悪の組織:2007/8/23:議事録 夏休み 母親を殺した話
女性の嬌声が聞こえる。 いつもはうるさくて仕方がないようなセミの声は、今にしては小さすぎるぐらいだった。
机の上に置いてある置き手紙と千円札。 善がる声を聞きながらそれを手に取る。 財布などと気の効いたものはないのでそのままその二つをポケットに突っ込んでからコップを軽く洗って、そのまま水道水を入れて口に含む。
ぬるく美味しいもののはずはないが、寝ていて乾いた身体の渇きをどうにかするだけには充分なものであり、眠気を覚ます効果もあるのだからこれ以上は望むべくもない。
少女は臭う性に顔を顰めてから、一応は母が浸けてくれていた洗い物を済ませ、そのまま顔を洗い歯を磨く。 出来たら嫌なことだったが、洗面所は出くわす可能性があるため仕方がないと割り切る。
衣服は寝間着や部屋着などないため学校に来ていく普段着と変わらない。 長袖のパーカーに長ズボンと夏の暑さには厳しいものがあるけれど、冬に寒いのよりかは幾分かマシだった。
ぶかぶかと表すのが正しいほど大きなパーカーは貰い物だけれど、持っている服の中だと一番マシであることもあり、気分は悪くない。
髪がだいぶ伸びてきたことに気が付き、適当にハサミで短くしてからもう一度水を飲んだ。
一日分の食費が置いてあったということは出て行けという合図であり、ヒステリックに叫ばれるのも嫌なので、そのまま玄関に向かう。 見慣れない靴、随分と大きな靴であるがその大きさよりも、いい歳した大人がボロボロのスニーカーであることに疑問を持ってしまう。 赤いシミが布地に着いている。 ペンキ屋か何かだろう。 働いているなら、今までのよりかは幾分かマシな人間に思える。
今度の彼氏はこんな人なのかと一人納得し、少女は自分のボロボロのスニーカーを履いて外に出た。
うだるような暑さ、焼け付くような光、夏然としたその気候にほとほと気だるさを覚えながらも、水から顔を上げたような爽やかさを感じた。
夏は、嫌いじゃない。 煩わしい教師やクラスメートと関わる必要がない。 尤も、元々ほとんど関わってなどいないが、それはそれである。
日の光を見たら、結構な時間まで寝ていたのか、少し高いところにまで来ていた。 日焼けを気にする質でもなく、離れるようにして歩いていたら、河原が見えて、階段を降りてから土手を歩く。
暫く歩くとジャガジャガと川のせせらぎを乱す汚い音が聞こえて、早まっていた脚を止めるぐらいにゆっくりと歩く。
「おお、ボウズ。 今日も来たのか!」
河原橋の下で、ワックスで固めた髪と不釣り合いなサングラスを掛けた男がギターを片手に少女に手を振る。
お前も坊主だろう。 大学生らしい男は少女が来たことを気にした様子もなく、ジャガジャガ、ジャガジャガと演奏を繰り返し行なっていく。
ボウズ。 少女がそう呼ばれたのも仕方がない話だ。 歳は十にも満たないほどで、髪は自分で切ったボサボサのショートカット、服装は男物の貰い物をベルトで無理に留めているだけであり、普段からあまり食べていないために痩せている。
「お前も暇人だな。 いや、俺のロックに聞き惚れちまったファン一号か」
男はそんなことを口走りながら演奏を再開し、少女は近くで座りながらその演奏を聴く。
「僕は、ファンじゃないよ」
何より男を勘違いさせているのは少女の一人称か。 童女らしい整った顔立ちをしているが、幼さの上に男物の服を被せて自分を僕と呼べば当然のように勘違いをする。
少女自身訂正をしないのだから尚のことだ。
「いやいや、毎日来たんじゃねえか。 惚れちまったんだろ? 俺のビートに」
「それはない」
「そんなに音楽好きなら、教えてやってもいいぜ! ファン一号改め弟子一号!」
「……音楽は、よく分かんない」
音を大きく鳴らして何が楽しいのか。 何の意味があるのか、なんで暑い中必死にそんなことをしているのか分からなかった。 算数やら国語は分かる。 理科社会もちゃんと出来る。 体育は苦手だけど、意義は分かる。 でも、音楽だけは何の意味があるのかも分からなかった。
男はそんな少女を見て笑う。
「んなもんっ! 俺も分かんねえ! でも、こうしてボウズがここに来ちまうってことは、音楽に惹かれてるってことなんだよ!」
「……いや、暇つぶしだけど」
「お前はそこらの歌手やら音楽家よりもよっぽど分かってるぜ! 音楽がよく分からねえってことをな! 上等じゃねえか!」
「……いや、教わらないよ? 楽器ないし」
「リコーダーぐらい持ってんだろ!」
「いや、ないや」
「ハーモニカは! 鍵盤ハーモニカでもいいけど!」
「ないよ。 楽器は、持ってない」
授業で使うものだけど、母が買ってくれなかったので持っていない。 察したような男の表情に、居心地の悪さを覚える。
誤魔化すように頰を掻くと、よし、と男は手を叩いた。
「歌を教えてやろう!」
「いや、いいよ。 よく分かんないから」
「俺の音が好きだから毎日来てんだろ?」
「……ううん。 ここ、日陰だし川の流れお陰なのかな、ちょっと涼しいから」
本当に涼しいのかは微妙なところだけど、涼しげな景色であることは間違いなかった。
暑苦しい人はいるけれど、その人が出すうるさい音は、耳に染み着きそうな嬌声を誤魔化すには都合が良かった。
何かを言おうとしては口をつぐみ、思いついたような表現をしたと思ったら落ち込んで、何もしていなくても忙しなく表情が変わっていく人だ。
まぁ、気を使わせるのも悪いので、他に都合がいい場所を探そうと少女は口を閉じた。
「なんつーか」
そう思っていたら、男は少女を真っ直ぐに見ながら指を指した。
「宿題、大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。 自由研究とあと、交通標語のポスターイラストも出せって言われたんだけど、それだけ」
「時間かかるの残してんな」
「絵の具も色鉛筆もないから。 画用紙は、多分、それぐらいなら買えるけど」
「……ちょっと待ってろ。 家にあった気がする」
首を横に振る。 それでも待ってろ、と男は言い、少女が逃げるかもしれないと思ったのか、河原にギターを置いた。
「これ、俺の魂な。 失くしたら泣くから」
そんな大切な物を渡すな。 少女の必死な声も届かず、ギターが河原に置かれたまま男は走って家に向かった。
まさか、放置していく訳にもいかず、気まずさを覚えながらも少女はそこで待った。 始めからサボるつもりだったために無駄に宿題が増えたと、少女は溜息を吐き出す。
少しして、わざわざピックまで置いていっていたことに気がつく。 少女が逃げないようにする重し兼、そういうことだろう。
仕方なくギターを真似るように手に取って、軽く弾く。 思ったよりも簡単に音が鳴る。 指先を思い出しながら、それと同じように動かしていく、どう動いていたか、どう鳴っていたか……。弦の振動、響き、指先に肘や肩まで、しっかりと思い出してそのままに動かす。
同じ曲が鳴る。 男のそれと何一つとして変わらない演奏が流れて男を出迎えた。
驚愕を通りこして、乾いた笑いが出る。 何かのドッキリで、ほんとは楽器を弾ける良いところの子供なのに隠していた? そんなはずはなかった。 少女の弾いている曲は男が作曲をしたオリジナルのもので、楽譜などが出回っているわけがない。
よしんば元々ギターが弾けたとしても、異常だ。 立ち止まった男を見て、少女は申し訳なさそうに顔をうつむかせた。
「上手い……な」
「……ううん。 真似しただけだから」
「真似ってレベルじゃねえだろ。 絶対才能ある! 教えてやろう!」
「いいよ。 ……よくわからないし」
少女は必死に首を横に振るがその言葉が聞かれることもなく半ば強制的にギターを教えられることになった。
「それはそうとして、これ、俺が中学の時に使ってた絵の具。 あ、使えるか? 乾いてるかもしれないが……」
男は絵の具をの蓋を開けて見るが、無事なものはなく、全部乾いて使い物にならないなと男はみんな溜息を吐き出す。
「あ、いや……水彩絵の具だから、溶かせば使えると思う。 ……ありがと」
「おう、ちゃんと描けよ。 俺はそれは教えれねえからな」
「……いいよ。 ん、画用紙、買ってくる」
「おう」
男の声を聞きながら少女は土手から上がり、太陽光の熱さにやる気を奪われながら、近くの文房具店に向かう。 その途中、人集りが出来ていて道が通れなくなっていた。
聞けば、事故か事件かは分からないけれど……人が死んだらしい。 警察もまだ来ていないとかだけれど、死体が見たいはずもなく、別の道を通ろうと裏路地に入った。
そのまま通ろうとし、アスファルトに血痕が見えた。 擦ったような後は鼻血などが偶々垂れたとか、怪我をして垂れたというには広すぎていて、靴を擦ったことで付いたものであることが分かる。
若干の気持ちの悪さを覚えながらも少女は立ち止まりそれを見れば黒く固まっていてついさっきに付いたものではなさそうだ。
バクバクと鳴る心臓を抑えるようにして、少女は走り、文房具店に入った。
◆◆◆◆◆◆◆
ボールペンとノートを買う。 忘れそうになった画用紙も籠に入れて、食パンを一つ買う。 行きとは違う道を通って河原に戻ると、いつも通りに音楽が響いていた。
「絵は家で書くことにするよ。 水がいるけど、流石に川の水はあれかなって」
そう言ってかららノートを取り出して、置き手紙を見ながらボールペンを走らせる。
「パンじゃ腹は膨れても背は伸びねえぞ。 ただでさえ小せえのに」
「別に、お腹が膨れたらいいよ」
「つか、何してんの?」
「字の練習」
「はーん、見してみ」
無理に覗き込もうとしたのを隠そうとノートを抱いて、男に威嚇する。 力で勝てるはずもなく、ノートを取られてまじまじと見られる。
「案外字汚ねえのか。 つか、そんな汚い字を見本にしてたら、上手く書けるものも書けねえわ」
「……ほっといてよ」
「いや、見本に書いてやるよ。 俺、こう見えても結構、字上手いんだぜ」
男はそう言いながら文字を上段に書いていくが、それを無視して置き手紙の字を模写していく。
「下手だなぁ」
「ほっといて。 自分の練習しときなよ」
「言われなくてもするっての」
食パンを咥えながら、ボールペンをひたすらノートに走らせる。
そんな美味しいものじゃないけど、お腹は膨れるので充分だ。 慣れないボールペンの書きにくさに四苦八苦しながら書き込んでいるうちに夕方になり、横から差し込む赤い光のせいで見えにくくなった。
「……なぁ、メシ食う金あるのか?」
「今日はあんまり使ってないから、豪華とは言えないけど充分食べれるよ」
「……俺ん家くるか? オフクロの飯だけどさ、ちゃんとしてるし」
僕は首を横に振る。
「バレたらお母さんに怒られるから……」
「……そう、か」
気まずそうな男に向かって微笑んで見て、気を使うなとデコピンされた。 額を抑えていたら、男は再びギターを鳴らし始める。
「まだ帰んねえんだったら、危ねえからもう少しいてやるよ」
「……ありがと」
模写で疲れた腕を休めて、男の演奏を聴いた。
暗くなったところでまた食パンを買って齧る。 五百円と少し残ったので、何を買おうか。 学校で足りてない鉛筆とか、消しゴムか。
ゴムとかピンとかは、どれぐらいの値段なんだろう。 ……まぁ、もらえないかもしれないので、食料品以外は買わない方がいいかもしれない。
夜遅くに家に帰る。 男の人はもういなくなっていて、お母さんの姿もないことに安心して、お風呂に入って服を着直してから布団に入った。
◆◆◆◆◆◆◆
「あのさ……色々調べたけど、ネグレクトって言うらしいな、育児放棄とか。 いや、痣とかもあるから……そうじゃないのか」
「突然どうしたの」
「いや、あんまり知らなかったからな。 その、なんだ。 出来る限り、何か出来るならどうにかするから」
「……ありがと」
翌日、また昨日と同じように食パンで紛らわせながら、文字の模写を行う。
「……僕は、大丈夫。 ……もう少しだけだから」
「もう少し?」
「何でもないよ」
ただ無心に模写をする。
「……お母さんの浮気で、離婚したんだ。 うちね」
「……ああ」
「僕はお父さんと一緒の方が良いって言って、お父さんも連れていってくれようとしたんだけど、親権? っていうの、お母さんになったみたいで」
「……わけわからねえな」
「……その時は……お母さんも、僕のことが好きだったのかなぁ」
男の人は何も言わず、いつもと同じ曲を弾いた。 その曲を聴きながら、紙に文字を書いて、雑に折り畳む。
「あのさ、それ、何て曲なの?」
「ん? 俺のオリジナルだから曲名は決めてねえな」
「……じゃあ、僕が決めていい?」
「おう、カッケーのなら採用してやってもいいぜ」
自分から言いだしておいて、考えていなかった。 彼と一緒にいれるのは、今日か、せいぜい明日か。 分からないけれど……。
「……明日、また会おう。 で」
「ダセエな。 そんなしんみりした曲調でもねえのに……」
「ダメ?」
「あー……まぁいいけどな」
「ありがと。 ……僕、今日はもう帰るね」
手を振る男に頭を下げてから、後ろを向く。
「お前はいい子だから、きっと幸せになれるからな」
「……いい子じゃないよ」
変な慰めの言葉を笑ってから、家に帰る。 もうあまり見ないであろうと思った景色は、暑苦しくてやっぱり好きになれない。 後ろ髪を引くように聞こえる音楽を振り切って、家路につく。
途中ノートとボールペンをコンビニのゴミ箱に捨てて、紙だけを持って家に帰る。 時刻は昼過ぎだけど、昨日は夜遅くに帰ってきて情事をしていただけあり、まだ寝ているらしい。
寝息を扉越しに聴いてから、性臭の気持ち悪い匂いが立ち込める部屋に入り、脱ぎ散らかしている男のポケットに紙を突っ込み、外に出る。
清々しい気分とは言い難い。 むしろ吐きそうで、気持ち悪い。 それでも、僕は……以前僕を愛してくれた母に、これ以上嫌われたくはなかった。
◆◆◆◆◆◆◆
血の匂い。 母の胸の傷。 股から垂れ流されている気色の悪い液体。 昼に食べていた食パンを吐き出して、急いで警察に通報した。
ご飯から何から何まで警察のお世話になっていたら、トントン拍子に話が進んでいく。 母を殺されて傷付いた僕はほとんどなにも聞かれず、ただ警察の人が近くにいる中で過ごしただけだ。
すぐに父が来ると思っていたけれどくることはなく、代わりに男が隣にいてくれた。
「連続殺人……。 一人目は強盗で二人目は、殺人を知った被害者が金を脅しとろうとして……か。 筆跡も一致しているし、ほとんど間違いないな」
「馬鹿ッ! 子どもの前で言うことでは……!」
警察のそんなやりとりを上の空に聞いて、隣にいる男から目を背ける。
彼は今、何を思っているのか。 知りたくもなかった。
それからのこと、男とは目が合うことも、言葉を交わすこともない。 男のギターも聴くことは出来なかった。
最後、父方の祖父母が迎えに来てくれた時に「君は悪くない」と男はそう言って、もう彼とは合うこともなくなった。