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世界でいちばん幸せな死  作者: 桃月 成美
2/2

2話


 糸が切れた人形のようだ、と思った。


 操る人間を失い、プツンと糸が切れ、後に残るは、ただの意思のない物体でしかない。しかし、人間には意思がある。その意思を取り戻さないといけない。アリアは王子を見て、強く思った。


 先日亡くなられた王妃殿下は、可憐で清楚な方だったと聞いていた。穏やかな物腰で城に勤める者にも優しく、慈善活動にも積極的に取り組まれ、民衆からも支持を得ていた。

 しかし母としてはかなり厳しかったと、カタリーナは語った。幼い頃から殿下を教育し、嫌だと泣きわめいたら容赦なく折檻した。見るに堪えて、乳母であった女性が抗議するも、彼女は城を追い出された。成長するにつれ、どんどん王子から感情がなくなり、幼い頃から王子を見ていたカタリーナも、王子の笑顔を思い出せなくなっていた。


 なんてこと、とアリアは口を押さえた。

 王家の尊いお方のやることに異を唱えるつもりはないが、それにしても酷い。のびのびと育ったアリアには考えられないことだった。


 物心ついた時から母親に支配され、自我を奪われた王子は、どうしたらいいかわからなくて途方に暮れているのだろう。

 アリアはぎゅっと拳を握りしめた。


 

 

 ソファで眠ってしまった後、王子はそのまま次の日の朝まで昏々と眠り続けた。

 満足に寝ていなかったのだろう。心なしか、目の下の隈も薄くなった気がする。


 本当は許可もなしに王子殿下の寝室に侍女が立ち入ってはいけないのだが、今侍女がアリア一人しかいないうえに、体調を崩していないか確認しないといけない。実の弟と同じように接しようと決めたアリアは、とりあえず堅苦しい規律は忘れることにした。


 前髪を優しくのけて、額にそっと触れる。

 特に熱くはない。アリアはほっとして手を離した。


 「あら、お目覚めですか。おはようございます、殿下」

 

 人の気配で目が覚めたのか、王子が寝ぼけまなこでアリアを見た。寝起きのぼんやりとした意識が徐々に覚醒してくると、王子はにこにこと微笑んでいる女性に気づいた。誰だろう、と記憶をたどってみると、昨日の午後に新しく配属された侍女だと思い当たる。


 「熱はないようですね。どこか痛いところとか、お体が重いとかありますか?」


 王子は不思議そうにアリアを見た。今まで侍女にこんな質問をされたことがない。

 王子は首を振った。

 そうですか、とアリアは頷くと、立ち上がってカーテンを開ける。眩しい朝の光が一気に部屋中に満ちて、王子は思わず目を覆った。ここずっとカーテンを閉ざし、暗い部屋の中で過ごしていた王子は、久々に感じる光に、なぜだかひどく温かいと思わずにいられなかった。


 テキパキと動く栗色の髪の女性は、王子の身支度を手伝い、目覚めの紅茶を用意し、朝食を準備し始めた。王子はぼんやりと侍女を見つめ、ふと、冷めかかっていいる紅茶に気がつく。透き通ったオレンジ色の水面に、思わずカップに手が伸びる。一口飲んでみて、おいしいと思った。今まで飲んできたどの紅茶よりも、おいしかった。


 用意された朝食はとても簡素だった。

 

 「ここ最近、あまりお食事を口にされてないと聞いて、胃にやさしいものをご用意しました。普段のお食事に比べると味気ないかもしれませんが、王族専属の料理人の方が特別にお作りしたものですから、不味くはないと思いますよ」


 王族専属ともなれば相当の手腕だろう。料理人が聞いたら憤怒しそうな言葉である。

 にこにこと控えているアリアを見て、王子は料理を口に運んだ。王子はいつもと違う点に気がついた。料理が温かいのだ。「あ、毒見はきちんとしてもらいました」とすかさずアリアが言う。

 先ほど、王子が紅茶を飲んでいる間に、アリアが「品数が少ないんだからとっととして!料理が冷めるでしょ!」と毒見係の口に料理を一気に突っ込んでいたのである(王子は気が付いていない)。いつも通り、ゆっくりと毒見を行うはずだった毒見係は目を白黒させ、やっと嚥下すると同時に部屋の隅に追いやられた。


 毒見をさせると料理が冷める。しかし、王子という身分がら、何が起こるか分からないというのは常に意識しないといけない。しっかりと警護されている王子を狙うとしたら、まず料理なのだ。アリアは何か名案がないかと考え込んだ。


 一方の王子は黙々と料理を食べていた。

 

 今までの食事は、侍女が目を光らせていた。彼女たちは全員王妃の息のかかった者で、王子の一挙一動を常に監視し、王妃に報告していたのだ。それに気づかぬ王子ではない。息が詰まる食事はほとんど味も分からず、王子にとって食事とは腹を満たすための作業だった。

 

 控えている侍女をちらりと見る。

 まだにこにこしているのかと思いきや、今度は何やら小難しい顔で固まっていた。侍女長のカタリーナに紹介されたとき、面倒な者が来たと煩わしく思っていたが、一日も経たないうちに、彼女は今までの侍女たちとは違うと薄々分かった。

 

 少し癖がある栗色の髪は後ろで一つにまとめられ、大きな水色の瞳とうっすらと色づいた唇が愛らしい女性。何よりも、彼女が身にまとう春風のような雰囲気が、王子の強い警戒心を一日も経たずに解いていた。王子自身、嫌悪感を抱かないうえに受け入れ始めている自分に驚いていた。


 朝食後、アリアは王子に声をかけた。

 「殿下、今日は天気がよろしいので、庭園を散歩しませんか?」


 王子は体調不良ということになっていて、講義はしばらくお休みになっていた。しかし確認してみると、他に予定は立てられていない。ぼんやりと座っている王子を見て、アリアは考えた。弟たちは毎日毎日猿のように駆けずり回って、木剣を振り回したり取っ組み合ったりして遊んでいる。さすがに王子殿下を野猿と同等にするのはだめだが、何もしないというのももったいない気がするのだ。


 王子は「ていえん……」と繰り返した。耳慣れない言葉だ。外を見れば、確かによく晴れている。眩しい陽光がさんさんと降りそそぎ、目に見える景色を色鮮やかに染めている。

 

 「侍女長にも許可を頂いてます。春に近づいて随分と暖かくなったし、上着を羽織れば大丈夫でしょう!植物っていいんですよ~リラックスできて新鮮な気分になるんです」


 断る理由も特になかった王子は、キラキラした瞳で見つめられて思わず首を縦に振った。王子が承諾したと見るや、アリアは再びテキパキと動き始めた。あれよあれよと準備が整えられ、王子は部屋の外に出た。部屋の前にいた騎士に先導されて、アリアとともに庭園に向かう。


 不思議な気分だった。王城の廊下は何回も歩いたはずなのに、まるで初めての場所のように思える。壁に掛けられた絵画、花瓶が置かれているのも、絨毯の模様も。

 しばらく歩いて、騎士が止まった。

 アリアが感嘆の声を上げた。


 「まあ……!着きましたよ殿下。なんて素敵な庭園―――」


 王子がそっと視線を上げると、そこには美しい庭園が広がっていた。


 色とりどりの花々がこれでもかと咲き誇り、庭園を彩っている。大小様々で、色もそれぞれ違う。柔らかな風に身を揺らし、風にさらわれてしまった花びらがふわりと舞い上がる。繊細なはねでひらひらと踊る蝶や、小鳥たちが戯れる様子のなんと自由なことか。美しく整えられた庭園には木々も点在し、夏には豊かな葉で覆われ、秋には赤や黄の服を着るのだろう。小さな東屋もあり、テーブルセットもいくつかあった。


 アリアは微笑んだ。

 王子の薔薇色の瞳が、大きく見開かれ、明るく輝いていたのだ。目の前の景色にすっかり釘付けになっている。よかった。どうやら気に入ってくれたようだ。

 

 「あっ」


 その時、そばの木陰からぴょこんと猫が顔を出した。真っ白な毛並みの、気高そうな猫だ。猫はじっと、青い瞳で王子を見ている。

 一歩、王子が踏み出した。猫は動かない。王子は走り出した。


 明るい日差しの中、少年が駆けていく。


 その様子は、きっと世間では当たり前で、珍しいことではないのだろう。しかし皮肉なことに実母が死んだことにより、彼を縛っていた鎖は解けた。自由を手に入れ、自由を知る。それが王子にとって良き結果をもたらせばいいと、アリアは思う。しかし、王子に生まれてしまった以上、本当の自由は手に入らないのだ。本当の自由を手に入れようとしてはならない―――遠くない未来に、聡い彼は知るだろう。


 胸を痛めてはならない。

 胸を痛めるべきは、侍女ではないのだから。


 アリアは水色の瞳を瞬かせると、王子の後を追った。



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