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屁はくちほどにモノをいう  作者: 奈良松 陽二
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異能バトルがついに始まった

第2章


 ビル全体で警報が鳴り、フロア一帯に煙が立ち込めていた。

 小野田らは、爆発音とともに〝作戦室〟を飛び出していた。

「何だ? 何事だっ!」

「・・!・・主任っ?」

 飛び出した瞬間、ようやくにして異常に気が付いた。

 爆発音に社内はパニックになっていると想像しつつ飛び出したが、システム課に残った数人のキーボードを叩き続ける音しかしていない。

「あれ、みんなもう避難した?」

 そんなわけがない。爆音の前から既にいなくなっていたと思うのが妥当だ。

「なんだ・・これは?」

「主任、とりあえず、状況確認を・・」

と山本が言った瞬間、開発部から銃声がした。

 小野田と山本はすかさず銃を抜き、

「あなたは私の後ろから離れないでついて来て。」

 山本は桜子を自身の背後につかせて、今までにない緊張した面持ちで銃声がした開発部へと警戒しつつゆっくり近づくと、王が大江に拳銃を突き付けて開発部から出て来た。

「貴様っ! 王っ! 何をした?」

「私じゃあない、私のかわいい子供たちが目を覚ましただけだろうよ。子供らは子供らで遊んでもらうよ。我々は彼とこの端末があれば十分だ。」

「王っ! 行かせんぞっ!」

「いいのかね。民間人が危険にさらされてるぞ。国益優先して民間人を危険にさらす気か?君ら公僕だろ?」

 王は、ちらっと未だにカタカタ音を立てているシステム課の社員たちを見る。

 爆発音に銃声までして、さらにすぐ横でこれほど危険な場面に接しているのに、脇目もふらずにディスプレイを凝視しキーボードを叩いている。

 その上、さらに大江や桜子まで気にかけねばならない。

 小野田側は相当不利だ。

「・・孫上士っ! 遊んでやれっ!」

王がそう言うと、孫がエレベーターホールから来て、王と大江の前に立つ。

「くそっ! 毒ガスかっ!」

 孫のおしりにガードが無い。孫の初動だけでガスは放出される。

「小校殿。今エレベーターはごった返してますんで、階段なら下層階で少々詰まっちゃいますが、ここからなら人目もつかずにゆっくり行けます。こちらの時間は十分稼げますからご安心を」

「やりすぎんなよ」

 王と大江が、階段に向かった。

 小野田も山本もただ何もできずに見送るしかなかった。

「そうだよな、使命を持った男だもんな。やっぱ使命は果たさねえとよ」

「山本っ!ガスマスクっ!!」

「はいっ!!ただ、主任。このフロアの人数分までは確保できてません」

「距離を確保できれば、特に心配ない。おならと一緒で、空気中に出れば拡散してしまうから、致死量に達する射程範囲はせいぜい2、3mくらいだ。」

「はい。あなたも、これ付けて」

 山本が桜子にもガスマスクを渡す。

「はい」

 各自、ガスマスクをつける。

 孫が不敵に笑う。

「おいおい、そのデータ、本当に正確か?そりゃ、一回分のデータだ。ガスは充分充填してある。10でも20でも連発可能だ。その分だけ濃度も増すってことだ。半径2、3mなんてもんじゃあ済むわけねえ」

「強がるな。こっちにイニアシチブがある。ここですぐに毒ガスを使うのはお前の使命ではないだろ。威嚇して我々をここに縛り付け、逃走の時間稼ぎをするのが目的だろうが。それにいつでも撃ち殺せるのはこっちだ」

 孫にしてみれば、初動だけで大量の毒ガスを放出できる。これを止めるには一発で制圧しなければならない、イコール射殺ということだ。しかも、心臓でも活動停止するまでに放屁は可能、脳天を撃ち抜いてもおそらく同じだろう。

 要するにここで求められているのは、被害を最小限に止めることである。

 幸いガスマスクがある。ガスの放出を最小限度に止めることができれば被害はおそらく

出ない。

 つまり状況は未だに小野田側にとって有利なはずなのだ。

 孫にとってみれば、現状でほぼ五体満足にこの場を切り抜けることは100%不可能と言っていい。

 しかし、孫は未だ余裕がある。

 そう、彼には絶対的な自信があったからだ。

 その自信とは何か?

「まずい・・」

「主任?」

(くそ、やっぱりバレてる。ハッタリが効かんっ!)

 小野田は、孫が気付いていることをその不敵な笑みで理解した。

 撃てないのだ。

 孫がガスを放たないと撃てない。まして射殺などはできやしない。

(これが日本の弱点だ。俺たち自衛隊が自衛隊である所以だ)

 〝専守防衛〟は建前でもただのお題目でもない。

 現実に自衛隊の行動を制限する鎖だ。

 国民を守るという大義名分があっても、毒ガスを放つ人間兵器であっても、それが敵軍に所属する兵士であっても、民間人を装い、かつ一切武装もしていない相手を何もしてない状況で撃ち殺すことはできない。撃ち殺しても止む無しの判断に足る証拠が必要なのだ。

 超法規的対処で組織された対策室でも、結局外交での対応となれば、それなりに言い訳が通用する根拠が必要だ。

 小野田も現場を取り仕切る上で対策室室長からそのことについて重々言われている。

「極秘裏に、かつ被害は最小限に」

というのもお題目ではない。要するに多少死者が出てもいいから絶対最初に手を出すな、ということなのだ。

 それが、完全に読まれている。

 要するに嘗められているのだ。

 多少と言っても極力被害は出さないに越したことはない。よって、人質にでも取られようものなら、先程の大江のように手も足も出ない。数にしてもたった二人で対応をさせられてる。

(ハナから無理ゲーなんだよ。この任務は)

 くさりたい気持ちを〝某漫画〟ネタで遊んで紛らわしたい気持ちも分からなくもない。


「やれるもんならっ、やってみろっ! マンウィズアミッションッ!」

 孫が言い放つと、小野田の目にだけ人型とはかけ離れた禍々しい姿をした「マンウィズアミッション」が孫から出現したように見えた。

「気に入ったぜっ、この名前っ! 皆殺しにしてやるっ! 遠慮はいらねぇっ、ぶちかまし続けろっマンウィズアミッションッ!」

というと、マンウィズアミッションは勢いよく、口のように思える排出口から勢いよく、

(プッッ・・シュウウウウウウーッ!)

と、ガスを噴出させた。


「どうすんですか? むっちゃ気に入っちゃってるじゃあないですかっ、名前っ!」

 山本の意外な抗議に、

「そっちっ? (なんかーいっ?)」

と思わず、桜子とトーキングヘッのツッコミが被ってしまった。

「主任、撃ちますっ! 許可を下さいっ!」

「やめろっ!揮発性の毒ガスだ、撃てば引火しかねん」

「どうしたどうしたっ? 手も出ねえかっ?」

 そう、当然、孫はここまで読んでいた。放屁する前に撃たれるのが一番の弱点だが、それを封じられたら、もはや銃はただの脅しにもならないのだ。

「どうするんです?」

手をこまねいている小野田に山本も指示を催促するしかない。

「どうしたの? お困りのようね」

 聞き覚えのある声が、背後から聞こえてきた。

 振り返ると、木下がガスマスクをつけている。

「バカ、出て来るなっ! 下がるんだっ!」

「あら、お気遣いありがとう。でも心配御無用よ。国民でも普通の民間人でもないから」

「木下さ・・」

 桜子は、続けて「大丈夫?」と声を掛けようとしたが、木下の返しで遮られた。

パクよっ! パク・ウネっ。・・・さて、毒ガスなんて物騒ね。私は王に用があるのよ。・・・きゃーっ助けてぇぇーっ!」

「なんや、いきなり?」

 驚いて、うっかりトーキングヘッがリアクションしてしまった。

木下の背後から佐藤が走って来た。どうやらこの二人、爆音の発生場所である管理課にいたようだ。なぜか、佐藤はすすけてて、髪もアフロみたいにちぢれている。

「どうしたんですかぁっ? 大丈夫ですか?お怪我はっ?」

 佐藤は小野田たちには目もくれず、ただ木下だけを必要に気遣っている。

「いやぁんっ! あの毒ガス中国人嫌―いっ! だって、半ケツ出してんだもんっ!」

「あ、ほんまや、半ケツ出しとるぞ、こいつ、アホやっ!」

 緩みっぱなしだったおしりが容赦なくツッコんだ。

「あっ・・。うっ、うるせぇっ! 仕方ないだろっ効果的にガスを出すにはこうするしかねぇんだよっ! んなこと突っ込んでる場合じゃあねえだろっ!」

 孫は顔を赤らめて恥ずかしそうにしている。意外とかわいい所がある。

「あいつ、開き直ってきらーいっ。ぶっとばしちゃってぇーっ」

「わっかりましたぁーっ!」

 佐藤は、ただちに孫の元へ突進する。

 が、彼は肝心のガスマスクを装着していない。

「バカっ! やめろ、自殺行為だ。やめさせろっ!」

 小野田が必死に押しとどめようとするが、佐藤の勢いは止まらない、あの小野田の力ですら抑えが効かず振り払われる。

 案の定、佐藤はすぐにガスにやられて苦しみ出すが、それでもなお進む。

「戻れっ! 早くっ!」

「あ・・愛の力は、・・・む・・無敵だぁーっ!」

 佐藤はそう叫ぶと、おしりを突き出す。

「ああ、ちなみに臥せるか、避難した方がいいわよ」

「何?」

木下の言葉の意味をわからないまま、

「・・ボンバヘッ!」

 佐藤の叫びと共に、小野田にだけは見えた。

(ドキューン)

という擬音という文字とともに「ボンバーヘッド」が出現した。

 一瞬の事だが、その姿は昔の爆弾のイメージ通り導火線が出ている球体が頭部というか胴体部分で、そこから短い手足が出ていた、見た目かわいい姿だが、その目と口はハロウィンのジャックオーランタンのように裂け、その目と口がものすごい速さで赤く光り出している。

そして次に起こることを瞬時に理解した。

「まさか・・。伏せろーっ!」

 一同が伏せる体制を取るのと同時に、赤い閃光が走った。

「え?」

 孫は何かわからず茫然としている。

(ドッカーンッ!)

 爆発すると、孫の毒ガスも発火し誘爆した。

 凄まじい爆炎と爆風と衝撃波が佐藤のおしりあたりを中心として起こった。


(パラパラ・・パラ)

 もうもうと立ち込めるフロア内で、まず小野田がゆっくりと立ち上がった。

「・・みんな無事か?」

「ま、なんとか。・・・海老名さん、無事?」

「え・・ええ、ありがとうございます」

 山本が続いて身を起こし、傍らにいた桜子は山本が盾になってくれたのでまったくの無傷だった。

 幸い、佐藤との間に破裂したり、飛散する物がなく、単なる爆発であったのと、身を伏せていたおかげで爆発による衝撃波をもろに受けなかった。爆発とはいえ爆炎はほんの一瞬で周囲の空気とガスを揮発させたので多少服が焦げただけで済んだ。

 小野田と山本はすぐに被害状況を確認した。

 が、デスクとパソコンの並んでいたシステム課の方に目をやると、残っていた数人の手前までは、爆発の衝撃ですべて吹き飛んでいたのに、なぜか彼らの所は全くの無傷で済んでいた。

 それより小野田と山本が衝撃を受けたのが、彼らが何事もなかったかのようにパソコンを打ち続けていることだった。

 ここまで来ると、もはや恐怖しかない。

 こいつらを追い立てているものは何なんだろうか?自分の命すら投げ売ってでも成し遂げねばならない仕事なのだろうか。

 そんなはずはない。おそらく何らかの能力によってやらされているか、もしくは王の支配能力によるものなのだろう。

 今の所、不思議な事ではあるが、どうやら奇跡的に怪我人はいない。

 構う暇はないので、とりあえず二人はそれぞれ心の中で、

(放置しよう)

という結論に至った。

 多分、構う事が面倒くさいことになるという意識が働いたからに違いない。

「はい。ガス消えたぁ」

 どこで身を隠していたのか、ガスマスクを外した木下が何事も無いように現れた。 

「確かに・・・。そういえば、孫は?」

 小野田と山本が、姿を消した孫を探すと、なんと、元々居た所から10m程後方のエレベーターと屋内階段との間の壁にまで吹っ飛ばされていた。一瞬の爆炎とは言え、揮発性ガスの噴出口だっただけに、もはや半ケツどころか、ほとんど服は破れ飛んでしまっていて、かろうじて前の大事なところだけはなんとか残っていた。

「・・バ・・バカ・・な」

「あら、生きてる。タフねぇ。こっちは・・」

 木下が目を向けたのが、爆心だった佐藤だが、その場で倒れていた。

 アフロぽい頭はさらにチリチリになって、もはやアフロそのものになっているし、孫と同様、衣服はほぼ吹っ飛んで体中すすだらけである。今は桜子が介抱していた。

「あ、もうだめね。使い物にならないわ」

「なんてこった。・・じゃあ、さっきの爆発も」

 小野田はここで、初めの爆発も佐藤のボンバーヘッドによるものだと理解した。

「自爆テロにはうってつけの能力ね。早いうちに戦力外になったのは不幸中の幸いかも。」

 山本の感想も、毎度のことだが冷静で辛口だ。

「そんなこと言ってる場合ですかっ!たぶん重症ですよっ!」

「大丈夫よ。能力者は自分の能力には耐性があるの。」

木下は孫を指さして、孫の近くまで寄って行った。

「こいつだって、自分の毒ガスで死なないでしょ。ただ、爆発音と衝撃にやられて伸びちゃってるだけよ。」

「それにしても、これは一体どういうことだ?」

「簡単な話よ」

 そういうと木下は、ポーズを決めて、いかにもかっこよく、且つ神々しく言い放った。

「私のメタンドは、フェロモンを放つメタンド。その香りを嗅いだ者は、如何なる人間でも私に夢中になり、言いなりになる。女王に相応しい能力よ。さあ、私にひれ伏しなさい、くそ日本人どもっ!私を崇め、私に感謝なさい。そして、私、ひいては大韓民国に屈して、私と大韓民国の奴隷となりなさい。さらに100万回謝っても決して許さないけど、謝りなさいっ!」

 横暴な発言に、茫然となる一同をよそに木下は続けた。 

「ちょっと気に入らないのが、元がおならってことだけど、こう名付けたわ」

 セクシーにケツを突き出すと、小野田にははっきりと見えた。

 人型で蝶の羽をはばたかせ、まるで妖精のようなメタンドの姿が木下のおしりから

(ズキューン)という擬音文字と共に出現するのを、

「パヒュームッ!」

メタンド名「パヒューム」が現れた。

と言っても居ないし、誰にも聞こえていないが、小野田は妄想の中で聞いた。

「かしゆかです!あ~ちゃんです!のっちです!3人合わせて・・パヒュームですっ!」

 1人しかいないのにメタンドはポーズまで完コピして決めていた、様に見えた。

 小野田ももはや働き過ぎなのかもしれない。

「これを嗅ぐと、みんな、あたしの奴隷になる。あたしはなぁんにもしなくても、みんなが私を守ってくれるのぉ~ん」

「・・ふふ・・」

 孫が、ボロボロの体ながらも立ち上がり、木下に向かってゆっくり歩みだす。

「ふざけやがって、これで勝ったつもりか。その守ってくれるナイトは伸びちまってんだろ。・・あ・あいつら、マスクつけてっから、ご自慢のフェロモンも効かねえ。俺のガスはまだ、残ってんだぜ。こんなに不用意に近づきやがって、誰に守ってもらうんだぁっ?」

「なぁに言ってんのぅ。・・あなたに決まってんじゃない。だから、近づいたのよ。十分に効くように」

孫と木下、二人の距離はおよそ2m弱、互いの間合いに入って一瞬の間と共にほぼ同時にケツを突き出し、

「パフューム!」

「マンウィズアミッションっ!」

 互いのメタンド攻撃が繰り出される。


 だが、待ってほしい。

 あえて言わせてもらおう。

「ザ・ワールド」と。

 知らない人は、特に気にすることでもない。

 ただ知ってる人の為に、あえてここは時を止めさせてもらう。

お気づきの方もいらっしゃるかとは思いますが、一部、某有名マンガのパクリネタをこれでもかという表現でお送りしております。

これはあくまで本編における小野田の妄想を通じて表現しておりますが、〝某漫画〟の作者やそれを愛するファンの方のお気持ちを察するに、このままこの表現を続けていいものであろうか、という思いに至った次第です。

そこでこれから、小野田の妄想ではなく、ごく普通に、ありのまま目の前で繰り広げられている状況を文章表現の許す限り書いて行こうと思います。

 ひとまず、ご一読下さい。

 ・・時は動き出す。


「パフューム!」

尻をぷりっと出す木下、

(ぷうう~っ!)

それに対抗して、同じくケツを出し、

「マンウィズアミッション!」

と叫ぶ孫。

(プ・・・)

と孫のおしりから音がしかけるが、

くいくい尻を振る木下の動きに合わせるかのように断続的に、

(ぷっぷっぷっぷっ、ぷち、ぷぷぷぷ)

という屁が木下から出まくっていた。

 すると孫の様子がおかしくなり、

「き・・気持ちいい・・。なんて香だぁ~」

となにか絶頂を迎えたように孫が、吹っ飛んで行った。


 あえて再び叫ばせてもらおう。

「ザッ!ワールドッ!」と。


 いかがだっただろうか?

 正直、あまりにもベタ、あまりにもしょうもなく、あまりにも地味、かつ下品、音の表現に至っては不快に感じられた方も少なからずいらっしゃるかもしれない。

 これを今後、繰り返すのは非常に苦痛です。

 書く側とて辛い。いやもう、汚い。

 いや、一部のファンにとれば、どちらも苦痛かもしれないが、どうか表現的にまだましという事をご理解頂き、今後とも、バカ小野田の妄想表現でお楽しみいただければと思います。

 ・・では、時は動き出す。


「パフュームッ!」

「マンウィズアミッ・・!」

メタンド名を叫ぶ字数の差だったか、先に仕掛けたパフュームの能力が確実に孫の鼻を捉えた。パフュームの執拗な攻撃にマンウィズアミッションと共に孫は吹っ飛んでしまった。

「き・・気持ちいい・・。なんて香だぁ~」

 能力をもろに受けてしまった孫は、そのフォロモンに悶えているが、ほぼ裸に近いむさ苦しいほど筋骨隆々の男の姿は、好きな人間でなければ見るに堪えない。

「半ケツで悶えとるで、キッしょっ!」

と思わず桜子のおしりが吠えてしまった。

「字数の差で遅かったわね。私の「パフューム」のフェロモンは強力よ。王の支配すら及ばない。愛の力って絶大なのよぉーん」

「まさかと思うが、このフロアの社員がいなくなったのは、この能力のおかげか?」

 小野田が木下に尋ねた。

「そうよ。クソ日本人が怪我しようと死のうとどうってことないけど、人がいっぱいいたらあたしたちの仕事の邪魔になるじゃない。だから、先に出て行ってもらったわ」

「そうだったのか。・・・それはありがたい」

 小野田が木下に頭を下げると、木下はふんぞり返って、

「そうよ、感謝なさい。そして、感謝以上に、謝りなさい。100万年謝り続けても許さないけど、とにかく謝りなさい」

「さっきから何を謝らせたいのかさっぱりわからん」

「理由なんかどうでもいいの。日本は謝りゃいいのよぉ。そして、謝罪と服従の意味で金と技術とフッ化水素とかもろもろ渡して、スポーツとかあらゆる分野の国際試合で韓国に屈辱的なボロ負けして、韓流にハマっていればそれでいいのよっ!」

「訳が分からんが、とりあえず協力は感謝する。これで王を追いかけられる」

「はぁぁぁっ? 何言ってんのぅ? ・・追いかけるのは、私、私だけ」

「何?」

 木下は吹っ飛んだ孫の側に行くと、

「さ、孫ちゃん。元気出してぇ~ん。もうちょっと、こいつらと遊んであげてねぇ~っ」

 すると、孫はまるで散歩前の犬ように元気になり、

「う~わんわんっ!」

と口を開けて舌を出し、ハッハッハッとお座りをしている。

「・・嘘でしょ・・」

 完全に木下の犬と成り果てていた。

「・・木下さん・・」

 桜子がようやく口を開いた。

パクよっ!」

 木下がすかさずツッコんだ。

「パクさん。そんなに大江さんのシステムが欲しいんですか。あんなのおかしいです。あんなシステム無い方がいいに決まってるでしょっ! 国は違っても同じ女でしょ。あんなシステム必要ないっ!」

 桜子は多少の効果を期待して言ったのだろう。しかし、傍らで聞いていた山本は木下に全く効果が無いと期待もしていなかった。

 ところが、予想外な言葉が返って来た。

「あっそ。・・そうね。必要ないわね」

「何?狙ってるんでしょ?」

想定外の言葉に山本は問い直した。

「狙ってた、ね。もういいわよ、あんなチンケなシステム」

と木下が返してきた。

 ということは、今、王を追いかける理由は一つしかない。

「お前、まさか?・・王が狙いか?」

 小野田が改めて訊いた。

 すると、木下は顔を紅潮させながら、

「当り前じゃあないっ!人間兵器製造マン。なんて素敵っ!最高じゃあないっ!ゾクゾクしちゃうっ!」

 そう言うとお座りしていた孫をひと撫でして、

「・・じゃ、頑張って。クソ日本人」

 孫の後ろにあるのは、屋内階段である。

木下はエレベーターを使わずに階段を下りて行った。

「ま・・待てっ!」

 小野田が追いかけようとするも、再度、孫が立ち塞がった。

「ガルルルル」

 もはや完全に犬だ。

「オオカミの被りもんしてるみたいに完全に飼い犬になってもうとるでぇ~。さっきよりも状況ワルなっとるんちゃうか?」

 と、トーキングヘッが珍しくネガティブな言葉を吐き出すほど状況は最悪だ。

 最も回収すべき未知の能力者を産み続けるキャリアと共に守るべき技術と唯一の技術者まで奪われ、逃げられた上に、目の前にいるのは毒ガスを噴出する男、頼りの爆発男は伸びてて動かない。人質ともいえる民間人は佐藤に桜子、そして未だにキーボードを叩き続ける恐怖のシステム課員数名、銃は持っていても通用しない。

 もはや、負け確定の状況だった。

「海老名さん、物事を悲観的に考えるのはあなたの悪い癖よ。最悪な状況だからこそ、打ち勝つ術は見つかるものよ」

 そう言うと山本は、急にマスクを取って孫に投げつける。

「え? ・・ちょっと、山本さん?」

 いきなりの行動に呆気に取られたのは桜子だけではない、小野田もだった。

 続けて拳銃も小野田に渡した。

「山本ッ? 何してんだッ?」

 山本の意外な行動は、孫すら想定外だった。

 そして、上着まで脱ぎだした。 

 呆けてる一同の中、孫の前に進みだすと、

「あんたっ! それでも軍人の端くれなんでしょ。こんな、丸腰の女一人相手に、まさか、飛び道具みたいな卑劣でくっさい毒ガス屁を食らわすつもりっ? ・・・天下の人民解放軍も地に落ちたもんねぇっ!」

 これを聞いたら、さすがに孫も黙っていられない。

「なん・・だとぉ~」

 みるみるうちに顔が紅潮し、眉毛もヒクヒク動き、こめかみ辺りの血管が浮き出てきた。

「おい、山本? ・・山本クン? ・・山本さん?」

 小野田も突然の山本の行動に訳が分からなくなってる。

 山本はさらに煽り続ける。

「本当、とんだコケオドシよ。武闘派ぶって、結局オナラ頼みのヘナチン野郎だわ。・・あら、違ったわね。ごめんなさい。このっ・・」

孫の目の前で中指を立てて、

「半ケツ野郎」

 孫の血管がもはやいつ破裂してもおかしくない。

「こ・・このっ!女ぁ~。」

「あら悔しいの? え? もしかして図星? おい、ご立派なのはオナラだけかって聞いてんだよ! 半ケツっ!」

(プッツンッ)

と切れた音がしたかどうかはともかく、

「言わせておけばぁ~っ。よ~し、そこまで言うんなら、ガスで楽に死ねたことを後悔させてやるっ!」

孫は防ガス具を改めて装着した。

「おうっ! かかってくんのか? 相手してやるよ。ほれ、来いよっ!」

 まだ煽る山本だったが、当然、彼女の狙いはこれだった。これで最大の武器を封じた。

 短気で挑発に乗りやすい孫の性格を逆手に取ったのだ。

 勝負はまさに肉弾戦である。

 二人がかりで挑んで追い詰められれば、いつぞろ孫の気が変わるかもしれない。

 が、一対一なら間違いなく勝負に乗って来る。

 ただし、勝てるかどうかは当然賭けだ。

 孫もまた軍人だ。それなりに訓練を積んでいるし、格闘術には精通しているだろう。

「はーっ!」

 孫は構えてから、山本に襲い掛かったが、山本はすかさず、

「ちょっと待ったぁーっ!」

といきなり小野田の手を取り、無理やり上げさせる。

「ん?」

 山本のいきなりの行動について行けない小野田だが、それは突然止められた孫も同じだ。

 意味が分からない。

 山本は小声で小野田の耳元で言う。が、小声とはいえ孫にも十分聞こえる大きさで、

「はい、主任。ちょっと待ったぁー」

「は?」

「ちょっと待ったぁー。って、ほら、言ってっ!」

「え? ・・あ、ああ、・・・ちょ・・ちょっと、待ったぁ・・」

「そうですか。じゃ、仕方ないですね。どうぞ」

 譲る様に手を差し出して、すかさず小野田の後方に回り込んだ。

「ええ~っ!」

 小野田と孫、桜子に至るまで、全員驚いたときのマスオさんのようなポーズになるくらい驚いた。

 おそらく小野田の妄想の中でトーキングヘッまでしていたろう。

 孫はさすがにプルプル震えながら、

「あれだけ煽ってぇ~っ・・! なめてるんだなっ! バカにしてんだなぁっ!」

完全にキレて山本に襲い掛かろうとするところ、その前に小野田が立ち塞がった。

「俺の部下に何をする気だ」

「・・なるほどぉ、部下の不始末の責任を取ってくれるんだなぁ」

 一度離れて、改めて対峙する孫と小野田。

 ただ、それはそれとして、何故か小野田は服を脱ぎ始めた。上着だけではない、シャツ、そしてついにベルトにまで手を付けて、あげくズボンまで脱ぎ始めた。

「小野田さん? っきゃーっ!な・・なんで、そこまで脱ぐんですかぁ?」

 桜子は顔を伏せ手で覆いつつ、指の隙間からチラチラ見ながらも恥ずかしそうにする中、

「ええ体しとんなぁ・・。もっと、脱いで」

とトーキングヘッが囃してしまっている。

 ついに小野田は、赤フン一丁になってしまった。というより、なぜ赤フンなのかは誰もツッコまなかった。

「来いっ! 半ケツっ! 格の違いを見せてやるっ!」

 孫はブルース・リーばりに構え、軽快にステップを踏む。

「この俺の姿に気を使って、同じ条件にしてくれるとは、要らぬ配慮を・・」

と孫は小野田の配慮に素直に敬意を示した。

 しかし、孫はよく考えてみると何のためにこいつは赤フンを? という疑問が頭をよぎった。

(そうだ、こいつはただ脱ぎたかっただけなのだ)

という結論に素早く至った。

 おそらく間違ってはいない、いや間違いない。

「そんなお前が、俺を半ケツって言うなっ! いいだろう中国四千年の力を見せてやろう。アチョアアアアーッ!」

 やはりというか、ベタというか、中国=カンフーという固定観念と言うか、もはやお約束と言える。

 孫の繰り出す早い技の応酬に、小野田も素早く対応し、受けつつ避けつつかわしつつ、的確に一撃を孫に繰り出す。しかし、孫もそれを見事に受けつつ避けつつかわしつつ、とお互い決定打のないまま、勝負は互角に展開していた。

「やるな。だが中国五千年の歴史は、こんなものではないぞ」

 これを聞いた山本が、

「あー、出た。そうやってしれっと数水増しすんの辞めたら?しれっと嘘つきやがって」

 煽っておきながら傍観を決め込んだくせにすかさずディスった。

「え?嘘って?」

「なにかと数をしれっと水増しすんのよ、あの国って。戦中の南京のことだって、年々、被害者の数増えちゃって、とうとう当時の人口まで超えちゃったんだから、もう無茶苦茶よ。だいたい、中国四千年って、一つの国で四千年続いてるみたいな言い方するけど全然違うからね、文化も慣習も宗教も違う民族がとっかえひっかえ国作ってるから全然歴史なんか無いのよ」

「ああ・・、そうなんですか・・」

「ここで木下がいたら、うちは五千年だとかめんどくさいこと言うだろうから、いなくてよかったわ」

「うるせえぞっ! 外野っ! 戦わないのに相手をディスんなっ!」

 孫が戦いながら、ツッコんだ。

「そうだ! それは武人にあるまじきことだ。日本人として恥ずかしいぞっ、反省しろっ、山本っ!」

小野田まで注意した。

「は、申し訳ありませんでしたぁっ!」

 山本も素直に謝った。

 互角の戦いは、いつしか消耗戦のようになってきた。

 死力を尽くした激しい戦いの中、お互いに熱いものがこみ上げてきた。

 ほぼ裸の筋骨隆々の男二人、ぶつかり合い、ほとばしる汗、

「やるな。お前」

「お前もな」

 いつしか芽生えた、戦った男同士しか分からない友情に近い熱い感情。

(う~ん・・・)

 さすが、桜子もうなってしまった。

 いったい目の前で繰り広げられている闘いはなんなんだろう。

「なんやこれっ!」

 ああ、やっぱりおしりからツッコミが漏れ出てしまった。


 そのトーキングヘッのツッコミが聞こえたのか、そろそろ端から見ると不毛にも思える戦いにも終止符が打たれようとしていた。

 死力を尽くした戦いも体力の限界が近付いてきたのだ、

「小野田といったな。次の一撃がおそらく最後の一撃となるだろう。よく戦った。お前のことは生涯の強敵として語り継ごう」

「ふ・・・、俺もだ。ここまで追い詰められた相手は今までになかった。ならば、俺も応えよう。次の一撃にこの俺の全てを掛ける」

 二人は、いよいよ互いの最終奥義を繰り出すつもりだ。

 次の一撃で、いよいよ勝敗が決する。周囲の空気が一気に張り詰めた。そして次の瞬間、 

「おうりゃあーっ!」

 孫が先に仕掛けようと、小野田に向かって行く。 

 が、小野田は身を翻すと、その目の前にいつの間にか山本が相撲の立ち合いの姿勢を取っていた。

「っけよいっ!」

 いつの間にか小野田は行司となって声を上げると、山本の張り手がカウンターの如く孫

の顔を勢いよく捉えた。

 想像すらしていない、いきなりの張り手を孫は思いっきり食らってしまった。

 小野田との激しい戦いで消耗しきった孫にとってこれを避ける体力などない。足に来てよろけた孫に、山本は容赦なく、

 張り手、張り手、張り手、張り手、突っ張り、突っ張り、張り手、張り手、張り手、張り手、突っ張り、突っ張り、張り手、張り手、張り手、張り手、突っ張りと畳みかけ、孫は押され、土俵際、いやもとい壁際まで追い込まれる。

 もう崩れ落ちそうな孫を山本はすかさず今度は両腕の脇を絞めて手は掬い上げるようにした相撲で言う所の〝はず押し〟という技で、素早く孫の両脇に手を滑り込ませると、グイッと内側へ押し込むようにした、壁際に追い込まれているのでこれ以上下がれない。両手から内側に向けて押し上げられると、その体はしっかり壁に押さえつけられつつ、体は壁伝いに浮き上がる。それほどの圧量がかかると胸部が圧迫されるから肺が圧迫され呼吸ができない。みるみる顔まで紅潮し、そして、肺内の空気も吐き出される。

 というより、最も恐ろしいのは、見た目、孫の豊かな大胸筋が寄せて上げられ立派な谷間ができた。そこからぐいぐい押し込まれる。

「お・・おふぅ・・」

 呼吸困難の紅潮した顔、目はちょっとイキかけながら肺からはきだされた空気が声として漏れた。

もはや見た感じは胸を寄せて上げるように揉まれていい感じになってしまっているようにしか見えないというしっかり辱めまで受ける恐るべきダブル攻撃だった。

 さらに、山本が今度は脇に滑り込ませた手をさらに背後まで回し、がっしり捕まえて、締め上げた。

「あああ~っ!・・・かはっ・・」

 〝鯖折〟だ。

 続けて息ができない。肩で息をしていたほどだった孫にこれは耐えられない。

 しかし、山本の攻撃はこれで終わらない。

 次に腕を取り、思いっきり投げた、体力と息が続かない孫は、満足な受け身も取れずにコンクリートの固い床に叩きつけられた。

「ぐへっ!」

 そう〝一本背負い〟だ。

 ぐったりしたところで、とどめに首をとり〆技に入った。

 そう〝送り襟締め〟だ。

 これで孫が落ちれば完全勝利だ。

 しかし、孫はたまらずタップした。

 なので、レフリーの小野田が止めに入った。

(カンカンカンカンッ!)

 ゴングは一体どこで鳴っているのだろう。いや、多分戦った3人には高らかに聞こえたのだろう、勝敗を決するゴングが。

「勝者! 山本ぉ―っ!」

 小野田は山本の腕を高々と上げた。

 敗れた孫は、その場でぐったりと倒れている。息はしている。

 勝者の勝手な思いこみに違いないが、

(負けた、負けたよ。だが俺は燃えた、燃え尽きたよ。悔いはない)

と、小野田は孫の思いを心の中で勝手に代弁した。

 そして、そんな孫を見下ろしながら小野田は叫んだ。

「どうだ?これが日本の伝統格闘技!二千年の技だっ!」

 勝ち誇った小野田の顔は、実に満足気だった。

「そうか・・。これが、日本の・・・って! ふざけんなぁーっ!」

 孫はふらつきながらも即座に立ち上った。

 どうやら凄く怒っている。

 当たり前だ。

 孫が再び尻につけてた防ガス具を外した。

「くそっ!卑怯者っ!」

 小野田は実際、孫の異常なタフさに驚いて少し感心しながらも、あれだけ悔いはないとか、燃え尽きたと思っておきながら最終手段に出る孫をののしった。

 しかし、小野田が勝手に思ったに過ぎないのにののしられた孫は当然なことを言った。

「知るかっ! 卑怯者はどっちだっ! この野郎っ! よくもこの俺の純真を弄んでくれたなぁっ! 今度こそぶっ殺してやるっ! こうなったらこのビルに止まらねえ。街全体にガスをぶちまけてやるっ!」

 エレベーターの前まで行くと、ボタンを押す。

「よせっ! やめろっ! 山本っ! 早く、マスクっ!」

とは言ったものの、赤フン一丁となった小野田では、もはやこのタイミングでマスクの装着までは無理だった。

 こいつらは何をしていたのだろうか、あそこまで行ったら普通孫を落としてしまえば良かったのだ。タップしたからとか、レフリー(小野田)が止めたからとか、勝利のゴングが聞こえたからとか、何故か赤フン一丁になるとか、しょうもないことやって遊んでるからこんなことに・・。

 と、桜子は思ったに違いない。一瞬思ったことで結構ツッコむ量が多いのでトーキングヘッも言葉に出すこともなかった。

「まずは、お前らだっ!」

 この時もそうだ、孫も孫で、何も言わずにすぐにでも放屁すれば良かったのだ。

 しかし、孫はメタンド名を気に入ってしまった。能力を出すときにこの名前を叫ばずにはいられなかった。

だって、これが格好良いのだから。 

 でも、これがパフュームとの一戦で敗れた原因だった。

 それでも叫びたいのだ。これはヒーローヒロインを夢見る少年少女の心を失わないすべての男女の鉄則だ。

(チーンッ)

とエレベーターが到着し開く予告音がした。

これを合図に彼は叫んだ。しかも、ご丁寧に決めポーズに至る振付までつけて、

「マンウィズアミッシ・・」

 エレベーターのドアが開いた瞬間、

(キュポッ)という音がした。

 その音と同時に、自分の剥き出しとなったおしりの穴、いや、おしりの穴周辺に至ってなにやら違和感を覚えた。何かを俺のおしりに付けられた、と。

「・・? ・・お? ・・おおおぉ?」

「ん?」

「え?何?」

 小野田と山本も瞬間何が起こったのか分からなかったが、次の瞬間、

(ギュウウウウーン)

という音がしたかと思うと、孫の背後に松本が妙な掃除機のような機械を背負い、ホースの付いたパイプ状の先が孫のケツにつけられていた。

 ダイソン以上の強力な吸引力をもった掃除機のような機械は、轟音を轟かせながら孫のケツの穴を吸い上げてゆく。

「おおぉぉぉっ! ・・おほっ! ・・おほ、ほぅほぅっ! あっひっ!」

 悦とも痛みともなんともつかないような叫びか喘ぎかわからない声をあげて、腰が砕け、ケツだけが浮いてる状態でヒクつく状況の孫に対して、松本は容赦なくケツに機械を当て続ける。

「え? 何? 何あれ? なにしてんのっ? なになになにぃ~っ?」

 もう桜子とトーキングヘッの声が被ってしまっていた。

「間に合ったかっ!マツジュンっ!」

 そう、小野田はこれを待っていた。以前、山本との会話で、

「松本先生に連絡取りますか・・」

「そうだな。・・万が一の為にも、〝あれ〟を用意するように伝えろ」

と言ってたのはこの時の為だった。そして、〝あれ〟というのは阪神の岡田監督の言う〝日本一〟ということではない、今、松本が孫のケツに突き立てているあの掃除機みたいな機械のことだ。

(ギュウウウウウウウンッ・・・。ポンッ!)

「・・・あ・・」

 これまでで最も美しくかつ艶めかしく、そしていやらしい、最後に漏れた孫の声だった。

声を上げた後、孫はケツを突き上げた姿勢のまま崩れるように、果てた。

「あ、死んだわ」

 相当ひいていて声も出せなかった桜子のかわりにトーキングヘッがツッコんだ。

「死んじゃあいないよ。メタンドはいなくなったけどね。・・回収完了だ」

 松本は、相変わらず冷静だった。

「そうなんですね。良かったぁ・・・・、あれ?」

 桜子も一安心したものの、ひとつ引っ掛かった。


「それ、駆除できるんか?」

 トーキングヘッが代わりに尋ねた。

「ん、まあね。回収というほうが正確かな」

「・・・でも、取れるんですよね?」

 今度はちゃんと桜子が尋ねた。

「ん。ま、そだね」

 桜子とトーキングヘッは声をそろえて、一斉にツッコんだ。

「あるんじゃあないですかっ! 取れるんじゃあないですかっ! なぁんで、黙ってたんですかぁっ?」

 あれだけ駆除できないのか聞いていたのに、こんな恥ずかしい寄生生物を放置したくないと必死に訴えていたにもかかわらず、こんなものがあるなんて聞かされていなかったわけだから、まぁ、怒るのは尤もだ。

「あ、いや。それはその・・だな」

 小野田もこれに関しては言葉を濁すより無かった。

「やっぱり利用する気やったんやなっ!協力させるためにわざと黙ってたんやろっ!」

 トーキングヘッは収まりつかない。

「もういいじゃあないの」

 山本も当然共犯であるし、そんな一言で誤魔化そうにも誤魔化し切れない。

「よかないわっ! アホっ! さんざん恥ずい思いさせられてっ!」

「あ、とりあえずマツジュン。こいつも頼む。かなり危険なメタンドだ」

 ここは聞き流すより他はないと小野田は、桜子のクレームが無かったかのように、伸びてる佐藤をうつぶせにしてケツを突き上げる体勢にした。

「はい」

 松本もバツの悪さに小野田に乗っかる様に佐藤の所へ行く。

「話聞けやーっ! こらぁっ!」

 トーキングヘッのクレームは収まらない。

 ずっとこの調子で屁を出されても困りものだ。松本は、佐藤のズボンを下ろしながら、

「うん。わかった、わかったよ。じゃあ、これ済んだら、やってあげるよ」

 佐藤のケツが丸出しで突き上げた状態にさせられた後、

(キュポッ)

と、例の掃除機の先が当てられると、

「あ?・・」

と伸びていた佐藤もひんやりした異様な物がケツの穴に当てられた感触に目を覚ました。

 次の瞬間、機械のスイッチが容赦なく入った。

(ギュウウウウーン)

「あ、あああっ・・あふふふふ~んっ!ほおおおおおおおおーっ!うううう~ん」

 どんなものなのか、正直形容し難い、が、声を上げるその状態を見るにやられてる人間は、まさに極上の天国と最悪の地獄を同時に味わっているのかもしれない。

「あああは、あはあはあはっ! あっあああっ!」

「・・・・・。」

 桜子は、必死のトーキングヘッの訴えによって自分が次だと松本に宣告されたので、孫の時とは違う目線でこの光景を見ていた。

 その上で、言葉が出ない。

(ポン)

「・・・ああ・・」

 佐藤もまた、果てた。

「・・・やっぱりいいです」

 桜子はつぶやくように言った。

「・・ん、なに?聞えなかった」

 松本が聞き返した。

「いいですっ!・・今は・・いいです」

 桜子が今度ははっきり言った。

「え?そうなの?・・いいよ、遠慮しなくて。直ぐ済むから」

「・・いや、本当。遠慮なんかしてませんし」

「またそんなこと言わずに大丈夫だから、ほら、おしり出して」

「やめてーっ! やめてくださいっ! いいですっ! 本当にっ!」

「え、本当にいいの。さっき、あれだけ言ってたのに?」

 松本に当然悪意はない。純粋に専門家として尋ねているのは桜子だってわかっている。

 しかし、逆にそれだけに始末が悪い。彼女が嫌がる理由を全く理解していない、故にしつこい。そりゃ、あれだけ桜子、いやトーキングヘッが執拗に言ったからだろう。

 気の迷いかなんかで今やらなくて、後でまた文句言われるのも嫌だったのだろう。

 それもわかる。

 だが、こればかりはさすがにここでやられるわけにはいかない。

 ここはトーキングヘッに言わせるより他になかった。

「ええ言うとんねん! しつこいんじゃっ! なんやねん? この変態吸引器みたいのん? わしゃ、女の子やぞっ! こんなもん、こんなとこでできるかっ! しれっとケツ出せなんぞ言いよってっ! セクハラで訴えたんぞっ! このチャラマツジュンっ!」

 ここまでトーキングヘッに言われたら、松本もようやく諦めた。

「あっそ。ま、それならいいけど」

 若干、不満そうではあった。

 やる気を削がれたように、松本は手持ち無沙汰にスマホをいじくっていた。

 山本は静かに且つ噛みしめつつ、桜子の肩をポンと叩いた。

「お互い・・。頑張りましょう」

 思う所があるのか、二人の女性の共有する社会の生き辛さがあるのだろう。

「・・はい」

 桜子も深く頷き、これに応えた。

「ところで、小野田さん。彼らは?」

 松本が指差し、尋ねたのはシステム課の連中だ。

「あれか・・。それがわからん。ずっとあの調子だ。マツジュン、お前どう見る?」

 松本は、背負っている掃除機のホースの操作盤みたいなところについている計器を見る

と、

「う~ん・・、メタンドの反応が出てますね。あの中の誰かがキャリアなのでしょう。どういう能力なのかは・・・、ま、なんとなくわかりますね」

「なるほど、催眠術のようなものか」

「似たような能力は知ってますが、これは強迫観念を植え付け、同調圧力を増幅させて強制的に従わせる能力なのかもしれません」

「よくそこまでわかったな」

「だって、あれ自分の意志でやってますよ」

「え、そうなんですか?」

 桜子が割って入った。

「王が離れてるから支配能力は当に解けてるはずなのに、あれでしょ?」

(こわ、この会社、やっぱり病んでる)

 おそらく全員の脳裏に同じ思いが浮かんだことだろう。

「ああ・・、なるほど。王の支配能力ってそんなに効果薄いんですか?」

「メタンドの能力は全ておならがベースだから、能力の範囲は全部おならの拡散範囲と考えたらいいよ」

「へえ~」

 意外と万能に見えるメタンド能力でもそれなりに制限があるんだと思った。

「ああ、じゃ、それで孫の毒ガスも彼らに届かなかったり、佐藤君の爆発も届かなかったんだ」

「多分そうだろうね。・・ああ、ごめんね。正直、メタンドの研究もそんなに進んでたわけじゃないから、まだまだわからないことばかりでね。王たちはおそらく本国で十分に研究されてるだろうからメタンドの運用については、僕らが後手に回ってしまうことはある意味仕方ないよ」

「かと言って、事が起こってからでは言い訳にはならん」

 小野田が割り込んだ。

「そうですね。知っての通り、このシステム課にはもう一体いましたからね」

「何っ?」

「あれ、お気づきではなかったんですか? この騒動の前に結構な騒ぎになってたらしいですけど」

「え・・・?」

 全員、首を傾げた。

「その間、何してたんですか?」

「というより、なんでお前が知ってるんだ」

「下は大騒ぎですよ。ビルで爆発事故が起こったって。避難してた社員から大方聞きましたよ。少し到着が遅れたのも、王が社員にばらまいたメタンドをキャリアから回収してたからです」

「そうだったんだ・・」

 極秘裏にと言うのに、とんでもない騒ぎにまで発展してしまった。

「あの・・・あれ外でやったんですか?」

 桜子はまったく別のことに反応していた。

「あれって・・?」

「あの・・回収・・」

「ああ、公衆の面前でおしり出させるのはなんだから、ビルの案内がてらトイレでさせてもらったよ」

「あ、ああ、そ、そうなんですね」

 そう言う所には気が回ってくれたみたいで少し桜子は安心した。

「で、そいつの能力は?」

「いや、これも素晴らしいですよ、小野田さん。メタンドの可能性は広がるばかりだ。実に素晴らしい」

「感心してないで教えてください。どうせ上に報告してないんでしょ、松本先生」

 山本が興奮気味の松本を抑えるように言った。

「ああ、そうだね。ウイルスですよ」

「ウイルス?」

「しかも、コンピューターウイルスを発生させてパソコンをバグらせるんです。効き目は匂いの届く範囲全てです。どうです?すごいでしょ」

 確かに、すごいと一同は感心した。

 この未知のメタンドは、如何なる能力も持ち得るのだと、これがもし、この大都会で無差別に放出されキャリアにされたら、とんでもないことになることぐらいは桜子にすら、容易に想像がついた。そして、その発生源たる王がここから外へ飛び出そうとしている。

 しかし、それ以上は考えないのが桜子でもあった。

「ところで、あの人たち、回収しないんですか?」

「え?」 

「どうしたんです?」

「いや、なんか・・・。めんどくさそうだなって・・」

 この言葉を待っていたのか、小野田と山本がすぐに同調した。

「うん。正直、怖いんだよな。なんか・・」

「そうですよね。もう孫も回収したことだし、この建物の脅威は去ったわけだから」

「そうだな、取り立てて急ぐ必要ないな」

 桜子は、こいつらに自分を任せてて本当に良かったのか、相当不安に感じている。

「じゃ、名前だけ付けておくか」

「え?」

 小野田の発言に、山本、桜子、松本が同時反応した。

「なんだ?コードネームだから上に報告するとき困るだろう」

(別に困らねえよっ! 逆に名前の説明までしなきゃならないからめんどくさいだけなんですけどっ!)

と山本は思ったが、ここで問答するのも面倒だから、

「じゃ、さっさとお願いします」

と言うだけに止めた。

「そうだな待て・・、そうだなぁ・・」

「もう、「STAY WITH ME」と「YMO」でいいでしょ」

 山本がイラついて言った。

「え?どういう意味?ステイウィズミーはなんとなくわかるけど、・・・エイスワンダーでしたっけ?」

「違うな。・・・「真夜中のドア」、松原ミキか、今海外で流行ってるらしいな」

「え?誰ですか?」

「いいのよ、もうっ適当で。」

 小野田は少し考え込んで、

「ま、いいか。それで。」

「ええんかっ?!」

 うっかりトーキングヘッがツッコんでしまった。

 だんだんいい加減になって来たな、こいつ。面倒くさくなってきたんだろうな、と桜子は思った。


「え~び~な~くぅぅぅん・・」

 なんとも聞きなじみのある声がした、と同時に桜子にだけは悪寒が走った。

 案の定、管理課の方から、おそらく爆発に巻き込まれたのだろう、ボロボロの格好で課長がフラフラとやって来た。

「課長―っ! ご無事でしたかっ? ・・大丈夫ですか?」

一応、桜子は課長に駆け寄り、フラフラの体を支えた。

「海老名くん。・・心配してくれるのか、この私を・・」

「課長・・。どうしたんですか? ・・そんな弱気で?」

「いや、すまなかった。今まで君につらく当たってしまって、本当に済まん」

「・・課長」

 そんな時、何か場にそぐわぬBGMが流れて来た。

 山本が気付いた。

「何? この音楽?」

「どっからだ?」

 小野田も気付いて、この異様なBGMの出所を探すが、どうもかなり近距離から発せられているのは間違いなかった。

「・・・くさ。・・」

 桜子は、この音楽と共に流れてきた嗅ぎなじみのある異臭と言うか悪臭を嗅ぎ取った。

「まさかお前かっ?」

 そう、この音楽の発信源であり、においの発生源は課長だった。

 と、分かった瞬間、桜子は普段では考えられない敏捷性を発揮して、相当な距離を取った上で、

「・・課長・・。もしかして能力が」

 課長は、ふふっと微笑を浮かべ、フラフラしていた体が嘘のように、恰好つけた。

「そうなんだ。私のおならは君と同じように声が出る。声と言うか、歌というか、・・・私のはねぇ、音楽を流すようなんだ。僕の知ってる音楽なら何でも、それこそ、クラシックからジャパニーズポップスまで、浪曲、演歌、童謡に軍歌まで、なんでも掛けちゃう。好きな時に好きなだけ、Ipodも真っ青。ね、すごいだろう?」

 自慢気に語る課長をよそに、一同は一定時間の沈黙を強いられたような感覚に襲われていた。

 そして、その沈黙を破って、桜子とトーキングヘッが一緒にツッコんだ。

「しょーもなっ! しかも臭いしっ。音楽なだけで、普通に臭いおっさんの屁やしっ!本心を音楽で表現してるなら、尚更キショイだけやしっ!」

「あなたの能力も、さして変わらないけどね・・」

 そこは山本が冷静にツッコんだ。

「海老名君、君までもぉぉぉっ!」

 課長は、桜子にまで否定されたことに相当ショックを受けたようだった。

 課長の言葉を聞いて、小野田は全てを察した。

「さては能力がしょうもな過ぎて木下に捨てられたのか。不憫だ。せめて回収される前に名前だけつけてやろう」

「つけるんですか? こんなんにっ?」

 山本がすかさずツッコんだ。適当にすんならもういいだろ、という思いも込めて。

「ちなみに、回収したくないですよ。しょうもないんで。魅力の一つもない」

 松本は、容赦もなかった。

「ひどいっ! ・・ただ、小野田さん。名づけはもはや必要ない、名前は決めてあるんです。このメタンド名は、名付けて、シングライクトーキ・・」

「セクシャルハラスメントォーッ! 以上。じゃ、回収っ!」

 小野田は、抵抗する課長を有無も言わさず楽々と抱え上げ、松本に向けて強引にケツを突き出させた。

「ええ?やるんですかぁ!全然乗らないなぁ」

(チャララ~チャララララ~ラ~)

「ひどいっ、ひどいよぉ~っ! シングライクトーキングなのに、もう能力関係ないじゃあないか! ただディスってるだけだよねぇ」

 課長のズボンが半ばまで下ろされようとしたときに、桜子が割って入った。

「やらなくていいですっ! もうこれ以上汚いおっさんの悶え喘ぐの見たくも聞きたくないっ! 捨てといたらいいですっ! こんなセクハラっ!」

 トーキングヘッが言ったのではない、明らかに桜子の口から出た。

 山本は、桜子を何とも言えない顔して見ている。

「何ですかっ?」

 未だ鼻息が荒い桜子は、そんな山本に気付いて睨みつけた。

 ところが、山本は意味ありげに微笑むと、

「・・・ふ~ん。いいえ。なんでもない」

と言うだけだった。

 と、そこに、

(ブルルルル・・・ッ)

「あ。もうっ! またっ!」

 山本のポケットに入ってたスマホの通知バイブだった。

「なんだ? 電話か?」

 山本は、ポケットからスマホを出しながら、

「違いますよ。例の変態端末です。もう、ひっきりなしに配信して、こんなのストーキングのターゲットにバレバレじゃあない。これ失敗作よ」

 一応、通知を見た。

「で、王はどうします?」

と、松本が突然言い出した。

 小野田がハタと気が付いた。

「ああっ!忘れてたっ! ・・貴様が出てくるからだろうがっ!」

 小野田は課長の尻を蹴り飛ばす。

「ああっ! (ガーン!) ひどいっ!」

「いちいちSEを出すなっ! 臭いんだよっ!」

 小野田と課長のやり取りの中、山本はバッチイもんを触るように持ちつつ、スマホに見入っていた。

「・・!・・主任っ!」

「なんだ?」

「これ。すごい。やっぱ、あの変態、天才かも・・」

「ああ?」

「やめてくださいよ、山本さんらしくもない、そんな変態ストーカーをほめるなんて」

 桜子もさすがにそこは同意できない。

「違うのよっ! 全然っ! 主任も見て下さいっ、ほらっ! 見てっ!」

 山本はスマホを桜子と小野田の目の前に強引に突き出していった。さすがに桜子も見ざるを得ない。目を背けつつ恐る恐る見ると、

「え? これってっ? 小野田さん?」

「これは! ・・ああ、こりゃ確かにすごい。ビルの防犯カメラが変わるたびにライブ配信して、的確にターゲットを追いかけている」

 松本も覗き込むように見た。

「位置情報までばっちりだ。どのルートをいつ通ったかまで詳細に出てる」

 山本は、桜子に向けて言った。

「あの変態、あいつらにバレないように黙ってモニターの端末をあなたに渡したのよ」


「こうなる事態を先読みしてたのか。すごいな、変態」

 小野田も感心した。

 が、どれだけ褒められても変態の評価は拭えない。大江が不憫だ。

「何、感心してるんです? 王の足取りも現在地もこれでわかります。追わないんですか?」

 松本が当然のことを言ってきた。

「え?」

と、小野田が予想外の反応をした。

「はい?」

 松本も小野田のリアクションに疑問で返した。

「守るべき技術はここにあり、モニターの成果も今の所、十分ですよね?」

 山本も松本の想像を超えてきた。

「追う意味あるんですかね?」

 とうとう桜子がとどめの一言を言った。

「どれだけ褒められても誰も助けてくれないんだな、大江君。・・・不憫だ」

 課長が言ってくれた。本当に不憫だ。

「何言ってるんです。変態はさておき王のメタンド回収がまだでしょっ! そのパクと言う女のメタンドだって放置できないでしょっ!」

 ようやく松本がまともなことを言ってくれたおかげで一同目が覚めた。

「まぁ、そうだな。よし行くぞッ! 今、どこだ?」

 小野田の質問に山本がスマホを見て、

「9階と10階の間、屋外の非常階段で降りてってます」

「私は、エレベーターで先回りします。挟み撃ちして退路を塞ぎましょう。奴をこのビルから出しちゃまずい。体力自慢は、階段でっ!」

 松本がすかさず的確に作戦を立てた。

「よし、わかったっ! 山本っ!」

「はいっ!」

とすぐに向かうと思いきや、山本は桜子に、

「海老名さんは、危ないから、ここに残って。」

「え? でも。」

 山本の身を気遣ってか、もしくはここに残されることヘの不安なのか、おそらく後者に間違いない。なにせ、ここに残されるのは桜子とあの課長だからだ。

「しゃべるだけの能力なら、そこの課長と同じよ。修羅場には向かないわ」

「役立たずってことかいなっ! バカにすなよっ!」

 トーキングヘッは威勢よく言ったが、間が空いて、

「その通りやがな!」

 言い切ってしまった。

「素直でよろしい」

 小野田がしびれを切らした。

「山本っ、急げっ!」

「はいっ!」

 小野田と山本は、屋内階段を駆け下りて行った。

 それと同時に松本も、半ケツ突き出し伸びてた孫をエレベーターに乗せて降りて行った。


 桜子は、新たに命名されたメタンド「YMO」のキャリアとその他の無言でひたすら狂ったようにキーボード叩きまくる奴らと、これまでの経緯も含め生理的に受け付けないしょうもない能力、「セクシャルハラスメント(自称・シングライクトーキング)」のキャリアの課長という極めて心細いを通り越して不快極まりないメンツのいる空間に一人、残されてしまった。

「海老名くん。役立たず同士、仲良くしようじゃあないか」

 ここぞとばかり、構って欲しくない奴が何食わぬ顔して構って欲しそうに近づいて来た。

 これまでの桜子なら、嫌々ながらも極力それを表に出さずにこれに応じていただろう。

 しかし、今の桜子は違う。


 思えば、海老名桜子は元からこのようなコミュ障ではなかった。

 彼女は大阪で生まれ育ち両親のさらに数代前からずっと大阪の生粋の関西人であった。

 べたべたの関西弁を話し、誰とでもコミュニケーションが取れた明るい子であったし、幼少期からドSであった。人の痛みや苦しみが快感であった。

 ただ、誤解しないで欲しい。

 彼女はいじめをするとか、小動物を虐待するとか、虫やカエルを殺して回るとか、そういうサイコパスの類ではない。人の痛みは当然分かる。

 彼女のSがドS足り得るのは、あくまで強きを挫くことであった。

 それこそ人の痛みがわからん奴に痛みを分からせるというか強きを完膚なきまで叩き潰すことに言い知れぬ快感を得ていた。こういった性分、いや性癖によって、弱きを助けるつもりが毛頭無くても強きを挫くことを目的としているので、必然的に正義の味方となってしまった。すぐに思ったことを歯に衣着せず言ってしまうことから、口だけで大概の相手には勝てた、いや泣かせた。

 しかし、子供と言えどもずっとこれで通用しない。出る杭は打たれるものだ。

 相手がどれだけ横暴であろうと悪かろうとも言って良い事と悪い事はある。言われて傷つく事などいくらでもあるのだ。傷つき方によってはトラウマとなり一生引きずることもあるし、ショックで不登校になり立ち直るのに時間がかかることもある。一番の不幸な結果に至ることもあるだろう。

 桜子の言葉によって実際どれだけの被害が出たかはわからないが、少なくとも時代の流れからしても学校では看過できなかったのだろう。いかな事情があろうとも見ようによってはいじめとも取られかねないのだ。

 桜子、最初の抑圧がドSを抑えることだった。つまり、正義の味方を辞めた。

 中高と多感な時期を過ごす中で、やはり人間関係において思ったことをすぐ口にすることは青春時代において多少弊害になってくる。人間誰しもそうであるように、成長に従って「大人」になっていく。

 桜子は自然と思ったことを口にすることも抑えて行った。

 ただ、元の明るさまでは失っていない。ある程度抑制しただけでコミュニケーションは問題なかった。

 大学から社会人へ、世間に合わせてコントロールしながらコミュケーションを図る事にも慣れてきた。当然、家族や身近にいた親しい間柄の人間には普段の自分を通せたことも大きかったと思う。

 転機となったのが、社会人8年目となって能力が評価され、東京本社に栄転になったところからだ。それなりにやりがいのある仕事を任されたことも影響していたと今となったら思うのだが、最大の問題はその仕事を任された上で配属されたメンバーたちだった。

 その部署において、上司、先輩、後輩含め全員、関西人が桜子ただ一人だったこと、そ

してほぼ全員が北関東以北の出身者ばかりだった。口数が少なくコミュニケーションが苦手な県民性を有したメンバーで構成されたコミュニティはすでにそれでうまく回っていて完成されていた。その中に桜子は転属して後から入って来たわけだから、関西で培った独特とも言えるコミュケーション手法は、向こうからとって見れば土足で自分の領域に踏み込まれてくるような印象しかなく、歯車が少しずつ狂い始めて来る。

 さらに一番、コミュニケーションを阻害したのが桜子の使うべたべたの関西弁だ。

 優秀だったのかもしれないが桜子の存在でチーム全体の動きが乱される。

 彼女もそれがわかるから必死に改めようと無理をしたり、仕事で取り返そうと足掻いているうちにストレスが溜まる。

 大阪の頃は、家族や親友にだけは自分を解放できたが、一人暮らしの東京にはそれがない。やり場を失くし、鬱積したものはついには職場で漏れ出てしまう。

 当然、それによって努力しても近づくどころか遠ざかって行くばかりで、最終的に彼女は出て行かざるを得なくなり、会社を退職した。

 この後、素直に大阪に帰ればよかったのだが、栄転を心から喜び送り出してくれた家族や友人、仲間たちに結局なんの成果も出さずに負けて帰って来るなんてことはできなかった。

 しかし、彼女の不運は再就職した職場でも同様な事態に陥ってしまったことだ。

 そして、彼女は最大の抑圧をせざる得なくなった。関西弁の封印と培ったコミュニケーション技術の封印だ。

 かくして、コミュ障の桜子が出来上がった。


 しかし、メタンドによる能力の発現には、そのキャリアとなった人間の何が影響しているのか、因果関係も含めてまだわかっていない。仮説と山本は前置きしていたが、本当に能力には宿主の精神や性格、抱えてるストレスとか、欲求とかが多大に影響するのであれば、トーキングヘッは桜子の抑圧され失われた自分自身ということになる。それをおしりから解放させるにつれ桜子自身にも変化が生まれていた。

 ただ、桜子自身にまだ自覚はないようだ。


「海老名くん。役立たず同士、仲良くしようじゃあないか」

 課長が何食わぬ顔して近づいてきた。

 が、桜子はこれを一切無視した。

 というより、彼女の中で、さっきから何かが引っ掛かっていた。その何かがわからないのだが、一昨日のエレベーターでの木下の件と同じく何か違和感を覚えていた。感じたときに口にすれば良かったのだが、それができたらコミュ障なんぞになっていない。それを補完すべきトーキングヘッも感覚の原因を拾う前に感じた原因となるポイントが消えてしまっていたから口にできなかった。

 彼女は〝誰もいなくなった〟この時を使って必死に思い出そうとしていた。

「・・あ・・」

 トーキングヘッが反応した。

「何? どしたん?」

「ああ、だめだ。何か、引っかかって・・」

「そやな。マツジュンの言うとったことがなんか引っかかってんけどな」

 実質的にはただの独り言だし、端から見れば結構痛い人かもしれないが、もはや彼女は自分自身の分身たるトーキングヘッが普通に会話できる程になっていた。

 ということで、猶更、課長を相手にする必要は一切ない。

「無視っ! 存在無視っ! ・・あげく、自分のメタンドと会話始めちゃったよ。え、何これ自分のおならと会話? ・・・ねえちょっと、相談しよ。3人寄れば文殊の知恵って言うでしょ。無視せずにそこは年長者に相談してみようよ。ほら、僕、上司。上司だよ~。報連相しよう。報告・連絡・相談」

 桜子、トーキングヘッ、揃って、

「なんだろう。すごい、もやもやする」

と言うだけで、課長の方すら見てくれない。

「あ・・、そう。・・うん」

 もはや相手にしてくれないとわかった課長の残された手は一つしかない。

 ゆったりめのBGMが桜子の耳元近くから流れてきた、と同時にあのお馴染みの悪臭も併せて鼻に届いた。

「くぅっさぁーっ!」

「耳障りやっ! もう、どっから鳴っとんねんっ!」

 すぐ隣で課長が桜子にケツ向けてやってるのは当然わかっている。ただ、これをツッコむと構ってしまっていることになるからおっさんを喜ばすだけだ。おっさんもこれを期待して嫌がらせしてるのはわかっている。

(ええ年こいて、小学生かっ!)

とツッコみたい。自分でなくてもトーキングヘッには言わせたい。しかし、そこをぐっと堪えて無視に徹した。

「それでいて臭い。・・私なんか臭わないように松本先生に臭わない食材聞いて、それしか食べてないのに。お肉だって食べたい・・。もう存在が不快だわ。イライラしてきた」

 ついに我慢しきれなくなった。

「もうっ、もっと向こうで、あの半ケツ出して寝とる阿呆と仲良くしゃべっとれ、おっさんっ! 臭いケツこっち向けんな、うっとしい音出すな、音量と同じく存在も消せっ!」

 桜子とトーキングヘッのダブル口撃に課長は深く傷ついた。

「・・ひどいっ!」

 そう言って、半ケツ出して伸びてる佐藤の所でシクシク泣き出した。

 桜子は、そんな課長を一瞥にもせず、

「あたしも木下さんみたいなフェロモンとかが良かったな・・・」

と言った瞬間に、あの違和感の原因を思い出した。

「・・あれ? ・・・!そうよっ! ・・それよっ!」


(チーン!)

 エレベーターが到着した。

 ドアが開くと、ガスマスクをつけた松本が降りて来たのだが、ドアの閉まりかけに背負っていたあの機械の口から何かをエレベーター庫内に向けて噴射させた。

「松本先生・・? ・・・なんで戻って来たんですか?」

「お前、マツジュンっ! ・・なんでっ」

 トーキングヘッが言おうとしたところ、

「いいっ! ・・あたしが聞く」

 トーキングヘッを抑えた。

 松本はそれを見て、またやや興奮した感じで、

「おやおや、しばらく見ないうちに、もうメタンドを制御できるようになったんだね?・・すごいね」

と感心して見せた。

 桜子はそれに答えることもなく、思い出した違和感について単刀直入に尋ねた。

「なんで、木下さんのこと知ってるんですか?」

「ん? 何? 誰って?」

「さっき先生ここで、朴って女もほっとけないって言いましたよね? それ木下さんのことですけど、なんで、彼女の本名の朴って名前が分ってたんですか? なんで女性ってわかったんです? なんで、彼女がキャリアだって知ってたんですか?」

 松本はふっと笑って、

「何言ってるんだい? 下で避難していたここの社員から聞いたんだよ。彼女だろみんなに避難するように指示したのは、違うかい?」

「たしかにそうです。でも、ここの社員ならなおさら、彼女の本名までは知らなかったはずですけどね」

 桜子はさらに続けた。

「それにステイウィズミーでしたっけ、催眠術みたいなもんかって小野田さんが言った時も私、引っ掛かってたんです。あの時、先生、似たような能力を知っていると言ってましたけど、それって木下さん能力、パフュームのことですよね?」

「ああ、そうだよ。何も起こらずに避難なんか誰も従わない、当然従わせるなんらかの能力を使ったに違いない。状況から見れば当然催眠術のような能力だと帰結する。すまないが、バカにしないで欲しいね」

 桜子は引かなかった。決定的なカードがまだあったからだ。

「じゃあ、王の支配能力についてはどうなんですか? あれはいつ知ったんですか? そればかりは、下の社員に聞いてもわかりませんよね?」

「あれ? それは聞いていたんじゃなかったかな?」

「いいえ。山本さんがずっと側にいたからわかるんです。あなたに連絡を取ったのはその機械を持ってくるように言ったのが最後のはずです。今指摘したことは、山本さんがあなたに連絡した後に判明した情報のはずです。仮に、あなたがそれを研究結果として知っていたとするなら、そんな重要な情報をあの二人に伝えていなかったことになります。それはそれでなぜって話になりますよね? まさか忘れてたとかじゃないでしょ? こと研究対象のメタンドの事なら聞かなくても嬉々として話すあなたですもの。」

 松本は、桜子の言う事を黙って聞いていた。

「どうなんですか?先生?」

 桜子はさらに詰め寄った。

 すると、松本のいつもにこやかで爽やかな顔がまるで今まで張り付いてただけだったかのように剥がれ落ちて行くように感じた。そして、剥がれ落ちたそのあとに出て来た顔は目がイってしまって口角が上がり切った、まるで狂人のような顔だった。

 その顔で発せられた初めての言葉は、

「・・もう少し御しやすい子かと思ってたけど、思いの外、感はいいようだね」

 顔と併せて聞くと寒気しか感じない。

「・・先生?」


 屋内階段から、木下が大江を引き連れて来た。

「だめよ、こいつ。全然フェロモンが効かない」

「大江さんっ? ・・・え? ・・なんで?」

「桜子さぁ~んっ! 僕は桜子さん一筋だからそんなフェロモンなんかじゃあ効かないよ。桜子さん、無事かい?」

 相変わらずこの男だけは雰囲気に全然合わせない。なぜかテンションが高い。

「なんで、お前がここにおんねんっ? 変態っ! お前追いかけて筋肉バカたちが・・」

「だから待ってっ! ・・・あなたのシステム使って追いかけてるのよ? 大体、王はどうしたのっ? なにこれ? よくわかんないっ!」

「簡単な話よ。あいつら追いかけてるのはただの偽情報よ」

 木下が言った。

「偽情報?」

「そして、私はこの松本と協力関係にあって、彼から情報提供受けてたってことね」

松本の隣に木下が立つ。

「協力してもらうにも彼女も手ぶらでってわけにもいかないだろ。見返りに大江君の技術を渡す約束だったんだ」

 これで、先程からの桜子の質問にはすべて答えた形になった。

 改めて桜子は尋ねた。

「・・先生、・・何者なんですか?」

「僕は知っての通り、京王大医学部のしがない研究者だよ」

 答えになっていない。桜子が尋ねているのは、

「なんで?」

 そのしがない研究者がこんなことをしているのか、だ。

「なんで? ・・研究者としては当然のことだよ。この貴重な地球外寄生生物は僕が発見した僕の研究材料だ。それを国家間の勝手な都合で取り上げられたんだぞ。取り返すのは当たり前のことじゃあないか」

「だって、それは小野田さんたちもっ・・」

「はぁ・・・。こんな女スパイ共が我が物顔で跋扈するような、領土は主張すればどこでも取れる、少しごねればやりたい放題、だから隣の国にもなめられる。国益を守る? 国防? しがない大学准教授の僕でも易々と国を出し抜けるのに?ちゃんちゃらおかしいと思わないかい? ほとほとこの国にも愛想が尽きた。こんな事なかれ主義の国に任せられるわけないだろ」

 同意を求められても桜子には松本の言うことが全てわかるわけでもない。肯定なんかできないがそんなことはないと否定したくても正直それもできなかった。ここ2日、小野田たちと行動を共にし、この騒動に右往左往している政府の対応を見ても、松本の言ってることが概ね間違っていないこともわかる気がする。

 ただ鬱陶しいことに、横で聞いてた木下が乗っかって来た。

「そうよ、そうよ。こんな国に負けるなんてあり得ない。おかしいのよ、世界第1位だの2位だの3位だの。うちにだって何か1位にしてくれたっていいんじゃあないのよ。お隣同志で経済大国だとか、歴史とか文化とか技術とか、うちを挟んで自慢して、世界も世界で日本だ中国だって注目して、何もかも気に入らないのよっ!」

 そんなことはこの場では本当にどうでもいい事なのだが、どうにも主張したいらしい。

 話の腰を折られて桜子も辟易したところだったが、松本に至ってはもっと酷かった。

「君、うるさいな」

マスクを再びつけて、木下の顔の前に例の機械で少し噴射したのだ。

「は・・あっ! ・・がっかっ・・かはっ! ・・え? な・・なんで?」

 木下は苦しみ、その場に崩れ落ちるように倒れ込んだ。

「誤解しないで欲しいんだ。君には協力するって言ったけど、君の国に協力する気はさらさらないよ。僕の研究含めて協力してくれる国は他にいくらでもあるんだよ。システムはそこに渡すことになってる。ご苦労さん、助かったよ」

「そん・・な・・」

 倒れ込んだ木下は、さらに苦しみ藻掻いている。

「木下さんっ? ・・何?」

「こらぁっ! マツジュン何しよったぁっ!」

 松本は不気味な笑みを浮かべながら、機械のホースを挙げて、

「あ、これ? これね、回収したメタンドの能力だけを使えるようにしてあるんだよ。ただ、キャリアじゃあないから、僕にも効いちゃうのが玉にキズでね」

「じゃ、それ、もしかして? 孫の?」

「うん。毒ガスだね」

 そうと聞いたら、嫌いもへったくれもない気に入らない韓国人だが、その人間がまるでおふざけの延長戦みたいなノリで殺されようとしている。そんなことはあってはならない。

「木下さんっ? 木下さんっ?」

「木下くんっ!」

 必死の呼びかけにも木下はもはや白目をむいて痙攣まで起している。

「ああ、もう無理だよ」

 しかし、木下は何とか口をパクパク動かしている。聞き逃すわけにはいかない。

 桜子は、耳を木下の口元まで近づけて必死に聞き取ろうとした。

「ち・・違・・、ぱ・・パ・・ク・・よ」

(ガクッ)

 木下は最後の言葉を残して事切れたようだ。

 自分が名乗った偽名ではなく本名を言って欲しい、なんと誇りある最後であったろうかと、たとえただの訂正だったとしても、桜子と課長はそう思うように手を合わせた。

大江はというと、「ひいーっ」とオーバー気味に叫んで桜子の元へ駆け寄った、が、当然、桜子は最低限の距離を取ったのは言うまでもない。

「なんでやっ? 松本っ? お前、仲間やったんとちゃうんか?」

松本は、ずっと木下が持ってたポーチを取って中から、液体に浸された何かが入った小さな試験管を取り出すと、

「まったく油断も隙もないね。裏切ったのは彼女が先だ。これ王のメタンドだよ。僕から騙し取ろうなんて愚かな女だ。後始末が済んだらすぐ回収してあげるよ。パフューム」

「なんてことをするの・・」

「そうだ、なにも殺さなくてもいいだろ」

(この人、狂ってる!)

 いくら天然の桜子とは言え、この松本の行いは尋常ではない。

 そして、木下を手にかける前から感じた狂気を思い出した。あれは、そう人を殺した人間の目だったのか、そうだとしたら王のメタンドが手元にある。そして、孫もともにエレベーターに乗って行った。ということは、

「ほな、まさか王もっ?」

「・・あれ? ・・あ、ああ、そうかそうか。ごめん。説明不足だったかなぁ」

 以前の松本の顔が一瞬この時戻ったかに見えた、が、

「君たち、もしかしたら生かしてもらえるなんて思ってる? 国まで裏切って全てかっさらう計画してるのに、それを聞いた人間を生かしておくわけないよね」

 松本の顔がさらに不気味に口角が避けるほどの笑みを浮かべた。

「えっ、えええっ?」

 課長は、小野田と山本に言われた一言を思い出した。

「あの、それ、もしかして・・私も?」

「うん」

 松本は何の躊躇もなく即答した。

「ひぃっ!」

 課長はとにかく半ケツで伸びてる佐藤を叩き起こした。

「・・おいっ起きろっ! 呑気に伸びてる場合じゃあないぞっ! 起きろっ!」

 課長は佐藤の生ケツをパンパンっ叩きまくった。そのおかげかどうかはわからないが、佐藤はようやく気が付いた。

「ふぇっ・・なんすか? 課長? どうしたんですか? みんなそろって、あれ? 木下さんも伸びちゃってますよ。・・ちょっと、木下さぁん?」

 佐藤は、松本の隣で倒れている木下に声を掛けようと起き抜けの重い体で近寄ろうとしたが、課長がそれを押し止めた。

「よせっ! 彼女は死んでる。」

「え、またまたぁ・・・」

 当然、彼からしてみれば冗談にしか聞こえないだろう。パフュームに侵されてからの記憶も曖昧であるし、まさか目が覚めて殺人事件の現場にいるとは思いもつかないだろう。

 ただ、今、自分を囲んでいる桜子や大江、そして何より課長の顔を見てこれが冗談ではないことをなんとなく理解した。

「・・マジで? マジッすかっ? うえええっ! なに、どういう状況っ?」

 理解したとはいえ、呑み込めやしないから当然と言えば当然のリアクションだろう。

「さて、どうしようか?彼から回収した能力使って全員爆死してもらうか、それとも、孫のせいにして毒ガスで逝ってもらおうか」

 松本はなんとなく楽しんでいるように見える。

「・・そうか、爆発だと、僕もやばいね」

と言うと、ニタァと気持ち悪い笑顔を浮かべ、

「じゃ、毒ガスで決まりかな」


 なにかのタガが外れるとここまで人はおかしくなれるのか。

 自らの研究の為なら倫理・道徳・宗教観すべてを無視して、いかなる犠牲も厭わない科学者を「マッドサイエンティスト」というが、この男は違うのかもしれない。元から倫理も道徳心も持ってない人間がたまたま科学者になった、つまり、「サイコパスサイエンティスト」と言った方がいいかもしれない。本人も自覚が無かったのだろう。普段の生活で大きく倫理や道徳に触れる、または反する行為を求められることはない。必要とされた時に、自分本来の〝素〟が出て来る。彼にとってそれが今なのだろう。

 桜子は大江以上に、この世で最もメタンドキャリアにしてはならない人間だと思った。

 鳥肌が立つ気持ち悪さみたいな生易しいものではない。孫のような毒ガス以上の身の毛のよだつ完全なる〝悪〟の能力が発現したであろう。

 ただ、今、最悪なことにこの男の手にメタンド能力のほぼ全てがある。

 それどころか、いつでも増殖可能な王のレッドウォリアーまで手中にした。こんなことなら一国家の指揮下にある軍人の手にあった方がまだましだ。


「いやだぁーっ! 妻も子もいるんだぁーっ! 住宅ローンも残ってるんだぁーっ!」

 課長はなりふり構わず命乞いに出た。

 松本は課長の両肩にポンと手を置いて、優しく微笑みながら、

「大丈夫。住宅ローンは死んだら無くなるよ」

「だから、そういう問題じゃなくてぇっ!」

 相手が悪かった。

「ちょっと待ってくれっ! 僕は? 僕までも殺す気なのかっ? 約束が違うじゃあないか!」

 突然、大江が珍しく動揺を見せた。

 桜子も課長も佐藤もそんな大江の珍しい動揺には関心は無かったが、突然の大江の発言の中で一点だけ食いついた。

「約束?」

 松本も同じところに反応した。

「約束? ・・ああ、それね。でも、君を生かすと言った覚えはないよ」

「そんなぁっ!」

 間違いない。この変態は知らないうちにこのサイコパス野郎と取引していた。

 おそらくこの階に来るまでの間にしていたに違いない。

「おい、変態、なんだ約束って?」

 トーキングヘッまでが加わって3人(と1屁)が同時に聞いた。

「そうか・・。それならやっぱり死ぬ前に・・」

 大江は聞き流してるのか。一人でうにゃうにゃボヤいている。

「おいっ、だからなんだ約束って?」

 もう一度、3人(と1屁)で同時に聞き直した。

 やはり大江は聞き流して、松本に向かって懇願した。

「じゃあ、あの約束だけは守ってくれっ! 死ぬのならなおさら、絶対にそれだけはやってから死にたい」

 松本は溜息をつくと、

「君、本当に変わってるね。てか、本当に変態だよ」

 本当のサイコパスから変わってるだの変態だのと言われる筋合いはないのだが、大江はそんなことも気にはしない。必死に懇願していた。

「ちょっと」

 いい加減、無視されるのにイライラした桜子が割って入った。

「なにを約束したか知らないけど、あんた、もしかして・・」

 この変態のなりふり構わぬ懇願ぶりと死をも覚悟の上での約束ということに、桜子はもはや嫌な予感しかしない。

 質問の続きは課長が引き継いだ。

「ニセ情報に書き換えたのって、お前か?」

 大江の返事の前に松本が即答した。

「ま、彼しかできないからね」

「アホかっ! お前はぁーっ!」

 3人と1屁はまた絶妙にハモってツッコんでしまった。

ツッコみと同時に大江を容赦なく袋叩きにしていた。

「ああっ! いいっ! いいよっ! もっとだっ! もっとぉぉぉっ!」

 この変態には全ての行為が無意味でしかない。周りの気も知らず一人悦にいっている。

「彼ねぇ、王に吸引機使ったのを見たら、急に興奮しだしてね」

 松本が説明をしてくれた。おそらく火に油にしかならない。いや、松本的にはわざとだろうから薪をくべているの方が正しいかもしれない。

「・・はぁ・・」

「どうしても、海老名さんが吸引されるのが見たいって言い出してね」

「このっ、ド変態がぁーっ! そんな事の為に悪魔に魂売りよってーっ!」

 殴る拳にもさらに力が入る。しかし、それは単に彼を悦ばすだけだ。

「ああっいいよぉっ、桜子さんっ、もっとぉっ、もっとぉーっ!」

 松本はまだ続きがあるようで続けた。

「それに飽き足らず、自分をキャリアにしてくれって言うんだよ」

(えっ・・? ・・この変態をキャリアに!)

 そう思った瞬間、未知の能力に警戒して3人同時一斉に距離を取った。

 松本は、そこへダメ押しを言ってきた。

「それで言うには、桜子さんに僕の吸引をして欲しいって。その為ならなんでもするって言うからね」

「・・・・うううわっ! きっしょーっ!」

 裏切りの末、悪魔に魂を売り、自らの命を差し出してまで叶えたいことがこんな事とは、まさにド変態これに極まったとしか言いようが無かった。

「大江君、最低だ」

 これには、さすがの課長も失望しかない。

 しかし、当の大江は度し難い不屈の変態だった。

「ふふふ・・・。桜子さん、いいよ。ののしってもいい、殴ってもいい、蹴ってもいい、高く針のように尖ったヒールで踏み潰してもいい、いやむしろ尚いい」

 開き直っているが、自分で言って興奮している。息も荒くなってきた。

「ただ、もう僕はそれだけが本望だっ! 頼むっ! 後生だっ! 最後にそれだけをメイド喫茶のお土産にしたいんだっ!」

 そして、今度は松本に向かって、

「・・なあっ! 約束しただろっ! ちゃんとそれだけは守ってくれよっ!」

 もうこの変態に何を言っても無駄かもしれない。

 松本すらそう思ったのか、

「さて、どうしようか。爆発騒ぎで救急も動くだろうし時間がないんだよ。2つのお願いは聞いてられないな。どっちかだね」

 やや折れてしまった。

「なら問題ない。迷わず、桜子さんに僕の吸引をっ!」

「うるせえっ変態っ!」

「ただ、それは僕の判断じゃあないね。彼女でしょ」

 松本が至極当然の事をようやく言った。    

「桜子さんっ!」

 大江もわかってか、手をぎゅっと合わせ、目をキラキラ輝かせて桜子を見つめた。凝視した潤んだ嘘偽りのない瞳だが、やや充血しているところが桜子をさらに引かせた。

「そんなのっできるわけっ」

言いかけたところで、なにかが桜子の口を止めた。

「・・・いえ・・」

と続けたところで、桜子は考えた。

「いや、ちょっと待って、これって、チャンスかもしれない。あの吸引機が私の手に来ればマツジュンは何もできずに一気に形勢逆転できる。そうよ、そうだこれしかないっ」

 桜子は決意したように大江に言った。

「わかったわ、やってあげるわよっ。最後の願いだも・・ん・・ね? あれ? ・・何?」

 周りの異常に冷たい空気を珍しく察した。

 目の前にいる大江ですら、先程の懇願の目から憐れみと言うか、やや蔑みまで入ってる目に変わっているかに見えた。

 一体、何が起きたのだろうか。

(え? 違った? こういうことじゃなかった? え? 私、間違ってる? なんで? なんで、みんなそんな顔して私を見てるの?わけわかんないんだけど・・)

と思ってるところで、課長が一言、

「海老名くう~ん・・・」

 続けて佐藤が教えてくれた。

「心の声、お尻からダダ漏れ・・」

「はっ!」

 桜子はすかさず口ではなくおしりを抑えた。松本を見た。聞こえてた? 聞いてしまってた? お願いだから聞こえてないことになっていて、と願いつつ松本の顔を見たのだが、その願いも空しく松本は深く溜息をつくと、

「君の能力は本当に役立たずだねぇ、敵にとってはこれ程有難い能力はないけど」

しかし、大江は気を取り直して何事も無かったかのように、

「いやもういいっ! そんな君の策略などはどうでもいいんだっ! 僕は、君に、僕のメタンドを吸引して欲しいんだっ! あの恍惚感と絶頂感を君から味わいたいっ! 松本さん! 頼む! 僕にっ、僕に光をーっ!」

 改めて松本に全身全霊を込めた嘆願を試みるも、

「当然、却下だ」

 そりゃそうだろう。

 しかし、松本の顔はさっきの不気味すぎる笑顔からかなり不機嫌な顔に変わっていた。

「全く抜け目がない。端末のすり替えの事と言い、どうやら本当に変態を装ってそんな策を打ってたかもしれない。つくづく恐い男だね君は、危うく騙されるとこだったよ」

 これに対して、大江は何を言われているのかわからないような顔をして、

「端末のすり替えって、どういうことだよ。僕はただ単純に僕の全てを彼女に見て欲しかっただけだよ」

と言った。ただ、さっきまでのテンションと違って妙に落ち着いた口調になっている。

 大江の真意が松本の言う通りだとすると、確かに松本がこの大江と言う男を恐いというのもわかる。

 そして、それを聞いて、同じように思った人物がもう一人いた。

「え、本当に?」

 桜子だった。トーキングヘッが続けて、

「今、ちょっと、本当にマツジュンを騙すために変態を装っていたのならほれ直してたとこやってんけど」

「げっ! まじかっ? 海老名さんっ?」

 予想外な反応を示した桜子に、課長と佐藤は引いている。

「でも、あんたが言った、変態の全てを見せたかっただけっていうことが真相なら」

「マジ変態っ! ちょーきしょいっ! てか、死んでっマジでっ!」

「ああ~、・・・最高だよ」

 大江にとってはご褒美でしかなかった。

「というわけで、全員死んでもらうよ。余計な時間喰っちゃったよ」

 松本は、ホースの先を桜子たちに向けた。

 ところが、大江はなぜか先頭に立ち塞がり、

「わかった。じゃあ、やってくれ。やれるものなら・・」

と、らしくもなく格好つけた。そんな大江をまったく視野にすら入れることなく、

「まだよっ! まだ、小野田さんと山本さんが・・」

 桜子は松本に言った。

 それを聞くと、松本は笑いだした。

「あのポンコツ公務員かい? 僕が何もせずに放っておくとでも思ったのか? さっき聞いての通り、王のメタンドももはや僕の手にある。彼らが向かった先にあるのは、王と孫の遺体さ。おそらく僕の到着を待ち、来ないと分れば急いで戻って来るだろう。その時にどうすると思う?」

 松本は桜子に向かって問いかけた。勘のいい桜子ならその答えを知っているとわかっているからだ。そして、桜子もその答えをすぐに導き出した。

「・・あっ」

「そうだよ、エレベーターさ」

 そう、松本がこの階に戻って来た際、降りてドアが閉まる寸前に何かを噴射していた、桜子はそれを思い出した。そして、あの時噴射していたのが何かも今となれば分かる。

「王と孫の遺体は7階エレベーターホールに転がってる。エレベーターの目の前だ。急ぐんだ、使うに決まってる。密閉された庫内に毒ガスが充満したガス室。ビル内は爆発騒ぎで全員避難済み。使うのは彼らだけだ。ボタンさえ押せばすぐに降りてきてドアは開く。・・・見ろ。エレベーターの表示は7階で止まったまんまだ。孫の能力も心配なくなったから奴らマスクも置いてってる。今頃は文字通り、「死刑台のエレベーター」となってるだろうよ」

 松本は得意げに語って、一縷の希望を抱いた桜子たちを無駄と嘲る様に高らかに笑った。

 執拗なまでに狡猾な松本に絶望感を抱いた。


 そうだ。全て松本の計画通り、シナリオ通りだったのだ。

 木下のパフュームを使って、社員のほぼ全員を事前に避難させたのも、爆発騒ぎを起こさせてビルをパニックにさせ、王たちにエレベーターを使わせず階段を選択させたのも、計画のうちだった。

そして、ビル内の人間が全員避難したのを見計らって、木下が下り松本は上がって、王を挟撃してメタンドを回収した。大江とのやり取りは多分その時にあったのだろう。

 そのあと、一旦気絶した王を木下に任せて、何食わぬ顔してこの階で孫のメタンドを回収した。

 そして、あれこれ時間を稼いでいるうちに木下が大江に偽情報に切り替えさせ、合図の通知を送らせ、それをもとに小野田と山本に階段を使って王を追うように促して、自身は予定通りエレベーターを使って孫を王の下に運んで、まとめて毒ガスを使って殺害した。

 あとの段取りは、さっき松本が話した通りだ。

 桜子が気付かず、このまま正体がバレなければどうするつもりだったのだろう。

 わざわざ戻って来たのは小野田と山本に罠を仕掛けてその成果を確認する為と山本が持っているモニターの端末を回収する為、大江もいればそれで目的は達成のはずだ。

 いや、この男のことだからそんなことはない。課長はともかく桜子のトーキングヘッと、あのシステム課のキャリアからステイウィズミーも回収する気だったに違いない。

 そして、木下への対応から考えると、ハナから木下をここで殺害してパフュームも回収する気だった。

(要するに、あたしたちを始めから殺す計画だったってことか)

 松本の正体に気付いたことは、確かに彼にとっては想定外だったが、気づくのが遅すぎたのだ。結局、多少計画が狂ったとしても殺害する人数が少し増えただけだった。

(極秘作戦にかこつけて何もかも王や孫に罪を被せるつもりだったんだ。)

 改めて言い知れぬ怒りが桜子の中に沸いてきた。

 全員、このサイコパス野郎の手の平で踊らされていたのだ。

 訳の分からないことに巻き込まれた挙句、何の解決にもならないどころか、全く意図しない結果で殺される、理不尽にも程がある。

(あたしが一体何をしたっていうのよ。ここまで黙って我慢し続けた結果がこれって、ひどすぎるわよ)

 その時、桜子は気付いていなかった。

 実際はほんのコンマ数秒しか経過してない時間の中で巡らせた思考を反射的におしりからダダ洩れさせていた存在がもう何も言わなくなったことに。

 

 彼女のコンマ数秒の思考の中で、視覚はスローモーションとなってこの状況を捉えていた。松本は高らかに勝利宣言をしたかのように笑い、段取り良く首から下げていたガスマスクを装着して噴出孔を桜子たちに向けてスイッチを押そうとしている。

 マスクの裏でしているであろう薄気味悪い笑顔を想像しながら、これから苦しみもがいて死んでいくと思うと腹が立って仕方がない。あの腹立つ顔面がひしゃげるくらいおもいっきり一発、いや二、三発、いやいや数十発は入れたいという欲求がふつふつ湧いていた。

(だいたい一番腹立つのが、顔じゃなくて・・・)

 そんな中、一発の銃声と共に思いもしない声により松本のスイッチを押す手が止まった。

「そう、やっぱりね」

 山本の声だ。

 なんか息が荒い。

 振り返ると階段から山本と小野田が拳銃を構えつつ上がって来た。小野田はともかく山本は相当しんどそうだった。

「山本さんっ! 小野田さんっ!」

 桜子、いやこの場にいる課長も佐藤から見ても、あんな二人であっても神々しく光り輝くヒーローに見えたのだから余程の恐怖を感じていたことは想像に難くない。

 松本は、余りの想定外なことにさっきまでの顔と打って変わって目を丸くしていた。

「なんだ・・と、バカなっ! まさか、階段を使って?」

 一切、息を乱すことなく小野田は堂々と答えた。

「あんまり筋肉バカをなめるなよ。そもそも、我々なら階段の方がエレベーターより早い。よって、ハナからエレベーターと言う選択肢もないっ!」

「バカな」

 本当にバカな回答だった。

 これほどバカな想定などできるわけがなかった。

「そこまでだ。マツジュンっ!」

「松本准教授。ところで小野田さん、こんな時に何ですが修正させて頂きます。あの人、教授じゃなくて准教授です」

「ん?」

「松本ジュン教授じゃなくて、松本准教授ですし」

「えっ、そうなの? おまえ、騙したなっ!」

 桜子たちは、小野田が屈強なヒーローに見えてた自分を少し恥じた。

「騙してたのは事実ですが、それについては単なる主任の勘違いです。・・松本准教授、あなたを公務執行妨害、そして殺人未遂罪で逮捕します」

 松本は、さらに困惑した表情を見せた。

「・・? ・・殺人・・未遂?」

「残念ね。王も孫も生きてるわよ。少しばかりは毒ガスの影響が受けてたけど、今は救急隊の応急処置のおかげで命に別状はないわ。ありがとう、大江君。君のおかげよ。素人だけに確認を怠ったわね。医者の端くれでしょ? 詰めが甘いわね」


「何? そんなバカなっ! 致死量の毒ガスだぞ。生きてるわけがない」

「そうだろうな。お前の計画に俺たちはすっかり踊らされてたわけだ。いやいや本当、ただのマツジュンにしておくのはもったいないくらいだ」

(ただのマツジュンって何?)

 全員の頭の中でツッコミが入った。

 山本が咳払いをして、話を進めた。

「あんた、自分が天才だと思ってるでしょ?そういう奴って想定外の事が起こると思考停止になっちゃうのよね。ほら、今のあんたみたいに。わかる? 自分の計画がどこで狂ったのか?」

「・・・・狂った? ・・・どこで?」

 山本の言う通り、松本は冷静だったのが嘘のように狼狽えるばかりで、まともに思考が回っていないように思える。

「あらあらわからない? ちなみにね、この変態システムの凄い所はニセ情報が送られる前の情報もきっちり履歴で保存されるのよ。これどういうことかわかるわよね?」

「孫の毒ガスを手に入れて、お前はもう一度王に止めを刺すべく孫を連れて戻る間に、場を任せた朴と大江の間で何が起こったか、お前は知らんだろ?」

「・・・木下がここに戻って来た時、ちゃんと言ってたじゃないの? 思い出しなさいよ」

 ずっと聞いてた桜子が先に気が付いた。

「ああ、そういえば言ってた。あれ?そのシステム音声まで聞こえるんですか?」

 山本が端末を出して、

「通信設定さえすれば、こっちとやり取りも可能なのよ。というか、疑問に思わなかった?普通に偽情報に書き換えられたってことに。大江君が持ってたのはモニターの端末じゃない追跡対象の端末なのよ。本当に理解できないんだけど、このシステムはどこまで行っても一般向けに作られたアプリなのよ」

「は? どういう・・ことだ?」

「たぶん開発中に大江が余計な機能付けちゃったんでしょうね」

 小野田が嘆息気味に続いた。

「あれをされると本当に意味がない。急に魅力が無くなった。王や孫も苦労の末に手に入れてたら落胆しただろうなぁ・・」

「確かにあれならすり替えなんてしなくても気付かれないわよ」

「もったいつけんなっ! あれって何だっ?」

 松本はもう何が何だかわからない。それに対して大江が答えた。

「まだわかりませんか? ・・・僕が作りたかったものを作っただけなんですよ。みんな監視目的のスパイウェアみたいに思ってますけど・・・、双方向なんですよ、あれ。」

「そ・・・?双方向?・・・」

 これを聞いた松本は全てを察したようで、みるみるうちに顔が紅潮していった。

「まさか、大江っ!お前っ?」

「同意も了解も必要のない、勝手につながるテレビ電話みたいなもんです。あんな感じで王さんに無理やり連れ出されたんだよ。そりゃ当然するよ」

 終始落ち着いていた大江は、普通に答えた。

「こいつ、やはり初めから仕組んでたのか?」

「聞こえの悪い事言わないでよ。これが本来のシステムなんだよ。お互いの全てを共有するためのアプリなんだから。当然、通信機能も録画・録音機能も履歴を保存する機能も付いてるに決まってるじゃないか。嫌な時は偽情報送れるようにしたのもただの機能の一つに過ぎないんだ」

 凄いのは凄いのかもしれないが、言ってることをそのまま受け取った上でも一般受けはしないだろう。相手の了解なしにお互いの全てを見せ合うアプリなど気色悪いにも程がある。誰も実現しようとは思わない。一方通行の機能として価値を見出して進めたのだろうが、作るのは大江しかいない。秘匿し続ける以上、彼が勝手に機能をつけ足してもわからないのだ。

「王さんたちの対応だけじゃない、木下さんみたいな連中だっているんだから、あらゆる状況で対処を想定するのは当然だろ?だいたい、あんたにだけは言われたくないよ」

 言われた松本は、ホースを大江に向けるが山本が銃でけん制する。

「興味ないことだからって、このシステムのことをあまり深く考えてなかったようね。あなたにとって一番の想定外がこの大江君だったのよ。全員、あんたに踊らされたわけじゃない。唯一、踊るどころか踊ってるように見せかけて、あんたを踊らせてたのが彼だったのよ。」

「わからんか? 大江の能力が何なのか?」

 小野田が恐ろしくも不思議な質問をした。

 松本は目を丸くして、

「この変態の能力? ・・ふはっ、バカを言うな。あいつにそもそも能力なんかあるはずがない。王のメタンドはその時、この朴がすり替えて隠してたんだ。俺はそれを承知でこの変態の懇願に乗っかって、さも能力を与えたようにしただけだ」

 さらに松本は続けた。

「情報でも王は大江に警戒してキャリアにしなかったと聞いてる。そんな奴にわざわざ能力を与えるわけないだろ」

 そう松本が言い終わった瞬間、いきなり死んでいたはずの木下がむくっと起きた。

「それが違うのよ」

「木下さんっ?」

 桜子と課長と佐藤は驚いた、ってもんじゃない。

 いきなり生き返ったわけだから、腰を抜かしたように名前を呼ぶ声も裏返ってしまった。

 ただ、大江も山本も小野田も知っていたのだろう、特に驚いた様子はない。

 松本に至っては、もう完全に思考停止して目をむいたまま固まっていた。

「朴よっ! もう長いわよっ! 変態の下りが特にっ!」

「ごめん。木下さん」

「朴よっ!」

「何? これ?どういうこと?」

 何も知らない3人がツッコんだ。

「全部、この変態が仕掛けたのよ。だって、変態のメタンドじゃあ、勝負にならないのよ。言うこと聞かないと仕方ないじゃあないの。それに変態の忠告通り、折角すり替えた王のメタンドもバレてたし、やっぱりあたしを消しにかかったから」


 松本は呆然としながら、うわ言の様につぶやいた。

「能力って、だからこいつの能力なんてそもそも」

「・・・ああっ!そういうことか」

 またしても先に桜子は気が付いた。

「まだ気付かない?」

 山本は、松本に問い直したが、松本はもう完全に思考が停止していた。

 答えは意外と簡単な話で大江が答えた。

「王さんは最初に僕をキャリアにしたんだよ。この能力は自覚することがわかりづらいんだ。だから、王さんは僕に能力を気付かせないようにかなり警戒していた。良く考えてみてよ、孫さんがここで暴れることになっても、みんな王さんはコントロールできる。なのになんでそれをせずにわざわざ僕を連れてここから離れたか?」

その質問には山本が答えた。

「貴方がいると困るから・・・、つまり、あなたの能力がここにあると都合が悪いということ?」

「僕の能力は王の支配能力すら無力化させる。僕もその時は本当の敵がまだわからなくっ

て加勢してしまったから、王さんもあっさり回収されてしまった。それからが大分きな臭くなったんで、色々と策を講じたんだ」

「確かに・・。すごい。見直したぞ、大江君」

 課長も天才大江の本領発揮を目の当たりにして褒めざるを得ない。

 ただ、暴力をふるったことは謝らない。ただ、そこは大江も喜んでやられてたことだから謝る必要もない。

 桜子もまた同じだった。

「じゃあ、吸引機の件もやっぱり松本を欺く為なのかな?」

「あれでうまく行けばそれはそれでよかったんだけど、あんなすぐにバレるのは想定外だったなぁ」

 痛いところを突かれた。

「・・あ、・・・ごめんなさい」

「いや、いいんだよ。元々、あの二人が戻ってくるまでの時間稼ぎが主な目的だから」

「良かった。本当にあたしが大江さんの・・、その、きゅ・・吸引をしないといけないかと思ったから・・」

「は?」

 大江の顔色が変わった。

「は? え? ・・何?」

 大江は真顔で、

「いや、それは本気だっ! ウソ偽りない本心からの願いだ!」

(そこは否定すんのかーいっ!)

と桜子の心がツッコんだ。

 聞いていた木下が、

「変態なのは変わんないわよ」

と嘆息交じりに言った。


 なんとなく場の空気は、すっかり解決モードになっていた、特に民間人。

 しかし、小野田と山本は、動かなくなった松本をまだ警戒している。

 当然だ、まだ彼が恐るべき兵器を持っていることに変わりはない。

「松本、その機械を大人しく渡しなさい」

 山本は、銃を構えて言った。

 しかし、松本は気づいていない。銃を持つ手の人差し指は引き金にかかっていない。

 小野田も同じだった。

「マツジュン、そいつを置いて両手を頭の後ろに回せ」

 松本は体を小刻みに震わせていた。ガスマスクの下の目を充血させて、ようやく口を開いた。

「大江ぇ~ぇぇぇ。きぃさぁまぁ~ぁああ!」

 大江はその言葉を受けるように、向けられた噴出口の前に立った。

「もう無理だよ、松本さん。貴方の持ってるメタンドじゃあ。僕に勝てない」

 自信を持って、そう答えた。

「もういいっ! 茶番は終わりだっ! ここに全員集まったってことは、逆にここで全員始末できるってことだ。強がりはよせっ! 最大出力でお見舞いしてやるっ! 俺にも、影響が出ても構わんっ!」

 松本は改めてスイッチに手を掛けた。

 それを見て小野田がすかさず、

「出せっ! 大江っ! 「ファブリーズ」だっ!」

と叫ぶと、大江がすぐに、

「違うっ! 「Ⅹジャパン」だっ!」

(ズキューン!)

 「Ⅹジャパン(ファブリーズ)」が姿を現した。

 ・・・ように、小野田だけには見えた。

 全身赤色でSMみたいな口枷に、首と手首と足首にも鎖の付いた枷がついている。全身には黒い縄状の線が亀甲縛りのラインで入っている。

 見た目は大江の変態イメージがそのまま反映されていた。

 くどいようだが、小野田の妄想上のことなので小野田にしか見えていない。

「くらえっ! マンウィズアミッションッ!」

 松本も松本で、言わなくてもいいのに、その場のノリでこの大事な局面においてもメタンド名を叫んでしまった。しかし、小野田にもはやマンウィズの姿までは見えることはなかった。

 とにかく、スイッチが押されたことで大量のガスが放出された。

 しかし、Ⅹジャパンはそれに対し、

「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ーっ!」

と叫びつつ、無数の拳を繰り出す。

 最後、とどめの一発を、

「紅だーっ!」

と叫んで、勢いよく空を切った。

 ・・ように小野田にだけ見えた。

 一瞬の静寂が数秒続いたのちに、桜子がまず場の異変に気付いた。

「・・・え?」

 続いて課長が、鼻をくんくんさせて、

「ガスが・・」

同じく佐藤も鼻を利かせてのちに、

「消え・・てる?」

松本もマスク越しに見えてる状況が飲み込めない。

「なんだ? なんで、平然としてる?」

 マスクを取って、恐る恐る息を吸った。

「・・・・・なんだ、これ?」

 あれだけ噴出させたはずのガスが一切無くなっている、いや、正確にはガスはまだ残っているのだろうが、効果が全く無くなっていたのだ。

 松本は大江を見た。

 大江は勝ち誇ったような顔をして、

「ほら、勝てないって言ったでしょ。・・僕の」

能力名を続けて言うつもりが、すかさず小野田が、

「ファブリーズは」

と言った。もうだいぶネーミングが適当になっている。

 そこはとにかく、大江がすぐに訂正した。

「Ⅹジャパン!このメタンドは、ガスとかフェロモンとか物質を出す能力に対して無効化させる能力。オナラに対してにおいを消す消臭剤みたいにね」

「確かに、この能力は脅威だわ」

 山本は知っていたものの改めてその能力の凄さを目の当たりにして実感した。

「そんな・・の、ありか・・」

 松本は、小野田の言ってたことをようやくここで理解した。

 踊らせているつもりが踊らされていたことに。


 大江はいつからメタンドの存在に気付いていたのだろうか?

 王も孫も、当然その存在を隠していたはずだった。

 確かに大江自身も目の前で王が回収される時までは明確なメタンド、つまり寄生生物の存在に気付いていたわけではないだろう。

 ただ、なんとなく自然界では存在しない科学的にも説明がつかない超自然、非科学的な能力には気づいていた。そして、それがおならによるものだとも理解していた。

 そうでなければ、説明がつかない事象がいくつもあった。

 桜子から発する妙な声であったり、自分がおならをすると戻るシステム課で発生する妙なバグ現象、そして、社内が混乱する中でもひたすらキーボードを狂ったように打ち続ける数名のシステム課員たち、突然の爆発など言い出したらキリがない。

 王はそれらがまるで自分が起こしたかのように言って、システムを渡すよう脅迫してきたことから、この事象の発生源は王であることもわかった。

 では、王はどのようにして自分も含めたキャリアたちに能力を植え付けたのだろう、と大江は自分なりに考察してみた。

 大江はデータ秘匿の為に、王と孫、他木下のような怪しい人間については、その一挙手一投足、くしゃみや咳などの生理現象、呼吸一つとっても警戒していた。

 そんな大江の警戒において気にも留めなかった行為がたった一つだけあった。

 不快ではあるが、単なる生理現象だと思っていた。

口や鼻から発する生理現象はある意味コントロールも可能で、合図や暗号のようなものにも利用可能だ。

 だが、おならとなるとそうはいかない。

 コントロールが十分できるものではないから何らかの通信手段には向かない。

 だからこそ気にしなかった。

 つまり、王の行為において唯一大江の警戒を突破できたのはおならだけだった。

 それに、今、自分が身に着けているであろう能力もおならであるし、桜子から発する謎の声もおしりから出ている。と考えれば整合性はある。


 その仮説をもって、木下と王、そして松本との邂逅の場に至ったのだ。

 屋内階段7階と8階の間、踊り場に木下が立っていた。そして7階との間の階段上に王と大江がいる。

「無駄な事はやめておけ。俺にお前の能力は通用せんぞ」

 王は木下の狙いは当然大江だと思っているから、拳銃を大江に突きつけている。

「何よ。つれないこと言わないで、一度くらいはやってみないとわかんないじゃないの」

「やらなくてもわかる。特に今なら断言できるよ」

 この王の発言で、大江は自分の能力を王は把握していることがわかった。

 そして、それにより19階から自分を連れ出した理由も理解したのだ。

「あんたの思い通りにはさせないわよ。時間稼ぎにうちの社員を人質に使おうとしてたみたいだけど残念ね。ほとんどいなくなってて」

「なるほど、お前か。社員たちを先に下ろしたのは?」

「そうよ。だからおかげさまでこうしてあたしはあんたを追って来れたわけね。大量の人間がパニック起してる中で毒ガス半ケツ野郎の相手なんかしてたら、さすがに無理よ。でも、そのリスクが無かったら、あんなダメGメンでも孫を突破してくるかもよ」

(妙に長々と話すもんだな?)

 王はともかく大江は木下の狙いがもしかしたら時間稼ぎか、もしくは注意を自分に引き付けるためにしゃべっていると思い、王に気付かれないように目線の反対側、7階のフロアに目を向けた。

 すると予想通り、妙な機械を背負った松本が壁に隠れながら大江と目が合った。

 松本は目で何かを合図している。

 大江はとりあえず同意する意味で片目をつむった。

 すると松本は手ぶりで作戦を伝えて来た。

 要するに、木下に気を取られてるうちに大江が王を押さえつけて王のズボンをずらす、そこへすかさず松本が吸引機をぶち込むという手筈だ。

 木下や松本が何者かはわからないが、今のところ敵の敵は味方だ。大江はこの提案に即座に賛同した。

 松本が合図すると同時に実行だ。

当然、木下の位置からも二人のやりとりは見えていた。

「ふん。あんなやつらがそう簡単に孫をどうこうできるとは思わんがな」

 王は気づいておらず、注意は木下だけに向いている。

 王はあくまで技術将校出身だ。こういう場面を想定した訓練を積んでいるわけじゃない、言わば素人同然だ。

 今がチャンスとばかり、松本が合図を出した。

 と同時に、大江は王をその腕ごと抱き着いて抑え込んだ。

 木下が駆け下りすかさずズボンを下ろし、ケツを突き出させる。

 王は突然のことで抵抗が間に合わず、とにかく拳銃の引き金を引いたが、押さえつけられていせいで、発射された弾は階段に当たって跳弾が壁にめり込んだだけだった。

 すぐに松本によって丸出しのケツに吸引機がぶち込まれる。

(キュポッ)(ギュウウウウーン)

 これで勝敗は決した。

 王は快感と苦痛と何とも言えない感覚に、今まで出したことも無い気持ち悪い叫び声を上げつつ、何もできないまま回収され、絶頂して果てた。

「やったぞ。王のメタンドは回収した」

「意外と楽勝だったわね」

「いや大江君の協力があってこそだった。ありがとう大江君」

 松本が嬉々として大江に感謝の握手を求めたが、大江はそれどころではなかった。

 彼は王の吸引される姿を見て、まさに天啓を受けたような衝撃に包まれていた。

 なんという神聖かつ美しい光景だったろうか、これほどの衝撃は人生においてない。

(素晴らしい! なんて素晴らしいんだ! こんなことがあるなんて、思いもつかなかった。やりたいっ! ぜひやりたいっ! いや、間違えた。正しくはやられたい。やってもらいたい。当然、やる相手は桜子さん以外にないっ。今までで感じたことも無い絶頂を迎えられるに違いないっ!)

 そう思うともう全身から鳥肌が立ち心臓の鼓動が高鳴り目は充血し息は荒くなった。

 その様子を見た松本は、大江の体を気遣うことも無く、出した手をすぐに引っ込めた。

 もはやあとは興奮が止まらない大江からの質問攻めだ。

異常なほどの速さで矢継ぎ早に質問が飛んで来る、寄生生物とは、メタンドとは、能力とは?松本も答えるのが大変だが、幸い大江の場合、一言えば十理解するから答えも一言で済んだ。

 最終的に自分をキャリアにして欲しい、そして回収を桜子にして欲しいという約束を取り付けた、というよりそう約束しないと開放してもらえなさそうだったからだ。

「とにかく、じゃあマスターの・・」

というとすぐに、

「はい」

と躊躇なく端末を渡した。

「あと、もう一つ、位置情報を書き換えることは可能かな?」

「楽勝だね」

(う~ん。やはりそう来たか・・)

 大江は興奮してる様でも結構冷静であった。

 木下と組んでる状態で松本を信用していなかった。

 聞けば京王大の准教授で、政府から依頼も受けた専門家であることは聞いたし、自分の質問に淀みなく一言で的確に答えていることからも、それは間違いない事もわかっている。

 何よりも、この素晴らしい機械を作った大江にとってみれば神に等しい人物でもある。

 一応、恩を返す意味でもここは彼の計画に乗ってやろうとは思ったが、当然手札は教えるつもりはない。

 端末を手に取り位置情報を手早く書き換え、松本に返した。

 松本は確認すると、木下に渡した。

 松本のしくじり一度目はここだった。システムに興味が無かった松本はシステムそのものの機能について深く確認しなかった。この男にして適当にしてしまった。

 ここで松本の背後に立っていた木下の動きに目が行った。

 松本が背負っていた機械から何かを抜き取っていた。

 しかも、見たところ、松本もそれに気づいておきながら敢て気づかないふりをしている。

(なるほどね)

 大江は、松本の計画をここで推測できた。

 王のメタンドを回収した時とシステムを渡された時の対応の違いを見て、大方松本の人間性を理解できた。

(こいつ、僕と似てるかも・・)

 興味のあることと興味の無いことの反応がすごくわかりやすい。

 逆にメタンドに対する固執が手に取るように分かった。

(今回のことに乗っかって、日本政府を裏切ってメタンドを奪う算段か。しかも、どうやらこの男、かなり周到に計画を練ってる。・・・さて、そういうことならどうしてやろうか・・)

「さぁ、条件通りにしたんだ。とりあえず、早くキャリアにしてくれよ」

 ここで松本は二度目のしくじりをしたと言えるかもしれない。事前情報を宛にして大江がキャリアかどうか確認しなかった。大江くらい用心深い人間なら確実にしていたかもしれないが、松本は完全な計画を組んでいると自負していた。これが油断を生じさせたのかもしれない。

「そうだな。じゃあ、口を開けて。鼻からでもいいけど」

「え? あ、そんなんでいいんだ?」

「まさか肛門から入れるとでも思った?」

 口を開けると、噴射口からシュッとなんかを吹きかけられた。

 よく考えると、さっき王のケツの穴に突っ込んでいたやつである。鼻先だろうが口先だろうがそれを持って来られて、さらに同じ所からなにかを入れられてると思うと、さすがに不快だ。

 桜子からされるのは別な意味で快感だが、この松本からだと不快になる。

 この松本という男は好きになれない。近親憎悪に近い感情かもしれない。

「さて、時間が無い。僕は19階に向かって、孫を回収してくる。君はその間王を見張っていてくれ。回収出来たら合図を送るから、返答の代わりにその端末で偽情報の通知を送ってくれたらいい」

 松本はいそいそとエレベーターに向かおうとした。

「ね? こいつは?」

 木下は呼び止め尋ねると、松本は興味なさげに、

「好きにしたらいい」

とだけ言って、エレベーターに乗り込んで行ってしまった。

「さて、そう言ってるけど、どうする? 木下さん?」

「朴よっ!」

「じゃ、朴さん」

「とりあえず、面倒だから言うこと聞かせるわよ」

「どうやって?」

「当然、私の能力でよ」

「ふーん・・。じゃ、どうぞ」

「パフューム! ・・・・・あら? パフューム! ・・・あら?」

(どうしてみんな名前がつくとやる前に名を叫んでしまうのだろう? 黙ってやればいいのに)

 大江は合理主義だから黙ってやる。

 しかし、そんな大江も後で叫んでしまうのだからお約束というものは不思議なものだ。

「大丈夫、出てはいるよ。でも、これが通用しないんだな」

「何? どういうことよ?」

「僕の能力さ」

「え? だって、ついさっきメタンドが入って・・。そんなに早く能力なんて・・」

「王さんたちの目当ては僕なんだよ。王さんが支配能力を使うならまず初めに誰をキャリアにすると思う?」

「え? じゃ、何? あんた、ハナから知ってたってこと?」

「松本さんには悪いけど協力できないね。たぶん、彼は約束も守ってくれないだろうし、君も殺すだろう」

「は? あたしを?殺す?」

「間違いなくね。君、王さんのメタンドすり替えただろ?あれバレてるよ」

「え?」

 木下はだんだん大江と言う男が恐ろしくなってきた、と同時に自分じゃ到底太刀打ちできない人間だと思えて来た。

「君の命だけは助けてあげる。その代わり、メタンドも僕のシステムもあきらめてくれ」

「そんなこと言われても・・・」

「ここで逃げてもらっても構わないよ。僕を倒してからだけど・・」

 木下はそれを聞いた瞬間、大江に上段蹴りを見舞っていた。テコンドーだ。

 蹴りは確実に大江の顔面を捉えていたが、大江は倒れるどころか、足先が顔面にめり込むように止まっている中、やや恍惚の表情を浮かべて、木下の足をつかむと、そのまま持ち上げて床に叩きつけた。すぐさま足を持ったまま関節技に入る。

「痛いっ! 痛い痛い痛いっ!」

 木下はあまりの激痛に暴れ苦しむが、意外と大江の力は強く、間接技が解けない。

「だめだよ、暴れたら。もっと痛いから。大人しくした方が痛みは軽いよ」

「何よっ! あんた一体何なのよっ?」

「僕がドMだって知ってるだろ? つまり痛みにすごく興味があるんだ。だから痛いことに精通する為に格闘技、特に関節技にはそれなりに造詣が深いのさ。打撃系は避けなくても僕には効果がないから、捕まえれば必然的に勝てる」

(こっわぁーっ! こいつ。絶対敵わんわ)

「どうする? 大人しく言うことを聞いてくれたら解いて上げるけど、逃げるならこのまま骨一本貰って行くよ」

「わかったぁっ! わかったわよっ! 言うこと聞くから放してっ!」

「あっちの国の人、よく嘘つくから信用できないな」

「本当よっ! 本当っ! お願いだから放してっ!」

「そう、じゃ」

 技を解いた。

 木下は、痛みでしばらく足を抱えたまま動けなかった。

「まあ、しばらくそうしてるといいよ」

と言うと気を失ってた王に近づいて、ポケットから小さい空に見えるスプレーボトルを出すと、

「王さん?王さん?起きて」

「ちょ、あんた何してんのよ?」

 木下の問いに答えることなく大江は王を起こした。

 王が意識を戻すとこう言った。

 今から7階のエレベーターホールに行くから、そこでこのまま気を失ったふりをしていて欲しい。しばらくすると、松本が孫を連れて帰ってくると思う。あいつはそこで、孫さんか奪った毒ガスで二人とも殺そうとするだろう。もし、王さんがこの場から逃げたりしたら、その時は孫さんが間違いなく殺される。また、王さんや孫さんが抵抗しても、能力を奪われた二人が松本に勝てるとは思えない。だから、殺されるふりをしてほしい。

 二人とも気を失ったままなら、毒ガスに対してそんなにリアクションを取らなくても大丈夫だからと。

「毒ガスはどうするんだ?」

と王が尋ねると、持っていたボトルを渡して、

「これに僕のおならを入れてある。ガスを吹きかけられるタイミングで使って。隠し持っておく以上、これくらいのサイズにしかならないから、毒ガス全てを無効化できるかわかんないけど、二人が助かる方法はこれしかないんだ。わかってくれる?」

「・・・・なぜ、我々を助ける?」

「そりゃ一応、一緒に仕事した仲間だから」

「・・・・そうか。・・・済まない」

「孫さんをお願いしますね」

「わかった」

 そのあと、王がずらされたズボンを上げると、大江はすかさずずらした。

 王がまた上げ、大江がまた下げた。

 これを5,6回繰り返した。

「なんだっ? 大江っ!」

 王がキレた。

 大江としては、王が気を失ったままでないと困るのだ、ズボンが上がっているということは王が意識を取り戻したということになる。そうなると松本に芝居だと気取られてしまう可能性がある。

「おしり冷えちゃうし、恥ずかしいかもしれないけど、しばらく我慢して」

 大江と木下は半ケツの王をエレベーターホールに置くと、

「来たわよ。松本から、孫と爆発メタンド回収したって」

 松本から木下のスマホにラインで連絡が届いた。

 大江は木下に端末を返せと要求するように手を出した。

 木下も逆らうことなく端末を大江に返して、それと王のメタンドが入った小さい試験管みたいな物も渡そうとしたが、

「あ、それは君が持っといて」

と言って受け取らなかった。

 大江はまず偽情報の通知を送った。

 間違いなく偽情報の通知を送ることでモニターと思わせた端末は山本か小野田に持たせるつもりだろう、ということは二人に王を追わせて19階から一旦遠ざける計画に違いない。そして、自分も追いかけるということにしたいから、おそらくあの二人は時間のかかる階段を使わせ、自分はエレベーターで7階に戻る算段だ。

 通知に気付いたら、まず松本も通知内容を間違いなく確認するだろうから偽情報を送る必要はある。

 その後に、必ず小野田たちと別れるから、その時に小野田たちと連絡を取ればいい。

 それが確実に分かる方法はただ一つだ。

 エレベーターが再び下りるために動き出す時、大江はエレベーターの表示板を注視した。

 表示はまだ19階のままだ。

 間もなくエレベーターが降下する表示が出た。

「よし。階段で上がろう」

と大江と木下は階段を駆け上がる。

 その間に、大江は元の位置情報に戻し、通信機能で小野田、山本に連絡を取った。

 データの履歴を確認してもらうのと、自分の能力についての説明、松本の狙いと想定できる計画の全貌、それと二人には、そのまま7階に向かってもらって王と孫の安否を確認してもらった上で、救急隊を呼ぶなど必要な処置を講じてから戻って来て欲しいと言った。

「あと、これは忠告ですけど、急いでいてもエレベーターを使うのはお勧めしませんよ。どうしても使うなら、ガスマスクを使って下さい」

「・・・そこまで読んでるの?」

「心配いらん。ガスマスクは置いて来てるし、第一、急ぐなら猶更エレベーターなんて辛気臭いもの使わん」

 小野田は言い切った。

(えーっそうなんだぁーっ、この人やばいわぁーっ。)

と山本は思ったが、ここは選択の余地はない。

 大江は、その事でもう一つ注文を付けた。

「処置ができたら、二人をエレベーターホールから引き離して、エレベーターの上昇ボタンを押して下さい。いいですか、「上」のボタンですよ。押したらすぐに階段で上って来て下さい。絶対に降りて来るのを待っちゃだめです」

「わかったわよ、けど、そこまで用心が必要?」

「もし、ガスを充満させてたら、貴方たちが乗らない場合、王さんと孫さんを助けに来る救急隊の皆さんが使う可能性があります。それまでに、ガスを確実に無くしておかないといけないでしょ? 可能性はとことん取り除いておくべきです」

(すっごっ! この変態・・)

 小野田も山本も木下も共通して、思った。

 小野田、山本との打ち合わせを終えると、今度は木下と19階に付いた時の打ち合わせをした。

「とにかくあの二人が戻るまで時間を稼がなきゃいけないから、君にはその間死んでいてもらうよ」

「本当にあいつ、あたしを殺す気なの?」

「疑うんなら試したらいいよ。大丈夫、僕がちゃんと無効化してあげるから。あとは思いっきり苦しんで死んでね」

「嫌な言い方ね。わかったわよ」

 そして、19階にたどり着いたが、ちょうど桜子が松本の正体に気付いた時だった。 

(すごいな、桜子さん、気付いちゃったよ。でもこれだと危ないな、そんなに時間を稼げないかもしれない)

「行くわよ」

と木下が行こうとした所で、

「待って」

と引き留めた。

「君、帰った第一声にさ・・」

と、木下に言った。

 木下は指示通り、大江を引き連れ第一声に、

「だめよこいつ、全然、フェロモンが効かない」

と言った。

(勘のいい桜子さんなら気付いてくれるかもしれない)

と期待したが、残念ながら気付くのはずっと後になった。


 思うに、王も松本も大江という人間をただの変態だと低く評価していた。

 それは桜子含め小野田も山本もだった。

 変態であることは間違いないが、それ以上に天才だった。

 彼に対しては、戦略、策略、謀略、そして暴力やサイバー攻撃でも全く通用しない。

 つまり、そのすべてが無駄であり、そのすべてが無効化される。

 この彼の特性が、そのまま能力となったのだ。

 能力の発現要素が、仮にストレスであったなら、ドMである彼にとってこの無敵さがストレスだったのかもしれない。彼の欲するものとはこの無敵さを突破できるほどの力のある攻撃なのだ。彼が桜子に望み、そして固執させるものとは、彼女の中に潜在する極めて強いストレートな感情表現への欲求と強きをくじく程の圧倒的破壊力を持つ言葉の暴力性だった。 


 時は戻って、松本は大江に完敗したショックで呆然としている。

 もはや抵抗する気力もないと判断した小野田は、

「とりあえず、確保だな。本職、行け」

と山本に指示した。

「はい」

と山本も手錠を取って、

「松本准教授、改めてあなたを逮捕します」

と松本の手を取り、手錠を掛けようとした。

 この時、大江は自分の中で抜け落ちてた致命的なミスに気付いた。

「だめだっ! 山本さんっ!」

と言う間に、いきなり松本が不意をつき山本を羽交い絞めにして、山本のこめかみに拳銃を押しつけた。

(しまったっ!)

 そう王の持っていた拳銃だった。

 松本は回収時にこの銃を奪い取り隠し持っていた。

今この時まで使わなかったのは、残発数もさることながら王や孫の犯行と欺く為でもあり、拳銃だと偽装する上で効率が悪いからだった。

 しかし、今はそんなことどうでもよくなった。

「何?」

 小野田もこの隠し玉までは想定していなかった。

 というより、ほぼ全て大江が立てた作戦だから、肝心の大江がこれを見越してなければ小野田にわかるはずもない。

「詰めが甘いんじゃあないのか? 公安のメス豚っ! 仕切り直しだっ! 変態っ! これでもお前の能力なら消せるか試してみようぜ! ほら、どうした? 出せよ、ファブリーズ!」

 大江もこうなると、対処のしようがない。

「俺の勝ちだ。この場は仕方ないが能力は手に入れた。王の能力があれば再起は可能だっ!どけっ! 動くなよっ! 小野田―っ! 銃捨てろっ!」

「くそ・・」

 小野田は要求通り銃を捨てる以外ない。

「山本さん、あんな近くで・・・もう、駄目だ。・・もう限界・・」

 桜子が突然、松本に向かってまっすぐ歩き出した。

「・・? ・・え? 桜子さん?」

 大江も突然の桜子の行動にただ困惑した。

「海老名くん?」

「海老名さん?」

 課長も、木下も、同僚も同じだった。

「何してるっ? 下がれっ!」

 小野田が圧高めに叫ぶが、桜子は歩みを止めない。

「・・海老名さんっ! ダメっ! 危険よっ!」

 山本も言うが、桜子は止まらず、松本の前に立った。

「何だ? 何しようってんだ? しゃべることしか能がないメタンドに、しゃべることすらままならないコミュ障女、どっちにしたって役立たずがこの場で何しようってんだ?ああ? どけよ・・。どけぇ!」

 松本は桜子に拳銃を向けて威嚇するが、桜子は動じない。

「・・大江君」

 桜子は松本を見据えたまま、つぶやくように言った。

「な・・何? 桜子さん?」

「毒ガス少し漏れるかもしれないけど、あなたのでそれは消せるわよね?」

「・・え? ・・うん、もちろん。でも、銃が・・」

「それと確認だけど、無効化するのは物質系だけなんだよね?」

「・・ああ、そうだよ。音系は無効化できない。王さんが僕の傍にも関わらず君のメタンドには支配能力が使えた、あれを見て音系には僕の能力は効かないってわかったんだ。・・・というより君の能力の場合、僕にその気がないのが一番の理由だけど・・」

「聞いてないわ。余計なこと言うな、変態。舌引っこ抜いてケツに突っ込むわよ」

「あぁ~・・・。いや、ごめん。で、何をする気なの?」

 桜子はそれを聞くと、少し頷いたように見えた。

 そして、課長に向かって、

「課長、ですって」

と言った。

「へっ?」

 課長には、その言葉の意味がわからない。

「山本さん? 一回でもそいつぶっ飛ばしたら、抜け出せますよね?」

「で・・・できるけど、な・・何? ・・ぶっ飛ばす?」

 山本も返したものの、桜子が何をする気なのか全く理解できない。

「は・・はははっ! 何言うのかと思ったら、ぶっ飛ばすってかっ? くはははははっ!どうしたどうしたぁっ? とうとうおかしくなったか? ・・・やれるもんならやってみろっ! 何もできない役立たずは引っ込んでろっ!」

 松本自身、こうは言ってるものの、正直、桜子がまさかここに来て立ち塞がろうとは思っていなかったので、心の内では動揺していた。

 ここで桜子を撃つ程の脅威はまったく感じない、なんなら丸腰でも余裕で制圧できる自信もある、彼女の能力もただギャーギャー思ったことを言うだけのものでしかないから全くと言って言い程恐れてもいない、今いるこのメンツの中で最も吹けば飛ぶような存在でしかないのだ。

 だから銃で脅しても本当に撃つ気にはなれない、その桜子が逆に丸腰で自分を制圧するような言いぶりで立ち塞がっているという状況に訳が分からず動揺していた。

 さらに、桜子は周囲まで困惑するようなことを口にしだした。

「・・・はじめて会った時にはマツジュンとか言われてるし、ま、松潤には及ばないにしても、ちょっとチャラいけど小野田さんと違って暑苦しくないし、嫌味ないし、威圧的でないし、説明も丁寧だし、頭もいいし、第一、医大のその歳で准教授だし、いいと思ってたのよ」

「おいっ!」

 小野田のディスりに対するツッコミはさておいて、松本の事を言っているんだろうが、この場で話すようなことじゃない。空気を読めないとかそういう次元の話でもない。

 全員の頭に?マークが浮かんだ。

「??・・おいっ。・・何の話してんだ?」

 小野田もディスられたことを置いといても困惑していた。

 あまりの意味の分からない行動と言動に全員が動きを止め、一言も発せなくなった。

 もはやこの場は桜子の独壇場と化した。

「それで聞いたら、独身っていうし、彼女までいないっていうし。なんでかな?って一瞬思ったけど、なんとなく理由がわかったの。でも、一応聞いてみたら、「研究一筋で機会がなかったから」って言ってるから、そうなのかなって。・・で、たまたま研究所の女性スタッフの方と話す機会があって・・・」

「桜子さん?」

 大江もただ問いかけるしかできない。

「海老名く~ん?」

 課長もだ。

「やっぱり私が思った通りなんだって確信した。みんな言ってたから。研究一筋なんて言い訳してるけど違うんだ。今にしてみれば、たぶん一番の原因は性格なんだろうけど、・・いや、もしかしたら自覚してないかもしれない。それなら、今ここで、ちゃんと言ってあげるべきだし、言わずにはいられない」

 そう言うと、全身の力を込めて、決めポーズまでつけて叫んだ。

「・・・トーキング・ヘッ! ACT2ーッ!」

 小野田は見た、いや見えた。

そう叫んだ桜子の体から、いいや、もとい、桜子のおしりから、いつものトーキング・ヘッではなく、一回り大きく、筋骨隆々の魔人のような男が出現した。

 ブンッブンッとごつい腕を振り回し、すごい音で風を切りシャドーボクシングを始めている。

「なんだ? なんかごっついぞ?」

「な・・なんだ? ・・なんか、おかしい」

 松本は異様な圧だけを感じ取っていた。

「なんか考えたら、今でも外見はちゃんとしてるし、女性の扱いもそうだし、十分異性を意識してるように見えるから、研究一筋で機会がなかった? んな、わけないしっ! あんたのどっかに原因があるとしか考えられないでしょっ! なんで女が寄ってこないか、あたしはすぐにわかったわよ。多分、あの山本さんすらわかってても言わなかったし、スタッフみんなもそうっ! だから私がみんなを代表して言ってあげるっ! 耳かっぽじて、歯ぁ食い縛って、よぉ~く聞きやがれっ!」

 桜子の絶叫に応えるように、このトーキングヘッACT2が、

「おおおおおー・・・っ!」

と雄叫びを上げながら、まるで全身の力を増幅して蓄積していくようだった。

「こいつっ!」

 松本はようやくここで自分の身にとてつもない危険が迫っていることを察して銃口を桜子に向けたが、もはや手遅れだった。

「あんたは・・っ、・・わきがっ!」

「くっせぇぇーっ!」

 その雄たけびと共にトーキングヘッACT2が一気に放った拳が松本の顔面目掛けて撃ち込まれた。

 その威力たるや、殴られた顔面はひしゃげ、上半身は異常によじれる程だ。

「かっ・・はっ・・な、なんだ・・と?」

 山本はそのすきに銃の持ち手を掴み、ひねり上げ銃を落とさせ、落ちた銃を蹴り飛ばす。

「何? ・・何が起こったの?」

 何が起きたかわからない。突然、松本の顔がひしゃげ、体が異常な動きでよじれたのだ。

「山本っ! 確保ぉーっ!」

 とにかく、これで松本は無力化できた。小野田はすかさず山本に指示したが、

「まだ、駄目ぇっっ!」

桜子が止めた。そして、

「山本さん、小野田さん、下がってて、まだ手出ししないで、まだまだ、全然言い足りないからっ・・」

「バカな・・・。この女ぁーっ!」

 松本が襲い掛かろうとするところへ、

「それに、口もっ!」

「くっせぇぇぇーっっ!」

 カウンターの様に、ボディに一撃が炸裂した。

 松本は、くの字どころか、鋭角に体が折れて宙に浮いた。

「グボッ・・オゥッ!」

 胃の内容物と胃液まで吐き出すほどだ。

「所内をスリッパで回ってるでしょ?あれスタッフがやめて欲しいって思ってるの知ってる?・・あんたはねぇ!・・足もォォォおおおおっ!」

「臭いんじゃぁぁぁぁぁーっっっ!」

 前かがみになった松本の顔面目掛け、腰の落とした体勢から思いっきり放たれたストレートが炸裂する。

「ブベェェェェーッ!」

 松本の体が後ろへのけぞり、体は宙に舞い一回転して床に這いつくばる様に叩きつけられた。

「あれ、なんだろ? ・・変なのが、見える。」

 佐藤が言った。

「何よ、これ?」

 続いて木下が、

「おなら・・だよね? これ?」

 大江も、

「小野田さん? ・・私にも見えちゃってます。」

 山本も言った。

 そう、トーキングヘッACT2の姿が、小野田の妄想でなく全員の目に見えていた。

「そうか。なんか・・すごいな」

 小野田ももはやそうとしか言いようがない。

 松本はゆっくりと身を起こしながら、

「ゲフッ・・バカな、そんなバカなことがあるかっ! ただの気体だぞ。実体化なんて、ありえんだろっ! 物理的攻撃ができるわけがないっ!」

「違うわよ。これは実体じゃあない。物理的攻撃もしてない。あたしが殴ってんのはねぇ、あんたの精神、心に直接攻撃してんの。課長―っ!」

「はいっ!」

 課長も、もはや桜子には逆らえない。

「今から、ラッシュ行きますっ! ぴったりなヤツお願いします」

 これを聞いて、ようやくさっきの「ですって。」という言葉の意味を理解した。

「・・! わかったっ! 任せろっ!」

 課長渾身の一曲は、リクエスト通り、〝某漫画〟のアニメ化第3部の処刑テーマ音楽だ。

「行くのねっ、やっちゃえっ!」

「行けっ! 海老名さんっ!」

 木下も佐藤も音楽が流れるとともにボルテージは最高潮、もはや誰も止められない。

「桜子さん、それは僕にしてぇーっ!」

「ぶちかませっ!」

「遠慮はいらないっ思いきっりぶっ飛ばせっ!」

 思い思いの声援が飛ぶ中、松本はすでに立っているのがやっとの満身創痍だ。

「待て」

 桜子とトーキングヘッACT2はすうううううう~・・と大きく息を吸い込んでいる。

「やめろ、やめて、頼む、待て、ちょっと待ってっ!」

 松本が泣きながら懇願するも、桜子は、

「これ以上、喋んな、動くな。ニオイをまき散らすんじゃあないっ。すぐに消してやるから黙って大人しくしてろ・・・」

「お願いだから待ってぇーっ!」

 松本が叫んだ。

「喋んじゃねぇって言ってんだろうがっ、臭ぇんだよっ!」

と同時に強烈な一撃が入り、さらに、

「あああぁーっ・・・臭いっ!臭いっ!」

と言う度ごとに一撃、また一撃と繰り出される。

「臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭いっ!」

 止めどなく繰り出される連打、ラッシュの嵐だ。

「ハバババビュベベベベベバビビブバビェビェッ・・・!!」

 松本にはもはや抗うことなど不可能だ。容赦なく浴びれ掛けられる嵐のラッシュをひたすら受け続けるしかない。

「言葉の・・暴力・・てやつか。」

 山本はその光景を見てつぶやいた。

「桜子さぁぁ~んっ! 僕、もう、いっちゃいそぉぉだぁぁ~」

 大江はついに果ててしまった。

「臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭臭!」

 松本の体がついに宙に浮くほどの連打が炸裂している。

「ああああぁーっーっくっさぁっあぁぁぁぁーっ!」

 そしてついに締めのとどめの一撃が完全に原型を留めなくなった松本の顔面にめり込み。

「ぶびぃやはばぁはぁぁぁぁ・・グハァァァッ!・・・」

 という断末魔を上げて、松本はエレベーターまで吹っ飛び、ドアにまるで思いっきり投げつけたスライムの様にべちゃと張り付いて、そのあと沈むようにズレ落ちて行った。

 桜子とトーキングヘッACT2は声を合わせ、松本を指差しこう言い放った。


「なめんな。屁はクチよりモノを言うのよ」

決まった。


 静まったフロアに、存在をすっかり忘れていたシステム課の連中のカタカタというキーボード叩く音だけがしていた。



  


第3章


 あの事件から1カ月程が経った。


 一連の騒ぎは、当らずとも遠からずと言おうか、ガス漏れによる爆発事故という形で処理された。

 松本については、自前で作った毒ガス噴射機を使った殺人未遂容疑で逮捕送検され、現在公判待ちである。

 王と孫はしばらく入院していたが、その後本国の病院に移送するという形で帰国した。やろうとしたことを考えれば、強制送還の上で外交問題にするところだが、毎度ながら事無かれで済ました。

 木下については、本国へ送還された。

 民間スパイなのでそれ以上の措置は取られなかった。

 

 問題なのは件のメタンドである。

 これは相当もめた。

 中国では恐らく王の生んだ複数のメタンドがまだいるだろうから、これに対応する為にレッドウォリアー以下回収したメタンドは生きたまま日本が厳重に保管しておくべきだとする意見が出たが、逆に早急に処分するべきと言う意見もあって議論は紛糾した。

 はじめの段階では一部、中国に王たちと一緒に返すべきと言う意見も出たが、さすがにこれは無視された。しかし、この一部がそのあと保有論に賛同した為、金や女をあてがわれて骨抜きにされてる連中がまた碌な事をしないだろうということで、結果として廃棄論に至った。

 処理方法として、直近で打ち上げ予定だったロケットに載せて宇宙に放出するということで落ち着き、ついこの前実施された。

 が、これを指揮した保守系大臣は、宇宙に放出すると言いながら、あの国が宇宙で回収とかするかもしれないと思い、極秘裏に指示を出してメタンドを入れたカプセルに爆弾を仕込んで、放出後すぐ爆破させたという徹底ぶりだった。

 

 さて、そして例の変態ストーカーシステムだが、結果から言うと、日本政府に引渡され、しばらく警視庁公安部で試験運用を兼ねて導入されることになった。

 今にして思うに、このシステム開発は明確に買い手が初めから決まっていたのではないかという疑惑があったが、どうやらそれが日本政府であった。

 そう考えると色々辻褄があってくるのだ。

 地球外寄生生物対策室が発足されてはみたものの、これに対処するにはあまりにもお粗末な組織で、人員についても少な過ぎた。

メタンドというネーミングの時といい、実際の対処方針と言い、超法規的措置と言いながら実際ほとんど機能せず、責任含めて現場に押し付ける適当ぶりから考えても、正直本気でこれに対処する気などなかったようにも思えるのだ。

 ついで、民間技術の漏洩阻止というのも、たとえ相手国の軍人が絡むことであっても、あくまで民間企業を装ってのことだから政府が首を突っ込むようなことではないはずだ。

 そうすると、小野田や山本が便宜上とは言え、所属先を厚生労働省としたのにも裏があると思える。

 要するにまとめるとこういうことではなかろうか。

 大江の企画を社長が政府に持ち込み、それに乗った政府が開発事業を承認して予算をつけた。しかし、これを完成させるには中国の技術が必要不可欠だった為に、親中議員を利用して開発予定の内容は伏せたまま技術提供を持ち掛けたが、案の定その内容が途中でバレてしまった。

出し抜かれて怒った中国が嫌がらせに手に入れたメタンドの実用試験も兼ねて王たちを送り込んだ。

これを知った政府は、社長と相談し、メタンド対策と言う大義名分のもとに政府から警護人員を派遣することで社長もすんなり受け入れたのだろう。

メタンドについての報告は受けていても、話が荒唐無稽すぎて政府首脳や上層部は話を眉唾と思って真剣には取り合っていなかったが、偶然、話が重なったので、ここぞとばかりこれを利用したに過ぎない。重要だったのはあくまで大江の変態システムの方だったのだ。

 おそらく小野田と山本を社内に入れたのは、もう一つの目的が政府側にあったのだろう。

 それは、この会社がセキュリティーなどいろんな面で信用できる会社かどうかということだ。言うなれば抜き打ちの調査という目的も兼ねていた。

 結果として、なめていたメタンドの脅威は十分にわかった故に、事後となって慌てて処理方法で揉めに揉めた。

 さらに、システムも秘匿したまま完成に至り、成果も十分、その上、今回の事件解決の最大の功労者でもある大江の株はうなぎ上りとなった。

 ちなみに双方向のアプリ機能は却下され、一方通行のスパイウェアとしての採用となり、大江はシステムの修正をさせられた。

 このままで終わらせないのが大江で、切り離された機能がもったいないので、それを別のアプリとして作り替えた。スパイウェアやウイルスに感染したら即通知して感染源を突き止め、送り主まで特定するアプリだ。市販のウイルスバスターより安く機能的で、主にスマホで効力を発揮する。しかもネット上だけでなく盗聴器や盗撮なども検知する優れモノだ。

 これが、バカ売れした。

 しかも、これは日本に導入させた自分の変態ストーカーシステムすら検知する。

 ただし、これは政府に言っていない。

 そして、やはりというか、当たり前と言うか、システム導入の条件として業務改善命令が出され、労基の監督・指導が入ったことは言うまでもない。

 社長個人にも、税務調査が入り、本来なら脱税で捕まるところを、今回の協力と功労を考慮して、数億円もの追徴課税で何とか許された。

 会社としては、大江を責任者として新たにデジタル庁の業務委託を受けたので申し分ない結果だろう。

 そんなこんなあった1ヶ月であった。

 

 朝、いつものように1階のエレベーターホールで佐藤がエレベーターを待っていると桜子がやって来た。

「ああ、海老名さん、おはようございます」

「おはよーっ」

「朝から元気っすね。なんか、あれ以来変わりましたもんね」

「そう? そうかな」

 課長もやって来たが、尻に孫の付けてた防臭具をつけて、そこからコードが伸びてつけていたヘッドホンと繋がっている。

「課長、おはようございます」

 2,3回ほど声を掛けられて、気づいてヘッドホンをずらして、

「おはよう」

と返した。

「おはようございます」

と桜子も挨拶すると、 

「おはよう。海老名くん」

と課長も気前よく挨拶を返した。何を聴いているのか知らないがご機嫌のようだ。


 ビルの入り口に山本が手を振って声をかけて来た。

「海老名さぁ~ん」

「あ、山本さぁ~んっ!」

 課長と佐藤も山本に軽く会釈し、山本もそれに応えるように軽い敬礼をした。

 桜子が両手を振りつつ、山本の元へ駆け寄った。

「どう? 元気してた? て、聞こうと思ったけど、随分あか抜けたわね。心配なさそう」

「どうしたんです。山本さん、こんな朝に急に」

「いやね。この度、晴れて特対室が解散して出向が解けたんでね。今日から元の職場復帰。だから、挨拶しとこうと思って

「そうだったんですね。あれ? てか、小野田さんは?」

「あの人は早々に原隊復帰したわ。体なまってうずうずしてたから」

「らしいなぁ。・・そうですか、解散ってことは全部解決したんですね」

「そうね、いろいろあったけど、やっとよ」

 山本は課長の尻を見て、

「ここに、もう2匹いることは内緒にしてるけどね」

 そう、あの事件後にも桜子のトーキングヘッと課長のセクシャルハラスメント、いやもといシングライクトーキングは回収されなかった。

 理由としては無害だから、ということで山本はあえて報告しなかった。

 ただ、あの時見たトーキングヘッACT2については到底害が無いとは言い難い、いや、ある意味で言えば、最強にして最凶とも言える。

 しかし、山本は小野田も了解の上でそれを上に報告しなかった。

 松本の怪我は、抵抗したので小野田と山本がやったことにした。

 おそらく報告したところで誰も信じないだろう。

「課長はああしてIpod代わりにしてますね」

「よほど気に入ったのね。・・で、どう? その後、トーキング・ヘッ?」

「あれ以来、あんまり出て来なくなりました。最近は全く」

「ふーん。・・あれってやっぱりストレスなのかもね」


 そうかもしれない、でもそうでないかもしれない。

 メタンドがほぼいなくなったことで、その正体はもはや解明のしようがない。

 だいたい、ストレスとの関係性で言えば、課長の能力はどうにも因果関係がないようにも思えるし、孫のマンウィズアミッションも物騒すぎる。

 何よりもあのトーキングヘッACT2に至っては、全く原理もわからない。

「・・それで、その、実はですね」

 桜子は言い難そうに、もじもじしている。

「何?」

 山本は、言い難そうにしているとは受け取らず、言いたくてうずうずしていると感じて、あえて尋ねた。

「昨日、トイレで・・・」

 山本の耳元でごにょごにょと言った。

「えっ? 嘘っ! 出ちゃったのっ?」

 何が?

 話の流れからすれば、要するにメタンド、トーキングヘッと呼ばれた寄生生物が・・、とにかく出てしまったのだろう。

 確かにこれは言い難いが、言いたかったのだろう。

「ええ・・。はじめ何かなって思って気持ち悪かったんですけど、それが何かわかると、なんかやっぱり・・」

「うん、まぁ、わかるわ。・・確かに情も移るものよね」

 あれだけの体験を共にし、そして時には仲良く会話もした仲だ。

「で、そのまま流しちゃいました」

「んええっ? 流しちゃったのぅっ?」

 さすがというか、なんというか、一切の憐憫の情もなく、汚物が如くともに流してしまうのが、海老名桜子という女なのだろう。

 ただ、なぜトーキングヘッは突然出て来てしまったのか、まるで宿主の桜子が〝自分〟を取り戻したことでその役割を終えたからのように山本は感じた。

「・・ま、いいけどね、それで。じゃあ、生きてるのはあのセクハラだけか・・。一番の役立たずが生き残るなんて、今回の件からすれば、皮肉なもんね」

「そうですね」

「そういえば、おめでとう。正社員になれたんだって?」

 そう、彼女は今回の件で、派遣から正社員に採用された。

 彼女の部署では木下が強制送還されたことで一人空きが出たのが大きな理由だが、人員の大幅増員は労基からの指導で早急にやらねばならなくなった。そこでまず、派遣社員は全員正社員登用となった。

「あ、すみません。おかげさまで。大分待遇も良くなりました」

「ああ、これも例のストーキングシステム。正式にうちの方で試験運用されることで決まったことのおかげね。まったく、変態様様よね」

「そうなんですよね。会社のことも思うと、全部彼のおかげなんですよね」

「ところで、あの変態の要望通り、吸引してあげたんでしょ?」

「ま、事件の一番の功労者ですから、彼のたっての願いですし、あんな偉い人たちに囲まれて説得されると、さすがに断れないですし」

「まあね。あの変態、導入条件の一つに挙げて大分ごねたみたいだから、大変だったわね。心中お察しするわ」

「いや、あたしとしても、それぐらいの報酬は・・」

(あれ、この女、おかしな感じになってるわね)

 話す桜子の顔、やや赤くなっているのは、極めておぞましく恥ずかしい行為をさせられたことからだと思って聞いていたが、今の言葉を言ってもまだ赤みが抜けない、いや、それどころかもっと赤くなっている。

「・・あんた、まさかと思うけど、今もう付き合ってるとか言わないでしょうね?」

「いえいえっ、そんなの。・・・まだ」

 少し照れてるように見えた。

(こっ・・・こいつっ?!)

山本は絶句しかけたが、ここは言わなければダメだ、と心を鬼にして、

「まだぁっ? ちょっと、あんたねぇ・・、みんな、あいつがわざと変態を装ってるように思ってるみたいだけど、あいつガチの変態だからね。あんたもわかってるでしょ」

「ま、わかってますよ。・・でも、まあ、変態なだけですから。」

(あ、だめだ。こいつ)

 山本の心の内を知ってか知らずか、桜子は続けた。

「山本さんも、あれから私変わったと思うでしょ? 私自身だって思ってるのに、彼はね、何一つ変わってないって言うんですよ」

「何一つ?」

「僕の好きなドSの桜子さんは何も変わってないって」

「・・・何言ってんの?」

(おいおい、ついにのろけだしたぞ、この女)

「ですよね。私もそう言いました。でも、トーキング・ヘッが私の内面だとしたら確かにそうかもしれない。変態だけが私の本質を見抜いて、私の本質だけ見てたんです」

(いいこと言ってるようには思うんだけど・・)

「これ、結局、私も変態だってことなのかな・・て」

(ああ、やっぱりこうなったか・・)

 そして、桜子は、遠くを見る目で、恥ずかしげもなく目を輝かせて、


「実はね、案外気分良かったんですよ。・・吸引プレイ」


 山本は、さすがに絶句した。

 しかし、思えば、人の好みも人それぞれだし、趣味嗜好も人それぞれ、ということは、当然性癖もまた人それぞれだ。当の本人がそれで良ければ、それで自分らしくいられるなら、また犯罪や人に危害を及ぼすような迷惑行為にならなければ、これを容認するのが、真の多様性社会、ポリティカルコレクトネス、SDGsというものではないだろうか。

 きれいなお題目ばかりの理想論を押し付け、価値観を強制するのではなく、良いも悪いも、綺麗も汚いも、臭いも香しいも、醤油もソースも、草食も肉食も、純潔も変態も、そして、ドSもドMも、忖度せず、特別扱いもせず、言わぬが花でなく、堂々と宣言できて面と向かって堂々と指摘できる程、等しく人間の有り様であり業であり欲なのだ。

 それを受け入れずして、真の平等、差別のない世界と言えようか。

 逆に言えば、受け入れなければ、この人間社会に平等はない。差別も無くならない。


 とは山本も思ったものの、どや顔の桜子と目が合うと、もはや笑ってごまかすしかない。

 山本の乾いた笑いに対して、言いきった桜子は何となく誇らしく清々しく笑った。

「・・なるほどね。・・ま、そういうことなら別にいいわ。・・あら、いけない。そろそろ行かないと。じゃ、また今度、肉、食べに行きましょう」

「はい。また必ず」

 山本は笑顔でピシっと敬礼して、腕時計を見て慌てるように少し足早で去って行った。


 山本と入れ替わる様に大江がやって来た。

「あ、桜子さぁ~ん。おはようーっ!」

「・・・・」

 急に桜子の機嫌が悪くなった。

「あ~、朝からガン無視ぃ。いいよぉ」

 突然、大江の胸倉を掴むと、思いっきり大江の足を踏んで、

「おい。こら、変態。昨日もお前がSMクラブ行った動画送り付けよって、どういうつもりなんじゃっ? おうっ、こらっ!」

「あああ~。痛いよぉ~。痛いよぉ~、桜子さぁ~ん」

「おのれが、ごねたせいであたしだけがお前の作ったオリジナルの変態アプリを強制的に入れさせられたんやぞ。24時間ずっと、おのれの生活を強制的に見させられ、あたしの生活まで覗かれる恐怖に晒されたあたしはどないしたらええねんっ? わかっとんかっ!こらぁっ!」

「わぁ~こわいよぉ~、ごめんよぉ~、許してよぉ~っ!」

 どう考えても、どう見ても、桜子はガチでキレて、大江はガチで喜んでいた。


 社長が珍しく朝から出勤してきた。

 いや、ここ最近では珍しくない。

 労基にこっぴどく叱られ、国税局にもこっぴどくやられて少し意気消沈していた。

 正直、今社長としていられるのも、会社を存続できているのも、大江が庇ってくれたおかげなのだ。だから、今くらいは真面目にしないと社長の座が危ういと思っているのかもしれない。ただ朝から来ても真面目に仕事しているかと言うとそれはそれで別の話だ。

「あ、社長、おはようございます」

 課長があいさつした。続けて一同も声をそろえて、

「おはようございます」

とあいさつした。社長はスマホで何か見てしきりにスクロールして皆の顔を見ずに、

「うんうんうんうん。おはよ。あい。・・ねえ、フェルメールの絵とフェラーリの限定車、どっちがいいと思う?」

と性懲りもなく課長に聞いていた。


「じゃ」

 そんな社長の相手は課長に任せ、桜子はカバンと上着を大江に強引に渡して、

「えっえっえっ? 何?」

 と尋ねる大江をよそに、屈伸運動をして、

「階段で行く」

「なんで、もうトーキング・ヘッいないんでしょ?」

と尋ねる大江だが、なぜおまえが知っている? とツッコむのは野暮な話。

「関係ないのよ」

 桜子は今日初めて大江に笑顔を向けて、階段に向かって走り出した。

 もうさっきの機嫌の悪さはどっか行ったようだ。

(チーン!)

 ここに来てようやくエレベーターの扉が開いた。

 社長が入るが他は入らない。

「何してんの? 入れ、入れ、ほらっ」

 社長はそういうが、こういう場合、正直先に上がって欲しいものだ。

 しかし、この場合、大概社長が気遣いは無用だ、と言う調子で結局強要してくる。

 従うのがサラリーマンというものだ。

「失礼します」

 全員、入ると庫内もそこそこ狭い。しかし、社長のプライベート空間だけは確保しなければならないから、必要以上に他はぎゅうぎゅうになる。

 正直、桜子が階段を使ってくれて助かった。

 ここで女性まで入ると、男はさらに女性のプライベート空間まで確保しなければならない。そうでないと、痴漢だのセクハラだの言われかねない。

 ぶっちゃけ、何が多様性、何がSDGsだと言いたくなる、この世は窮屈でたまらない。

「ん。ん。ん」

 社長はスマホでゆったり何のカタログか知らないが見ている。

(扉が閉まります)

 社長以外、ギューギューの中、無表情で斜め上を一点凝視している。

 庫内にはなんとなくゆったりしたBGMが流れている。

「課長。課長・・。音洩れてます」

 佐藤が注意した。

「え、あ、ごめん」

 課長のヘッドホンの音がただ漏れていたようだ。

 BGMが止んで、庫内に静寂が訪れた。


(プゥー)


 社長が鼻から息を長めに出してスマホから目を離し、皆と同じように斜め上を見た。

 他は鼻ひくひくさせ、やや咳払いをした。


 大江がつぶやくように言った。


「・・くさぁっ」










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