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12(余白のなくなったメモ帳)

 ――志花が目覚めたのは、それから数日後のことだった。

 そのあいだ、僕は普通に仕事をこなしていた。実際的にできることは何もなかったし、神様に祈るほどの信心は持ちあわせていない。まるで自分がロボットになって、自分でそれを操縦しているみたいだったけど、人はそんなふうにでも生きていけるものだった。

 彼女の意識が戻ったと聞かされたとき、そこには大抵の物事がそうであるように、良い知らせと悪い知らせがあった。表だけの紙も、裏だけの紙も、作ることができないみたいに。

 良い知らせのほうは、志花の体に問題はなく、命にも別状はない、ということだった。手術の必要も、長いリハビリ期間の必要もない。たぶん、予後を心配する必要も。

 悪い知らせのほうは、ちょっと複雑だった。それを単純に「悪い」と言っていいのかどうかも判然としない。一種の齟齬がある、あるいは問題は未解決のままになっている、と言ったほうが近いのかもしれない。機械についていた部品の一部が、どこかに行ってしまったみたいに。

 はっきりと、ごく簡単に言ってしまおう。

 彼女は医者が言うところの解離性健忘症にかかった。いわゆる、「記憶喪失」というやつにである。


 志花に現れたのは、逆行性(過去方向)の健忘症だけではなかった。

 それとどれくらい関連があるのかは不明だけど、失声症や軽い退行のような症状も確認された。いずれも心因性のもので、つまりは短期的、効果的な治療は期待できない、ということだ。高校の頃からずっと抱えていた頭痛との関係もわかっていない。

 健忘症のほうは、過去の記憶の大部分について失われてしまっているようだった。何しろ失声症も発症しているのだから、その辺の聞きとりは遅々として進まない。質問に対して、彼女は筆談で返すしかないのだから。確認作業は、不完全な古文書の解読をすすめるみたいに非効率だった。

 おまけに、彼女には退行現象も現れている。

 何にせよ志花が覚えているのは、自分の名前や、家族のこと、いくつかの断片的な出来事だけだった。自分の歩んできた人生についての全般的な知識、ということではほとんどが失われてしまっている。

 それはちょうど、大洪水で世界が水びたしになって、ほとんどのものが水底に沈んでいるような状態だった。方舟に乗せられたのは、ごく限られた範囲の知識や記憶でしかない。ほかはみんな失われてしまって、水が引いたあとも破壊しつくされたままになっている。

 ただし、社会的、科学的な知識は残っていて、自分のいる場所が病院だということは理解している。その他の一般知識についても、同様に。

 彼女の記憶が回復するかどうかは、本人も含めて誰にもわからなかった。たぶん、未来を見通す力を持った、どんな神様にだって。もちろんそれは、僕にも。

 いや――

 そもそもの話、彼女は僕のことなんて覚えていなかった。今までに関わったほとんどすべての人間と、同じように。彼女はもう余白のなくなったメモ帳を捨てるみたいに、僕のことを忘れてしまっていたのだ。

 そして、もう一つのことも。

 彼女は自分が小説を、()()()()()()()()を書いていたことを、忘れてしまっていた。

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