08 神様、神様――
もうすぐ春が訪れる頃、新しい年も始まった。
雪はもう殆ど降らなくて、積もっていたものもゆっくりと地に戻りつつある。
グリンザは冬の間、新しい種まきの魔法図を描いてみたそうだ。温かくなってきたので魔道具に組み込んで、屋敷近くの専用畑で試験をするらしい。
雪が消えると無断で森に入り込む人も増えるようで、デンは巡回量を増やしている。
ミシュ語の日常会話がそれほど問題なくなったセリは、一人でも外へ出るようになった。
出た後は集落の人達と一緒に、森の手前で野草を採ったり、家畜の世話をしたり。
このところは、羊の放牧を手伝っていた。
里では牛と馬を共同で何頭か飼っていたが、羊は居なかった。メッセン自治区では、馬や牛は街の方で、森では羊と山羊が主流ということだった。
羊は二種類飼っている。顔の白いメー種と黒いサフォ種。もこもこ具合は似ている。メー種は毛が主目的で、サフォ種は肉が主。
集落脇の囲いから、他の子四人と桶を抱えて羊を出す。少し森に入ると放牧用の広い場所が何箇所か在るので、そこへ誘導だ。
桶には彼らの好きな草が入っている。それをちらつかせて連れて行く。まだ地面は白い場所が多いけれど、羊は自前の服があったかいからか実に元気だ。
目的の場所は雪が溶かしてある。着いたら、今日も羊達は芽吹いたばかりの草から勝手に食べ出した。人間達は思い思いの所で、五、六頭ずつ担当した羊を見守る。
概ねのんびりしたものだが、この時季に羊は出産する。数日に一度はお産があるようで、セリが手伝うようになってからも、納屋に行く度じわじわと子羊が増えていた。
セリが担当している五頭はサフォ種だ。
顔と足が黒くて、毛はふかふか生成り色。とても可愛い。可愛いが、いずれ食べることになる。
屠殺は集落の人達が担当しているし、情が移っても大丈夫と見なされたセリが任された。
放牧は、子供が担うことが多い。お手伝い初めの年下の子は、先ずメー種の世話から入るそうだ。
少し心が成長してから、食べる為に育てる生き物と触れ合わせていくと言う。大抵の子は最初、可愛がっていた家畜が屠殺されると嘆く。この森では、それが必要な儀礼となっているらしい。
本能の赴くままにせっせと草を食んでいる羊を注意深く眺め、セリは桶を胸に抱え直す。
一昨日辺りから、感傷どころではなくなっているのだ。五頭の内の一頭、そろそろ産む可能性があると聞かされている。
セリはお産に立ち会った経験が皆無だから、異変に気づいたら周りに助けてもらうしかない。
セリが五頭をひたすら目で追っていたら、近くに居た少女が笑った。二、三歳下の子だ。
「そこまで必死に見てなくても大丈夫だよ、若奥さん」
「でも……心配です」
「大抵、納屋で産むし、自力で産んじゃうよ?」
少女は木にもたれかかって空を仰ぐ。枝にも黄緑色の若芽が小さく顔を覗かせていた。青空に映えている。
ふと、変な音が聞こえた気がした。
ひょんひょんひょん……と云う物音だ。
羊達の耳がぴょこぴょこして、セリだけが聞こえているわけではないと察する。
少女が、あー、と間延びした声をあげた。目を投げると、彼女はまだ上空を見ていた。
今一度セリも空を仰いだら、大きな船のような物が現れていた。
小さく口を開けるセリの横で、少女が首を傾げながら言う。
「ここんとこ多くなった? 魔球船、月に一度通るぐらいだった気がするけど――十日ばかり前にも見た気がするー」
「あれが……魔球船、初めて見ました」
里に居た頃から、話には聞いていた。浮く魔法を組み込んだ魔道具を付けて、空を飛ぶ船。
動かすにはとてもたくさんの魔力が要るので、実用的ではないという話だった。けれど、改良でもされたのかもしれない。グリンザのように研究熱心な魔法士は、他にもたくさん居るようだから。
船の後ろに回転する羽が幾つか付いていて、変な音はそれから聞こえるのが判った。それほど大きい音ではないものの、ちゃんと存在感を披露して、船は遠ざかっていく。
知らず見送ってしまってから、セリはハッとして羊に目を戻した。耳に付いている目印で、担当の五頭がとうに食事を再開していると知る。淋しがりなのか、仲間とくっついているのが好きみたいだ。
セリが安堵した時、向こうの方で木に寄りかかっていた男の子が、わぁ、と慌てたように一方へ駆けていった。一頭が、何処かへ小走りしだしている。音に怯えたかもしれない。
仲間が動くと他もわらわら動く癖があるので、皆で桶を手に包囲網を作った。この辺の連携は、未成年の集まりといっても慣れたものだ。餌で釣って落ち着かせる。
上手くいったと思ったら、今度は何故かセリ担当の一頭がふらふらと集団から離れ始めた。様子がおかしい。
皆が顔を見合わせ、口々に言った。
「産むんじゃない、これ」
「ここでか!」
「納屋まで戻れないな」
「父ちゃん連れてくる」
少年が一人、すすっと抜け出し集落へと走っていく。
セリは狼狽しつつも羊の後を追った。よたよたと、羊はしゃがんでしまう。何か呻いている。苦しいようだ。
「踏んだら拙い。他のは離そう」
「いっそ戻すか」
「若奥さん、産まれたのはこれに乗せといて」
畳んだ敷き布を渡され、セリはおどおどと受け取った。無理です! と悲鳴をあげたかったが、年下の子がてきぱきと動いているのに、とても口にできない。
「すぐ戻ってくるからねっ」
少女が声をかけてくれてから、セリを残した三人で他の羊を囲いへと連れ帰っていく。
膝が小刻みに震えてしまい、メ―とかベーとか鳴く羊の足元にセリもしゃがみ込んだ。
デン様――と脳裏に浮かぶ。
デンは今朝、森に適した中型の馬を引き出していた。森のずっと奥、魔銅鉱脈の方へ出かけている筈だ。あそこへ行くと、馬の速度を借りても昼過ぎにしか帰ってこない。同じ森の中に居るとはいえ、ここに来てもらうには距離があり過ぎる。
羊が鳴いて前脚を突っ張らせ、セリはびくりとして顔の前で両手を握り締めた。
(神様、神様――山の神様――森の神様――お願い、無事に産まれて――!)
涙目で必死に祈っていたら、集落の男の人が息子と一緒に駆けつけてくれた。
「おぅおぅ、もうちょいのようだな。頑張れ頑張れ」
何かしてくれるのかと思えば、おじさんは励ますだけだ。それで良かったのかとセリも急いで羊に声をかける。
そうして、しばらく後に、羊は自力で子を産んだ。少女の言ったとおりだった。
生まれた子はしかし、何やら問題があったようだ。おじさんが生まれたての後ろ脚を掴んで宙吊りにしたので、セリは瞠目してしまう。だが、子羊はそれで小さく鳴き出した。
セリが広げていた布に、よしよしとおじさんが子羊を乗せ、母羊の鼻先に置いてやった。
母羊は後脚付近が血まみれだったが、お構いなしで子羊を舐め始める。大仕事をやり遂げた貫禄があった。
ふるふるしている新しい命にセリが見惚れていると、他の羊を戻し終えた子達も戻ってきた。
生まれた――可愛い、と皆ではしゃぐうち、子羊は早くも立とうとしていた。
よろよろしていたけれど、何とか四ツ足を地に踏ん張る。
あぁ――と、セリは胸が詰まった。
『地に足着けてぇ立ってられるよ、ありがたいありがたい』
祖母の言葉の意味が、唐突に理解できた。
屋敷に戻ったセリは、すっかり興奮して、自分の見たことを伝えた。要約すれば〝子羊可愛い〟である。
ミシュ語がしばしばおかしくなったけれど、賄い夫妻も清めのおばさんも庭管理のおじさんも、カイケン老も、それは良かったと目を細めて聞いてくれた。昼食に同席した当主もグリンザも、珍しく積極的に話すセリに、楽しげな相槌を打ってくれる。
しかしながら、一番この感動を伝えたい人が不在だったので、セリの気分はなかなか治まらなかった。
午後は清めのおばさんを手伝って掃除するつもりだったのに、お部屋で字の練習でもなさい、と言われてしまった。はたから見て、セリは相当に落ち着きがなかったようだ。
屋敷を清潔に保っているクラカおばさんは、セリが初めて来た日にデンの服を着せてくれた人だ。
いつも朗らかな一方、とてもきっちり綺麗好き。今日は、浮ついたセリに変な掃除をされては困ると思ったに違いない。
流石にちょっと我に返ったセリは、言われたとおりに部屋で読み書きをしながら、デンの帰りを待つことにした。
とはいえ、卓に向かっていられたのは四半刻前後だった。足がむずむずしてしまう。
頭の中を、ミシュ文字でなく足捌きの順序が占めていく。
(踊り――神様に感謝する踊り)
ひょっとするともう、シノノメ里ではセリしか覚えていないかもしれない。
そう考えると鼓動が速まった。大事な何かを、失くしてしまう気になった。
祖母は、セリに遺した。
セリも、繋ぐべきではないか。
衝動に駆られ、セリは立ち上がった。
練習しておこうと足の動きをおさらいし始めたものの、部屋には障害物が多い。本来、広場で踊る動きだ。
開けた場所を求め、セリは部屋を出る。あてがあった。
屋敷の裏庭のような所。花も植木も無い、芝地。
庭管理のおじさんの話では、代々当主の子が魔法の練習をする場所なのだそうだ。
魔法士を名乗るには、正式には最低一つ、物理的な図面無しで魔法を発動できなければならない。
正確な魔法図を思い描けないと、殆どは不発となるだけで終わる。ただ、時々、全く意図しない予想外の発動を起こすこともあるようなのだ。
だから、外に練習の場が設けられている。
熱に浮かされたようにセリが辿り着いた裏庭は、まだうっすらと一面が白かった。
雪面はまっさらではなく、所々鳥の足跡らしきモノが付いている。あまりためらわずに済んで、セリはそっと端から踏み込んだ。
ゆっくりと、後ろ向きに足を運び始める。
そっとそっと、片足ずつ踵を上げては爪先で地面を確かめる。時折、大地を撫でるように手を添え、足先が半円を描く。
雪に生まれていく窪みのお蔭で、足捌きが確かめ易かった。セリは真剣に目で確認しつつ、静かに踊る。
けれど、やや難しい動きのところで体勢が崩れた。しばらく練習を怠けていたから、しょうがない。
乱れた息をついてやり直しかけ、セリは視界の端にデンを捉えた。
「あ――おかえりなさい」
いつの間にか帰ってきていたようだ。寄りかかっていた屋敷の外壁から離れ、デンはこちらに来る。見物されていたらしい。
照れくさかったけれど、それ以上に喜々としてセリは走り寄る。
距離が狭まると、デンは目を細めた。
「帰った時に、ちょうど貴女が裏口から出たのが見えて。廊下でクラカに、奥殿はおつかいかと訊いたら、追い駆けろと血相を変えて言われてしまった」
クラカおばさんは、セリがデンを待ち切れずに森へ入ろうとしたと勘違いしたようだ。
(ていうか、デン様が帰ってこなくて落ち着かなかったのがばれてる!? 恥ずかしいっ)
頬を火照らせるセリの前で、デンは苦笑いしながら屋敷を振り返る。
「この前、投げ矢でクラカに叱られたからな。また叱られずに済んで良かった」
デンの魔法の矢は、質によっては一日以上消えない。都から帰宅した翌朝に投げた矢は、一刻ばかりで消えたが、廊下を縁取るように漆黒の楔が並んだ様は、クラカを大いに怒らせたものだ。
セリが思い出して笑声をこぼすと、デンは向き直った。
「さっきのは、舞か? ごめん、俺があんな所に立っていて、気を散らせてしまったかもしれない」
「ううん、わたし、練習を怠けてました。それが悪いです」
セリは首を振ってから、ようやくという感で、デンにも午前中の顛末を張り切って語った。
そのままの勢いで、ここで踊りの練習をしていた理由も全部話す。
「練習してたら、子羊だけじゃなくて、わたしも、みんなとメッセンの土地で立っているのが、やっぱり嬉しいなりました」
黙って耳を傾けてくれていたデンが、口元をほころばせて顎を引く。と、グリンザの声が上から聞こえた。
「デン君、居ないと思ったら、そんなとこでいちゃいちゃして――」
屋敷の二階の窓を開け、にこやかに手を振ったグリンザは、急に言葉を切った。
驚きに目を見張っているのが、地上からでも判る。
「とうとう誰かに後ろから刺されたかな」
デンがぼそっと物騒なことを言った。あり得ないと言い切れないところがグリンザである。女の子をたくさん泣かせていそうだし、男の人からは嫉妬をかっているだろう。
セリ達が明後日の方向の推測を立てていたら、グリンザは不似合いな、切羽詰まった大声を発した。
「二人共、動かないで! それ以上蹴散らさないで!!」
え? と二人の声が重なる。
セリは、足元を見た。雪の薄い所からは、艶やかな薄緑の芝が、ちょっとだけ顔を覗かせている。
デンは、グリンザの姿が消えた窓から、自分達の立っている場所、セリが踊りをしくじった地点へと視線を動かしていた。つと、目を眇める。
「魔法図……?」
弓の名手が洩らした呟きは、正鵠を射ていた。