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2(市役所とおばあさんと彼女の用事)

 十月も終わりに近づいていた、ある日。

 僕が市役所の窓口近くに座って仕事をしていると、おばあさんが一人でやって来た。時刻は昼近くで、市民課の窓口はすいていた。僕が一番近かったこともあって、すぐに立ちあがって声をかけた。

「どうかされましたか?」

 訊くと、おばあさんはほっとしたような様子で受付け窓口に近づいてきた。品がよくて、人畜無害そうな人だ。髪は半分ほど白くなっていて、「ちょっと困ったことがあって」的な微笑みを浮かべている。市民課の窓口係としては、市役所に用事のある人がみんなこうだったらいいのに、と思うタイプのお客さんだった。

 おばあさんが言うには、戸籍の写しがいるのだという。パスポートを作るのに必要なのだそうだ。

「いえね、孫が旅行に誘ってくれましてね」

 と得々とした表情で語るのを、僕は礼儀正しく謹聴した。いいお孫さんですね、僕も見習いたいものです。

「ええ、そうなのよ。実の子供よりよっぽど気を使ってくれて――」

 話がいささか長くなりそうな気配を察して、僕は訊いた。

「ところで、戸籍謄本ですか、それとも戸籍抄本ですか?」

「……あら、どっちかしら?」

 老婦人は首を傾げた。その仕草はなかなかチャーミングではあったけど、だからといって答えをごまかしていいものでもない。

「パスポート用なら、どちらでもかまいませんよ。値段も同じですから」

「じゃあ、どっちでも」

 老婦人はアヒルにもウサギにも見えそうな笑顔を浮かべる。けど、もちろんそういうわけにはいかない。僕は一応、説明する。

「謄本は原本の写しで、ちょっと詳しいやつです。抄本は抜書きになりますから、それよりも短くなりますね」

 なら抄本にしましょうかね、と老婦人は言った。合意さえ得られれば、手続きに問題はない。相手が金の斧を選んでも、銀の斧を選んでも。僕はにっこりと笑顔を浮かべた。

 そうして戸籍抄本の申請書類の書きかたを教えていると、向こうから志花がやって来た。

「…………」

 僕は書類を受けとると、専用のパソコンのところまで行って、それをプリントアウトした。所定の代金を納めてもらうと、老婦人にそれを渡す。僕も老婦人も、最後はお辞儀をして別れた。ごく平和的で理想的な手続きの完了だった。

 老婦人が行ってしまうと、志花が僕のところまでやって来る。

「何の用だったの、あの人?」

 志花はそう言いながら、婦人の後ろ姿を見送っている。どちらかというとそれは、部屋に見覚えのないものでも見つけた子供みたいな感じだった。

 本当は答える義理も権利もないのだけど、僕は教えてやった。

「パスポートを作るのに、書類が必要なんだそうだ」

 志花は、あまり興味はなさそうに言う。

「パスポートって、市役所で作れるんじゃなかったっけ。何で、帰っちゃうの?」

「証明写真がまだないんだってさ」

 さっき僕が確認してみたら、そういうことだった。

「ふうん」

 志花はまあどうでもいいんだけどね、という感じで言った。まあ、確かにどうでもよくはある。

 それから、僕はあらためて志花と向きあった。

 邪魔にならないように首元で束ねただけの、事務用品と同じくらい飾りけのない髪形。女子としての自覚があるのかどうか疑われる、もっさりとした格好。十人なみの容姿ではあるけど、それを少しでも向上させようと努力するつもりはなさそうだった。

 彼女がこの時間にわざわざ市役所にやって来たのは、特に用事があってのことじゃない。現在、彼女は絶賛無職中で、昼に決まった仕事はなかった。夜中のごく短い時間に簡単なアルバイトをしているけど、たいした問題にはならない。

 もともと、大学卒業後には一時的に就職していたらしい。僕は大学が別で、離れた土地だったから、その辺のことについては詳しく知らない。

 けど何にせよ、無理だったのだ、そんなことは。彼女がまともな職業に就いて、それをまともに続けるなんて、できるはずはなかった。月の形が一億年くらい前からあまり変わってないのと同じくらい、それは確かなことだ。

 別に、彼女の性格や能力に問題がある、というのではない。成績はまともだし(むしろ頭はいいほうだ)、及第点とはいえないにしろ、人あたりが最悪というわけでもない。

 それでも――

 志花には、そういうところがあった。まともに就職して、まともに勤務して、まともに人生を楽しむというのが、想像できないところが。たぶんそれは、クジラが陸にあがらないのや、ペンギンが空を飛ばないのと、同じくらいに。

 そんなわけで、彼女はあっさりと職を辞し、故郷の実家へと戻ってきた。それが大体、一年くらい前の話だ。以来、彼女は特に何をするでもなく、自宅で無為に時間をすごしている。

 とはいえ、彼女のほうでいくら時間があまっていたところで、それは僕とは関係のない話だった。いくら利用者がいないからといって、市役所の窓口はいつまでも知りあいと無駄口をきいていていい場所じゃない。

「――ところで、何か用なのか?」

 僕はちょっとデスクのほうの様子をうかがいながら言った。昼休憩に入ったらしく、いくつかは空席だ。残った同僚も、特にこっちのほうは気にしていない。

「ちょっと、頼みたいことがあってね、タカトーに」

 志花は何となく、言いにくそうに口を開いた。わざわざこんな時間に、こんな場所まで来たのに、だ。

 ……ちなみに、タカトーというのは僕のことだ、念のために。

 ちょっと眼鏡の位置を直してから、僕は志花のほうを見る。発言そのものは曖昧だったけど、彼女の用事が何なのか、その口ぶりからして大体の見当はついていた。今までにも何度か、同じことがあったのだ。

 僕は自然なため息をつきながら、訊いてみる。

「本屋に行くのか?」

「……まあ、そういうこと」

 彼女は何だか変に子供っぽい笑顔を浮かべながら、そう言った。

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