20 誰か喜んでくれるなら
青々と薫る若草が、川べりを覆うように茂っている。
セリは、軽やかな足取りで歩いていた。
傍らでは灰茶色の狼も歩を進めている。
「わたしの名前、この草からとったんです」
せせらぎに指先を遊ばせながら、セリは目を細めた。「わたしが生まれた時、若芽が早めに出ていたそうなんです」
だから、早くから芽が出た上に競い勝てる子として名付けられたけれど、蓋を開ければ能無しで、競う以前の子だった。
「でもわたし、自分の名前、嫌いじゃないです。祖母様が、芹ってぇのは春を知らせてくれるんだよぉ、嬉しいねぇって、おまじないのように繰り返してた所為かな。誰か喜んでくれるなら、いいような気がしたんです」
狼が笑った。
狼なのに、笑ったのが判った。
セリは、戸惑い気味に首を傾げる。
「デン様、狼なのも素敵だけど、元には戻らないの……?」
ふうっと、セリは目が覚めた。
おかしな夢を見た気がする。
剥き出しの木製天井を見上げ、思い返そうとしたら、セリさんっ、と横手から声がかかった。
「良かった、気がついた――」
涙ぐむ灰色の大きな瞳に、スゥヤ様、とセリは名を呟き、ハッとして飛び起きた。慌てたように、スゥヤが手を添えてくる。「安静にしてた方がいいわ。打ち身だらけで、ずぶ濡れにもなって――昨日は随分、熱も出ていたのよ」
背中に柔らかな枕を差し込んでもらいながら、〝昨日〟という単語にセリは胸が騒いだ。
「わ、わたし、そんなに寝てるしますか。で、デン様、デン様は――」
「眠ってる……デン君も、まだ」
少し言葉に詰まってから、スゥヤは言った。「でも、二人共、あの高さから落ちて、無事だったのよ……白昼夢でも見てるようだった」
スゥヤは水差しから硝子の杯に注いで、そっとセリに持たせてくれる。
そうして、三日前の顛末を話してくれた。時系列が所々前後していたが、大まかな流れとしては――
遺跡でデンに助けられたスゥヤは、その後セリとデンが団体に連れ去られる一部始終を、どうにもできずに遠い木陰から見ているしかなかった。
離陸して何処かへ飛んでいく魔球船を絶望と共に見送った後、魔力切れで朦朧としながらも、奇跡的に近くの小屋へ辿り着く。
そしてすぐ、裏に繋がれていたデンの馬に跨った。
これまで人の手を借りないと乗れないスゥヤだったが、セリが一人で乗っていた様を思い出し、決死の覚悟で試みて、何とかしがみつけた。
デンの愛用していた馬は相当訓練されており、且つ賢かった。不慣れなスゥヤを嫌がりもせず乗せ、行き先も示されず出発させられたのに、自発的に湖へ向かってくれた。
お蔭で、湖に滞在していた人々へ、日のあるうちに事態が知れる。
屋敷や街への連絡を、漁で残っていた二家族が請け負ってくれた。
儘ならない身体のスゥヤとグリンザは湖に留まり、対策を話し合っていた。
そこへ、魔球船が戻ってきたのだ。
壊れかけの船は明らかな異音を発していて、家の中に居ても何かが近づいてくると判った。そして窓から、異様な動きの魔球船が迫っているのも見えた。
デン君がひと暴れしたかな、とグリンザが言って、湖一帯にかけていた防壁を解除する魔法を発動した。
他にも対応できそうな魔法図を用意し、外へ出てグリンザとスゥヤとで魔球船の動きを注視していたら、上空に到達しかけた辺りで船から何か飛び出した。
その時点で、デンとセリだとは判るわけもない。まして、デンは狼になっていた。最初は、壊れた船体の一部だと思ったのだ。
魔球船は、急に勢いを増して落下してきていた。グリンザとスゥヤは距離を取りつつ加勢もしなくてはならない立場で、重い身体に鞭打って何処までできるか、不安しかない。しかし何かせずにはいられない。
グリンザが道楽で描いていたらしい布団の魔法とやらを湖にかけた時、宙に飛び出したのが大きな動物だと気がついた。
『アレ、デン君か――?』
『――そんな……っ』
スゥヤは悲痛な声をあげた。
あの高さから落ちては、ただでは済まない。大急ぎで、グリンザが布団の空魔法図へと魔力を入れ直しにかかる。
直後、狼が光った。
何事かと息を呑んでいたら、デン狼の背に大きな鳥の翼が生えていた。
『えぇえええ!?』
グリンザが、驚嘆と興奮が混じった声音で叫んだ。『何アレ何アレ――ちょ――デン君、なに描き換えてんの!』
スゥヤは呆気に取られて見守るばかりだ。
翼を生やしたのはいいものの、狼の身体に鳥の翼では上手く飛べるわけがなかった。
おまけに片方の翼を傷めているようで、ぎくしゃくと羽ばたいては羽毛を散らし、よたよたふらふらと、非常に危なっかしい飛行を披露してくれた。正直なところ、飛んでいると言うよりは、足掻きながら落ちていた。
そんな状況で、狼が口にぶら下げているモノに気づいたスゥヤは、更に血の気が引くことになる。
デンとセリが落ちてくる一方で、スゥヤのハラハラ度はうなぎ登りの一途を辿った。
二人がデンとセリに釘づけになっているうちに、魔球船が轟音と地響きを伴なって湖の端に落ちた。ぎりぎり地面を避けた地点で、派手に湖水や魚を跳ね上げ、雨のように辺りに撒き散らしてくれた。船体の一部から煙が上がったようだったが、すぐに立ち消える。
スゥヤもグリンザも船どころではなく、一旦、そちらは放置していた。
デンは湖の真上で最後にひと羽ばたきしてから、力尽きたように幾枚か羽を散らし、セリを咥えたまま水中に落ちた。布団の魔法が効果あったらしく、割とまだ高い位置からだったけれど、とぷんっと潜っていった。
グリンザが舟を出し、浮き上がってきたデンとセリを網で回収してくれた。
デン狼はその時に至ってもセリを口から離さなかったようだが、お疲れさま、とグリンザが笑ったら、人へ戻り、糸が切れたように意識を失ったそうだ。
その日は、連絡を受けた集落の人達が駆けつけて、魔球船を引き揚げたり、生き延びていたベジー団の数名を保護したりと、夜になっても大わらわだった。
セリもデンも家に運び込まれて治療を受けたが、翌日になっても意識が戻らず、揃って熱も出して、スゥヤは自分の体調もいまいちだったのに寝ずの看病をしてくれていたようである。
粥主体の軽い食事を摂った後、グリンザが部屋にやって来て、スゥヤも同席のもと、セリは詳しい話を求められた。
先にデンの容態を訊いたら、まだぐっすり、とグリンザは肩をすくめた。
「奥方が動き回れるようになっても寝てるようだったら、起こしに行って。多分、起きるだろうから」
そんなことで起きるような状態なら、それほど心配しなくていいのだろうか。
セリが不安をいだいて見やると、グリンザは傍らの椅子に腰かけ、誤魔化さずに告げてくれた。
「まぁ、正直なところ、奥方が起こしてくれないかなーって希望が半分混じってる。あの古代魔法の図面、相当弄らないとデン君の狼にはなり得ないんだよ。元々デン君は魔法弓も自己流で描いちゃう子だったけど、今回は途中で前脚を翼に換えたり、かなり変な発動をしたから。人に戻った時、両肩とも脱臼してた」
声も無くセリが青ざめると、ちゃんと嵌め直しておいたからね、とグリンザはお茶目に片目をつぶる。
そういう問題じゃないです、と言いたかったけれど、セリに言える筋合いでもなかった。概ねセリというお荷物を抱えていたが為に、デンは色々と酷い目に遭っている。
「そんなわけで、僕よりも明らかに身体に負担がかかる変化魔法だったと思うから、どれぐらい寝込むかは、ちょっと予測がつかない。でも熱も下がってきたし、顔色なんかは昨日より良くなってきてるよ」
本当に僅かな安堵を得て、ようやくセリは問われた詳細をぽつぽつと話した。
グリンザとしては、動物愛護団体の思惑云々より、やはりデンの変化魔法に最も興味があるようだった。とはいえ、光ったと思ったら変身していたとしかセリには言えない。
変身直後の、人の意識が抜けてしまっていたような状態についてはきちんと説明しておいた。そんな事もあると、図面に起こそうとしているグリンザには知っておいてほしかったから。
真面目に耳を傾けてくれたグリンザは、デン狼がセリと目が合ってから様子が変わったくだりになると、納得した風に言った。
「僕も狼になった時、他の二人のは判らなかったのに、奥方の目の色は判ったよ。青や黄緑っぽい色は見分けられたんだよね。だからデン君も、奥方を思い出せたんじゃないかな」
「デン君、日頃からセリさんをよく見てたもの」
スゥヤが微笑ましそうに目を細める。グリンザはにやにやと頷いてから、口をすぼめた。
「うーん、益々どんな魔法図を頭の中で描いたのか知っておきたいな。デン君に図面描きの特訓をもう一度だけ試すかなぁ」
ぶつぶつ言い始めたグリンザの脇で、それにしても……とスゥヤが柳眉を寄せた。
「思った以上にベジーはおかしな団体だわ。メッセン家としては二度と関わりたくないわね。あの代表の処遇、お義父様にもゴウナにも、よく考えてもらわないと……」
(無事だったんだ、あの人……)
口に出すのは憚られたが、心中複雑だ。
あの団体、団員は感覚がずれているし、代表に至っては狂っていると言えるのではないか。スゥヤの言うとおり、もう関わりたくない。
美貌の顧問魔法士が、怪しく笑った。
「やらかした事の数々からして、自治区に無断侵入した者への対応と同じでいいよね」
威嚇して追い出すのが常だが、悪質な相手の時はメッセン家も容赦はしない。その場で殺し合いである。旅路で盗賊に襲われた時と一緒だ。
スゥヤ個人はグリンザに賛同のようだ。セリも異論は無い。
「じゃあ僕、ちょっと試したい魔法図を仕上げちゃうね。御当主達に持っていきたいから」
微笑の後、そう言って、グリンザは部屋を出ていく。
セリは少しでも早く体調を戻すべく、横になった。
デンに、とても会いたかった。