07 嬉しくて、涙出るなんて、知らなかった
二日後の朝、早くに目が覚めたセリは、そわそわと身支度を整えて部屋を出た。
昨日でひと月半は過ぎてしまった。今日こそ、デンは帰ってくる。昨日もそう思って日が暮れてしまったけれど、セリはめげない。
朝食の準備を手伝おうと厨房に元気良く入ったセリは、ぽかんとした。
少し焦げたような、香ばしい匂いがしている。
竈で、若者が豆を炒っていた。
セリを見た褐色の目がちょっと見張られてから、ほっとしたように細まった。
「おはよう。随分、早いな」
セリが口を開閉させる間に、デンは思い出したように付け足した。「あぁ、それより、ただいまが先か」
そうですよ、と賄い夫妻の笑って言う声が、遠く聞こえる。
セリは、慌てて踵を返し、廊下へ出ていた。
戸惑いの声が複数あがったと思うと、慌てたような足音と共にデンも廊下に出てくる。
セリは急いで掌で目をこすっていたが、涙が溢れて止まらない。
自分でも驚いていた。
「奥殿――どうか、したのか」
少し上擦ったような声で、デンは瞳を揺らしてセリを覗き込んできた。石鹸の柔らかい匂いがよぎる。灰茶の短い髪が、生乾きのようだった。
一体、いつ帰って来たんだろう。昨日、寝るまで気づかなかった。真夜中? 明け方?
おかえりなさい――おかえりなさい――
無事で、元気そうで良かった。
称号獲得おめでとう。
手紙が来て、セリのことも書いてあって幸せだった。
言いたい事は次々浮かんでくるのに、出てくるのは言葉じゃなく、涙ばかり。
「何か言ってくれ、奥殿。解らない」
デンは二ヵ国語で同じ台詞を言い、うろたえた様子で手を泳がせてから、恐る恐るといった手つきでセリの濡れた頬を拭った。
温かい体温が触れて、やっぱりちゃんとデンが帰ってきていると判った。
セリは鼻を啜って、唇をほころばせる。
「おかえり、なさい――嬉しくて、涙出るなんて、知らなかった」
こんなに嬉しいと思わなかった。
寸時、デンは呆気にとられたような顔になる。要らぬ心配をかけてしまって、セリは羞恥に頬が熱くなった。
「ごめんなさい、泣いて。自分でも、びっくりしてます」
「……うん」
呟くように応じたデンの喉仏が動いた。元々近くなっていた距離が更に寄る。
濡れ髪の匂いも強まる。
指先同士が絡みかけた時、結構近くで、ごくり、と音がした。
物凄い速さでデンは飛び退いた。セリが固まっている間に、彼の手には投げ矢が現れている。
「ぬっ、何やっとるか、デン坊ッ。わしを狙う暇があるなら、ぶっちゅーといっとかんか!」
デンはみるみる真っ赤になると、脱兎の如く走り出したカイケン老の足元に矢を投げ始めた。奇術のように矢が生まれては、逃げる老爺の脇ギリギリの所へ見事に突き立っていく。
高鳴っている胸元をさすりつつ老爺を見送っていたセリは、視線を感じて振り返った。厨房から賄いの奥さんが顔を覗かせていて、惜しかったわぁ、と嘆いている。
朝食の席で、セリとデンは互いに目を合わせられなかった。
「何かあった?」
グリンザがにやにやしながら聞いてきて、当主が厳かに、夜中に押しかけてないだろうな、と息子に確かめている。どうやらデンは夜更けに帰ってきたようだ。
ご帰宅、今朝知りました、と熱い顔を伏せ気味にセリが言うと、当主はちらりとこちらを見てから話題を変えてくれた。
「それで、魔法弓は図面に起こせたのか?」
「投げ矢だけ」
即に乗ったデンは、カフィを一口飲んでから話し出す。
グリンザの類友というのは学校の同期だ。彼らの学年は魔法図オタクが多かったそうで、卒業後も都の魔法省で研究を続けている人が居る。今回、デンの称号認定に口添えなどを請け負ってくれたのは、そんな一人だ。
魔法士の称号を得る方法は二つ。魔法学校を卒業するか、一定額を支払って審査を受けるか。後者の場合は、称号証発行にも別の料金が取られる。
さておき、デンは魔力が達しているのを判っていたので、さっさと下位魔法士の称号を受け取って帰る予定だったらしい。
中位魔法士の紹介状と口添えがあったから、実際に魔力量を測定した後は簡単に称号証も受け取れた。
ここまでは予定通り。土産を買って、翌朝には帰途につくつもりだった。
宿に帰ったら、グリンザの学友が待ち構えていた。
君の魔法弓が見たい、と迫られ、取り敢えず適当な的に撃った。
投げ矢もあるそうだね、と更に迫られ、これも実演。
「その後、半刻――いや、一刻……? 延々魔法図の話をしていたような気がする」
話していたのは当然ながら、デンではない。類友の方だ。
実際に図面描きをさせられ、その残念さに愕然とされ、類友氏が代わりに描き出した。
基本図面はこれの筈だ、と見せられ、デンも首肯した。この一連の作業は、グリンザとも経験済みだったそうだ。
デンが頭の中で描いている多重構造を説明して、理解はしてもらえた。だが、魔力を通さなくては使い物にならない平面の図面には、どうしても起こせない。
類友はグリンザに張り合ってもいるようで、好敵手が駄目なら是非にも自分がと奮い立っていた。
「これは予定通り帰れないかもしれないと、危機感が生まれた。それで、酒を勧めてひとまず潰し、急いで手紙を書いた」
類友氏は二日酔いにもめげず、数日、悪戦苦闘。
結局、弓の基本形をかなり削っているだけの投げ矢のみ、この線やこの線が無いと指摘する形で図面に起こしてもらった。
「わー、後で僕にも教えて!」
はしゃぐグリンザに頷きを返し、デンは肩をすくめた。
「グリンザ・ムスタも投げ矢の図面は知らないと伝えて、ようやく逃げ出せた」
類友氏が何とか魔力を流せるような図面にできないかと悩んでいる間に、デンはこの際だからと、ミシュマシュ国立図書館で変化魔法について調べてみたらしい。
ほぅ、と当主が顎髭を撫でる。デンは芳しくない表情で息をついた。
「ミシュの都には記録が無い。家の方が、そういう魔法があって、実際に使った日を書き留めた日記がある分、まだ情報が多かった」
「使った日だけ書いてあるんですか……?」
セリが不思議に思って問うと、そう、と当主が応じる。
「軽々しく広めるなという約定を、守っていたのか……シノノメから嫁いできた祖先も、メッセンの子に伝えた気配が無い。一代限りの技として、交換条件を保ちたかったのかもしれぬ」
「……なるほど」
土地同士の約束として、技の伝播を防いでいたわけだ。
「日記には疲れたといった記述があるので、相当の魔力を消費するようだということは想像できる。大きな鷹や狼になれたようだよ。正に神秘だ」
「三百年前はまだまだ魔法図も大きかった筈だから、その所為ですかね。古代魔法に近かったかな……そうなると今の大きさの図面に起こすのは描き換え必須で、やっぱり難しいか」
グリンザが、珍しく真顔で考え考え言う。
セリは久しぶりの美味しいカフィを飲んで、目を落とした。
里に帰れと、ゴウナに言われたことを思い出す。
里長は、変化魔法を知っているんじゃないだろうか。里で生まれ育った者として、セリが尋ねたら教えてくれないだろうか。
メッセン家の役に立ちたいなどと言ったら、里の人達は余計に相手をしてくれない可能性もある。セリは除け者だったのだから。
(変化魔法を知らないから追い返されてしまったって話したらどうかな……また里から追い出す為に教えてくれたりしないかな)
ふっと、何か引っかかる記憶がある。
思い出そうとセリが眉を寄せるうちに、朝食は終わった。
昼下がりに読み書きの練習をしていたら、デンが気まずそうな顔ながらもセリの部屋に来た。
カフィの道具を脇に置くので、セリは卓に広げていた帳面や筆記具を喜々として片づける。
食堂の円卓よりも小さな卓の向かいに腰かけ、デンはカフィを淹れつつ口を開いた。
「都に着いてから気づいた。貴女は俺が不在の間に、十六になっただろう」
「――あ、そうでした」
忘れていた。
セリの表情を見て、デンは頬を緩める。
「貴女に、都で祝い品を買ってきた」
夢のような心地で、セリは向かいを見た。
「初めて――わたし、御馳走は作ってもらえたことあります。でも品物、初めて」
「そうか。気に入るといいけど」
デンはほんの少し緊張したようになって、器にカフィを注いでから、隅にあった板をセリの前に置いた。
正方形で掌くらいの大きさだ。何処となく可愛い模様が、薄い灰色で描いてあった。
「魔法図?」
「うん。組み込んである。一応、最近出たばかりの、魔道具みたいな物だ」
魔力の無いセリでも使えるような、つまみは見当たらない。
どうすればいいのかとセリが凝視していると、デンは上にカフィの器を置いた。
「見てて」
節だった指先が板の端に触れる。さあっと線に乗って彼の魔力が流れたのが判った。灰色が、宝玉を溶かしたような色になってきらきらする。器に模様の大半は隠されてしまって、あまり見えないのが残念だ。
セリが板ばかり熱心に見ていたら、奥殿、とちょっぴり戸惑ったように声をかけられた。デンを見ると、彼は器を目線で示す。
「え――っ」
セリは驚いて目を見開いた。
艶やかな黒いカフィの上に、真っ白な花が浮かんでいた。
全体が仄かに光っている。花びらが多くて、めしべやおしべがほんのり黄色だ。ゆったりと上る湯気と重なると、ふわふわと揺れているように見えた。
「綺麗――お花が咲いてる――綺麗です」
「冬場は花が少ないけど、これなら持って帰れたから」
セリがうっとりと魔法の花を見つめている前で、デンはぼそぼそと続けた。「貴女に見せたくて、すぐ帰るつもりだったのに、遅れて……今朝、その……奥殿が、待っててくれて、俺も、嬉しかった」
はにかんでセリはうつむいたが、すぐに顔を上げた。
「デン様は、いつ二十歳になるの」
「俺は……年が明けたら一つ加えてたな」
正確な日を知らないのだと言われて、セリは口ごもった。
セリも何か贈りたかったけれど、年明けはもうすぐそこまで迫っている。短期間で何を用意できるか。
そもそも、彼にとっては仮の日を、わざわざ持ち上げることに意味はあるのか。
ぐるぐると考え込んでいたら、デンが自分のカフィを片手に頭を掻いた。
「まぁ、貴女が十七歳になった時、俺も恐らく二十歳になっている」
「――同じ日?」
「うん。俺はそれでいい」
妙にドキドキして、セリは花咲くカフィを両手に持つ。口元に寄せようとしたら、湯気と一緒に花が宙に溶けてしまった。
「えっ、や――消えちゃった」
「大丈夫、戻せば咲く仕組だ」
それでも魔力を溜める部分がとても小さいので、長時間はもたないらしい。
その時はデンがまた咲かせると約束してくれて、小さな魔道具はセリの宝物になった。