22 お嫁さんにしてくださいね
メッセン地方に冬が近づいていた。
クラカおばさんに教わりながら、セリはたくさんの糸を紡いでいる。
白っぽい艶々の糸だ。これを少しずつ布に織って、その後は帯にする。帯には刺繍を入れるらしい。
繕い物はできるけれど、セリは刺繍の経験が無かった。だから、後一年と少しで刺繍も覚えなくてはならない。やることがいっぱいだ。
昼下がり、珍しくカイケン老がセリの部屋へ顔を覗かせた。自他共に認める女好きの老爺だが、滅多に女性の部屋には来ない。彼の元には女の人の方から来るので、出向く必要はないのだそうだ。
「じじ様、どうしたの」
「わしの雄姿が書かれたトザナボが来たようなんですわ。如何かな」
カイケンは、にんまりして顔を皺くちゃにする。セリは糸を縒っていた手を止め、席を立った。
「義父様にお茶を淹れます。じじ様も一緒ね」
「デン坊よりわしに惚れても知りませんぞ?」
カイケンがかくしゃくとした足取りで階下へ向かい、セリは笑って後を追う。
茶器を持ったカイケンと一緒に当主の部屋へ入ると、デンもグリンザも居た。
デンは朝から鉱脈へ出かけていたので、帰ってきていたと知ってセリは嬉しくなる。
ついさっき帰ってきたようで、冷たい風に当たってほっぺたが少し赤くなっていた。セリはいそいそと、けれども美味しくなるようにと、温かい茶を用意する。
届いたばかりのトザナボが卓上に広げられ、指先を器でぬくめながら、みんなで覗き込んだ。
【メッセン自治区の神獣現る】という見出しで、一番大きく場所を取って夏の一件が書かれている。
記者達はすぐにも載せたかったみたいなのだが、ミシュマシュの魔法省から〝待った〟がかかっていたようだ。言論の自由を求めた闘いとやらが起こって、都ではしばらく物議を醸していたらしい。
セリもだいぶミシュ語が読めるようになって、記事の内容はほぼ理解できた。
神獣が現れた時、魔球船管理部の人達が一緒だったことは除外されている。ただ、魔球船が本格運行されるようになってから、初めての墜落事故だというのは記されていた。ベジーによる悪質な違法改造の所為になっている。
話題の中心は、昔からメッセン自治区の森に居るとされてきた神秘の動物についてだ。今回、住まいを荒らされて、怒って出てきたらしいと仮説が立てられている。
【神々しい銀色の一頭と、つがいだろうか、艶やかな茶色の毛並みの神獣も一緒だった。】
つがいになってる、とグリンザが笑う。毛並みと言える程あったかな、とデンがカイケンの頭を見た。一応、まだ少しある。
「実際に見たかったです」
セリがちょっぴり残念に思いながら言うと、グリンザが口端を上げた。
「普通の大きさだったら、ここに居る面子の魔力でも発動できるよ」
セリは慌てて首と両手を振った。
魔力も大量に要るし、変身した人がしばらく辛いらしい魔法だ。気軽に見せてもらうわけにはいかない。
「デン君なんて、奥方の前でなら喜んで狼になると思うけど」
「ムスタの言い方だと変な意味に聞こえる」
デンがぼそっと洩らす。
「狼のデン様、素敵でした」
セリがはにかみながら証言すると、カイケンが意外そうにデンを見た。
「いつの間に」
「じい、意味が違う」
デンは鼻で息をつき、湯呑を傾けつつ紙面に目を戻す。喉を鳴らして、当主やグリンザも記事を見る。
神獣と共に暮らす人々の代表として、メッセン家当主代行に聞いたという話が掲載されていた。
【――神獣は動物園で保護すべきという声も出ていましたが、断ったそうですね。
断ったというか、滅多に姿を見せないものを我々がどうこうできるわけがない。そもそも、神獣は保護など必要としていないと思う。
――断言しますね。メッセン家は、自治区の環境を維持できている自負がある。
これからもそのつもりだ。だから魔球船の墜落、某団体、動物園の介入は今後もお断りする。
――メッセン自治区は今も豊かな自然に満ちていますね。天然の動物園でもあるのかもしれません。メッセン家の人々は飼育員の役割を担っていると言ったところでしょうか。
自治区は自治区だ。動物園じゃない。自治区に限らず、生き物の世界は我々人間も含めて弱肉強食だ。だから個人的にはミシュマシュの動物園の姿勢は疑問視している。同じ場で生きていく上で、種が違うからといって保護してやろうなんて、発想からしておかしい。食うか食われるか、緊張感と誇りを以って、ただ共に暮らせばいいのだ。
メッセン自治区は生易しい環境ではない。当主代行はその点を強調し、興味本位で自治区を訪れる人々へ、懸念と警告を呈していた。】
「義兄者らしいな」
デンが可笑しそうに頬を緩める。
セリも同感だった。
ひととおりトザナボに目を通して和やかに過ごした後、それぞれのすることへ戻ろうとしたら、廊下から重量感のある足音が近づいてきた。
進み出たカイケンが扉を開けると、噂をすればという感じで、ゴウナが姿を見せる。
セリの記憶に残っているゴウナは大抵、不機嫌そうで、本日も大きな口を引き結んだ様は何か怒っているようだった。
セリが居ることで益々機嫌を損ねられると困る。速やかに部屋を出ようとすると、ぎろりと見られた。
「お前にも話がある」
デンが、微かに目を眇めて傍に来てくれた。セリは安堵して、大柄な当主代行を見上げる。
ゴウナはふいっと目を当主に向けると、魔球船管理部から連絡が来たと報告を始めた。
メッセン家の言い分がほぼ通り、湖の一帯は緊急時のみ開放することになった。その際にかかった費用なども、すべて管理部等が負担するそうだ。
「神獣を決して自治区から出さないように気を配れと余計なお世話を言ってきたが、まずまず上手くいった」
更に、おかしな動物を持ち込もうとしたとして、ベジーの残党が自治区に来るのも規制していたが、それをミシュマシュも支持してきたらしい。あちらでも同様の措置を取り始めているそうで、足並みを揃える形だ。
「良くやってくれた」
当主が鷹揚に頷く。老体に鞭打った甲斐がありましたな、とカイケンが満足げに目を細めた。
あの件で合計六人へ発動させた変化魔法には、魔力が相当要ったのだ。湖一帯にかけた防壁の魔法図よりずっと。
病み上がりのようだったデン、グリンザもスゥヤも、屋敷や集落の人、ゴウナやその部下――自治区を守るべく一つになった大勢が、グリンザの描いた渾身の魔法図に魔力を注いで、役人達が湖へ向かう日までに間に合わせた。
セリは魔力を注ぎ終えてひと息つくみんなに、茶や菓子を提供するぐらいしかできなかったけれど。メッセンの人達の努力が無駄にならなかったのが、純粋に嬉しい。
あっち関連の報告はそんなところだ、と当主代行は言い、軽く咳払いした。
他の面々が少しばかり警戒するような顔つきになる中、ゴウナは、驚くべきことを続けて報告してきた。
「あー、それで、実はな、スゥヤに子が出来た」
当主さえもぽかんとした顔になり、その場に居た一同はまじまじとゴウナを見る。
仏頂面ではあるが、そこはかとなく照れ臭げに、赤い癖毛の大男は説明した。
森から戻って以降、スゥヤは体調が芳しくなかったらしい。この冬は森で越せと勧めたら、森へは当分行けない、身籠ったようだと告げられたそうだ。
「できればこっちで産みたかったようだが、子が腹に居ると判ってて、馬に長時間揺られるのもな……残念がってたが、しょうがない」
万が一落馬でもしたら洒落にならない。当主は顎を引き、吐息まじりに眉を開いた。
「なんと、めでたい。お前にしては朗報ばかり持ってきたな」
「どういう意味だよ、親父」
憮然とした風に応じてから、ゴウナは髪を掻いた。で、だなぁ……と、こちらを見る。僅かにセリが身をすくめると、たまには朗報だけで済ませろ、と当主が厳かに言った。
あぁ、とゴウナは、大きく息を吐き出してから、セリに向き直った。デンの方もちらりと見て、今一度、深呼吸するような仕種をする。
「スゥヤがおねだりだとか言ってせがんできたんだ。お前らに、ちゃんと謝れと……」
皆が軽く見張った目を見交わす中、ゴウナは言いにくそうながらも真顔で続けた。「その、なんだ……拙い事、色々、言った……悪かった」
セリは、何故か泣きたくなった。もじもじとデンの腕に縋りながら、わたし……大丈夫です、と意味の解らない返答をしてしまう。
デンが、小さく笑った。
「義兄者は俺に奥殿をめあわせてくれた。感謝してる」
ふん、とゴウナは鼻息を吐き出し、胸を反らす。
「お前、あのままじゃ嫁が来そうになかったからな」
うん、とデンは肩をすくめてから、真顔で義兄を見た。
「メッセンを支えてく義兄者を、この先も俺は信じてるから」
おぅよ、とゴウナは不敵に笑んだ。カイケンが、うっしゃっしゃと愉快気な笑声をこぼす。
「お子に恥ずかしくない当主になれそうですな、ゴウ坊」
「その呼び方やめんか!」
顔を赤くしたゴウナがすかさず喚き、囲んだ者達の笑い声に包まれる。
スゥヤに会いに行きたいとセリがおずおず頼んだら、いつでも来い、とゴウナは鼻を鳴らして諒承してくれた。
年が明け、積もっていた雪も消えた一日、セリはデンと一緒に、街へスゥヤに会いに行ってきた。
歓迎してくれたスゥヤのお腹は、ふっくらしていた。もう少ししたら生まれるらしい。会えるのを楽しみにしてるよ、とセリはお腹を撫でさせてもらった。
また来てね、と言うスゥヤのおねだりに笑んで頷き、翌朝、二人は屋敷への帰途についた。
森の草木は、ちらほらと蕾が膨らみかけている。子の誕生と一緒に花開きそうだ。
男の子と女の子、どっちだろう。
弾むように足を運びながらセリが呟いたら、何となく女の子のような気がする、と隣を歩くデンは言った。セリもそんな気がしてくる。春の、綺麗な花のような子。
戻ったら山羊の子も生まれていそうだとか、婚礼衣装の帯がだいぶ織れたとか、他愛ない話を続けながら並んで歩く。
「羊達の出産がひと段落したら、帯に何を刺繍するか決めないといけないの」
「花か何か?」
「好みでいいそうです。クラカおばさんは、婚礼衣装だと胡桃が多いって言ってました」
へぇ、とデンは小首を傾げる。
「実の方か? 花だと大変そうだな」
「見映えで花も入れるみたい……わたしの腕前じゃ、どうなることやらです」
セリは苦笑いする。
胡桃は、赤い雌花は単純だが、緑の雄花は藤の花房に少し似た連なりだ。腕のいい人が刺繍すれば素敵になるだろう。
休憩も兼ねて小川へ足を向けたら、清しい香がしてきた。
芹が、青々と茂っている。
不意にデンが、シノノメの言葉を紡いだ。
「奥殿の草だ」
「よく知ってますね」
久しぶりの故郷の言葉を、セリは不思議な心地で口にする。
青草をするりと迂回しながら、デンは思い返すように言った。
「いつだったか、貴女から聞いた気がしたんだが。春を知らせる嬉しい名前」
「――あ、そういえば……」
話した気もする。しかし、いつだったか思い出せない。覚えてくれているのが嬉しいから、いつでもいいけれど。
小川は雪どけ水が混じっているのか、冷たくて気持ち良かった。セリは靴を脱いで、歩いて熱を持っている足先をひたす。
デンは上空を見やり、太陽の位置を確かめていた。少し早いがここで昼餉にするか、と背に括っていた荷を下ろす。
解の魔法で弁当を出しながら、デンは脇で群生している草を見やった。
「来年この草が芽吹く頃には貴女もようやく十八だ……確かに嬉しい」
やけにしみじみ言うデンに、セリは足を拭きながらくすくす笑った。セリも待ち遠しい。
来年は、生涯いだいていたい夢のきざはしに立つ。
魔力無しで独りぼっちだったセリが、本当に大事にしてくれる人と出会えて、いだけた、ささやかな目標。
晴れて結婚した後も、出来ることを精一杯やっていきたい。例え魔力が無くても、出来ることは結構ある。
結果、大事な人々が喜んでくれたら、素敵だ。
「お嫁さんにしてくださいね」
うん、とデンは柔らかに目を細め、数段に重ねられた豪華な包みを広げだす。当主代行邸で拵えてもらった特製弁当だ。
セリは敷き布の上に座り込みつつ、傍らの芹の葉を見て、ふと、これなら自分でも刺繍できるような気がした。ぎざぎざの葉っぱで、素朴な形だ。
(セリならデン様も喜んでくれそうじゃない?)
俄然、やる気が出る。
張り切って弁当箱を一緒に並べ始めたら、偶然、指先が触れ合った。
何となく、視線が絡んだ。
今なら、誰か見ているとしても、森の鳥達ぐらいの筈。
同じことを考えているのが、目の前のデンの顔に、ありありと出ている。
可笑しくなって、とっても愛しくて――
セリはきゅっと目をつぶると、ひと足早く、彼の唇へ春を届けたのだった。
これにて、本編お終いです。
以降のおまけは1話完結型です。