

 まっさらな青白いページすら美しく見えた。


 私はそれから、誕生日を利用して父親のおさがりのノートパソコンを手に入れた。まだ中学生の私がウェブサイトを持つことに母親は心配気だったが、個人的なことは一切書かないと約束して小説用にサイトを作ってもらった。有名なサイトにアカウントを作って投稿するのも良かったが、デビューを意識して私だけの場所を作った。そりゃまだまだ文章は拙いが、書き手の夢だろう、デビューは。

 主人公は、色んな人にしたくて、毎回変えた。そして、あの女性が主人公をあの声で感動させ、少しだけ主人公を変えるのだ。私はあれから、頭の中を書き起こすのが得意になった。宇宙の海も、木の葉のベッドも、海中列車も思った通りに書けるようになれたのだ。そうして出来上がった短編小説をウェブサイトに載せていると、少しずつ閲覧数が増えていった。こまめにコメントを残してくれる読者ができて、長い時間をかけて、私は、それなりに評価される書き手となった。

 そして間違いは、ある思いつきから始まる。

 私の中の彼女とは、もう同い年ぐらいになっていた。もしかしたらもう年上かもしれない。私はお守りのようにピアスを開け、大学に通っていた。しかし、しゃらしゃらと耳を引っ張る重みに頼れるのはもう今年が最後だろう。ああ嫌だ、これがなければ私は口が聞けないも同じなのに。

 私はノートパソコンに向き合って、昨日書き留めた新しい物語の構成を考えていた。ふわりと花のように笑う彼女を頭に思い浮かべて、ふと、彼女が恋をしたら綺麗なんだろうな、と子供のような屈託のない笑顔に恥じらいの表情を足した。

 うわぁー、と思わず声に出す。もう、付き合ってくださいって感じだ。本当は、遠目にしか見たことがないから顔立ちはよく知らない。それに、彼女があの遊歩道にいたのはあの日だけで、あれ以来何年も見かけていないのだ。名前も、もちろん。けれど名前がない登場人物で恋愛小説をかくのは無理があるような気がして、春と桜にちなんで名前をつけた。素敵で鈍感な相手役に、今までは彼女と相手の二人での話しか書いてこなかったけれど、友人や必要なだけの脇役を追加して書いた。プロットを作らずに衝動で書き始めるのは彼女に出会って初めて書いた小説以来だ。

 同じく少し拙くなってしまったが、海辺の、サントリーニ島みたいなところを舞台に、彼女の美しさと私ができる全てを注ぎ込んで初の長編小説を完成させた。

 興奮したまま勢いで送った新人賞を受賞はできなかったものの、サイトでの評判はよく、私はその小説のアナザーストーリーや、結ばれた二人のその後を書くのに熱中した。私は非現実的な設定で名前のない彼女を書くことをしなくなり、たくさん新しいキャラクターを生み出しては恋愛小説を書いた。そっちの方が書いていて悩むことがなかったし楽しかったし、短編を書いていたときよりよく設定が浮かんだ。私が急に路線を変えたせいだろう、よく読んでくれる閲覧者の何人かは前のような話はもう書かないのかとコメントを残して、私が答えないうちに離れていったようだった。

 そのうちに私の書く文章は、だいぶ俗っぽくなっていった。舞台は街中になっていき、以前は職業を設定していなかったり画家や作曲家などアーティストを好んでいたが、平凡と冠した学生や会社勤めの主人公が増えた。それが悪いとかそういうわけではないけれど、私の一番の特徴だったはずの浮世離れした雰囲気はほとんど無くなっていた。

 私はその変化にすら気づかなかった。


 とはいえ、スランプとは必ずやってくるものらしい。ああ、苛立つな、と私は書き詰まった文章を消去し、一度リフレッシュしようとパソコンをスリープさせた。ポットのスイッチをつけた後、窓から床に広がるひだまりの中にテーブルを移動させ、ついでに換気をしようと窓を開ける。優雅な午前の陽気と春の風は心地よく、私は心が洗われるような感覚を味わいながらクッションの上で三角座りをして甘いコーヒーをすすった。からん、と耳元で風鈴のように木製のピアスが揺れるのを聞きながら、まだまだ手放せない冬用もこもこ靴下を引き上げる。

 一杯目をゆっくりと飲んで、私は二杯目を準備しながら、作業机からコーヒーテーブルへパソコンを移動させた。私はやる気が復活するまで書くのをやめるより、自分が以前書いたものを見返して新しいネタでも練っている方が早くスランプを脱せる。お陰でネタ帳ばっかり潤って中々消費できないのだが、早ければその日のうちにまた調子を取り戻せることもできた。まったりした甘みを舌の上で転がしながら特に上手く書けた物を読み返し、なんでこんなふうに書けたんだ、と過去の自分に嫉妬する。

 かち、かち、と作業的に手を動かしてまた別のファイルを開く。題名すらも見ていなかったが、書き出しを見て、ああ、『榛名桜』の、と思い出した。これはプロットを作っていなかったから所々文章がおかしくて、と私はすぐにファイルを閉じた。けれど懐かしくて、作品がたくさん並ぶ中をマウスの中央ボタンをぐりぐりと回してずっと下へスクロールする。そこには、中高生の頃書いた“春”の数々。一番下のファイルを開いた。確か、私と彼女の出会いがそのまま、書いてあるはずだった。


    *


 世俗にまみれた今の私ではもうこんな話は書けない。空を泳ぐ人魚姫も、何もかも忘れた幽霊だって、美しくは書けない。低俗な感情ばかりを抱かせて、トラブルを作って解決させて、それで一つ作品を完成させた気になって。無邪気な笑みなんて私の妄想で、彼女はそんな笑顔ではなかったのに。

 あの恋はそんな風でなかったのに!

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