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其の三

 似たような友達とつるんで学校生活をうだうだと過ごしていたあたしは、三年生の一学期、楽しみを見つけた。

 同じクラスになったあいつだ。

 地味でどんくさそうな同級生。髪型から制服の着方から筆箱の中身から、あたしたちとは違うカテゴリーの人間だなってすぐ分かった。ダサくてクソ真面目――周囲にいるのも似たような奴らばかりだった。

 そのくせ、あいつはいつも楽しそうだった。目立たないのに、明るい。大きな笑い声はあたしの耳に触った。


 それで、ちょっとイジってみた。


 落書きされた教科書を前に、あいつは困ったように笑って、静かに消しゴムをかけ始めた。あ、こいつはやっても大丈夫な奴だ――その時そう思った。


 楽しい遊びが始まった。

 持ち物を隠したり汚したり、聞こえるように悪口を言って笑ったり、給食に砂を混ぜたり体育着を破ったり……クラス中が知っていたけど、誰も止めなかった。何人か気の毒そうにしてる奴らはいても、表立って庇いはしなかった。

 そして本人も、毎回曖昧な笑顔で流していた。まるで、これは友達同士の悪ふざけだよ、いじめられてなんかないよ、と自分にも周囲にも言い聞かせるみたいに。

 それが、ますますムカついた。楽しいけれどムカついた。


 三者面談の日、あいつの両親を見た時にその思いは強くなった。優しそうな父親と母親は、あいつを挟んで仲良さそうに話していた。地味なブスのくせに、あたしよりずっと幸せな家庭で育ってきたんだって分かって、許せなかった。

 同じ頃、担任から呼び出されてあいつとのことを問いただされた。変な空気が伝わっていたらしい。あいつがチクったんじゃないことは知ってたけど、友達にはそう吹聴した。


 一回シメとこうという話になって、あたしたちはあいつを体育倉庫に連れ込んだ。

 あいつが悪いんだよ。だって嫌ならそう言えばいいじゃん。抵抗しないから、あたしたちは止め時が分からなくなったんだ。自業自得でしょ。


 あ……あの時は言ってたかな。「ここから出して」って……。





 メリーゴーランドの次はジェットコースターに乗った。今時の過激なコースターに比べればぬるい作りだったけれど、雪乃ゆきのは大声で叫びながら堪能していたようだ。

 僕はといえば悲鳴も上げられなかった。実は絶叫系は苦手なのだ。だいぶ無理してしまった僕が青い顔をしていると、雪乃に本気で心配されてしまった。


 それからコーヒーカップ、ミラーハウス、バイキング船、お化け屋敷、もう一回ジェットコースター……と、彼女は飽きることなく遊んだ。平凡な遊具ばかりで、若い女の子が気に入るかどうか心配していたが、杞憂だったようだ。


「ここ、昔よく行った遊園地に似てる」


 ベンチで休憩しながら、雪乃は懐かしそうに目を細める。頭上では外灯が蛍火のような明かりを灯していた。


 若い女性がベビーカーを押して通り過ぎる。彼女のスカートの裾から転がり落ちたものを、雪乃が拾い上げた。赤黒いそれは、どこかの内臓のようだった。


「あ、落ちましたよ」

「あら、すみません。ありがとうございます」


 彼女はそれを裂けた腹に押し戻して、軽く会釈をした。

 雪乃は会釈を返して、気にしたふうもなく続ける。


「小さな遊園地だったけど、子供の頃は夢の世界みたいに思ってたよ。あたしお父さんの手を引っ張って、次はあれ、その次はこれって、はしゃぎ回ってた。お母さんは私に帽子を着せるのに必死で……すごく楽しかったなあ」


 古い記憶を辿るその横顔は幸せそうで、僕はほっとした。


「優しいご両親なんだね」

「そうでもないよ。お父さんは門限とかうるさいし、お母さんは勉強しないとチョー怒る。何でもできるようにならないと大人になってから困るのよって」

「雪乃ちゃんを大事に思ってるんだよ。うるさがられても、君を立派な大人にしたいと願ってる。親ってそういうもんだろ」

俊彦としひこさん、若いのにオジサンみたいなこと言うんだね」


 雪乃は唇を尖らせた。


「僕は見た目よりオジサンだよ」

「えーやだなー……うん、でも、だからさ」


 ぐるりと天を仰いだ瞳が、ふと足元に落ちた。黒いローファーが落ち着きなく揺れる。


「だから、心配かけたくなかったんだ。お父さんとお母さんに……言えなかった」


 声のトーンも暗いものに変わる。僕はハッとした。


「何を言えなかったの?」

「あいつら……あいつらがあたしにしたこと」


 泣き出しそうに眉根を寄せた雪乃は、


「あいつら大嫌い! 大っ嫌い! あたしが気に入らないならほっとけばいいのに、何でわざわざ嫌がらせするの!?」


 と、堰を切ったみたいに吐き出した。


「学校行くのが毎日辛くて……毎日嫌だった。でも親にも先生にも言えなかったの……知られるのが恥ずかしくて。いじめられてるなんて、自分が駄目な子だと言ってるみたいで相談できなかった。もう……もう死んじゃおうかと思った」


 つぶらな瞳が、縋るように僕を見詰めた。僕もまた彼女を見詰め返す。

 至近距離なのに、呼吸はまったく感じられなかった。体温も臭いも、肉体の存在を映すものは何もない。そこにあるのは雪乃の形だけだった。


「雪乃」


 僕は彼女の頭を自分の胸に押しつけた。体温はなくても、感触はある。僕の手の下で柔かな髪の毛が流れた。一瞬びくりと震えた体は、すぐに安心したように体重を預けてきた。

 彼女が受けた仕打ち、ぶつけられた罵声、踏み躙られた尊厳――僕は全部知っていた。その記憶に立ち向かえなんてとても言えない。

 ならば。


「雪乃、ずっとここにいる?」

「い、いてもいいの?」

「僕も本当は雪乃を帰したくないんだ。ずっと会いたくて会いたくて……ようやく会えたんだから」


 夜空をバックに、ライトアップされた観覧車がゆっくりと回っている。時間を押し流す大きな歯車みたいだ。ルールに従えば、彼女と過ごせるのは後わずか。一秒たりとも取りこぼすわけにはいかなかった。

 雪乃は顔を上げた。僕の問いに答えるかわりに、ぽつりと呟く。


「……あたし、どこかで俊彦さんに会ったことがある」

「だーかーラー、ズルは駄目だって」


 僕たちは同時に振り向いた。


 ピンク色のウサギが立っている。相変わらず満面の笑みだ。その手には数本の紐が握られていて、奇妙な風船がぷかぷかと浮かんでいた。

 雪乃の表情が恐怖に歪み、僕は小さく舌打ちをした。


「死者と生者を入レ替エようとしたって。このウサギの目ハ誤魔化せナイよ。もちろんタダで居座るのも許さない。ゆきのチャン、君に帰る場所はないンだ。さ、ボクと一緒に行こう」


 ひっと声を上げた雪乃の腕を掴んで、僕は立ち上がった。雪乃の目はウサギの持った風船に釘づけだ。

 それは人の形をした風船だった。赤や黄色のゴム人形にヘリウムガスを入れたような。やけにリアルな造形で、男性型も女性型も子供型もあった。それだけならただの悪趣味な風船なのだが――。


「ココカラダシテー」

「イエニカエシテー」


 人型の風船たちは喚きながら蠢いているのだった。ゴムの表面が波打ち、中で何かが激しく暴れ回っているのが分かる。不気味に変形する人型風船は決して破れず、中身の抵抗を封じていた。

 今夜は、僕の他にもズルをした連中がいたのだろう。周囲の客たちは遠巻きに眺めている。


「うるさいなア」


 笑顔のウサギは紐を引っ張り地面に押しつけてから、その大きな着ぐるみの足でどかどかと踏みつけた。下手なタップダンスに似た動きに合わせて、げえっ、げえっ、とカエルが踏み潰されるような音が鳴る。風船の口から赤いものが噴き出して、地面を染めた。

 その赤い色に怯えたのか、あるいは正気に戻ったのか――。


「い、いやあああああっ!」


 雪乃の口から悲鳴が迸った。

 幸せな魔法は、それで解けた。


 彼女は髪を振り乱し、周囲の野次馬たちを見回した。首が折れて傾いた少年、両手両足が赤く焼け爛れた中年男性、ミイラみたいに痩せ細った幼児――今初めて、それが異様な眺めだと気づいたのだ。


「何これ!? 何なの!? 何なのここ!? みんな……みんな死体じゃない! 死体が交ざってるじゃない! 何であたしこんなとこにいるのよう!?」

「雪乃、落ち着いて……」


 伸ばした僕の手を、雪乃は振り払いもしなかった。触れるのも嫌だというふうに、数歩後ずさる。


「あなたも死体なの? あたし死体と遊んでたの!?」


 彼女の愛らしい顔は恐怖と嫌悪に引き攣り、強張った全身が僕を拒絶していた。目には涙すら浮かんでいる。僕は何も答えてやれなかった。


 ああ、こうなるのは当たり前だ。最初に本当のことを告げ、状況を理解させるべきだった。なのに僕は彼女との時間が楽しくて……本来の目的を忘れて彼女を連れ回してしまった。

 雪乃の心を傷つけないための配慮などではない。何もかも自分のためだ。僕はただ、雪乃との時間を取り戻したかったんだ。


「さあて、死体はドチラでしょうカ」


 ウサギがおどけてそう言った。変形した人型風船は再び紐の先に浮かんでいて、もう動かなくなっていた。ウサギの手は紐から滴る赤い色に濡れている。


「キミ、自分の体をヨク見てみなよ」


 雪乃は一瞬固まってから、視線を落とす。水面に映る影のように、儚く透き通った自分の体に。

 初めて気づいたのだろう。雪乃は呆然と立ち尽くす。


「あ……あたしも……なの……?」


 錯乱の治まったその隙を僕は見逃さなかった。

 僕はもう一度雪乃の手を握って、強引に走り出した。東の空がうっすらと白んでいる。

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