空の名前
―――2019年11月
男の子を拾った。
男の子といっても、もうすぐ30歳になるというバンドマンだ。 そのとき私は、長く同棲していたパートナーと別れたばかりだった。36歳を迎えようとしていた私は、とても傷ついていたのだと思う。 周りは結婚し、出産を経て母親になり、着々と“家族”というものを築き上げている友人たちばかりだったから。SNSには友人の子どもたちの写真がたくさん流れてきてい た。“母親”として成長している彼女たちが、私はとても羨ましかった。誰かに心の底 から必要とされている実感があるであろう彼女たちが。
「ベッドが半分空いているから、良かったら家に来ていいよ」
バーで出会ったばかりの売れないバンドマンだというナオトにそんなことを言ってし まったのも、やけくそな気持ちが半分、そして、人恋しさが半分だったと思う。30半 ばにもなって恥ずかしい話だけれど、仕事の後、誰もいない家に帰るのが本当に寂し くて、誰でも良いから家にいてほしいという気持ちだったのだ。
彼は自分のことを「ナオト」と名乗った。苗字は知らない。ナオトも本名かは分からない。苗字どころか、それ以外のこともほとんど知らない。出身地や趣味や携帯の番号すら。でも私にとって、そんなことはどうでもよかった。
私が家に帰ると、ナオトはいつもベランダで空を見ていた。それが昼間でも、夕方でも、夜でも。ナオトは帰ってきた私に気づくと満面の笑顔で迎えてくれた。私たちは 一緒にテレビを見て、くだらないことで笑い、夕飯を食べて、そして私はベッドに、 彼はソファでそれぞれ眠る。「ベッドが半分空いているから」と誘ったのに、彼がベ ッドで眠ることはなかった。
週末には、近くの動物園に出かけたり、近くのショッピングモールで買い物をした り、ラーメン屋でお昼を食べたり、家でごろごろテレビを観たりして過ごした。外出 先でも、やっぱりナオトは空を見上げることが多かった。
あの日も二人で信号待ちをしていると、ナオトが空を見上げていた。
「ナオトは空が好きなんだね」
「うん。なんだか、子どもの頃からね。空って今この瞬間だけのもので、同じ空はも う二度と見られないって聞いてから、子供心に興奮して。できるだけ何度も空を見上げようって決めたんだ」
そんなふうに純粋な気持ちで空を見上げたことなんて、もう何年も...下手したらもう何十年もなかったかもしれない。私は空を見上げるナオトの隣で同じように空を見上 げてみた。確かに空は綺麗だ。そんなふうに何かを見て綺麗だと素直に思えたのは、とても久しぶりな気がした。秋の空は高く、雲が青い空に線状に広がっている。あれ は、うろこ雲だろうか...。
「いわし雲だね」
空を見上げている私に気づいて、ナオトがそう言った。
「そうなんだ。うろこ雲かと思った。でも、雲の名前なんて全然知らないけど。ナオ トは詳しいね」
「うろこ雲もいわし雲も巻積雲だからほぼ同じなんだけどね。違うのは形だけ。ほら、細長い雲が集まっていていわしの群れみたいでしょ?だからいわし雲なんだって」
ナオトの隣にいるのはなんだか心地が良かった。こんな日々がずっと続けばいいのに ...という言葉は、それでも決して口には出さないようにしていた。口に出したらナオ トは消えてしまうような気がしていたから。そして、この生活にいつか終わりがくること、終わらせなければいけないことを、私はどこかでわかっていた。
「僕たち家族みたいだね」 信号が青になって歩き出したナオトが言った。家族。姉と弟といったところだろうか。「そうだね」と答えたけれど、私の胸は小さく傷んだ。恋人という関係には、結婚して家族になるというような“続き”があるけれど、家族にそれ以上の続きはない。 恋人でもない今の私たちが家族なら、この関係にこの先はないとナオトに言われたよ うな気がしたのだ。でも、私がそのとき欲しかったものは恋人ではない。家族だったのだ。
その日はハンバーグの材料を買って帰宅した。
「おかえり」
ナオトはやっぱりベランダにいた。
「繁忙期でも同じ時間に帰れるんだね。冬休み前は繁忙期になるって言っていたよね?」
「うん。忙しくはなるけど...。私は派遣社員だから、残業はないの」
「そっか。でもどうして派遣社員をしているの?仕事が好きだって言ってたのに」
「前に付き合っていた人と結婚するつもりでいたから。結婚したらいろいろ融通がきく派遣社員の方がいいと思って。子どももすぐにできるだろうなんて思ってたし。で も結局振られたんだけど。バカみたいでしょ。そんな先のことなんて考えないで、もっと今に目を向けていたら良かった」
少し間を空けてからナオトは言った。
「そんなことないよ」
そして続けて、だって優しい人だもん。こんな俺を家族みたいにこの家に迎えてくれ て、と。
それから、私たちはハンバーグを食べた。ビールも飲んで、くだらないバラエティ番 組を見て笑って、そしていつものようにベッドとソファで眠った。 「今日食べたハンバーグが今まで食べたもののなかで一番うまいものだな」と眠る直 前にナオトがつぶやいた声が聞こえた。
その翌日、ナオトは消えてしまった。小さなトランクを残して、二度と戻ることは なかった。ナオトに出会った季節が変わり、真冬になろうとしていた頃だった。
いつかこんな日がくる。私はずっと覚悟していたから、大きなショックは受けなかっ た。ナオトは、同棲していたパートナーが去って本当に寂しくて、卑屈になっていた 時期に神様が貸してくれた天使だったのかもしれない。ナオトとの生活を経て、見上げた空が綺麗だと思えるくらいに、私の心は元気になっていたのだから。
―――2020年4月
世の中は目まぐるしく変わってしまった。
1月に中国で発生した新型コロナウイルスはあっというまに世界の脅威となった。日本でも、連日感染者数が更新されていき、 国と国との行き来はなくなってしまった。
私が“旅行会社の派遣社員”という職を失ったのは一度目の緊急事態宣言が発令される 直前のことだ。当然、二人暮らし用のアパートに住み続けられるわけもなく、私は狭 いアパートに引っ越しを決めた。
引っ越しの朝に、私は初めてナオトが残した小さなトランクを開けることにした。それまで、開けることも、捨てることもできなかった。もしかしたら、ナオトがここに 帰ってくるかもしれないという小さな希望があったからだ。この小さなトランクが私 とナオトを繋ぐ唯一のものだったから。
でも、引っ越してしまえば、私をたずねてくるのはもう不可能だ。ナオトは自分のことをほとんど何も話さなかったし、共通の友達すらいない私たち二人を繋ぐものは何もない。何が入っているのかを確認したらトランクも中身も捨ててしまおうと思っていた。きっと 不要なガラクタだろう。大切なものは持って出て行っただろうし、置いていったまま 戻らないということは、不必要なものに違いないのだから…と。
そうしてそのトランクを開けた私は、思わず小さく声を上げてしまった。
そこには、そのとき手に入れることが難しかった、マスクや消毒液、ウエットティッ シュが敷き詰められていたのだ。
私はそれをぼんやりと、いつまでも見つめていた。
―――2032年11月
コロナ禍は結局数年間続いた。世の中はとても不安定だったけれど、私は小さな会社の正社員になることができ、心機一転仕事に精を出した。夫と結婚したのは、2026年 のこと。私は43歳になっていた。子どもを産むことや、家族を作ることはすっかり諦 めていた私に人生最大のギフトが贈られた。夫には3歳の息子がいたのだ。夫の前妻 は、出産直後に亡くなったという。
息子と出会ってから数年は、それはそれは大変な毎日だった。それまで夫方の祖父母 に育てられていた息子は私に全くなつかず、祖父母の家に帰りたいと大泣きして、毎 日悪魔のように振る舞った。だから、初めて私のことを「お母さん」と呼んでくれた 日のことは、死ぬまで、いや、死んでも忘れないと思う。そんな息子も今年で9歳に なる。
私はハンバーグの材料を買ってスーパーから家までの道のりを歩いていた。 「お母さーん!!」 後ろから、聴き慣れた声が聞こえた。友達と公園で遊んだ帰り道の彼は満面の笑顔で 私に駆け寄ると
「お母さん、今日の夕飯なに?」
と聞いた。
「ハンバーグだよ」
「よっしゃあ!俺、お母さんの作るハンバーグが一番好き!!!あ、見て見て!夕陽 が綺麗!あぁ、敦樹くんとジャングルジムの上から見れば良かった。明日は10分長く 公園にいて、一緒に見ようっと」
「うん。それがいいね。でも、今日と明日の空は違う空なんだよ。同じ空はもう絶対 に、二度と見られないんだよ」
「え!?そうなの!?」
「うん。それに空や雲にもいろんな名前がついているの」
「え!?じゃあ、あの雲は?」
うすい青空と夕焼けのオレンジ色がグラデーションになっている空に、細い雲が連な っている。
「う~ん...。あれは、いわし雲かなぁ。でも、お母さんも詳しくないの。そうだ!今 度の土曜日に図書館に行って、雲の本を借りてこようか?一緒に空の名前を覚えてみ ない?」
「うん!!覚えたい!!図書館の帰りにはお昼にラーメン食べたい!」
そう言って彼が笑う姿を見て、私はなんだか胸がいっぱいになった。
そう。彼が私の世界で一番大事な愛息子だ。彼の名前は彼を産んだ母親が妊娠中に名付けていたそうだ。
私の宝物、彼の名前は「治斗」という。