ガラスの靴を履く女
とある王国で行われていた宮廷舞踏会。その舞踏会で咲いていた壁際の花に、一人の男性が目を留めました。男性はしばし花に見惚れていましたが、不意に歩き出すと人波掻き分け、その花のもとへと一直線に向かいました。
「お嬢さん、私と踊って頂けませんか?」
花の前に立った男性はそう言って、手を差し出しました。それに対し女性は誘われたのが意外だったのかキョトンとした顔でしばし固まっていましたが、ふと我に返ると戸惑いつつ困惑しつつ、少し照れ臭そうな顔でもって、男性の手をそっと握りました。男性は女性にニコっと微笑むと、ホールの中央へと女性をエスコートしました。
男性のリードにより踊り始めた二人。最初は硬かった女性の表情も五分もすると和らぎ始め、十分もすると意気投合し、気が付けば二人は時を忘れる程に踊り狂っていたのでした。しかしそんな二人を午前零時の鐘の音が引き裂きます。
ゴーン、ゴーン、ゴーン
「い、いけない! あ! あの! 私、門限があるのでこれで帰ります!」
逃げるようにして走り去る女性。呆気に取られる男性。振り向くこと無く走り続ける女性でしたが、階段を駆け降りている途中にズデンッと転ぶと片方の靴が脱げ、それはカチャンカラカラカチャンカラカラと階段を転げ落ちてゆきました。女性は転んだ際の痛みを覚えるも直ぐさま立ち上がり、脱げた靴を拾おうと手を伸ばしますが、ふとその手をピタリと止めました。すると脱げた靴もそのままに、まるで何かに追われるかのようにして金ピカの馬車に乗り込むと、そのまま去っていきました。その様子に「女性が城内を走り回るとは何処の者だ」と、「靴を脱ぎ棄て去っていくとは何と無作法な女だ」と周囲は口を揃えましたが、女性の虜となっていた男性はそんな振る舞いに何ら思う事もなく、ただただ去って行く女性の背中を、愛おしい眼差しでもって見続けていました。そしてそれから数日後の事、宮廷では国の未来に関わる大事が起ころうとしていました。
「王様、お話があります」
「王子か、話とは何だ?」
「王様、私はこの靴の持ち主を妻とします」
「靴?」
「このガラスの靴です」
「ほう、ガラスの靴とは珍しいな。初めて見たが美しいものだな。それはどこで手に入れたんだ?」
「先日の舞踏会です」
「舞踏会?」
「はい」
「あれ? 何の話だっけ?」
「このガラスの靴の持ち主を私の妻とします、という話です」
「うんうん、そうかそうか…………って、どういう事?」
「この靴の持ち主を好きになってしまいました。なので私の妻とします」
「その靴の持ち主って誰? どこの貴族?」
「知りません」
「知りませんってどういう事?」
「知りませんとしか言えません」
「いや何でだよ! お前は私の後継ぎだぞ? この国の次期国王だぞ? どこの誰とも分からない女を嫁にする訳にはいかねぇだろがよ!」
「でも好きになってしまったんです、運命の人なんです!」
「いや運命って……。そもそもお前は平民じゃねぇんだからよぉ、王子であるお前に政略結婚以外の道は無いからな!」
王様は眉間に皺寄せ青筋立てて、王子を叱責しました。
「じゃあ王子を辞めます」
王子はあっけらかんとした表情でもって言いました。
「何でだよ! 本当は誰か分かってるんだろ? それとも言いづらいのか?」
「いえ、本当に見ず知らずの女性です」
「妻にしたいとか言ってるのに見ず知らずなんて事ある?」
「知りませんとしか言えません」
「じゃあ、どんな顔した奴なの? もしかしたら私が知っている女性かもしれないし」
「覚えていません」
「覚えてない?」
「はい」
「自分が結婚したい相手の顔を覚えてないの?」
「はい」
「じゃあ、名前は?」
「知りません」
「…………」
「私はその人と結婚します!」
「いや、あの……百歩譲って名前も知らない顔も覚えていないのは置いておくとしてだよ? まさかそいつ平民なんて事は無いよな?」
「知りません」
真剣な目でもってそう言い切る王子に、王様は呆気にとられました。
「……いやいや、いやいやいや、まじでどういう事だよ。お前はこの国の王子なのに知らない女と結婚しようっての? もしかしたら平民かもしれない女と? それも顔も覚えていない女と? いやいや、まじでほんとにどういう事だよ。つうか何処にいるのかも分からないって事だろ?」
「だから探します」
「探す? どうやって?」
「その女性はこのガラスの靴を忘れていきました。なのでこの靴がピッタリと合う女性を探したいと思います」
「靴を忘れた?」
「はい。午前零時の鐘が鳴った途端に『門限があるので帰る』と言ってダッシュで走り出したのですが、城を出たところの階段で盛大にコケまして、その際に片方の靴が脱げました。しかし女性はその靴を拾う事無く、そのまま金ピカの馬車に乗り込み颯爽と帰ってしまわれたのです」
「お前次期国王だよ? ドレスのまま城の中を走って挙句の果てには階段でスっ転んで靴が脱げ、その靴を拾うこと無く帰っちゃう様な女と結婚するつもりなの? つうか舞踏会から裸足で帰る女って何なの?」
「素敵な女性です」
「顔も覚えていないのに?」
「はい、そうです」
「…………」
王様は「こりゃ駄目だな」と諦めの表情を見せつつも、そんな気持ちも若気の至りという事で直ぐにも覚めるだろうという思惑もあり、とりあえず王子の気の済むままにさせる事としました。
『先の舞踏会に於いてガラスの靴を忘れていった女性を探しています。お心当たりの方は城まで来て下さい』
そんな御触れが全国に発布されると共に始まった『靴を忘れて帰った女』の大捜索。しかしそれは王子や王様の思惑とは異なる様相を呈していきます。
それはインターネットは勿論の事、電話やFAXすらも存在しない時代の話。国の御触れは紙でもって物理的に全国へと伝えられますが、それが貴族相手であれば各戸に送られはするも、平民に対しては各戸に配布するのではなく、集会所等の街の主要な箇所に貼付し周知させていましたが、古い時代の絶対君主国家あるあるで平民の識字率は非常に低く、御触れが貼り出されたとてそれを読める者は限られていました。故に平民界に於いては文字が読める者がその御触れを読めない者に対し読み聞かせ、伝え聞いた者達は更に口頭で周囲に伝えてゆくという伝聞形式での周知が通例となっていました。それ自体はいつもの事ではありましたし、多少の認識のズレはあっても問題になる程の事はありませんでした。ですが今回のそれはいつもとは様子が異っていました。
王子の名に於いて発布されたその御触れには「靴を忘れていった女性を探している」、「靴を実際に履いて確認する」としか書いてはありませんでしたが、いつしかそれは伝言ゲーム的要素含み「その靴の持ち主を王子の結婚相手とする」という話でもって伝わり始めると、更には「足のサイズさえ合えば王子と結婚出来る」となって広まっていったのでした。結果、既婚未婚年齢問わず、国中の女性達が大挙して城に押し寄せる事態となったのでした。王子や王様にとってそれはまさに晴天の霹靂。それは当然です。その靴の持ち主は一人しかいないはずなのに何万人もの女性が城へと押し寄せてきたのですから……
「おいおい、これどうすんだよ……」
「バカ王子の所為でこのザマだよ…」
城の門前に集まる女性の群れを目の前に、衛兵達はそんな愚痴を平然とこぼします。単純な話、舞踏会で出会った女性と再会したいというだけであれば貴族にのみ御触れを出せば良いだけの話であり、本来であれば平民達にまで出す必要はありませんでした。何故なら宮廷舞踏会に参加出来るのは貴族だけだからです。しかし、そもそもの起因となったその舞踏会はいつもの舞踏会とは異なり、平民であっても参加出来る舞踏会でした。それは王様の「平民からも人気を得たい!」という理由でもって「今度の舞踏会は平民であっても参加できる舞踏会にしよう」という鶴の一声で行われた舞踏会であったが為です。とはいえ厳し目のドレスコードやそれなりのマナーを身に着けている事が参加条件となっていた為、実際に参加できた平民は貴族にも劣らない資本力の有る者に限られていました。よって殆どの平民は来ることが叶わなかった訳ですが、そういった趣旨で行われた舞踏会に於いて出会った女性を探すという事になったが為に平民へも御触れを出さざるをえなくなり、それは伝言ゲーム的要素を含んだ御触れとなって全国を駆け巡り、結果、群れをなした女性達が次々と城へ押し寄せる事態になったのでした。
「はいダメぇ。じゃあ次の人ぉ」
舞踏会が行われたのと同じホールで始まった足のサイズチェック。残されたガラスの靴を実際に履いてみるという、何ともアナログな方法で行われた嫁探しは昼夜を問わず行われていました。そもそも城側では今回の件で城に来るであろう人数としては一人、若しくは騙る者があったとしても十人にも満たないであろうと想定していました。ですがその想定はものの見事に外れ、桁違いの人数が押し寄せて来たのでした。当然ながらその殆どが対象外の人達である事は明白だったので、当初城側は足のサイズチェックを一旦中止しようと門を閉じました。すると城門前では締め出された女性達が「ふざけんじゃねぇよ!」と、「女性差別だ!」と、「お前らが呼んだんだろうが!」といったシュプレヒコールを挙げ始めました。それは次第に熱を帯び始め、今にも暴発しそうな雰囲気でした。それに対し城側は「いざとなったら衛兵で抑えよう」と考えていましたが、いくら女性とはいえ数万人ともなると衛兵だけでは抑えきれない事は明白でした。「ならば軍隊の投入を」とも考えましたが、数万人にも及ぶ人数を抑えようとすれば流血は避けられず、そもそも何をした訳でもない国民達を武力をもって制するなどすれば良くて暴動、悪くて一揆、最悪革命へと繋がる可能性も考えられ、城の者達は皆、その最悪の想像に恐れ慄いたのでした。となれば「もう貴族平民年齢既婚未婚問わず来た者全てを城内へ通し皆を審査するしかない!」という事になり、再び城門を開け放ったのでした。とはいえ一足の靴、それも片方しかない靴でもって一人ずつチェックするしか無い訳であり、その膨大な人数を捌くには昼夜を問わず行わなければ、いつまで経っても終わらない状況でした。
「ほら見て! ピッタリよ!」
数万人もいればピッタリとサイズが合う者もそれなりの数いました。だが明らかに「いや絶対にお前じゃねぇよ!」と、そう突っ込みを入れられる者も数多く、その作業に付き合わされる城の者達は勿論の事、その国のほぼ全ての男達が「そこまで虜となったのなら顔ぐらい覚えておけよバカ王子」と王室批判による罪を恐れること無く、皆が一度は口にするといった有様でした。しかし視野狭窄ぎみの王子にその言葉は一切届かず、その足のサイズチェックを黙って見守り続けていました。その見守る中にはどうみても子供、どうみても細すぎの者、どうみても孫がいるよねという人、そしてどうみても大き過ぎる体格の女性もチャレンジします。
「いやいや、あなたは明らかに違いますよね!」
「やってみなけりゃ分からないでしょ!」
そう言って大変に大柄な女性は無理に履こうとします。
「ちょ、ちょっと! 無理に履かないで下さい! それガラスなんで無理したら割れちゃいますから丁寧に履いて下さい!」
「大丈夫よ! あと少し! 少しだから! 絶対に入るから!」
ミシッピシッ
「あぁぁぁぁぁぁ! もうそれ以上は無理だから止めてぇぇぇ!」
「ふん! 何よ! ケチね! もう少しで入りそうだったのに!」
そんなやりとりが四日四晩、休み無く続きました。終わりの見えないそれは果てしなく続く作業にも思えましたが、ふと気付けば残りは一人となっていました。
『ああ、ようやく私の番。これでようやくあんな生活から抜け出せる。王子様と結婚できる』
最後の一人となった女性はそれまで、ずっと不安そうな表情を見せていましたが、自分が最後の一人になった瞬間、不敵な笑みを浮かべました。それもそのはず、何を隠そうその女性こそがガラスの靴の持ち主でした。故に他の女性達がいくら靴を履こうとも「その靴は私の物なのだから私以外には合うはず無いでしょ」と当初は一切心配していなかったのですが、よくよく考えれば舞踏会で出会った女性を探すのに靴の現物合わせで探そうとするという事は「お前は惚れた女の顔も忘れたのかよ!」という事でもある訳で、そんな王子の記憶力からすれば「あなたが運命の人だ!」と、単に靴のサイズが合っただけの女性に言い出しかねないなという不安と戦い続けていたのでした。実際、足のサイズがピタリと合った女性は結構な人数いました。女性はその度心臓が止まる思いでしたが、幸いな事に「絶対にお前じゃない!」といえる人ばかりであった事でことなきを得ました。そして四日四晩ひたすらに待ち続け、ようやく女性の順番が来たのでした。
◇
貿易商の三女として生まれた女性は、幼少の頃より何故か炊事洗濯掃除といった事を一人でやらされていました。自分の部屋も個室を与えられてはいたものの、それは姉達の部屋のような広く綺麗な部屋ではなく、小窓が一つ付いているだけの薄暗く狭い屋根裏部屋でした。そしてこれまた理由は不明なれども、何故か二人の姉や母に毎日の様にイジメられていました。何故そんな状況になっているのか分からず、どうすればイジメられなくなるのかも分からず、毎晩のようにして小窓からチラリと見える夜空を見つつ、枕を濡らす事が日課となっていました。
「はあ、どうして私だけこんな目に遭わなくてはならないの?」
ある日のこと、いつものように枕を濡らしつつ床についていた女性は、ふと部屋の隅に何かの気配を感じました。
「……誰? そこに誰かいるの?」
ベッドから起き上がった女性は部屋の中を見渡しますが、部屋は小窓から差し込む薄暗い月明かりのみという状況で何も見えません。すると部屋の隅の方から声がしました。
「あんた、人生を変えてみたいかい? ケケケ」
声がした方に目を向けるも、そこには暗闇しかありません。
「誰? 誰なの? そこにいるのは誰?」
「ケケケ」
「だから誰?」
「ケケケ」
「…………」
「ケケケ」
「…………」
「ケケケ、ケケケ、ケケケケケケケケケケケケ────」
「だから誰だっつーの!」
女性がキレたからなのか、人影らしき物が暗闇からスッと出てきました。
「…………」
「ケケケ」
薄暗い月明かりに照らされたそれは、腰の曲がった小さな体をすっぽりと覆う真っ黒なローブで身を包み、如何にもな杖をついた老婆。
「…………」
「ケケケ」
老婆は深く刻まれた皺に囲まれた大きな目でギョロリと女性を捉えつつ、黄ばんだ歯を見せながらに不敵な笑みを浮かべ立っています。
「だ・か・ら、誰だっつーの!」
「なあ、どうなんだい? 人生を変えてみたくはないのかい? ケケケ」
「はあ? 人生を変える? 人生を変えるってどういう事? っていうかマジでお婆さんは誰? というかここ三階の天井裏よ? どうやって入って来たの? というか不法侵入よ? つうかほんとにマジで誰?」
「細かい事は言いなさんな。ケケケ」
「細かい事かしら? まあいいわ。で、お婆さんはマジで誰?」
「あたしゃ魔女だよ。ケケケ」
「魔女?」
「そうさ。死んだ者を生き返らせはしないけど、結構色々な事が出来る凄い魔女さ。ケケケ」
「そんな凄い魔女さんがここで何をしているの?」
「単に暇だっただけさ。で、意味無くイジめられているお前を見つけた。で、凄い暇なので良いこと思いついた。意味なくイジめられてるお前にチャンスを与えたらどうなるのかなってね。ケケケ」
「チャンス……」
「そう、チャンスさ。お前、この偉大なる魔女である私に何かして欲しい事はあるかい? 肉を死ぬほど食べたいとか、そういうのは無いかい? ケケケ」
「肉? でも私、こう見えてもベジタリアンなのよねぇ」
女性は口を尖らせながら不満げに言いました。
「なら母親や姉達を殺して欲しいとか」
「いや、そこまで母や姉達を恨んではいないけど」
「そうかい、そりゃ残念だね。なら他に無いかい? ケケケ」
「そうねぇ」
女性は腕組しながら考えます。
「あ、あるわ」
「ほう、そりゃ何だい? ケケケ」
「今夜お城で舞踏会があるらしいの。姉達と母はそれに行ったのだけど、私は行かせて貰えなかったの。私もそれに行ってみたいわ」
「舞踏会? あんた踊れるのかい? ケケケ」
「ヒップホップダンスなら踊った事があるわ」
「へぇ、人は見かけによらないねぇ。というか舞踏会でそれやったら皆から白い目で見られそうだけどねぇ。ケケケ」
「ねぇ魔女さん、私を舞踏会に連れてって」
「何だかどっかで聞いた何かのタイトルみたいな言い方だねぇ。まあ、それ位はお安い御用だよ。ケケケ」
そういって魔女は家の外に金ピカの馬車を一瞬にして用意し、それと同時に女性が着用していた普段着兼寝間着の継ぎ接ぎだらけのボロい木綿服を、キラキラと輝きを放つゴージャス感満載のピンク色のドレスへと一瞬で変え、更にはキラキラしたティアラにキラキラしたネックレス等の宝飾品まで一瞬で用意しました。
「どうだい? ついでに艶の無いそのブロンド髪も、艶々の綺麗な縦ロールにしといたぞい。ケケケ」
「ピカピカした金色の馬車は下品な感じでセンスが無い気もするけど……でもとにかく凄いわ。それにこのピンク色の派手なドレスに宝石だらけのティアラにネックレス。これを売ったらいくらになるのかしら、一生遊んで暮らせそうだわ」
「あんたは庶民だねぇ。ケケケ」
「でもこの靴はとても歩きずらいわ」
「なんだい、あんた私のセンスにケチつけようってのかい? 文句の多い女だねぇ。ケケケ」
「だってガラスの靴って実用性ゼロよね? 履く物ではなく飾る物よね?」
「綺麗で良いじゃないか。こんなのどこにも売ってないよ? ケケケ」
「だって歩くたびにカチャカチャと五月蠅いし割れそうで怖いわ」
「あんた位の体重なら問題ない設計になってるさ。ケケケ」
「なら良いけど……」
「ほら、さっさと城へ行きな。もう舞踏会は始まってるんだろ? ケケケ」
「そうね、折角ここまでして貰って舞踏会は終わってましたじゃ意味無いわね。じゃあ、行ってきます。ありがとう魔女さん!」
「あ、一つ言い忘れてた。ケケケ」
「何?」
「この魔法は午前零時までしか持たないんだよ。ケケケ」
「午前零時?」
「そう、午前零時になったら効力が消えちまうのさ。だからそれまでには帰ってきな。ケケケ」
「午前零時……まあ、その時間なら大丈夫よ」
「そうかい。なら心配無いね。といってもだいたい午前零時って感じの精度だけどね。ケケケ」
「分かったわ。じゃあ本当にありがとう魔女さん」
「ああ、行ってきな。それじゃ私も消えるよ。ケケケ」
そして女性は金ピカの馬車に乗って城へと向かったのでした。
◇
「ここがお城なのね」
歩くたびにカチャカチャと騒がしいガラスの靴。そんな耳障りな音を城内に奏でながら、女性は舞踏会の会場へと向かいました。
「しかし、この後どうすればいいのかしら……」
会場まで来たはいいものの、この後のことを一切考えていなかった女性は手持ち無沙汰なままに壁際に立ち、優雅に踊る沢山の人達を眺めていました。
「ここにはヒップホップダンスを踊る人は誰もいないのね……」
女性はガックリと肩を落としました。そんな落胆する女性の姿に、一人の男性が目を留めました。
「おお、あれは何と美しい女性なんだ……」
男性は人波を掻き分け、女性の元へと向かいます。
「お嬢さん、私と踊ってくれませんか?」
小さく丸い体躯をギンギラギンの服で着飾った男性。イケメンとは言えないが優しそうな男性。その小太りと言えそうなふくよかな体型は、贅沢な食生活をしているのであろう事が容易に想像出来る程でした。
「よ、喜んで。あ、でも私ヒップホップ系のダンスしか踊れないのですが……」
「大丈夫です。私がリードしますので」
男性の歯がキラリと光りました。
「あの……」
「はい、何でしょうか?」
「失礼ですがあなたは……」
「私はこの国の王子です」
「!?」
女性は「これがチャンスかっ!」と目を輝かせました。そして二人は時間を忘れて踊り狂いました。すると……
ゴーン、ゴーン、ゴーン
それは日が変わる時に鳴らす大迷惑な程の音量で鳴り響く鐘の音。その音に女性はハッとします。
「あ! あの! 私、門限があるのでこれで帰ります!」
そういって女性は王子の手を振りほどくと同時にダッシュでその場を後に、耳障りなガラスの靴音を宮廷内に響き渡らせながら去っていきました。置いてかれた王子は呆気に取られていましたが、ハッと正気を取り戻すとすぐさま女性の後を追いかけます。
「ちょっ! 待ってください!」
女性は王子の言葉に一切聞く耳を持たず一心不乱に走り続けます。すると…
ズベドベッ!
女性は階段を駆け下りている際、ドレスの裾に足が引っかかり見事に転びました。その際に片方の靴が脱げ、それはカチャンカラカラカチャンカラカラと階段を転げ落ちてゆきました。女性は転んだ際の痛みを覚えるも直ぐさま立ち上がり、脱げた靴を拾おうと手を伸ばしますが、何かに違和感を感じピタリとその手を止めました。
「は! い、いけない! 魔法が解ける!」
何と女性のドレスが透け始めていました。女性は即断即決、靴の回収を諦め走り出し、これまた薄っすらと透け始めていた金ピカの馬車に乗り込み脱兎の如く去っていきました。
◇
「ケケケ、舞踏会とやらはどうだった?」
何とか自宅にたどり着いた女性。金ピカの馬車は降りた途端にフッと雲散霧消しました。そして女性のドレスもフッと消え、あられもない姿のままに自宅の中へと入っていきました。そして自分の部屋である屋根裏部屋へとやって来ると、先の魔女がベッドの上に腰掛けていました。
「あら? 魔女さんまだいたの?」
「お前がどうなったのかを知りたくてねぇ、ケケケ」
「ちょっと聞いてよ、何と王子様と時間を忘れて踊りまくったのよ。とても楽しかったわ」
「それは良かった、ケケケ」
「ああ、でもごめんなさい、ガラスの靴を片方忘れてきてしまったの」
「別に靴の一足や二足、大した事無いよ、放っておきな。それにもう魔法が解けてるはずだから、その靴も今頃は消えてるだろうさ。ケケケ」
「ああ、そうね。なら良かったわ」
「でもあんた片方だけ裸足って格好で帰ってきたのかい? それの方が驚きだよ。ケケケ」
「だってドレスも消えかかっていたのよ? それに比べたらドレスで裸足なんて大したこと無いわ。それよりも、何かもったいなかったわねぇ」
「ん? 何がだい?」
「あのガラスの靴よ。いっそ貴族にでも売れば結構な高値で売れたんじゃないかしら?」
「ケケケ、やっぱり庶民だねぇ。でも確かに舞踏会に行くより売ってしまった方がチャンスにはなったかもねぇ。私もアンタが『舞踏会に行きたい』なんていうから驚いたもんさ、ケケケ」
「そうよねぇ。あれを売っ払って大金を貰ったほうが何かの投資資金にでも出来たかもしれないわねぇ。っていうか気付いていたなら最初に言ってくれれば良かったのに」
「でも楽しかったんだろ? ケケケ」
「えぇ、楽しかったわ。楽しかったけど……」
「けど? 何だい? 踊りたりなかったのかい? ケケケ」
「いえ、満足よ。ただ明日の朝からはまたいつもの日常に戻るんだなと思うとねぇ……」
「なるほどねぇ。ま、それはしょうがないねぇ。大金が欲しいって言えばよかったのに舞踏会に行きたいなんていうからさ。ケケケ」
「わかってるわよぉ」
「それじゃあバイバイだね。後は元気でおやり。ケケケ」
そう言って魔女は煙のようにして去っていきました。そして残された女性の元にはいつもの日常が、ただただ炊事洗濯掃除の毎日が戻ってきたのでした。まさしく夢だった舞踏会、一瞬だけ光り輝いたあの夜の記憶だけを糧に、ただただ生きてゆく事を目的とした日常が戻ってきたのでした。そのあまりのコントラストに女性は悲嘆に暮れ、炊事洗濯掃除も手につかないほどに呆然とした日々を過ごしていました。そんなある日の事、その国の王子の名に於いて発布された一つの御触れが女性の耳へと届きました。
『舞踏会に於いてガラスの靴を忘れていった女性を探しています』
当初それは遠い世界の話に聞こえ全く感心がありませんでしたが、ふとその中の一つのワードに引っかかりました。
「ん? ガラスの靴? ガラスの靴を忘れていった女? それって……」
果たして舞踏会に於いてガラスの靴なんて物を履く女が自分以外にいるのだろうかと、そんな特異な靴を城に置いてくる女が自分以外にいるのだろうかと、そう考えるとその御触れで探している女というのは自分の事なのではと、それとも自意識過剰だろうかと、いや自分以外にありえないだろうと、女性は頭を巡らします。
「っていうかぁ、そもそも何で探しているの? 靴なんて捨てちゃえばいいのに…………。ん? ま、まさか……」
その御触れには靴の持ち主を見つけた後にどうするとは一切書いてはありませんでしたが、却ってそれは女性の不安を掻き立ててゆきます。たかが靴の事でわざわざ御触れを出してまで一人の女を探そうとするということは、もしかしたら王様の居城に靴を忘れるという無作法に王様が怒ったのではと、もしくは置き忘れたその靴が原因で誰かが転んで怪我をしてしまったのかもと、その怪我した相手が王族であってこれまた王様が激怒しているのかもと、であれば持ち主が自分であると名乗り出た途端、物理的に存在を消される可能性も無きにしも非ずと。
「う~ん。ならばここはシカトだな!」
国の御触れに対し、女性は知らん振りを決め込んだのでした。それから数日後、とある噂が平民社会に出回り始めると、それは女性の耳にも届きました。
『その靴の持ち主を王子の結婚相手とする』
先の御触れの真の目的は嫁探しであるという噂。とはいえそれはあくまでも噂話であり、城側からの御触れには結婚等とは一言も書いてはありません。
「なんで靴の持ち主探しが嫁探しになってるの? ひょっとして何かの罠? いや、あれ、待って待って……ひょっとして……」
女性には思い当たる節がありました。あの日の舞踏会に於いて、王子と女性は長い時間踊り狂っていました。あの時の王子の自分を見つめる目が尋常でなく熱かった気がすると。ひょっとして王子は自分に一目惚れしたのではないかと。だとすればその噂話は単なる噂ではなく本当の可能性があり、それは人生一発大逆転の可能性であり、まさしく「棚からぼた餅」からの「玉の輿」であり、文字通り遊んで暮らす事も夢ではないかもしれないと思案します。しかし疑問がありました。
「馬車もドレスも消えたのに、何で靴だけが残っているの?」
脱げていなかったもう片方の靴はドレスや馬車と共に消えていました。であればそれは自分のガラスの靴ではなく、他にもガラスの靴を履いていた女がいて、自分同様、城に置き忘れていった女がいたのかもしれないと。
「でもなぁ、あんな使い勝手の悪いガラスの靴で舞踏会に行く女なんて、私以外にいるかなぁ。居るとは思えないよなぁ」
靴が消えていない理由は不明ではあるけれども、やはりそれは自分の靴なのではないかと、女性は腕組しながらに考えます。とはいえ未だ確信は無く想像の域を出ず、それに罠の可能性も捨てきれません。仮にそれが罠だった場合、ノコノコと城に赴いた時点で即座に捕らえられ、そのまま牢獄送りなんて事にもなりかねません。
「う~ん。この国は絶対君主制だから罪状も無いままにいきなり牢獄ってのもありえるよねぇ。つうか本当に靴の持ち主を探してるだけってのもありえるよねぇ。その場合、その靴が私の物だったら靴を返してもらって終わりって事だよねぇ。でも、もしもあの噂話が本当だとしたら……」
果たしてそれは罠かチャンスか自惚れ的な思い込みか。伸るか反るか座視するか。座視すれば今と何も変わらない毎日をこれからもただただ生きてゆくだけ。それを良しとするか、それで良いのか。結果はどうあれ、今、目の前に人生が変わるかもしれないチャンスが巡ってきたのかもしれない。それをただただ座視していいのかと、女性は自分に問いかけます。
「う~ん…………よぉし! 城に行ってみよう!」
しかしここで懸念が出てきました。実は平民の間を駆け巡った噂は『その靴の持ち主を王子の結婚相手とする』という以外にもう一つ、『足のサイズさえ合えば王子と結婚出来る』という物もありました。靴の持ち主という御触れには目もくれず、その噂を信じた女性の母親や姉達も城に向かうという事が分かったのです。母親も姉も女性とは背恰好が似ているが故に、足形がピッタリと合う可能性がありました。次女に至っては顔も似ていました。足形で確認しようとする王子は女性の顔を覚えていない、若しくは見た目で判断出来ない人である可能性が高く、となれば母親は兎も角として、二人の姉のうちどちらかを指差し「この人に間違いない!」なんて言い出す可能性も捨てきれませんでした。そんな不安の中で、いよいよ『靴合わせ』の日を迎えたのでした。
◇
早朝、母親と姉二人は綺麗なドレスに宝石類等で着飾って、城へと向かいました。一人残された女性はその後しばらく経ってから、城へと向かったのでした。
「こんな服で行っても城に入れてくれるのかしら……」
女性の身なりは母親や姉らと違い、継ぎ接ぎだらけの木綿服。それは清潔ではあるものの、炊事等で付いた落ちないシミ等もあり、お世辞にも綺麗とは言えませんでした。勿論、宝石等は何一つ身に付けてはいません。そもそも女性が所有しているのは日常的に着用している木綿の服が数着だけ。宝石類は勿論のこと、それ以外に何も持ってはいませんでした。そんな女性にあるのは「そのガラスの靴は自分の物であるはずだ」という自信のみ。それだけを頼りに歩みを進めていましたが、そもそもそんな格好で城に入れて貰えるのだろうかと、『靴合わせ』をさせて貰えるのだろうかという根本的な不安を抱えたままに歩き続けていたのでした。
◇
「これって…………どういう事?」
城へと辿り着いた女性。その目に映るは国中の女性を集めたのだろうかと思える程の女の群れ。城を囲み、城下町を蛇のようにして列を連ねる女の群れ。
「ま、まさか、この女ども全てが『靴合わせ』に来たんじゃ……」
そのまさかでした。女性のその言葉を裏付けるかのようにして、「『靴合わせ』に来た人はちゃんと列に並んで下さ~い」と城の者達が女の群れに対して大声を張り上げ、更には「あとちょっとだったのにーっ!」と、列の向きとは反対の方向へと歩いてゆく多数の女性が見受けられました。
「やっぱり、ここにいる女達全員、『足のサイズさえ合えば王子と結婚出来る』とかいう噂を信じて、玉の輿目当てで来やがったのか……」
自分こそがガラスの靴の持ち主だと信じていた女性。すぐにも城の中へと入って靴合わせをしようと思っていた所、思わぬ足止めを食らうことになったのでした。なぜ自分が玉の輿目当ての連中と同じ列に並ぶ必要があるのだと、そう思いはしたものの、その城下町を網羅するかの如く並んだ女達の列の中を、その殺気だった集団の中を、男達ですらも恐れをなして逃げ去る程の圧倒的な光景の中で「私こそが靴の持ち主よ」と割り込みでもしようものなら、果たして自分の身はどうなってしまうのだろうかと恐怖し、不承不承、列に並ぶことにしました。しかしその状況を目にしたことで『その靴の持ち主を王子の結婚相手とする』という噂話の信憑性が高まったように思えました。
「しかし、一体いつになったら私の順番がまわってくるんだろ……」
『靴合わせ』が始まってから既に四日目。女性は城へ到着したのが遅かったこともあり、列の最後尾に並んでいました。その横を『靴合わせ』が終わったであろう女性達が通り過ぎてゆきます。ある者は悔しがり、ある者は落胆し、またある者は号泣していました。そんな中、女性に声を掛けてきた人達がいました。
「ちょっと、何でアンタがここにいるのよ!」
「掃除はどうしたの? 全部終わったんでしょうね?」
「ここはアンタなんかが来る場所じゃないわよ!」
それは女性の母親と姉二人。その三人は『靴合わせ』で弾かれたのであろうなと察すると共に「ざまあみろ」と、女性は思いました。
「掃除は終わったの! 洗濯は! 夕食の準備は終わったの?!」
「ここはアンタが来ていい場所じゃないわよ!」
「アンタ! 人の話聞いてるの! だいたい何なのよその汚らしい格好は!」
母親と姉達からの叱責と罵声の中、女性は上っ面だけの謝罪をひたすらに繰り返し、何とかその場に留まることを許されました。そしてそれから数時間後、服装については何ら言われることは無いままに、いよいよ女性の順番がやって来たのです。
「それじゃあ、足を入れて下さい」
『ああ、ようやく私の番。これでようやくあんな生活から抜け出せる。王子様と結婚できる』
女性の眼の前にあったのは、紛れもなくあの時のガラスの靴。その瞬間、今までの事が走馬灯の様にして脳裏を駆け巡りました。その殆どは母親や姉達から受けた数々のイジメ。しかし今となってはそれすらも些細な事だと、もうすぐ運命が変わるのだと、立場が180度変わるのだと。もしかしたら明日にでも皇太子妃となり、いずれは王妃となる事が約束されるのだと、後はゆっくり母親や姉達にどう仕返しをするかを楽しみに生きていこうと、そう思うと自然と笑みが溢れるのでした。
「ちょっとぉ、ニヤついてないで早くして下さいよぉ。あなたで最後なんですよぉ」
城の者は疲労困憊といった様子で、ぶっきらぼうに言いました。
「あ、はい! すいません! すぐに!」
急かされるようにして、女性はガラスの靴へと足を伸ばします。すると足は吸い込まれるようにして靴の中へと入り込み、爪先に踵と全てがジャストフィットし、それはまさに女性の為に作られた靴と言わんばかりでしたが……
ブァリンッ!
「!?」
何と靴の中に足がピタリと収まったと思ったその瞬間、ガラスの靴は粉々に砕け散ったのでした。砕け散ったガラスの破片は容赦なく女性の足を傷つけ、その傷口からは鮮血が吹き出し、周囲を赤く染めました。
「イ、イヤァァァァァッ!」
「ギャァァァァァァァッ!」
その場には『靴合わせ』を終えた女性達が行く末を見ようと未だ帰らず屯していましたが、それらの者達は鮮血吹き出すその様子に阿鼻叫喚の悲鳴をあげました。しかしその惨状に悲鳴をあげたのは、女性達だけではありませんでした。
「ぅ……ぅ……ぅギャァァァァァァァァッ!」
それはこの『靴合わせ』の発起人である王子様。王子は『靴合わせ』の様子を少し離れた場所からつぶさに見ていましたが、大理石の床が突如としてどす黒い赤色に染まる様子を見て、発狂したかの如く泣き叫び始めたのでした。
「王子! 落ち着いてください! ただの血です! 大丈夫です!」
側近達は声を大にして宥めますが、パニくった王子にその声は一切届かず、尚も泣き叫び続ける王子は側近達に抱えらるようにして、その場を後にしたのでした。
砕け散ったガラスの靴。その破片散らばる血の海の中で、女性は途方に暮れていました。すると五人程の男達が女性の元へと駆けつけてきました。
「無礼者! 平民の血で王の居城を汚すとは何事か!」
それは城の衛兵達。武装した衛兵達は怒りの形相でもって、剣先を女性に向けました。
「そ、そんな! これは事故です! 不可抗力です!」
「ええい! 黙れ黙れ! この女を地下牢に連れてゆけ!」
「そんな! このガラスの靴は私の物なんです! 私が王子様の妻になるべき女なんです!」
「黙れ黙れ! その靴を貴様が粉々に砕いてしまったではないか!」
「こ、これは私の所為じゃありません! 以前にこの靴で踊っていたのですから相当丈夫な物のはずなんです!」
「ええい貴様! この惨状を前にしてまだ言うか! この狼藉者め! 早く連れてゆけ!」
「お願いします! お願いだから聞いて下さい!」
衛兵に引きずられるようにして連れて行かれる女性。その際も無罪を主張し続けますが、その惨状を前にしては衛兵は勿論のこと、女性の言葉に耳を傾ける者は誰一人としておらず、そのまま城の地下深くの牢へと連れ去られてしまいました。そして惨状を目の当たりに発狂した王子はその時見た光景がトラウマとなり、いわゆる引き籠りとなってしまいました。その一人息子の変貌に王様は大層怒り狂い、「その女を一生牢から出すな!」と厳命すると共に、同罪とばかりに女性の姉達や母親も牢獄へと送り、一家が住んでいた家も見せしめとばかりに取り壊してしまいました。
◇
時は流れ、あの『靴合わせ』から三十余年が過ぎていました。五十路を迎えていた女性は暗く湿り気を帯びた地下牢の中で独り、静かに終焉を迎えようとしていました。
冷たい地面に突っ伏するようにして眠る女性は、皮が骨に張り付いていると言って良い程に痩せこけ、ブロンドだった長い髪は艶の無い白髪となり、頬は扱け目は窪み、半開きの口からは涎が垂れ落ち、薄っすらと開いたその目は白く濁り、それは生きているのかと疑う程に生気を感じさせません。しかし一方でそれは指一本でも触れれば「お待ちしていました王子様!」と、直ぐにでも起き上がりそうな気配を漂わせていました。そう、女性は今際の際にあっても待ち続けていたのです。しかしその思いが叶うことはありません。何故ならこの時、王子は既にこの世を去っていたのでした。女性はその事を知らぬままに、ただただ王子が迎えに来てくれることを独り暗い牢獄で願い続け、待ち続けていました。そしていよいよというその時、その牢獄に誰かが現れました。
「どうやらまだ生きているようだね。ケケケ」
「…………」
「おーい、聞こえてるかぁぁぁい。ケケケ」
「……だ……だれ……?」
「おやおや、忘れたのかい? 折角舞踏会に連れて行ってやったのに。ケケケ」
「……あ……あ、あなたは…あ、あの時の…ま、魔女さん?」
「ああそうさ、久しぶりだねぇ。ケケケ」
女性は目を大きく見開き魔女を見つめますが、既に視力を失ったその目に魔女の姿は映りません。
「うん? どうかしたのかい? ああ、もう目が見えないんだね。ケケケ」
「……」
「にしてもお前は随分と老けたねぇ。私よりも老けて見える位だよ。ケケケ」
「……」
「私はアンタと違って昔のままさ。なんてったって魔女だからね。昔アンタが見た姿のままで何百年も生きているのさ。ケケケ」
「……」
「おや? アンタ魔女のくせに自分を若返らせる事も出来ないのとでも言いたそうだね。ケケケ」
「……」
「残念ながら偉大な私でも出来ないことが幾つかあってねぇ。その内の一つが自分を若返らせる事なわけだね。ケケケ」
「……」
女性の白く濁った目からは、涙が零れ始めました。
「全く、この偉大なる魔女の私が見ず知らずのお前にチャンスをあげたのに。本当にどんくさい女だねぇ。ケケケ」
「……」
「しょうがないねぇ。じゃあ、もう一度だけ手を貸してやってもええぞ? ケケケ」
「……手を……貸……す……?」
「そうだよ。お前が望むのなら、あの『靴合わせ』の日に還してやろうか? ケケケ」
女性は何かを口にしようとするも唇が震えるだけで、言葉を発する事は出来ませんでした。
「おやおや、もうしゃべる事も出来ないのかい。仕方ないねぇ。じゃあ、もしもあの時に還りたいと言うのなら、目を強く瞑りな。ケケケ」
女性は最後の力を振り絞るようにして瞼を強く閉じました。
「それじゃ今度は上手くやるんだね。ケケケ」
そして女性は深い深い眠りへと落ちてゆきました。
◇
「ここは………………」
女性はベッドの上で横たわっていました。その寝ぼけ眼に映るは屋根裏部屋の天井。
「あ! まさかここは!」
女性はガバっと跳ね起きキョロキョロと周囲を見渡すと、視線を落とし自分の手をしみじみと見つめました。先程までは皺々で薄汚れていたその手は、水仕事の為に出来たあかぎれ等はあるものの、白くて細い白魚のような手になっていました。
「本当に還ってきたんだわ……」
そこはかつて自分の部屋だった屋根裏部屋。その部屋に何ら良い思い出は無かったものの、数十年ぶりに見たその光景に思わず涙が溢れ出しました。そして溢れる涙もそのままに、小窓からチラリと覗く青い空を睨むようにして見つめました。
「今度こそ、絶対に失敗しないわ」
女性は青空に誓うかのようにして言いました。そうして暫くの間、久しぶりに見た空を何の気無しに見ていましたが、ハッと我に返ります。
「おっと、いけないいけない。さてさて、戻ってきたは良いけど、まずはどうしようかしらねぇ。とりあえず、あのガラスの靴は間違いなく私の物というのは確定よね。そしてあの時ガラスの靴が割れたのは誰かが無茶したせいでヒビが入っていたのであろうと。要するに私が城に行くのが遅かったから駄目だったという事であって、今度はそのヒビを入れた馬鹿女よりも早く行くというのがマストであるという事よね。うん、よし。今度こそ王子を逃さないわ……にしては……」
女性は怪訝な表情を浮かべつつ立ち上がり、部屋の小窓から外の様子を伺います。
「ん~。あの魔女は『靴合わせ』が行われた日に還すとか言ってたけど、今日は本当にその日なのかしら? だとしたら直ぐにでも城に向かわないと前回と同じになってしまう事になる訳だけれど、それにしては街の様子がいつも通りと言うか……。以前は街中の女共が殺気立っていたような気がしたけど、今はそんな感じはしないわねぇ。本当に今日はあの日なのかしら? ちゃんとガラスの靴云々の御触れは出ているのかしら? というか還ってきたは良いけど前回と同じなのかしら? ちゃんとガラスの靴の持ち主を王子の嫁にするっていう話になっているのかしら? 別の話になっているなんて事はないでしょうねぇ」
女性の懸念通り、その日は『靴合わせ』の日ではなく舞踏会の翌朝であり、未だガラスの靴云々という御触れも発布されてはいませんでした。
「ったく、あの魔女のババァ。日にちが違うじゃない。まあ、それならそれでゆっくりできるわね」
それから数日後、例の御触れが町に届くと共に、『その靴の持ち主を王子の結婚相手とする』『足のサイズさえ合えば王子と結婚出来る』という噂話も届きました。それら全てが前回と同じだった事で「なら流れは前回と一緒ね」と、女性は安堵しました。そしてその数日後、女性にとって二度目の『靴合わせ』がやってきたのでした。
「早めに来たっていうのに、結構な人数いるわね」
夜明け前に家をこっそりと抜け出し、一人城へとやってきた女性の前には、既に百人程の女性が列をなしていました。とはいえ前回よりは相当に早めの順番です。
「まあ、これ位ならいいか。きっと大丈夫よ」
しかしここで想定外の事が起こりました。
「ちょっとアンタ、ここで何してんのよ。掃除は終わったの? 洗濯は終わったの?」
「何でアンタがここにいるのよ。そんな汚らしい格好で城に来るなんて恥ずかしい」
それは母親と長女。鬼の形相でもって女性を叱責します。
「な、なんでお母様とお姉様がここに……」
「それはこっちのセリフよ!」
女性は動揺しました。今回の『靴合わせ』が前回と同じであれば、それは4日間に渡って行われる事になります。そして今日はその初日にして、もうすぐ女性の順番。前回の時には列の最後尾に並び、靴合わせは4日目でした。その同じ日に母親らも『靴合わせ』を行っており、女性は母親らが審査を終えた後に偶然遭遇し叱責を受けていました。故に前回と今回が同じであれば初日に母親らがこの場にいるはずは無く、つまりそれは今回と前回とは同じではないという事を意味し、それは女性を激しく動揺させたのでした。
「まあまあ、お母様、お姉様、良いじゃありませんか。この子にも夢くらいは見させてあげましょうよ」
母親と長女を諫めるようにして次女が言いました。傍から見るとそれは「妹を守る優しい姉」に見えなくもありませんでしたが、当然ながら女性はそんな風に思えず「この女、一体何を企んでいるんだ」と、怪訝な表情で次女を見つめます。その視線に気付いた次女は不敵な笑みで見つめ返しました。何はともあれ次女のその言葉によって母親と長女は黙り込み、女性はその場を切り抜ける事が出来たのでした。女性は次女に対し「ありがとうございます」と深々と頭を下げました。といってもそれは上辺だけ。そもそも女性にとって今大事なのは一刻も早く『靴合わせ』をする事であり、それ以外はどうでも良い事。あと小一時間もすれば立場が逆転する状況において頭を下げるなど息をするのと同じであり、必要ならば喜んで泥水をすすり靴底でも舐めてやるよと、女性は頭を下げながら、そう心の中で叫んでいました。そしてそれからはひたすら沈黙のままに待ち続け、いよいよその時が来たのです。
「では次の方、どうぞぉ」
「は、はぁい」
女性は緊張の為か、声が裏返っていました。前回の記憶を有している女性からすれば、そのガラスの靴が自分の物であるという確信がある訳ですが、その前回の記憶は失敗の記憶でもありました。あの鮮血吹き出し地下牢へと送られた記憶が、今でも昨日の事のようにして鮮明に蘇ります。いくら確信があってもその記憶があることで、緊張が解ける事はありませんでした。
「ちょっとぉ、早くして下さいよぉ」
「あ、は、はい…」
そう促され、女性は恐る恐るガラスの靴に向けて足を伸ばし、そっと爪先を入れ、踵を入れてゆきます。
「そ、そんなバカな……」
足は途中まで入ったものの、踵が入りません。
「な、何で…………」
すると後ろから「クスクスッ」という如何にも嘲笑するような笑い声が聞こえました。声がした方へと女性が振り向けば、そこにいたのは次女でした。
「お、お姉さま……」
「気が済んだ? なら早くどきなさい。次は私の番よ」
「ま、待って下さいお姉様! これは何かの間違いです! これは間違いなく私の靴なんです!」
「何を言っているの? 今あなた入らなかったでしょ?」
「だからそれ────」
「終わった人は早くどいてぇ。次の人、どうぞぉ」
ぶっきらぼうに話す城の者にそう言われ、女性は引き下がざるをえませんでした。それと入れ替わるようにして、次女がガラスの靴の前に立ちました。次女は「フフン♪」と勝ち誇ったかのようにして、躊躇なく足を伸ばしました。
「きゃーっ! やったわ! 見て見て! ピッタリよ!」
次女の足は吸い込まれるようにして、ガラスの靴にピッタリと収まりました。
「そ、そんな馬鹿な! それは私の靴なのに!」
女性は目の前の光景が信じられず、驚愕の表情でもって次女を見つめました。するとその様子を見ていた一人の男性が、次女の目の前にやって来ました。
「私の妻になって下さい」
それは『靴合わせ』の様子をずっと見ていたこの国の王子様。王子は次女の手をとりながら笑顔でそう言いました。
「はい、喜んで」
次女は満面の笑みで返しました。その瞬間、城内が歓声に沸きました。しかしその歓声の中にあって、一人驚愕の表情でもって訴える者がいました。
「お願いです王子様! 私の話を聞いて下さい! その靴は私の物なのです!」
自分が虜になった女性は次女なのだと決めつけてしまった王子に対し、女性のその言葉は一切届きません。
「見苦しいわよ。アンタが何を企んでそんな妄言を口にするのか知らないけど、この靴は私にぴったり合ったのよ? アンタも今見てたでしょ? 対しアンタは何? 入らなかったでしょ?」
「だってその靴は私の────」
「お黙りなさい! いい加減に目の前の事実を認めなさい!」
次女のその言葉に女性はぐうの音も出ず、ついさっきまで明るい未来を夢見ていた顔が一瞬にして絶望の顔へと変わり、力が抜けるようにしてその場にペタンと座り込んでしまいました。女性のその様子を見て次女は不敵な笑みを浮かべました。そう、次女は全て知っていたのです。
女性が還ってきたあの日、暇だからイジメてやろうと屋根裏部屋へとやってきた次女は、独り言でもって自信ありげに計画を話す女性の企みをつぶさに聞いていたのでした。近々お城から御触れが発布される事、それは先日行われた舞踏会の日に、城に置き忘れられたガラスの靴の持ち主を探しているという内容である事、そしてその御触れの本当の目的は、ガラスの靴の持ち主を王子の妻にする事であると。
「いやいや、いやいやいや、靴で嫁探しする馬鹿な男なんている訳ないじゃん! いたとしてもそれが王子な訳があるはずないじゃん! ひょっとしたらアノ子、イジメられすぎて気でも触れたのかな? いやいや、ここは普通に考えて夢物語と思うのが正しいでしょ」
それは一笑に付す話であって、今度はそれをネタに更にイジメてやろうかと、次女は不敵な笑みを浮かべました。
「でも…………」
それが夢物語に聞こえるからといって夢物語であるという保証はありません。万が一にもそれが夢物語でなく本当の話だとしたらと想像した次女は、背筋に冷たいものが走ったのでした。
「もしそれが本当だとしたら、妹が王子の妻になる可能性があるって事よね。そうなると私と妹の立場が完全に逆転するって事よね。でもって妹は直ぐにも仕返しに来るかもしれないって事よね……」
何ら確実な事が一つも無い状況においてそれは妄想的想像でしかありませんでしたが、何か手を打っておかないと危険だと、今は夢物語にしか思えないそれが万が一にも本当だった場合に備えて何らかの手を打っておくべきだと、次女の第六感が囁きました。
「でもどうしたら……ん? まてよ? それって私にピッタリのガラスの靴を用意しておけば私が王子の妻になれるって事じゃないの?」
昔から悪知恵働き勘が冴え渡る次女。しかしそんな次女でも分からない事がありました。それはガラスの靴という物を見た事が無くデザインが分からないという事でした。何処かの工房で模造品を作らせるにしてもデザインが分からなければそもそも作らせる事が出来ません。しかしここでも次女は閃きます。そもそも王子は相手の顔を忘れて靴が履けるかどうかで妻を選定しようとしているのだから、奇抜なデザインであれば万事休すであるものの、多少デザインが違う程度であれば気付かないだろうと。そんな思惑をもって次女は町のガラス工房を密かに訪れると「一般的なヒールの形で。兎にも角にも大至急。出来るわね?」と、上から目線でもってガラスの靴の製作を依頼したのでした。次女のその物言いに圧倒された工房側は、断れば何をされるか分からないという得も言われぬ恐怖を抱き、他の仕事の手を止め徹夜でもって靴の製作にあたったのでした。翌日、靴を受け取った次女は女盗賊と呼べる程の突発スキルをもって城へと侵入し、本物のガラスの靴と出来立てホヤホヤの偽物のガラスの靴を交換したのでした。
「フン、なんて馬鹿な妹なのかしら」
次女は妹が嫌いでした。しかも嫌いになったのは妹が生まれてからすぐの事でした。
三女となる妹が生まれた際、次女はそれをとても喜びました。周囲からは顔が似ていると言われ、当初はそれも嬉しかった次女ですが、不意に自分にあって妹に無いものがある事に気が付きました。それはホクロ。次女の右目の下には泣きボクロがありました。次女はそれをコンプレックスに思っていましたが、顔が似ていると言われる妹の顔にホクロは無く、いつしかそれを妬むようになり、気付けば妹をイジメるようになっていました。当初その様子を母親や長女はじゃれていると思い、次女と一緒になって三女をじゃれるようにして扱っていましたが、それは次第にイジメと呼ばれるような行為へと発展していき、更には理由なく忌避するような関係へと変わっていったのでした。妹が妬ましいと、妹の全てが疎ましいと。たった一つのホクロが有るか無いかの違い。それこそが妹を嫌いな理由だったのです。
「王子様ーっ! 結婚おめでとうございまーす」
数カ月後、次女は国中からの祝福を受ける中で王子と結婚すると共に、皇太子妃という称号を得ました。その数年後には次代の国王たる男児を授かると、それからは毎年のようにして子供を授かったのでした。更にその数年後には国王が事故により崩御すると王子が新国王となり、次女は皇太子妃から王妃となり、最早何も恐れるものは何も無い程の地位にまで昇りつめたのでした。勿論、母親や長女にも多大なる恩恵がありました。豪華な屋敷や家具が与えられると共に、食べきれない程の豪華な食事が毎日食べられるほどの財が与えられ、その生涯を閉じるまで何不自由のない生活を満喫し続けるのでした。
◇
「き、きょ、今日は……何…曜日…かしら…………」
木の床に敷いた藁の上に横たわりつつ、穴だらけの天井に向かって力無くそう呟いた女性。それは折角のチャンスを二度も逃した女性にして、今や国王妃にまで昇りつめた女の妹。女性は姉が皇太子妃となった直後に国の外れへと追いやられ、今にも崩れそうな山小屋でもって独り、ただただ終わりを待つというような暮らしを強いられていました。あの『靴合わせ』から既に三十余年、人里離れた山奥に於いて、食べられそうな草や木の根や木の実でもって飢えを凌ぐような生活は、その日を食い繋ぐ事で精一杯な暮らし。時には三日に一度の食事、それも名も分からぬ草を茹でたスープという事もありました。そんな食生活を長く続けた事で栄養失調に見舞われ視力も殆ど失い、骨と皮の体は床から起き上がる事すらも困難な状態にありました。しかし、それもようやく終焉を迎えようとしていました。
「やあ、元気だったかい? ケケケ」
普段は葉の擦れる音、鳥の囁き、そして自らの独り言しか聞こえないその家の中で、女性以外の声が聞こえました。
「……だ……だれ? だ、誰か……いる……の?」
「何だい? 私の事を忘れたのかい? ケケケ」
女性はベッドの上で殆ど見えない目をキョロキョロさせながら声の主を探します。
「……ひ、ひょっとして……魔女のお婆さん?」
「どうやら覚えていたようだね。ケケケ」
「……」
「元気だったかい? って、そんな骨と皮の体でよくもまあ生きてるねぇ。といっても、最早、虫の息といった感じだね。ケケケ」
女性の目からはポロポロと、涙が溢れ出していました。
「おやおや、こんな婆さんと会えて嬉しいのかい? ケケケ」
「ね、ねぇ……」
「ん? なんだい?」
「も、もう一度…………」
「もう一度?」
「もう一度……あの日に、還して……こ、今度はきっと、もっと上手にやるから……」
女性はそう言いながら上半身を起こそうと試みますが、筋肉の衰えた腕はプルプルと震えるだけで、起き上がることが出来ません。
「残念だけど、それは出来ないんだよ。ケケケ」
「そ、それは……な、何故?」
「私にはもう力は残っていないんだよ。だからもう戻してはやれないんだよ。ケケケ」
「そ、そんな……」
魔女のその言葉に、女性は起き上がろうとしていた力が一気に抜け、藁の中に沈むようにしてグッタリとしてしまいました。
「ガッカリさせちまったようだねぇ。ケケケ」
「な、なら……何しに……来た……の?」」
「お別れを言いに来たのさ。ケケケ」
「お別……れ?」
「そうさ、いよいよ私も終わりの時が来たのさ。ケケケ」
「……」
「魔女にも寿命はあってねぇ。といっても、だいたい千年くらいかねぇ。ケケケ」
「……」
「で、最初にお前に会った時、あたしゃ五百歳位だったかねぇ。ケケケ」
「ご、ごひゃ……だったら、まだまだ……」
「そうだね。本当ならあと五百年位は生きられたんだけどねぇ。ケケケ」
「……」
「一度、お前を過去に戻してやったろ?」
「え、えぇ」
「その『時を戻す魔法』ってのはさ、結構な寿命を使うんだよねぇ。ケケケ」
「じゅ、寿命?」
「ああ、あの魔法はだいたい五百年程の寿命を使っちまうのさ。その魔法を使ったのが五百歳位の時だったからね、その時に殆どの寿命を使い切っちまったって訳さ。ケケケ」
「そ……それじゃあ、私のせいで魔女さんは……」
「別に気にする事は無いさ。私が勝手にやったんだからね。ケケケ」
「……」
「という訳でさ、最後にお前の顔でも見とくかなとやって来たわけさね。ケケケ」
「ご…ごめん……なさい……」
「別に良いって言ってるだろ? ケケケ」
「……」
「それじゃあ、私も行くよ……あれ? そういえばお前の名前を聞いていなかったねぇ。今更聞く事でも無いが、お前は何て名前だい? ケケケ」
「わ……私の……名前は……シ……」
「シ? シっていうのかい?」
「シ……シンデ…………」
「シンデ? シンデって言うのかい?」
「……」
「おや? もう口を利く体力も残って無いようだねぇ。ケケケ」
「……」
「じゃあ、シンデ。これで本当にサヨナラだね。残された少ない時間、楽しい夢でも見ながら逝くといいさ。ケケケ」
そういって魔女は煙のようにして去ってゆきました。それから間もなくして、女性は誰に看取られるでもなく、独り静かに息を引き取りました。そして女性が最期に過ごしたその場所は、女性が逝くのを待ってましたとばかりに朽ち始めると、そこに何かがあったであろう誰かがいたであろうという痕跡を消すかの如く、あっという間に土へと還っていきました。
◇
時は流れに流れ、かつて王政だったその国の体制が共和制へと移行するほどに時が流れたその国では、女性の姉であり王妃だった次女の名は歴史書に記されているのは勿論の事、国民の間でも語り継がれると共に、世の女性の憧れの存在となっていました。それは平民であった次女が王子と出会い結婚し、やがては王妃にまで登り詰めたからに相違ありませんが、平民である次女と王子、本来であれば出会うはずのない二人がどのようにして出会い結婚に至ったのか、果たしてそれは後世に於いてどのように語り継がれているのか。
二人の出会い。それは王宮で行われた舞踏会だったと伝えられています。といっても通常の舞踏会ではなく、王様が平民からの人気取りの為に企画した王国史上初の貴族平民合同舞踏会だったそうです。当然ながら次女にとっても初めての舞踏会であり、そもそも平民が王宮に入れる機会など滅多に無い事もあり、次女は新調したドレスを着て粧し込み、得も言われぬ期待感に胸膨らませながら舞踏会へと乗り込んでいったそうです。しかしその期待とは裏腹に、平民であるが故に舞踏会の振る舞い等まったくもって勝手が分からず所在無く、暫くの間、次女は壁際の花と化していました。するとそこへ一人の男性が現れ次女をダンスに誘いました。その男性こそが王子であり、その瞬間こそが二人の出会いとされています。その後二人はダンスに興じるわけですが、次女は町のイベント等でのダンス経験はあれども舞踏会という華やかな場所で踊った経験などは無く、且つダンスの相手が王子という事で酷く緊張し、更には王子が踊るという事もあって自然と衆目が集まり、結果ダンスに興じるどころかちょっとしたパニック状態になってしまいました。そんな次女の耳元で、王子がニ言三言何かを囁きました。すると次女の顔には少しばかり笑みが戻ると共に、重かった足取りも軽くなったようでした。そして五分もすると表情は完全に和らぎ、十分もすると動きはスムーズにステップも軽快になり、気が付けば二人は時を忘れる程に踊り狂っていたそうです。しかしそんな二人に突如として別れが訪れます。それは午前零時の鐘の音。その鐘の音が聞こえた途端、次女は門限があると言い残し、名前も告げないままに舞踏会を途中で去っていったのでした。
ドレスのままにダッシュで帰る次女。女性が城内を走るなど無作法にして礼儀知らずにして無礼千万とも言える行為ではありましたが、平民である次女は「そんなの関係ねぇ」とでも言わんばかりに走り続け階段すらも駆け下りていた所、案の定とでもいうべきか、派手にスッ転んでしまいました。その際、勢い余って靴が脱げてしまいましたが、次女は又も「そんなの関係ねぇ」とでも言わんばかりに脱げた靴には目もくれず、素足のままで帰ってしまいました。その時の靴こそがガラスの靴だったとされ、後日、王子は国中の女性を対象にその靴の持ち主を探せと命じたのでした。
そして始まった大捜索。捜索方法は王子の指示の通り国中の女性を城に呼び、残された靴を実際に履いて貰うという現物合わせ。何万人もの女性を対象としたそれは何時終わるのかも分からないと思われていましたが、運良く初日の早い時間に見つけることが出来たそうです。そしてその瞬間、つまりは次女の足がガラスの靴にピタリと収まったその瞬間、次女の前に一人の男性が現れました。男性は黙ったままに次女の手を取ると「私の妻になってください」と、そう言いました。その男性とは勿論王子の事であり、二人はそれを機に結婚へと至る訳ですが、当初次女はその申し出を断ったといいます。それは「自分は平民だから」という身分差を考慮しての判断だったということですが、傍から見ればそれは王族軽視であることは否めず、実際、次女は周囲の人達から「不敬だ」「不遜だ」という批難の声を次々に浴びせられる事となり、一瞬にして窮地に陥ったのでした。するとそんな状況を打破するが如く「君の為なら王子の座も捨てる! だから結婚してくれ!」と、声高に王子が言いました。王族としてのメンツを潰され激怒しても良いはずの王子のその言葉に周囲は沈黙する他無く、その場には一瞬にして静寂が訪れました。その静寂の中、改めて王子は「私の妻になってください」と、そう次女に言いました。王子のその熱意と優しさに、そして懐の深さに感銘を受けた次女に最早断る選択肢などあろうはずもなく「喜んで」と、満面の笑みでもってプロポーズを受け入れたそうです。そもそも次女は「その靴が自分の物であることは分かっているけれど、自分は平民であり王子には相応しくないから」と、そう言って城に行く事を拒んでいたといい、事情を知っている母親や姉の説得により渋々城へ向かったのだとも語られています。そのようにして伝えられる話に国民は「靴の持ち主が自分だと分かっているのに身分差を考慮し身を引こうとしていたとは、次女は何と慎ましい女性なんだ」と、皆が次女を称賛し憧れたのでした。
話の中に出てくるガラスの靴。それは後世へと引き継がれると共に国宝としても大切に扱われていました。しかしそれは次女が製作した偽物な訳ですが、話の中で姉がいた事は語られるも妹がいたとは語られず、本当は三姉妹だったという事実を知る者がいないのと同様に、そのガラスの靴を偽物と知る者は既に無く、後世の人々は皆それが本物であると信じて「素敵ね」と、「綺麗ね」と称賛し、その偽物は偽の歴史と共に遥か遠い未来へと継承されてゆくのでした。
王子に見初められ王妃にまで上り詰めた次女。その次女の妹にしてホクロ一つで疎まれ忌避され存在まで否定された女性。最期は独り人気のない場所で悲しみに暮れつつ息を引き取った女性には墓標すらも無く、それはそれは見事なまでに綺麗さっぱり消えていたんだとさ。
おしまい。
2023年12月25日 初版