デンは見た
前日譚のような感じ。
デンは、幼い頃の記憶があまり無い。
正確には、十番目と呼ばれていた頃の記憶が薄い。
指揮官に呼ばれたら標的を撃つ。それを繰り返していたのは覚えている。
ある時から、住んでいた場所を移され、デンと呼ばれるようになった。
そう呼ばれるようになってからのことは、割と記憶にある。
七歳になったと、周りの者が頭を撫でてくれた事。
ミシュ語の読み書きや隣国の日常会話ができるようになったら、褒められた事。
土地を守る一員として養われることになったのだと、知った時の寂寥感。
決してそれだけではないと、母親が抱き締めてきた時の、表現しがたい気持ち。
十二でようやく、育てた羊を屠られて、悲しくなった。
涙をこぼしながら家に帰ったら、母親だけでなく、父親にも抱き締められた。
カイケンや、クラカまで抱きついてきた。みんなで泣いた光景は、脳裏に鮮明に焼き付いている。
対・無断侵入者、対・猛獣で拾い上げられたデンの弓の腕前は、射れば当たるという水準だ。
ディンの頃から生きる拠り所でもあったので、鍛錬は欠かさない。だから、狙ったのに外すというのは、デン自身もあり得ないと思っている。
だが、そんなデンにも、射止められない的が出てきた。
女の子だ。
十三歳になった年、自治区へグリンザがやって来た。デンもちょっと驚くほどの美男だ。
狭い集落に現れた美貌のムスタは、あっと言う間に注目を集めた。特に女性の。
グリンザは顧問魔法士の試用期間としてデンの家庭教師に就いたので、当初から半ば必然的に行動を共にすることが多かった。
そんな中で、無意識にデンが目で追っていた女の子が、グリンザを見つめてうっとりしているのに気づいてしまった。
その日の弓の練習は、気が入らなかった。
後から、恋だと自覚する前に失恋したのだと気づく。
デンはなまじ視力が良かったので、その子がグリンザに菓子や襟巻を贈る場面も、遠くから目撃してしまった。
羨んで、次いで、自分には縁が無いのだと悟った。
集落の面々とはグリンザよりも長く付き合っているのに、女の子は誰もそんなことをしてくれなかったのだから。
デンが料理をするようになったのは、この時期からだ。
十六になる頃には、母親が相手探しに張り切り出していたとは露知らず、多分、一生独り身だろうと達観しつつあった。
十九の今、こんなことになるとは。
デンは秋口の夕空を見上げる。
メッセン自治区の街は、田舎ながらも綺麗な所だ。通りを行き交う人の顔は穏やかで、治安の良さも窺える。
この街を守っている義兄を、デンは頼もしく思っている。実のところ、疎まれていると知ってからも、その感情は変わっていない。何せ、デンには統治などという仕事は到底できないからだ。
だから余計、母親の死後に知るところとなった義兄の敵意は、デンには青天の霹靂だった。大人達は義兄の妙な言動を隠していたわけだが、それも含めて全く気づいていなかった十六、七のデンは、自分の到らなさに結構落ち込んだものだ。
挙句、当事者の筈のデンはろくに口も挟めないまま、隣国から妻が来ることになってしまった。
正直、不安しかない。
シノノメとこれ以上気まずくなるのも拙いだろうから、義兄に追い返される前に妻を連れ帰ろうという話になったけれど……
街の宿は二軒だけなので、シノノメ一行がどちらに居るかは簡単に判明した。只今、迎える場所を変更したいと、グリンザが交渉に出向いている。
日が落ちるのは早くなっていた。足元を、微かに冷たい風が抜けていく。
路地から宿を遠巻きに眺め、デンは懐をさすって息をついた。妻と交換することになっている魔道具の、感触は固い。
『デン君にも遂に春が来るね。女の子はイイよ。柔らかくてあったかくて、可愛いし』
グリンザが、つらつらとそんなことを言っていたのを思い出す。
誰の所為でずっと冬だったと思ってる、というツッコミよりも先に、妻として来る子もデンの方は見ないのではないかと浮かんだ。
それは果たして、春と言えるのか。
溜め息しか出ない。
宿の部屋の一つに、明かりが灯った。
窓布を引く気配も無く、灯の傍に同い年くらいの娘が座った。
肩ぐらいまでのふわりとした黒い髪。光を受けているからか、やけに白い肌。
恐らく彼女だと思ったら、鼓動が速まった。
柔らかいだのあったかいだの、要らん言葉が頭を巡り出す。縁が無いのは自覚していても、興味は捨てきれなかったから、色々と妄想してしまった。
けれども、すぐ我に返る。
窓辺の娘が、掌で目元を拭ったから。
交渉を終えたグリンザが、機嫌良さそうに宿から出て来た。
希望どおりになったよ、と言ってから、少し顔を傾ける。
「どーした?」
「……泣いてた」
主語を省いても、グリンザは察した。伊達に六年以上も付き合っていない。
「あー、まー、知らない相手と喜んで結婚する女の子、あんまり居ないよね」
「……うん」
垣間見ただけでささやかに期待してしまったデンは、気持ちの隔たりを突き付けられて肩を落とす。しかも彼女の相手はグリンザじゃなく、デンだ。きっと、がっかりされる。
グリンザが、ぽんと背中を叩いてきた。
「この先、泣かさなきゃいいんだよ」
全然自信が無かったけれど、デンは小さく顎を引く。
もし泣いたら、抱き締めて一緒に泣けばいいだろうかと漠然と考え、自分にはとてもできそうにないと考えを打ち消した。
それでも、悲しげだった華奢な姿を思い出したら胸が疼く。
できる限り、泣かすまい。
デンは、唇を引き結んだ。
その後、彼女には何度も泣かれ、その度、デンは大いにうろたえる。
ただそのうち、泣く奥殿を大事に抱き締められるようにはなるのだ。