其の二
あたしは自分の家族が大嫌いだった。
パパは会社では偉い人らしく、うちはお金には不自由しない家庭だった。
あたしが小学生の頃に引っ越した家は、いわゆる高級住宅街の一軒家。そこに住む暇なオバサンたちはナントカマダムって呼ばれてて、誰の家の旦那がいちばん出世してるか、どこの家庭の子供が最も優秀かそんなことばかり競い合ってる連中だった。
ママもそんなオバサンの一人。だから子供のあたしたちの教育には熱心だった。何でも、近所に住んでるのはみんな大きな会社の社長やら役員やらで、まだリーマンの域を抜けてないパパはちょっと低く見られるんだそうだ。そのぶん、子供を優秀な学校に入れて見返してやりたかったんだと思う。
くだらない。ばっかみたい。何で子供の成績で親の評価が決まるんだよ。
あたしにとって幸か不幸か、三つ年上のお姉ちゃんはママの期待通りの学校に入り、希望通りの進学を果たした。今はお嬢様学校として有名な女子高で生徒会長をしている。
でもあたしは、どうやらママの望みには添えなかったみたいだ。中学受験で失敗し、ごく普通に公立中学に通うことになった。
別に人より出来が悪いとは思ってない。ただ、お姉ちゃんみたいに優秀ではなく、勉強するのも好きではなかった。塾に行くより友達と買い物をしている方が楽しかったし、参考書よりもファッション誌の方がためになった。
そんなの当り前じゃない――お姉ちゃんは心底あたしを馬鹿にしたように言う。勉強よりも遊んでる方が楽しいのは当然でしょ。あんたは今のことしか考えてない。勉強は将来のためにやるのよ。
勉強していい学校に行って、いい男捕まえて結婚するの? ママみたいに? そんでやっぱり子供の成績でマウント取り合うの? 何時代の人間だよ、くだらねー。
遊び呆けていたからあたしの成績は底辺に近く、校則違反で生活指導に呼び出されることもしょっちゅうだった。ママからの風当たりは強かったけど、あたしはますます反抗した。
まったく何で姉妹でこうも違うのかしら――ママはよく呟いていた。育て方を失敗したのねという独り言、あたしはちゃんと聞こえてたんだ。
反対に、パパはあたしにまったく無関心だった。ママがいくら説教をするようにせっついても、まあおまえの人生だ好きにしろとしか言わない。
大らかな振りをして、本当は面倒臭いだけなんだってことは、中学生にもなれば分かった。それにこのオヤジ、浮気してやんの。ベランダで煙草吸う振りして必死にメール送ってんの、見ちゃったもんね。変なスタンプ添付しやがって、まじキモい。
ああもう、何もかも大嫌い。
あたしだけじゃない。あたしの友達はみんな口癖のように言っていた。ウザい。ダルい。メンドくせー。
面白いこともないし、さっさと死んじゃってもいいかなって思ってた。
雪乃は僕が誰だか分からない様子だった。
須賀俊彦、と名乗ってもきょとんとしている。それはまあ覚悟していたから構わないとして、自分に起きたことまで理解していないのは少しばかり難儀だった。ままある話だと知ってはいたが、どう説明すればよいものか。
「あなたは私を知ってるんですか?」
雪乃はやや堅苦しい口調で尋ねてきた。十五歳の彼女にとって僕は十歳以上年上に見えるだろうから仕方がない。だが怖がっている様子はなかった。警戒心やら猜疑心やら、そういう生存本能に結びつく感情は希薄になっているのかもしれない。
「ああ、よく知ってるよ。昔からよく知っている」
「ごめんなさい、ちょっと今思い出せなくて……あたし、何でこんな所にいるんだろう? ここ観覧車の中ですよね」
「ええと……」
「わあ……きれいな夜景。あのジェットコースター乗ってみたいなあ」
返答に困る僕の前で、雪乃は窓に額をくっつけた。半透明の彼女の向こうで、コースターが流星のように駆け抜けていく。ゴンドラはもう地上に近づいていた。
「乗りに行こうか、雪乃……ちゃん」
少し迷った後で『ちゃん』をつけると、雪乃は勢いよくこちらを見た。
「いいんですか? てか、いいのかな、そんなことしてて」
「大丈夫、僕が保証する。朝になったら帰れるから。それとも早く帰りたい?」
「分からない……あんまり帰りたくないような気がする」
雪乃は自分の腕を軽く擦った。それが透けていることには気づかないようだ。
「実はチケットたくさん買い込んじゃって……ほら。これ当日限り有効でさ、一人じゃ使い切れそうもないんだ。手伝ってくれると嬉しいんだけど」
「やだ、何枚あるんですかこれ? 二人でも消化するの難しいですよ」
分厚い『のりもの券』の束に目を丸くした後、彼女は噴き出した。
こんな明るい顔をした雪乃を久し振りに見た。いっそ忘れたままの方が幸せなのかもしれない。でも――。
君を愛している人がいると、思い出してほしいんだよ。
乗降口から階段を下りた所では、ピンク色のウサギが相変わらずチケットを捥ぎっていた。人の列は若干短くなってきたようだ。
「あ、可愛いウサギ」
雪乃が足を止める。確かに大口を開けて笑う表情は愛嬌がある……のだろうが、生気のない青い目は怖い。長い耳を生やした大きな頭が、僕たちの方に向いた。
満面の笑顔のウサギは、しばらく僕たちを見詰める。
「……お客サン、ズルは駄目だヨ」
数メートルの距離を置いてはっきり聞こえた。
着ぐるみの中から漏れた声は、やはり男声か女声か判断できない。冗談っぽい口調なのに背筋が冷えた。
「行こう」
僕は雪乃の手を引っ張って、足早に観覧車から離れた。ウサギはまだこちらを見ている。
園内を歩き出してすぐに、雪乃は僕のシャツの袖を引っ張った。
「ねえねえ、と……俊彦さん」
その呼び方は何だか耳にくすぐったくて、僕はつい口元を緩めた。彼女は焦った様子でスカートのポケットを探っている。
「喉が渇いたんだけど……何かすごく暑くて。それで……あのね、あたしお金持ってないみたいなの」
「ああ、飲み物買おうか」
「ごめんなさい。後で必ず返すから」
「いいよ、僕が誘ったんだから。雪乃ちゃん、炭酸苦手だったよね」
「えー、どうして知ってるの?」
僕は手近な自動販売機に近づいて、硬貨を投入した。雪乃はありがとうと言ってアイスティーのボタンを押した。
カップに飲み物が注がれる間、雪乃は興味深げに行き交う人々を眺めている。僕はその反応が気になった。
遊園地の客の中には、かなりの割合で異様な風体の人間が混ざっていた。風体という表現が正しいのかどうか……少なくとも雪乃の目には奇異に映るだろう。
今擦れ違った親子連れ、真ん中の男の子は上半身が真っ赤に染まっていた。頭のてっぺんが落とした卵みたいに凹んでしまっている。生乾きの血をこびりつかせた顔で笑う彼を、両親が優しく見詰めている。
そこでゴーカートの順番待ちをしているカップル、男性の方が全身真っ黒だった。服も体も黒焦げで、消炭で作られた人形のよう。頭を掻くと、炭化した皮膚がぼろぼろと落ちた。彼女の方が顔を顰め、気をつけなさいよねと窘めていた。
フードコートでアメリカンドッグにかぶりついている少女に至っては、下半身がない。すぐ隣の椅子にハーフパンツを穿いた脚が二本立てかけられている。テーブルの横を通った別の客がそれに躓いて、彼女は慌てて謝った。地面にごろりと転がった脚を、隣でたこ焼きを食べていた別の少女が抱え上げた。
普通の人間には身の毛もよだつ光景のはずなのに、雪乃に怯えた気配はなかった。違和感すら覚えていなさそうだ。彼女はすでにこの特別な空気に取り込まれてしまっているのかもしれない。
アイスティーを一気に飲み干した雪乃は、ほっとしたみたいに微笑んだ。よほど喉が渇いていたんだ。彼女の身に起きたことを知っている僕は、その笑顔が不憫でならなかった。
せめて、楽しませてあげよう。幸せな気持ちで帰って行けるように。
「さあ、何に乗ろうか」
「まずはメリーゴーランドかな。それからジェットコースター」
「いいよ。行こう」
僕が手を差し出すと、雪乃は嬉しそうにその手を繋いだ。
ワルツに合わせて上下しながら、白い木馬が回る。赤い鞍に跨った雪乃は、プリーツスカートの裾を気にしつつも楽しそうに笑っている。
メリーゴーランドはやっぱり古びていて、とても滑らかとは言えない動きなのだが、ガタガタ軋むのがかえって面白いらしい。
「俊彦さんの馬、顔が怖いね!」
目と歯を剥き出しにした木馬の顔は、確かにリアルでちょっと不気味だ。僕が同じような表情を作ってみせると、雪乃はころころと笑った。
可愛い雪乃、愛しい雪乃――本音を言うならば、二度と君をあちら側には帰したくない。ずっとここに留めておきたい。恐ろしい記憶など消してしまって、飽きるまで一緒に遊びたい。
これまで願って願って、叶わなかった望みだ。
「ズルは駄目だヨ」
耳元でくぐもった声が聞こえた。
はっとして顔を上げると、木馬の並んだ円盤の外側、ぐるぐる回る景色の中にピンク色の塊が見えた。
ウサギがいる。長い耳をピンと立てた着ぐるみは、生気のない笑顔で柵の向こうに立っていた。
「園内ルールは守って下さイ。他のお客さんの迷惑にナリます」
僕の乗った木馬が前を通過する度、ウサギはおどけた口調で警告する。きらきらしいワルツの調べにも掻き消されず、その声はひどく近くで聞こえた。
「指示に従ッテもらえないなら、実力行使に出ちゃいますヨー」
ちょっと待ってくれ、と言いそうになった時、メリーゴーランドが停止した。ゆっくりと木馬が下がり、乗客がばらばらと降りはじめる。柵の向こうにウサギの姿はもうなかった。
「結構楽しかった!」
元気よく木馬から飛び降りた雪乃の頭で、二つ結びの毛先が跳ねた。
僕は彼女を引き寄せて、出口まで連れて行った。肩に手を回すと、彼女は少し驚いたように顔を赤くしている。
あのウサギに捕まるわけにはいかない。タイムリミットは夜明けまでだ。