笑い方が好きだってだけだった-後半-
「腐っちゃうんだからちゃんと消費してくれないと困るんだけど。『太ってるけど健康』ならまだいいけど、ご飯食べないのはダメでしょ? 水もちゃんと飲みなさい」
んー、と簡単に作られた昼飯で頰をいっぱいに膨らませながら頷く娘に、彼女は呆れたように何度目かのため息を吐いた。発言の矛先のほとんどは俺なので、了解の意にいそいそとやつのグラスに麦茶を注ぐ。でも正直言って料理は苦手なんです、習ったわけでも無いし。そもそも食ってくれねぇし。
……食わないお前が悪い……。
思わず呟いた呪詛は意味が伝わらなかったらしく、無かったことにされた。
「今日どこか出かけない? その服も去年から着てるでしょ。新しいの見に行こうよ」
「べふにいいよ、……まだ着れるし。おんなじようなの適当にちょうだい」
「……はいはい。欲しくなったら言いなね」
外に出るか、はやつに決定権がある。強要もしないが、母親は残念そうだった。
「子供の頃はもっとおしゃれ好きだったのに……。どんどん地味になるわ服着るのが嫌とか言い出すわ髪はボサボサになるわ、もっと女の子らしく、ていうか人間らしくしてぇ……」
分かる、とその疲れた両手を握りたいところだったが、手を伸ばしたところをやつが反論しようと彼女にびしっと指を指し、邪魔をする。
「それはほんとにちっちゃい頃の話じゃん! スカートとかレースとかもう興味ないし」
「でもアンタ似合ってたのよぉ……。今だって、せっかく背高めなんだからもっとかっこいい服とかさ。絶対似合うのに……」
「絶対ヤ。暑苦しい」
「ゔゔゔルイくん髪はホントに守っててね」
了解、と右手の親指を立てた。
「左側は渡さないよ」
右側ロングにするか。
「ぐ、ぬぅ……。ロングは勘弁」
「ん、ロング? あー、でもエミはあんまりロング似合わないかもね。あ、美容院行って男子っぽいショートにしてみる? 昔してたけどあれ可愛かったじゃん」
「え? 分かんないし外出るなら嫌」
「似合ってたのよ。ちょっとぐらい出かけてみたらいいのに〜」
「暑いのにお出かけなんかするかー」
そして冬になったら、寒いのに、だ。もぐもぐっ、と料理の残りをかき込んで口を塞いでしまうと、やつはぱしんと勢いよく両手を合わせた。
「るいるん後は任せたー」
……へーへ。
なんだ、るいるんって。そんな呼ばれ方されたことないわ。不平が頭から外に出ることはなく、俺は淡々と空になった器を持ってキッチンへ向かう。それを見て母親も立ち上がり、帰るのかキッチンを通り過ぎて玄関に向かった。
「おかーさん、帰る?」
「ん、ばいばーい」
「どわわ」
もしゃもしゃと母親に髪をかき混ぜられ、やつの頼りない身体はほとんど抵抗せずにぐらぐらと揺れた。
「じゃあね。次はここの日に来れるから」
最後に玄関脇の壁にかけられたカレンダーにくるりと丸をつけて、母親が出て行く。数瞬太陽を照り返す水色の廊下や陽炎が揺らめく道路が垣間見えたが、やつが興味を持った様子はない。まっすぐに母親を見て、にぱにぱと無邪気に笑っていた。
*
腹がいっぱいになって眠たくなったのか、彼女は部屋に戻るとベッドに倒れ込んで昼寝をした。一時間ほど眠ると一度うっすらと目を覚まし、彼女だけがもう一度眠る。クーラーの威力は大きく、窓を開けっぱなしでありながら部屋はよく冷えていた。
俺はベッドから起き上がり、自由時間(ある意味では勤務時間とも言えるが)に入ったことを喜んだ。やっと宿主に合わせて行動する必要がなくなった。
クーラーの電気代が気になるので、まずそいつの温度を少し上げた。扇風機もつけているから、体調を崩すことはないだろう。それから軽く部屋を片付け、掃除機をかけ始める。
まるで檻のような部屋、年不相応な頭の中と、虫食いのある記憶について、ここら辺で彼女の過去を説明したいと思う。過去と言っても、記憶のない彼女に取材はできないので人伝いに聞いた話だ。
始まりは中学生の頃彼女のクラスであったいじめ。いじめられっ子は大人しく目立たない子で、絵は上手くないが漫画を描くことが好きだったらしい。隠していたその趣味がいじめっ子達にバレ、バカにされていたのがやがていじめへ。クラスメイトも気づかないような水面下で行われており、どうやら長期間続いていたらしい。あるきっかけでそれを知った彼女がいじめられっ子を庇った。ただ正義感に溢れた人間というよりは、珍しく自分の物差しを持ってる人間だ。
その子のことをよく知らないのに、なんでその子に価値がないって分かるの? らしい。
全く正しい理論を挙げた割に彼女が言い負けた理由は、彼女自身もいじめられっ子とは親しくしていなかったからだ。趣味レベルの漫画に価値はないが、人間の価値はそんなもので決まらない。けれどただのクラスメイトでしかない彼女は、他の良いところに心当たりがなかった。いじめっ子達は口をつぐんだ彼女を反抗した罰のように他の目にも触れるよういじめ始めた。
けれど、クラスメイトのほとんどが彼女らのことに関心を向けなかった。見ないフリを通り越してどうでもよさげに無いものとして扱った。やがて周りに当たり前のことを求めるのも諦め、彼女は全部俺に押し付けて眠った。こちらはやつのことなんか何も知らなかったのに、俺は唐突にやつに人生を投げ打つことを強要された。
恨んでいないと言えば嘘になるが、それは過去のことだから今更言うと変な感じだ。
今は、目を覚ましているだけマシ、と言ったところか。幼児退行に近い症状や最近の数日間しか覚えていられないといった記憶障害があるが、それは嫌なことを思い出さないためらしく時間が癒してくれるのを待つのだとか。見知らぬ人と関わるのを嫌い、無害と分かっている物以外に興味を持つことがほとんどない。最近は俺が暇つぶしに持ってきてもらったトラウマを刺激しなさそうな本いくつかに興味を示したくらいか。そんな感じである。
こいつが俺を必要としなくなったときを親離れと呼ぶのか子離れと呼ぶのか、それだけが疑問だが、社会不適合者のままこの部屋で一生過ごしていたい気も、彼女が普通に働いたりするのを見てみたい気もしていた。まあいずれ彼女の親が死んだりして外に引きずり出されることにはなるだろうが、なるべく清々しい挑戦の日を迎えてほしいものだ。そのうち結婚とかするんだろうか。その頃には俺はもういないんだろう。ていうかむしろ俺の知らないところで……あんまりそういうのは見たくねぇな。
ぎぇえ。
掃除を一通り終えて。洗濯機に使用済みの洋服と、洗面所のタオルも忘れずに放り込んだ。洗濯機が回っている間は時間ができるので、ゆっくりテレビでも見ようとリビングに戻る。
やっぱりテレビよりも、と俺はもっと良い物を見つけてその前を素通りした。未だ開けっぱなしの窓にかかったレースカーテンが真っ赤に染まってふらふらと揺れていた。さっきまでぐずぐずに曇っていたのに、また晴れたのか、と夕陽を拝もうとレースカーテンを引き開ける。
曇ってはいたが、隙間なく綺麗に雲に覆われた空はまるで赤色の絨毯が敷かれたみたいだった。遠い、唯一の雲の切れ間から太陽が目を細めてこちらを見ている。
綺麗だな、とぼんやり見つめ返した。今眠っている彼女にも見せてやりたかった。特に悲しいわけでもないのに、不意に喉が苦しく枯れる。
本来、彼女は泣かない子供だったそうだ。痛みや恐怖に鈍感で、あまり何が嫌だとも言わない子。だからちょっと寂しかったりしたのよ、と俺に言っても仕方のないことを漏らした彼女の母親の声を思い出す。俺としてはこの情けない性分をどうにか直したかったのだけれど、結局今も直らないままだ。
しばらく涙を拭いながら突っ立っていると、不意に写真を撮ろうと思いつく。仲の良い従兄弟の趣味に影響を受けていたとかで、壊れかけみたいなカメラがこの部屋のどこかにあるはずなのだ。けれど夕焼けはもう終わりかけていて、まあいいか、とカーテンを投げるように閉めた。
部屋が暗くなる。
*
じじじ、とかすかに蛍光灯が音を立てた。洗面台の前に立って、俺は目元が腫れていないかと鏡に映る自分をじっと見つめた。ふわふわと気ままに揺れる、ばらばらに切られた左側の髪はもう刈った方がいいんじゃないかと思うほど短い。右側は、なんとかこいつの頭に女らしさを付け加えたくて、肩までのストレートヘアとぱっつんの前髪を俺がこまめに手入れしていた。こいつの容姿で数少ない可愛いと思える箇所だが、その中身が可愛いもクソもない野郎とは泣ける。あいつが目覚めているときの表情はもっと柔らかくて無邪気なのに、向こうにそんな表情は浮かんでいなくて、上がり気味の細い眉と冷たい目が睨み返してくる。華奢な首も薄い肩も何気ない立ち姿も、隙なく誰かを威圧するような雰囲気に満ちている。性別が違うのもあってか、俺は一度も自分の体を自分のものだと思えたことがなかった。あの子でありながら違い、自分自身だとも思えず、ふとこの女は誰だと思う。
なめらかな白い頰を撫でようと軽く丸めた手を伸ばせば、手のひらで受け止めるのも嫌なように指の後ろで止められる。
会いたい、と思うことがあった。
他人として守りたいと思った。兄弟とかでもいい。
知らない彼女のふりなんかしないで、こちらはこちらとして生きることも本当はできたんだ。
彼女の両親に頼まれたからではなく、俺が守りたいと思ったから守ってきた。
なのに。
俺は中々大きな仕事をこなしたと思うのに、そのうち途中で切り捨てられてしまうだろうことに時々腹が立った。
にい、と口角を上げてみるも、強張っておかしな顔になる。
彼女が目を覚まして、澄んだ瞳を瞬かせる。一世一代の変顔を繰り出している俺を鏡越しに見て、にいっとお手本みたいないたずらっぽい笑みを浮かべた。
やっぱり笑顔は彼女に似合う。




