第2夜
一般的に入り口だと認識されている円覚寺の総門へと上がる階段は幅が広く緩やかな石の階段ではあったが、結構な段差になっている。
雨上がりでしっとり濡れた石段には水溜りも出来ていて滑りやすい。
よねのロボット……というかアバターの陸上ドローンがここを上がれるのかと訝しみ、柄にもなく手を差し伸べようとしたのを気付かれたらしい。
「お気遣いありがとう。でも大丈夫ですよ」
ぼくが手を出す前によねがそういうと、本体下のクローラ構造が傾斜をつけながら前に迫り出し、硬質ゴム製のキャタピラが階段の角を器用に捉えながら、ぼくがゆっくりと登る速度と同じくらいの早さで階段を上がり始めた。
「凄いな。日本にはここまでのドローンはありませんよ」
そのスムースな移動に感嘆するぼくを見て、表情のないはずのよねが笑ったように感じた。
「バリアフリー化の進んだ日本よりも台湾の地方はまだまだ悪路が多いですからね」
「はは、理由はともあれ、日本が遅れていると実感させられます。自動運転のシステムでも世界からは立ち遅れていますし」
「私たち台湾の人間からすると、日本はアジアの先達として見習うべき隣人だという認識ですが、今の日本はなぜそんなに遅れたのでしょう?」
「……天才が提示する未来へ進もうとすると。危険性などを理由に足を引っ張る人が多いからかな?」
「出る杭は打たれる、という故事ですか?」
「そういう民族性ですね。それに、指導すべき政治家自体が儲からない職業なので、有能な人物が政治をしないということに理由があるのかもしれない」
実際、官僚一人ひとりは有能なのに、集まって物事を進めようとすると、愚にもつかない物になっているという不思議が存在することをぼくは知っている。マスコミも必要な報道には口を閉ざし、民衆が喜ぶ記事ばかり報道するというのは、某有名芸能事務所の件でも記憶に残るところだ。
日本にも豊かな時代はあったが、それに甘んじて向上する精神をどこかに置いてきたのだろう。
ぼくが身を置く医療の分野でも、2024年の診療報酬大改訂の時、コロナでズタズタになっている経営状態の時に退職金用の加入保険を切り崩して従業員の給料に充てていたくらいのに、その2020年のデータよりも2023年は大幅に収入が回復しているから増加はさせないと財務省が提言していた。折しも、他の業種は10%の給与増加で日本のデフレを改善させようとしているし、最低賃金だけは容赦なく跳ね上げてきているというのに、であった。
医者は儲かっているから、乗っている車をベンツから国産車にしてやる、と官僚が言ったというのは本当のことらしいが、ぼくは元々国産の軽自動車だよ、トホホ……。もちろん、クリニックが流行っていないわけではない。全スタッフが30人もいれば、人件費だけでもかなりの出費があるのだ。
そんな話をしている間に総門の前までたどり着いた。
総門はこのクラスの建物の入口としては質素かつ小さいのではないだろうか。より時代が近い京都の寺社よりも鎌倉は古いためかもしれない。
緑の木々が門の屋根の瓦まで覆い茂り、暗鬱とした空の下で非日常の空気を醸し出していた。
常日頃であれば人が行き交うようなこの場所も、このような天気なのでぼくらしかいない。他の人がいないというのは心に不思議な影響を与えるものだ。
「山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った」
よねが少女らしい口調ではなく、『門』の一節を朗読をしていることがわかった。宗助は主人公の名前だからだ。
「ふふ……もう、山門どころか、総門の前からそんな雰囲気ですね」
彼女の口調からすると、まるで本当に彼女自身がこの場のいるような感じがしてぼくは驚いた。
「視覚だけでそこまでわかるのです?」
そのまま総門の前の段差と呼んだほうが良いような階段を越え、総門の足元の太い木の敷居も乗り越えていた。
敷居を踏んではいけない、というのは、この場合流石に無理だった。しかし、硬質ゴム性のキャタピラは敷居を傷つけることなく乗り越えていたのを確認して、ちょっとホッとする。
「はい。私はVRゴーグルを着けているわけではなく、気温、湿度、風なども再現してくれる全視界型のコクーンと呼ばれるデバイスの中にいるのです。一昔前の日本のゲームセンターの筐体のようなものです」
「それは凄い」
「『第八大陸』のようにアバターを使ってバーチャルの世界に生きるのも良いのかもしれませんが、やはり旅行するなら現実世界が嬉しいですよね」
彼女の言う『第八大陸』は華南共和国発のバーチャル世界のサービスであった。日本でも『YAMATO』というサービスが最近デジタル庁と企業連合の主導で普及が始まっている。
「よねさんは知らないと思うけど、ちょっと前は映画館に映像に合わせて動いたり風が吹いたり水が吹き出したりする座席があって楽しんだものですよ。それを現実の旅行に応用する発想はなかったですね」
「普通なら飛行機で旅行すれば良いのですものね。このシステムは私の父が開発したもので、この海外旅行はテストも兼ねているのです」
なるほど、と相槌をうちつつ、総門を入った場所にある拝観料の支払いの場所でぼくは二人分の支払いをして歩を進めた。
ロボットを連れたぼくを見て、受付のおばさんが好奇な目を向けたが、質問はしてこなかったので、そのままするりと通り抜ける。
電動の地上型ドローンは電動車いすと同じで移動にエンジンを使わないため静音設計なようだ。電気自動車の乗り心地に似ているだろう。
「山門にいきましょう」
山門は階段の上にあり、総門と違って2階建てのような構造でかなり大きい。壁がなく、太い柱の上に建物が乗っているような構造だ。
階段の両側にそびえる背の高い杉の木がまさに空を覆いつくすように新緑の葉を伸ばしていた。
「ふふふ、山門の手前に高い杉の木があるのですね」
山門の前の階段を先程と同じようにして上がりながらよねが独り言のようにそういった。つぶやきのようなその声もコードレスイヤホン越しだと明瞭に聞こえる。
「はは、そう言えば、先ほどの『門』の一節では山門を入ると、と言ってましたね」
「むしろ、山門の向こうは開けていて空を覆うような杉の木がありません……来てみて僅かな差異があるのも面白いですね」
「聖地巡礼の一つの楽しみ方ですか」
「わかりました?」
「ええ、夏目漱石の『門』の主人公は宗助、そしてその細君の名前は御米だったことを思い出しました」
階段を上がるとすぐに山門ではなく、そこは広場のようになっており、立派な木造の山門は小島のように屹立していた。
「当たりです!」
もしかしたら可愛らしく本人は言っているのかもしれないが、翻訳されたアプリ越しの彼女の声は語尾の強調が感じ取れるくらいだった。
「好きなんです。実際の漱石の夫婦生活とは違って、三部作の中でも『門』の宗介と御米は仲の良い夫婦として書かれていますから」
そのまま山門の下に入ると、上に覆い被さるような門の陰になって、彼女のアバターが光るセンサーを除いて黒くなった。
陽がさしていない今は日中といえど暗い。
「足元が危ないからゆっくり進んでくださいね」
一応、そう注意を促したが、光量の補正をかけたのか、彼女のアバターは暗がりをものともせず進んでいく。
そして、山門は直ぐに通り抜けた。
「静かな境内の入口に立った彼は、始めて風邪を意識する場合に似た一種の寒気を催した」
よねがまた「門」の一節を朗読する。
その途端、山門と仏殿の間の広場にちょうど足を踏み入れる形になった。広場とは言っても、途中に段差を埋めるように横に長い階段があるのだが。
暗がりが一気に明るくなる。
「あはは、山門も通る場所は壁がないので、暗いのは一瞬でしたね」
「はい。漱石の記述と比べて、どうですか?」
「正直、やっぱり物足りない気がします」
「その時代から今までの間に拝観寺院となったことで、木々は伐採され、電柱や電線も埋められて、山道は綺麗に整備されてしまっているんです」
実は案内に必要だろうと昨晩円覚寺のホームページを見ていて、その一部である管長の記載を昨日読んだばかりだった。
「なるほど、さすがはろばさん。よくご存知ですね」
「はは……ネットに書かれていたことの受け売りですよ」
そのまま、仏殿の方に進んでいたが、ふと、もう一つ気になったことを思い出した。これもまたネット情報ではあったが。
「そう言えば、円覚寺と漱石と言えば、面白いものがありますよ」
仏殿と山門の間には仏殿に向かって右側の木と木の間に苔むした石の箱のようなものが置かれていた。
山に向かって円覚寺は広がっているため、広場を横切るようなわずかながらの階段を7段上がって、彼女をそちらの方に案内した。
「これは?」
よねが首を傾げるようなイントネーションで聞いてきた。
それもそのはず。すでに打ち捨てられた感がある石の置物に過ぎないのだから。
「昔使われていた手水舎です。神社や寺院で参拝前に手や口を清める場所ですね」
「今は使われていないようですね」
その言葉に頷くと、その側面を指さした。
「この側面を見てください、ほら」
そこに彫られているのは「石」「漱」の2文字。
「……もしかして、『漱石』と彫られています?」
広東語が標準語である華南共和国の彼女だからこそ理解が早い。
「そうなんです。わざわざこれが残されているのは、円覚寺が文豪夏目漱石にちなんで寄贈されたものを置いた。現代の人間であれば普通はそう思います」
「でも、これはもっと古そうですね」
「その通りです。裏を見てみましょう」
そこには小さくなかなか判別しにくい文字が彫られている。
「天保六年と彫られています。西暦で言えば1835年、漱石が止宿する60年も前のものになります」
機械の目を通しているので、よねにそれが読めているかどうかは分からないが、ドローンのカメラのズーム音が微弱にしていた。
「1893年にここ円覚寺に止宿し、1905年に『吾輩は猫である』を執筆して夏目金之助が夏目漱石のペンネームを名乗ったのはこれに由来している……と考えると面白くありませんか?」