其の四
職員室から持ち出した鍵で体育倉庫を施錠した後。
五時間目が終わって六時間目の授業が始まっても、あいつは教室に戻って来なかった。普段サボりなんて皆無の奴だったから教師は心配していたが、あたしは知らん顔をしていた。
どうせ放課後には運動部の練習が始まるから、その時に助け出されるはずだ。みっともない格好を笑いものにされればいい。どうせなら全部脱がせてしまえばよかった、なんて残念に思ったくらいだった。
退屈な古文の授業中、机に突っ伏して熟睡していたあたしは、けたたましいサイレンの音で叩き起こされた。校庭に救急車が入って来るのが窓から見えた。グランド隅のプレハブ小屋の前には人だかり。
あいつ、体育倉庫の中で茹で上がってたらしい。陸上部の顧問がたまたま早く倉庫を開けに行って発見したんだそうだ。
たかだか二時間閉じ籠められただけで弱すぎ! エアコンの効いた教室で居眠りをしていたあたしには、炎天下で狭い庫内がどれだけ暑くなるかなんて想像もつかなかったのだ。
それよりも、この後のことが気になった。あいつがあたしたちのことをチクったりしたら……。
「どうしよう」
「あたしたち逮捕されちゃうんじゃない?」
「最初にやろうって言ったのヒロじゃん。あたし関係ない!」
つるんでた友達はみんな動揺していた。他の奴らもあたしたちを見てひそひそ言ってる。みんな知っているのだ。
あいつがこのまま死んでくれることを、あたしは心から願った。
死ね、死んでしまえ。もうここへ戻って来るな。
「あたし……もう死んでたんだね」
膝を抱えてしばらく泣きじゃくった後、雪乃はそう呟いた。低いモーター音と鉄骨の軋みが絶え間なく響いて、体の中まで小刻みに震えるようだった。
観覧車の下、乗降台へと続く階段の裏側である。ピンク色のウサギを何とか撒いて、僕たちはここへ身を隠した。
日出が近づいた今、観覧車の乗客はほとんどいない。一晩の交流は終わり、もう別れの刻限が迫っているのだ。
「ここはそういう場所なのね。死んだ人が……帰ってくる」
雪乃は目を真っ赤にして、時折しゃくり上げる。いつまでも混乱はしない。彼女なりに状況を理解しようとしている。やっぱり賢くて気丈な子だと思った。
その解釈が間違っているとしても、大したものだ。
「雪乃、何か思い出した?」
「うん、あたし……あたし、クラスの子たちに体育倉庫に連れ込まれたんだ。服を脱がされて写真を撮られて……閉じ籠められた」
細い肩が震える。既知の事実とはいえ、僕は怒りで臓腑が煮え滾るようだった。その時に雪乃がどんなに怖い、苦しい思いをしたか想像するだけで気が狂いそうだ。僕には彼女を抱き寄せることしかできない。
「すごく暑くて……どんなに助けを呼んでも誰も来てくれなかった。そのうちに気が遠くなって……そうか……熱中症で……」
悔しい、と彼女は口にした。
「何で死ななきゃいけなかったの? あたし何も悪いことしてないのに、あいつらの遊びの延長線上で殺されたなんて、悔しい。ねえ、あいつらはあれからどうなったの? 警察に捕まった? 罰を受けた?」
「罰を受けてたとしたら、満足かい?」
「満足……じゃない。あたしが生き返れるわけじゃないもの。死んじゃいたいなんて嘘なんだ。本当は生きていたかった……!」
雪乃はまたぽろぽろと涙を零した。大丈夫、大丈夫、と繰り返して、僕は彼女の背中を撫でる。実体のないはずの涙は、僕の胸に温かく滴った。こんな時なのに、大事な雪乃は泣いているのに、僕は怒りの裏側でひどく幸せだった。
ずっと夢に見てきた――こんなふうに雪乃を胸に抱き締める日を。叶わないはずの願いが叶ったのだから、僕は運命に感謝すべきなのかもしれない。
僕は指で雪乃の頬を拭った。かわいそうに、瞼が赤く腫れてしまっている。
「その言葉が聞きたかった。君は生きたいんだね」
「え?」
「夜が明けたら、ちゃんと正しい場所に帰れるよ。それがここのルールだから」
充血した雪乃の目が大きく見開かれた時――。
ぬっ、とピンク色の長い耳が視界に入ってきた。
逆さまのウサギの顔がニタニタ笑っている。奴は僕たちが潜り込んだ鉄階段の上に腰を下ろし、ステップの隙間から見下ろしていたのだ。
「帰れないヨう。その子はもうコッチ側の人間でしょ。ルールを悪用しようトした罰だ。君タチ二人、揃ってペナルティを受けてモラうよ」
狭い隙間なのに、着ぐるみの太い腕が入り込んできた。雪乃が僕にしがみつく。
「二名様、ごアンナーイ」
「待て! 取り引きだ! これをやる」
ウサギはなぜだか生臭い。僕は顔を顰め、尻ポケットから残りの『のりもの券』を取り出した。ピンク色の手がそれを引ったくる。
「それで、この子は見逃せ。埋め合わせどころかお釣りがくるだろ?」
受け取ったウサギは、ぐほ、と変な声を上げた。びっくりしているようにも笑っているようにも聞こえた。青い塗料を塗りつけただけの目玉が爛々と輝き出す。
「気前がイイね、お兄さん。外で待ってるヨ」
雪乃のことなど、一瞬で興味を失ってしまったようだ。現金なピンクのケダモノは、すっとその姿を消した。
これでいいんだ、これでいい。最初からこうするつもりだった。
役立たずの僕が、ようやく雪乃を助けられる。守ってやれる。
「雪乃、安心して行くといい。代償は全部、僕が払う」
僕は彼女を強く抱き締めて、十五年前に失った幸福感を、ようやく噛み締めた。
白い光が鉄骨の間から差し込んできた。
雪乃はハッとしたように自分の掌を見る。透き通る彼女の体は、徐々にその色を薄め、光で描かれた輪郭だけになりつつあった。
夜明けだ。別れの時だった。
僕は彼女の手を握った。彼女もまた強く握り返してくる。
「あなたは……誰?」
雪乃の声はか細く薄く、観覧車の騒音に掻き消されそうだった。僕は答えようとして、止めた。
「知らなくていい。君の苦しみはすぐに消えるよ」
これからやることによって、僕はもう二度と雪乃に会えなくなるだろう。雪乃の方も、今夜の記憶が残るかどうかは分からない。それでも僕と彼女の繋がりは変わらないのだ。
その事実だけで僕は満足だった。
雪乃が何か言ったが、もう声にはならなかった、僕は消えかけた雪乃の額にそっと唇をつけた。
柔らかく懐かしい皮膚の感触は、氷が解けるように消滅した。
同じ瞬間に、『裏野ドリームランド』からは来園者の約半数がいなくなった。
透き通った姿の客たちは、朝日を浴びると投射された映像のように薄くなり、困惑した表情を浮かべて消えていった。
残った人々は彼らの名を呼び、元気でねと別れを告げ、空に向かって名残惜しげに手を振る。愛する人がそこからやって来て、そこへ帰って行ったと分かっているのだ。
透明な水色の夏空は、悲しいほど明るく空虚だった。
階段の下から出て行くと、ウサギが仁王立ちになっていた。
片手に握られたチケットは五枚あった。そのすべてに僕は名前を書いておいた――赤い文字で。
僕は晴れ晴れとした気持ちだった。
「今からもう一回、観覧車を回してくれ」
「ほんとにイイんだね? お兄さんもタダじゃ済まないよ。営業時間外だカラさ、分かってル?」
「もちろん」
僕は迷いなく肯いた。
ウサギはにやりと笑い――もとから笑った顔なのだが本当に笑った気がした――チケットを纏めて捥ぎった。乱暴に引きちぎられる紙束は悲鳴のような音を立てた。
「オッケー! 『裏野ドリームランド』大観覧車へヨウコソ!」
朝日を浴びて止まっていた観覧車が、再び起動する。古惚けた巨大な歯車は、夜の間とは反対方向に回り始めた。
朝の『裏野ドリームランド』はくたびれている。電飾を剥ぎ取られ、古めかしい遊具が剥き出しになった園内は、骨格だけ残して朽ち果てた生き物のようだった。
退場ゲートへと去っていく来園者たちの群れを、僕はゴンドラの窓から眺めていた。
その中には、観覧車で見かけた母子もいた。父親と楽しい一夜を過ごして満足したのか、娘の方は母親の背中で眠っている。二人とも全身びしょ濡れで、ぶよぶよした青白い体は腹が大きく膨れていた。溺死したのだろう、父親をひとり残して。
異形の者こそが、こちら側の住人だった。
転落死した子供も、焼死した青年も、出産で命を落とした女性も、死に別れた者に会えてホッとした表情だった。彼らの愛する者たちは、今頃向こう側で目を覚まし、美しい夢を見たと思うだろう。
会いたいと願う気持ちは、死者も同じなのだ。
僕はそっと自分の胸を触る。服で隠されていはいるが、そこは大きく陥没していた。自業自得の居眠り運転――他人を巻き込まなかったのは、まだしも幸運だったと言える。
半月以上早まった妻の出産に立ち会おうと、赴任先から自動車を飛ばして帰る途中だった。一瞬意識が途切れ、ハッとした時には中央分離帯が迫っていた。無事に生まれた娘を抱く機会は、ついになかった。
それからずっと、僕はこちら側から娘を見詰めていた。見詰めているだけで十分だった。あの子――雪乃は母親と新しい父親のもとで幸せに暮らしていた。自分に本当の父親がいることは知らされておらず、だから僕はここで彼女に会おうとはしなかった。
気丈な妻と、雪乃を実の子同然に愛してくれる男に感謝をして、ただ見守っているつもりだったのだ。
だが、あの子はひどく傷つけられた。
繰り返される理不尽な暴力と、侮辱――子供たちが内包する無垢な悪意の標的に、あの子は選ばれた。そして命すら奪われかけた。
あの子が死者に選別されるより先に、僕はあの子をここに匿い、ルールを利用して夜明けとともに元の世界に返そうと目論んだ。ウサギには見破られてしまったけれど。
あいつ、雪乃を逃して業腹だろうから、かわりを大勢連れて来てやろう。
雪乃も言っていたではないか。あいつらが罰を受けても解決にはならない。よってこれは平等な裁きじゃない。報復ですらない。僕は自分の娘の前から邪魔な存在を取り除きたいだけなのだ。完全な親のエゴで、客観的に見たらやりすぎだと分かっている。
生きていたら決してできないことだ。僕は初めて、自分が死んでいてよかったと思った。
ゴンドラは頂上に近づく。燦々と降り注ぐ太陽が狭い室内の温度を上げて、息苦しいほどだった。
「まずは――川名博美ちゃん」
僕が呟くと、チケットの半券が一枚消えた。