汝等こゝに入るもの、一切の望みを棄てよ
Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate.
「汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ」
ダンテ『神曲』地獄篇第3歌
「ウイッチ、どうにかして。まさに地獄の門の前なの」
カミーユが僕にすがるが、さあどうしたものか。
「あなただけが頼りよ。ウイチロー」
ローズ婦人も言うが、こんな状況は僕にもどうにもできない。
僕は小倉右一郎、パリに彫刻の勉強にやってきて、ようやくロダン先生の門下に入った。だがたったの1年でこの有様。
どんな有様かというと、そこの便器に座ったまま息絶えているのがロダン先生、おいたわしや。
奥さんのローズ婦人とロダン先生の弟子で愛人のカミーユ・クローデルが狼狽えている。
「ローズ婦人、やっぱりもうお医者さんと警察に来てもらって、死亡届を出した方が」
「けれど」とローズ婦人。
「駄目なのよ、ウイッチ」とカミーユ。
ちなみに『ウイッチ』とはロダン工房内での僕のニックネーム、『witch』とは皮肉な。
「わかっています。もちろん、今の『地獄の門』を仕上げるまでは、ロダン先生に頑張ってもらわないといけないことくらいは」
僕の言葉にカミーユが大きな瞳を僕に向ける。
「だったらどうにかしなさいよ。自称『最高で最後の弟子』なんでしょ」
彼女、カミーユは僕の兄…いや姉弟子ということになるが、どうにも気に食わない。絶世の美女とパリの噂雀たちの好餌だが、僕のような日本男児からすればこっちの方が本当の『魔女』だ。
24歳の若き天才、カミーユ・クローデル。ロダン工房の秘蔵っ子で、すでに有力なパトロンもたくさんついている。確かに驚くほど大胆で、そのくせ精緻な作品は工房の弟子の中でも群を抜くレベルの高さだろう。もう一人の若き天才、兄弟子のブールデルといい勝負だ。
だがカミーユがこのパリでもっとも注目される彫刻家の一人である由縁は、やはりその醜聞にある。自他共に認める美女(この自分も認めてるところが嫌いだ)であり、ロダン先生もメロメロというまことしやかな噂だ。そして困ったことに本当にロダン先生はメロメロで、この二人の不倫関係は工房ではすでに公然の秘密だ。
本日何故にこんな修羅場となっているのか、それはベルギーの実家からローズ婦人がパリに突然やって来たことから始まった。
ロダン先生は慌てふためいて場を取り繕おうとしたらしいが、愛人と二人でベッドの上にいてどうやって取り繕えるものなのか。
ローズ婦人の話によれば、先生は余裕のある笑顔でこう言ったそうだ。
「やあ、ローズ。女性の体のバランスを実際に触れながら採寸していたのだよ。芸術は奥深いなあ。ハハハ」
…本当に奥深いですよね、先生。
だが、婦人は見逃さない。先生がそのセリフを言いながら手を震わせ、眼を泳がせ、そして顔色を白くさせていたことを。
「そう、オーギュスト。ブリュッセルからわざわざ出てきた甲斐があったわ。あなたの新しいウサギちゃんを見ることができたもの」
カミーユはこんな場面でも落ち着いたものだったそうな。
「あら、奥様。オーギュストは若いウサギのクロッキーがしたかったみたいですよ。何しろもう食肉処理された中古の肉しかブリュッセルにはないんですって」
なぜそんな火に油を注ぐようなことを言うのか、この女は。
で、ロダン先生は「むむむ、突然腹が痛くなった。トイレ、トイレ」と言いながら、個室に駆け込んだというわけだ。
いやいやいや、先生。そんなことで切り抜けられると思ったんですか、あなたは。
二人はその後、トイレに立てこもるロダン先生の前、つまりトイレ前で散々やりあったらしい。僕がこの場に呼ばれたのはその後だから、けっして「口汚く罵り合った」とは自分たちからは言わないが。
まあ、そりゃ先生でなくてもトイレから出てきたくないよね、自業自得とはいえ。
この世で最もひどい悪口の決定戦が行われている地獄に面した個室。それはまさに「地獄への門」だ。その中でガクブル状態のロダン先生を想像し、僕はちょっと同情する。
ロダン先生が呼吸器系循環器系に病を抱えているというのは聞いたことがないので、どちらかのあるいは両方の悪鬼のごとき顔を想像し、それが先生の心臓にとどめを刺したに違いない。
もはや誰の過失かとは言えないし、わかってもどうしようもない。僕個人は先生本人の過失だと感じているから、問題はロダン工房のことに絞られる。
我がロダン工房の大仕事、「地獄の門」…国立美術館のモニュメントとして依頼された巨大な彫刻は9割完成している。残り1割というのが門の上に佇み、この世の終わりを眺める男の像である。
とはいえ、この人物像にロダン先生はここのところ苦悩し、制作がストップしていた。
「先生が最後の人物像を作らない『地獄の門』ではその価値がまったく違ってきてしまうわ」
カミーユが言う。その通り、工房の存亡の危機だ。
「我が家の借金をどうしてくれるの。オーギュストはこの像の報酬でローンを完済すると言っていたのよ」
ローズ婦人が言う。それは…知ったこっちゃないけど。
「とにかく、オーギュストに死んでもらっては困るのよ」
「とにかく、先生にはまだ生きていてもらわないと」
「とにかく、先生は亡くなりましたし」
3人が同時に言ったが、死んだもんはどうしようもないじゃん。
「死んだものはどうしようもないじゃないですか。マダム、カミーユ」
「死んでません」「死んでないのよ」
今度は2人の言葉が重なる。いやなチームワークだ。
「あなたは日本に帰ればすむと思ってるでしょうけど、逃がさないわよ」
僕だってそう簡単にはいかない。ロダン先生のもとで世界的な彫刻家になって、故郷に錦を飾ると決めてパリに来たのだ。簡単に帰ることはできない。
「わかりました。こうしましょう」
「そうしましょう」「それがいいわ」
「まだ何も言ってません」
「カミーユ、あなたは天才だ。悔しいが天才でもあり天災でもある」
「何言ってるかよくわからないけど、間違いないわ」
日本語のダジャレが通じるわけはない。
「あなたが2代目ロダンだ」
「ニダイメ?何それ?」
「新ロダンということです」
ローズ婦人が眼を剥く。
「何でこんな小娘が私の夫なのよ!」
「マダム、違います。ロダンのふりをしてもらうだけです」
カミーユが首をひねる。
「無理でしょ」
「表に出なければいいんです。まったく残念だけど、あなたの人物像なら師匠のものだと言っても遜色ない」
「…それで?」
「これ以降は、ロダンとして生きてください」
「いくら何でもバレるわよ」
「『地獄の門』が完成するまででいいんです。マダムはまだご主人が生きているかのように振る舞ってください」
「私はどうせ、ブリュッセルへ帰れば同じことなんだけど」
「後は工房の者が全力でフォローします。たぶん工房が潰れたら困るのはみんな同じなんで」
カミーユは眉をひそめる。
「何とかしばらくはごまかせると思うけど…私はどうするのよ」
「だからロダンに…」
「違うわよ。カミーユ・クローデルの仕事だってあるのよ。地獄の門の仕事をやってたら何もできないじゃない」
「カミーユ・クローデルには死んでもらいましょう」
「何だと、こら」とカミーユ。
「オホホホホ、それは傑作ね」と婦人。
カミーユは怒り、ローズ婦人は大喜びだ。
「何なら、病気で入院でもいい。とにかくしばらく先生の死を発表するまでは、カミーユが仕事をできない言い訳を考えればいいのです」
「ハア」とカミーユがため息をつき、うなだれる。
カミーユにとってロダンの後ろ盾は大切だ。『ロダンの一番弟子で、もしかしたら愛人?』というのは美味しい肩書きだったかもしれない。
だからこそ正式にロダンの死を発表できることになった後の方が『師であり愛人であったロダンの死を想って哀しみに暮れるカミーユ・クローデル』でいい商売ができるに違いないと僕は説得した。
「仕方ないわね。療養所に長期で行ったことにするわ」
「それにしても…地獄の門の完成まで、あとほんの少しなのに…」
カミーユがロダン先生の亡骸を見つめる。というかまだ先生はトイレで座ったままの格好である。
「主人を楽な格好にしてあげましょう」
ようやく先生を思いやる発言がローズ婦人から出て、トイレに三人で近づく。お気の毒なロダン先生。
「待って。待つんだ。カミーユ、マダム」
「何よ、ウィッチ」
「このポーズはいいんじゃないか、カミーユ」
トイレに座って死後硬直している先生は右肘を左の膝の上に置いて、その手で頭を支えるポーズだ。深く何かに思いを馳せ、人類を代表してこの世のすべての罪を悔いているかのようだ。
「確かにこのポーズは悪くないわ」
「『地獄の門』の上でこの世のすべてを見つめているかのようだ」
「なるほど…」
「まったく奥さんと愛人の板挟みになって、トイレで震えているおっさんには見えない」
カミーユとローズ婦人が同時に笑った。
さて、その後のことだが。
地獄の門は結局未完に終わった。これはカミーユや工房のせいでなく、国立美術館の建設自体が白紙に戻ったのだ。工房にはわずかな違約金が支払われたのみで、行き場を失った地獄の門と借金が残った。
なぜかカミーユは注文がキャンセルになった後もこの『地獄の門』に執着し、ロダンとして完成まで関わった。できあがった人物像は見事な仕上がりでカミーユどころか『ロダンの最高傑作』とまで言われるようになった。
カミーユはその後もロダンのふりで仕事をしていた。その方が収入が段違いにいいらしい。その選択もカミーユらしい。『入院していたカミーユ』はいつのまにか死亡したことになった。
蛇足の話をする。
帰国後、僕は四国の高松工芸学校に長らく勤めた。いつかパリのことは懐かしい思い出になった。
(死んだはずの)ロダン先生はパリでさらに活躍した後、晩年はブリュッセルで待つローズ婦人の元へ帰り、30年後の11月まで生きたということになっている。
ずいぶん長くごまかしたもんだ、カミーユ。
ねつ造されたロダン先生の死の日付は、ローズ婦人の死から9ヶ月後のことだったので、カミーユも最後は婦人に義理立てしたのかもしれない。
「愛人ではなく、ローズ婦人を選んだ巨匠ロダンは愛する妻を追いかけるように穏やかな死を迎えた」のだそうだ。
そのかわりと言ってはなんだが、先生の(これもたぶんカミーユによってねつ造された)最後の言葉が伝えられ、僕は笑った。
先生は『パリの美しくて才能のあるカミーユに会いたい』と呟いて息を引き取ったんだって。
そこんとこは仕返しするんだ、カミーユ。
蛇足の蛇足だ。僕たちがロダン先生の亡骸をモデルに作った人物像は工房では『詩人』というタイトルをつけただけだった。
いつしかこの像は『考える人』というタイトルで世界中に出回っていた。
あの時トイレで震え上がっていたロダン先生は空の上で何を考えているかな。
「このトイレに入るもの、一切の望みなし」とでも笑っているのかね。
読んでいただきありがとうございました。
もちろんこの物語は一切フィクションです。
日本を代表する彫刻家、小倉右一郎先生は(たぶん)日本人としてはただ一人のロダンの弟子ですが、渡仏時はすでに「地獄の門」は完成後で、カミーユ・クローデルとはまったく面識もないのではと思われます。
帰国後、高松工芸高校の校長先生を勤め、代表作には弘法大師像などがあります。没年月日が比較的浅い方ですので念のため。




