夢の中でだけ逢える彼女
荒廃とした気持ちで、世の中が動き始める時間に眠りについた。
俺にはひどい入眠障害があったが、その日は驚く程にすんなりと、泥に沈み込む様に意識を消していった琴を覚えている。
半覚醒状態の意識……薄茶色の世界を知覚する。
眠りにつくのが早くても、俺はこうして、三十分に一回くらい目覚めて寝返りを打つ。無意識で違った方向を向いている事は、都会に出て来てから無くなった。
だからいつもの様に、夢と現実とが入り混じった世界で、俺は寝返りを打った。
「ん」
いつものベッドで、左から右向きへと寝返りを打ったその時、俺の足元に人肌だとわかる何かが触れた。
薄目を開けて足元を見ると、夏のセーラー服姿で、ベットの隅で三角座りをした彼女に気が付く。彼女は背が高く、美しい黒髪は長く、体は細くしなやかで、胸が大きかった。こうした微睡みの中で彼女に会うのはこれで何度目かで、安堵と共に、俺を満たしてくれるという事は明確に理解していた。
当たり前のように服を脱ぎ始めた彼女が、俺の足にペタペタと、羽のように軽く掌を触れる。
「また来たよ」
「……」
……また来てくれたんだ。そう思うと心が高揚した。俺の荒み続けるこの気持ちが、荒れ狂う海原の中、静かに休める沖を発見したかの様だ。
明日にはまたここを出立せねばならないが、この一時でも、俺はここで休みたいと思った。
だが――
「夢だろ」
どうしようもなくあるこの既視感。微睡みの感覚の中で、薄ぼんやりと俺は、裸体になった彼女を見下ろす。
しかしなぜだろう。俺の視線はさまよい、彼女の顔をハッキリと確認しようとしない。美しい絹のような髪が流れていくのを、伏せたまぶたで眺めている事しか出来ない。
俺には期待があったのだ。明らかなる期待があったのだ。夢と現実とのこの半覚醒状態にて、意識がどちらに傾こうか迷っている。俺がハッキリと動いたり衝撃を与えたりしたら、この夢は崩落して、あの荒んだ現実へと戻されてしまう確信がある。
俺は無駄だと知りながらも、それでも信じていたかった。僅かな一瞬でもいい。あの現実を忘れ、喜びに満たされたかった。
「夢じゃないよ」
俺の耳元で、安堵を与える彼女のささやき声。
彼女はその艶っぽい唇で、俺の言ってほしい言葉を垂れながら布団をめくり始めた。
「そうか、そうだといいな」
俺はそう言った。薄茶色の世界は、確かに俺の部屋を映し出している。カーテンから木漏れ日が入って、中途半端に部屋を照らしていた。
これから俺と彼女との間で行われる行為の前に、立ち上がってカーテンをしっかりと締めていく。
不思議な事に、これだけのアクションを起こしても、世界も彼女も変わらずそこにあった。こんなに大胆な行動を起こしたりすれば、これまではたちまちに消えてしまっていたのに。
ベットから降りた彼女は、机やら座椅子を押し出して、寝転がれるスペースを作った。俺もそんな彼女を求めるようにベットの下に降りながら……それでいて、ガッツイてるとも思われたくなくて、テレビをつけて、見るでもなく眺めるフリを始めた。彼女は行為の前に、ワンルームの狭いアパートを歩いていって洗面所に入ると、歯磨きを口に咥えながら俺の足元に座り込んだ。俺の右の足元に、柔らかな肌の感覚を与えながら。
「今のアナタの一番は私?」
「あ?」
「二番が▲▲ちゃん?」
「……あの人はそういうのじゃなくて。いや、そもそも多分俺では無理で」
俺はいま、彼女に満たされていた。確かに覚えのある現実の女の名前を言われ、彼女が本当にそこにいるかのような、……いやむしろ、現実性が遠のいたかの様でもある、不可思議な感覚に囚われていた。
ただ俺の気持ちをここまで高揚させる彼女を、失望させたくなかった。だから俺は、自分でも思い至らぬ未知なる本心を彼女へと投じていた。
「お前が……死んでなければ……全部丸く収まったんじゃないか……お前さえ生きていれば俺は……」
「そういう事じゃないでしょ」
ピシャリと言われた。だけどそこに、攻撃的なニュアンスは一切感じなかった。あるのは何故か俺を心底安定させる、温かな声音と抑揚のみ。なぜ知っているのか、なぜ分かるのか……誰とも判明せぬままの彼女に、俺は無二の安定を貰っている。
――そう、まるで彼女が、長く当たり前のように連れ添い続けた、パートナーであるかの様に……
「そういう事じゃない……か……」
いつまでも、シャカシャカとやって終わらない歯磨きを、俺は待ち続けた。いつもの夢なら、とっくに目覚めている筈の長い感覚……足元に温かな彼女の温もりと、戯れのように腕や乳を押し当ててくる感覚だけが残る……
はやく……はやく……
この夢が覚める前に、はやく……
ようやく歯磨きを終え、席を立った彼女が洗面所に消えていった。
彼女が帰ってきたらその時、俺は獣のようにむしゃぶりついてやろう。
ふと、また部屋がチラチラと明るくなっている事に気が付いた。
見ると、衣服を詰めたラックの背後。小さな窓のカーテンが片方落ちている。俺はしゃがみこんで遮光カーテンを拾い上げると、一瞬窓の外を見た。
錆びた太陽が俺の目を突いた。背後から、俺に歩み寄って来る最愛の気配を感じる――
早く……はやく………………
――――
『〜〜〜』
顔に押し当てた毛布。真っ暗な世界。先程までの光景が余りに克明だったが故に、思考の整理がつかないでいる。
……やがて、そこが現実か夢かと気付き始めた俺は、それが受け入れ難くて、しばらく目を瞑り、夢に帰ろうと試みていた。
「……」
外から聞こえた通行人の微かな声に、現実に連れ戻された。
よく考えると、彼女と居たあの部屋の間取りは、都会に出てくる前の家のものであったと、起きてから気付いた。
荒涼とした世界に連れ戻され、俺は毛布に顔を埋めながら囁いた。
「…………ほら、嘘じゃないか」
目の裏に、彼女の体が見える。
耳の奥に、彼女の声が残っている。
足元に、彼女のぬくもりがある。
心の底では、彼女とはもう、住む世界が違うと確信している。
だから……
立ち上がり、カーテンを開けると、忌々しい太陽が俺に光を浴びせた。時刻は十一時十四分。
腐った世界を眼下に見下ろし、俺は夢見心地のまま、ベランダから飛び立った。
彼女の気配が消え去らない内に……
彼女に逢いに行く為に。