其の一
熱い泥のような空気が全身に纏わりついていた。
埃っぽいマットに突っ伏して、あたしは短い呼吸を繰り返す。ついさっきまで頭が割れそうに痛んでいたが、今は意識がぼんやりして、汗で背中に貼りついたキャミソールを不快に思う感覚も残っていなかった。
ただ、暑い。体の外側も内側も、熱い。
「たす……けて……」
あたしは乾いた声で呟いた。何度も何度も喚いて叫んで、誰にも届かなかった言葉。今さらどうにもならないと分かっていても、未練がましく繰り返してしまう。
薄暗い体育倉庫の中だった。あたしはキャミソールとショーツ、ソックスだけのあられもない姿で閉じ込められている。
制服もスマートフォンもあいつらに持って行かれてしまった。腕に残った時計を見るが、視界が霞んで文字盤が読めない。授業が終わって、運動部の部活が始まるまであと一時間――耐えられるだけの体力が残っているだろうか。
すぐに大声で助けを求めればよかった、とあたしは奥歯を噛み締める。だが、下着姿を見られるのは嫌だったし、閉じ籠められた事実を学校中に知られるなんて死んだ方がマシな屈辱だった。
外は三十五度を超える猛暑日である。狭いプレハブ倉庫の気温はどんどん上がり、蒸し風呂と同じになっていた。ためらってる場合じゃないと気づいた時には、もう体が動かなくなっていた。
両手は赤く腫れ上がってじんじん痛む。開かない扉を必死で殴りつけたからだ。もう精も根も尽き果てて、あたしは走り高跳び用のマットに倒れ伏していた。
茹で上がった頭の中で、思い出したくない光景と音が甦る。
――チクってんじゃねーよブス!
――おかげであたし、呼び出し食らったじゃん。内申に響いたらどうしてくれんだよ。
――ヒロに謝りなよね。
体を小突き回す拳。容赦なくぶつけられるサッカーボール。
それから。
――やっだ、ブスのくせに結構おっぱいでかいじゃん、こいつ。
――ムービー取るから顔こっち向けて。下も脱がせちゃえよ。
耳障りな笑い声。スマホの無機質なシャッター音。
――ばいばーい、これきったねーから捨てといてあげるねー。
剥ぎ取ったブラウスとスカートを摘んだ指。外から鍵が掛かる音。
「……ここから出して……」
細くなる呼吸とともに、あたしはようよう声を絞り出した。
熱で皮膚が溶け、体の中身が外へ流れ出すような気がした。あたしの意識は周囲の熱と同化して、次第に存在を失っていく。
ひどい耳鳴りは、低いモーター音に似ていた。
夜の遊園地は大勢の客で賑わっていた。
古い遊園地である。いつから営業しているのかは知らない。少なくとも、僕がこの町に住み始めた頃にはすでにあり、すでに古びていた。昼間に開いているところは見たことがなく、明るい日差しの下ではまるで廃墟のような場所だった。ここが息を吹き返すのは月明かりの下である。
日没から日出まで、夜間のみ営業している変わった遊園地だ。日暮れとともに、この場所には毎晩多くの客が訪れる。
ジェットコースターにもメリーゴーランドにもミラーハウスにも、乗り口には人の列ができていた。時刻は二十時を回っているのだが、入場ゲートはひっきりなしに新たな来園者を迎え入れている。夏の夜は長く、暑い。
よく言えばオーソドックス、悪く言えば凡庸な遊具の数々が、今はキラキラした電飾に照らされて誇らしげだ。スピーカーから流れる音質の悪いBGMも、かえって味わい深く思える。行き交う家族連れやカップルは、みんな楽しげに笑いさざめいていた。
僕はここに来るのは初めてだった。人気の遊園地だということも、そしてその人気の理由も、もちろん知ってはいた。知っていて、あえて足を運ぼうとは思わなかったのだ。
だが今夜は――僕は巨大な鉄輪を見上げる。今夜だけは来る理由があった。
大観覧車はこの遊園地のランドマーク的なアトラクションである。四十六個のゴンドラが、直系約六十メートルのフレームの周辺を十五分かけて回る。低いモーター音と鉄骨の軋みを響かせ動く黄色いゴンドラは、あちこちに錆や塗装の剥げが目立っても、それも含めて風格があった。
放射線状に組まれた鉄骨の中央には看板が掲げられ、この遊園地の名称がライトアップされていた。『裏野ドリームランド』――光り輝くその看板は、夜ごと多くの来園者を羽虫のように引きつけている。
混雑した園内で、ひときわ長い行列ができているのがこの大観覧車だった。と言うより、来園者のほぼ全員が目当てにしてる。入場ゲートを潜った客たちは真っ先にこれに乗り、それから他の遊具へと散らばっていく。
大勢が並んでいるにもかかわらず、行列は奇妙に静かだった。家族連れもグループもいるのに誰も会話を交わさず、時折手元のチケットを確認しながら、ひたすら列の先を眺めている。強張った面持ちの者が多いが、それは待ち時間に対する苛立ちではなく、ひたむきな期待の表れだ。僕もまた同じような表情をしていると思う。
明るい雰囲気の遊園地で、ここだけがある種の緊張感に包まれていた。
僕の前に並んでいる母子二人連れの、娘の方が退屈そうに母親のスカートを引っ張った。母親は人差指を口に当て、五、六歳くらいの娘を優しく窘める。
「もうすぐだから我慢しようね、まさみ。ほら、チケットを見てくれる? ちゃんと名前書けてるかな?」
「なか……がわ……えーと、これ何て読むの?」
「なかがわまさし、と書いてるの。この『まさ』はまさみの『まさ』とおんなじ字なのよ」
唇を尖らせながらも、女の子はチケットをまじまじと見詰める。
微笑ましい光景に釣られて、僕もポケットから自分のチケットを取り出した。『のりもの券』と印字された分厚いチケットの綴り、そのいちばん上の券を切り取る――大丈夫、書き間違いはない。
列はもどかしいほどのろのろと進み、僕はようやく乗降口に続く階段の前に辿り着いた。
「大観覧車へヨウコソ!」
ピンク色の着ぐるみが陽気に挨拶する。遊園地のマスコットキャラらしい。黄色い蝶タイをつけて縦縞のズボンを穿いた変なウサギだ。笑いの形に開いた口は真っ赤に塗られていた。
「お兄サン、お一人様ですカ?」
慣れ慣れしい声は男のものか女のものかよく分からない。一人ですと答えてチケットを差し出すと、ウサギはその裏面を確認する。
「さがみゆきのちゃん、デいい?」
「はい」
「じゃあ前の方に続いて進んでネ。楽しんで!」
着ぐるみのくせに、ウサギは器用にチケットを捥ぎった。返却された半券には『相模雪乃』。
入園ゲートで僕自身が書いた、最愛の女の名前だった。
階段を上って乗降口に近づくと、ブーン、とモーター音はますます大きくなる。低周波というのだろうか、腹の底が振動するような音だった。
昇降口では、水玉模様のつなぎを着た案内係がさっきの母子を誘導していた。ちょっと不安になるような軋みをぎしぎし響かせて、彼女らを乗せた黄色いゴンドラが上っていく。
次にやって来たゴンドラからは、高校生くらいのカップルが降り立った。彼女の方がよろめいて、彼が慌てて手を取っている。二人は見詰め合って照れ笑いを浮かべた。
あれは彼女の方がそうだな――僕には一目で分かった。
ミニスカートを穿いた少女は全体的に色素が薄く、ガラス板に描かれた絵に似ていた。僕の前を通り過ぎていく時、うっすらと背景が透けて見えたほどに。
空になったゴンドラは扉を開けたまま僕の前にやって来る。案内係に案内されて僕はタイミングよく乗り込んだ。
「運行中は危険ですのでお席を立たないようにお願いいたします。それでは行ってらっしゃいませ」
定型句とともに扉がロックされる。僕はプラスチックの硬いシートに座って、ひとつ息を吸い込んだ。
ゆっくりゆっくりゴンドラが上昇を始めると、アクリルガラスの向こうに遊園地の夜景が広がる。
電飾に縁取られた遊具の数々はオレンジ色に発光し、薄闇を暖かく照らしていた。賑やかなBGMや人の声は、地上から遠ざかるにつれてフィルターが掛かったように弱くなる。回転木馬の屋根の縞模様、ジェットコースターの楕円ループ、三日月みたいなバイキング船の軌跡――どれも現実感に乏しく、行き交う人々は小さな人形のように見えた。
作り物めいた景色を眺めながら、僕は自分が震えていることに気づいた。緊張のためだ。今からやろうとしていることの危うさに、今さらながら怖くなる。でも尻込みするわけにはいかなかった。
雪乃、迷わずここに来てくれ――。
僕は彼女の名前が書かれたチケットを握り締めて、正面の空席を見詰めた。
ゴンドラはさらに上昇し、ひとつ前のゴンドラが頂上に達した。目をやれば、あの母子の他にもうひとつ頭が見える。男性のようだった。母親が何やら話しかけている。しきりと目元を擦りながら。
彼らが下降し始めると、続いて僕の乗ったゴンドラが頂上を通過した。
手の中で、チケットの感触が消えた。しっかりと握っていたはずのそれは、いつの間にか白い靄になって空気に溶けていた。
驚いて視線を落とし、再び上げた時、正面のシートには彼女がいた。
細い輪郭の顔、円らな瞳と小さな唇、両耳の横で結んだ長い髪――僕の知る彼女そのままの姿で、だが少し痩せただろうか。もともと色白だった肌がさらに色を失って、蒼褪めて見えた。着ているのは学校の制服らしい。白いブラウスから覗く腕はひどくか細い。
「……雪乃」
きょろきょろと辺りを見回す彼女に、呼びかける。彼女は僕を正面から見て、
「誰?」
寝惚けたみたいな声で呟いた。華奢な上半身の向こうに、暗い夜空が透けて見えた。
『裏野ドリームランド』はあの世とこの世が繋がる場所だった。
もともとそういう土地に遊園地ができたのか、あるいは遊園地に人が集まるようになってからそうなったのか――ここでは、別の世界に住む魂たちに会うことができた。
いちばん高い場所、大観覧車の頂上で、死に別れた人間が現れる。この町の住人ならば、にわかには信じがたいその話が真実だと知っていた。
たとえその逢瀬が一晩限りのものであり、園内から出ることもできないと分かっていても、人々は愛しい相手の名前を握り締めて黄色いゴンドラに乗り込む。すると、戻って来たゴンドラからは一人数を増やした乗客が降り立つのだ。
園内では毎晩、明らかに透き通った人影が客に交じって楽しんでいる。恋人や親子や友人や――関係性は様々だが、楽しげに会話を交わしながら、生者と死者は同じ夜を過ごすのだった。