19 セリです。判ります?
どうやってデンが変化魔法を発動させたのか、セリには思いつけなかった。
深く考えている暇もなく、狼は猛烈な速度ですぐ近くに居た女の足に喰らいつくと、船外へ放り出すように投げつけた。
女は人形のように透明の防壁に激突し、が――っ、と漏らすや甲板にずり落ちる。
「ひぃあぁあっ」
愛護精神など欠片も見せずに、若い男が手足を駆使して後方へ逃げ出す。狼の褐色の目が、ギラリと日の光を弾いた。
暴風のようにセリの脇を駆け抜けると、狼は前脚で男を踏み付け、絶叫をあげる肩の辺りに噛みつくと左右に激しく振る。狼自身の左脚付近も傷ついていて、甲板や防壁に赤い雫が散った。
凄惨さに、セリは立ち尽くしてしまう。
隣で代表が、な、な――と初めて狼狽したような声を漏らした。
「莫迦な――頭の中で、描いたのか――?」
大きな耳が、ぴくっと動く。肩が血まみれの若い男を放り出すと、デンは一気にこちらへ飛びかかってきた。うわぁあっ、と声をあげて代表がセリを突き出したが、狼の勢いは止まらなかった。
思い切り体当たりされ、代表諸共、セリは甲板に押し倒された。衝撃で息が詰まる。太い前脚が胸に圧し掛かる。
人としての意識が飛んでしまっている、とセリは悟った。抵抗する間もなく、ぐわっと鋭い牙が迫る。セリは、恐怖が過ぎて目を瞑ることも叶わなかった。
視線が、合った。
ぐ……っ、と狼が呻いた。セリを踏み付けた状態で、耳の付近に虫でも居るかのように頭を振る。脚を踏ん張られて、セリは胸が軋んだ。
「で、デン、さま……っ」
踏み砕かれるのではないかと思う程の力が加わったが、ふっとデンが脚をのけた。噎せながらセリが涙目で見上げると、褐色の丸い瞳がじいっと見返してくる。しかし息が荒い。喉の奥で唸っている。唸りながら鼻先で転がされ、セリは小さく悲鳴をあげた。
古代魔法とは違う方法で発動させたからなのか、グリンザの時とは違う。大きさが小屋ほどの巨大さじゃなかったのは、現時点で幸いだった。あの大きさだったら、とうに潰されて圧死していただろう。
デン狼は、セリが悲鳴をあげたら鼻を寄せてにおいを嗅ぎ始めた。あちこち、ふんふん云わせている。ほんの少しだけ尻尾の先が揺れた。
有無を言わさず噛みついてこないところを見ると、少しセリを覚えてくれているのだろうか。
一縷の望みが湧いて名を呼ぶと、狼がちらりとこちらを見る。何となく気になるけど慣れ合ってたまるかと言いたげに、ちょっと牙を剥かれた。つれない。
髪を嗅いでから、大きな舌がべろりと舐めてきた。濡れた鼻先が顔に押し付けられて、目元や口も舐めてくる。狼のデンは、尻尾をゆらゆらさせながら、さっさとセリの唇を味わっていった。
近くに昏倒していた代表が、うぅ……と声を漏らして身動く。狼の耳が素早く動いた。
デン狼は代表にも鼻先を寄せたが、すぐ逸らした。変なモノ嗅いだ……と言いたげに、寸時、動きを止める。ぷしゅん、とくしゃみをしてから、再度、身を振るった。
そろりとセリが半身を起こすと、狼は振り返って、又もじっと目を合わせてきた。セリも見つめ返す。何かが頭に引っかかってはいるみたいだ。
ここで目を逸らしたら二度と思い出してもらえない気がして、セリは瞬きもこらえてデン狼の瞳を見続けた。
褐色の大きな双眸には、髪がぼさぼさで服もよれよれのセリが映っている。故郷では気持ち悪いとさえ言われた青い目も映っている。その事に気づいてセリはうつむきそうになったけれど、貴女はその色でいい、とデンが言ってくれたことを思い出した。
思えばデンは初対面の時から、シノノメのことを不審に感じつつも、セリ個人は受け入れてくれていたのだ。
感極まり、視界がぼやけた。と、狼が何か動揺したように目線をずらした。ずらし、ぴたりと静止した。
急速に、雰囲気が変化する。場を支配していた猛々しい野生味が消え、狼は驚いたように身を低くした。辺りを窺い始める。
「デン様――デン様、セリです。判ります?」
期待を込めてセリが身を乗り出すと、わふ、とデンが応じた。応じて、戸惑ったようにぐるぐるとその場で尻尾を追い駆けた。
押し寄せた安堵が嬉し涙となって溢れてきたが、セリは手早く拭って伝えた。
「デン様、カッコイイ狼になってます」
尻尾を振り振りデンは照れたように目を彷徨わせ、間近で身を起こしかけている代表に気づいた。途端、鼻面に皺を寄せて唸る。ぅわっ、と目を剥いた代表の胸倉を咥えると、あっち行けと言わんばかりに放り投げた。
べきっと派手な音がする。ぶち当たった代表は、防壁に白い筋を一本残し、手すりへしなだれる。のびてしまったようだ。
あれ程に余裕綽々だった男も、〝神獣〟の前では形無しだった。
形容しがたい感情を、セリが吐息に混ぜた時だった。
雄叫びと共に上から影が降ってきた。セリはデンに尻尾で払いのけられる。
重い音がして、デンは飛び降りてきた金髪の男に頭を強打された。セリの悲鳴と被って、男は金髪を更にくしゃくしゃに振り乱し、喚きながら狼を素手で殴りつけた。
「壊すなと、言った、だろうがぁあッ」
デンは覚束ない足取りで横手に傾ぎ、数発まともに殴打を喰らって、呻いた。傷が開いたのか、新たに何処か傷めたのか、甲板に血が散る。セリは、急いで身を起こしかけ、手元に触れた物を夢中で掴んだ。
続けざまに入りかけた蹴りを、デン狼は辛うじて跳んで避けた。それを見て、セリは掴んだ物を金髪の男目がけて投げつけた。
デンのように背中を狙ったのだが、素人のセリには正確さも勢いも足りない。ただ、距離はさほど離れていなかった為、漆黒の投げ矢は当たった。
ギャッと声をあげ、男は尻を押さえて前のめりに突っ伏す。間髪いれず、反撃に転じたデン狼の前脚が勢いよく後頭部を踏ん付けた。甲板へ顎から叩きつけられた男は、ごふっ、と漏らし、大人しくなる。
デン狼は脚をどけ、男の様子を窺ってから、つと頭を上げた。
セリも気がつく。ほんの僅かだが、風が流れ込んできている。
粉々とまではいっていないが、白い筋が生じているところからしても、防壁の魔法が再び壊れてしまったようだ。
操舵輪のある場所へ、左の前脚を庇いつつも狼が向かった。セリも階段を駆け上る。
操舵輪の周辺は、機械仕掛けに囲まれていた。どれが何の機械や魔道具なのかさっぱり解らない。けれどもセリの宝物に似た風合いの、淡い金色の球体が浮かんでいる枠は、漠然と意味を理解した。
球体には地図らしきモノが描き込まれている。白い点が一つ、その上をじわじわと移動している。この船が何処の上空を飛んでいるのか、知らせているのだ。
機器が密集した或る箇所を、狼が前脚の先でちょんとつつく。矢印と四角い模様の彫ってある三つのつまみがあった。
これですか、とセリが上向きのつまみを押したら、大きな機械音がして、がくんがくん左右に揺れながら船首が斜め上に傾く。
足が滑りそうになったが狼が身体で支えてくれて、セリは慌てて下向きのつまみを押す。気の抜けた音が聞こえてきて、船の傾きがそのままに下降が始まった。
セリが操舵輪にしがみつくと、デン狼が鼻先で全部のつまみを一度に押す。まるで悪路を行く馬車だ。がくがく揺すられた後、下降は止まったようだった。
しかしながら、不穏な機械音が途切れずに響いている。これは一刻も早く着陸しないと、絶対に拙い。だが、何処にでも降りられるわけではないから、ミシュマシュの役人だって場所を求めていたのだ。
血の引く思いでセリは球体を見る。デン狼も地図を見据え、何処かを鼻先で示した。
「ここ?」
セリがその辺りを指すと、軽く鼻面で押されて修正される。丸に近い何かが描いてある場所だ。「湖――?」
ぅおん、とデンはひと声吠えた。
現在地からやや距離があるとはいえ、地上への被害も抑えて着陸できそうな所は、あの湖のようだった。
セリは意を決し、球体を見ながら操舵輪を動かした。動かし過ぎて、波をかぶったわけでもないのに船が大きく煽られる。防壁の魔法が壊れているから、風の影響も多大に受けてしまっているのだ。デン狼が身体を張ってくれなかったら、セリは甲板上をごろごろ転がっていたと思う。
本当ならデンが操縦した方がずっと安全で安定しただろうが、いま元の姿に戻ってまともな操縦が可能なのかは甚だ怪しい。セリが頑張るしかない。
木の葉が宛ても無く舞うように、魔球船は中空をふらついた。何度も左右に振れ、甲板上で倒れているベジーの面々が、丸太のように右往左往する。
途中で意識が戻った人も居るようだったが、呻き声を漏らすだけしかできないようだった。敷かれていた布も巻き込んで、何かの荷物のようになっている者も居た。
セリも完全に船酔い状態だったが、気力で操舵輪を握り続けた。
船は下降のつまみを押していないのに、徐々に落ちようとしていた。隅にある計器の目盛りが、目に見えて下がっている。込められた魔力量をさしているのか、高度をさしているのか、いずれにせよ限界だ。
冷や冷やしながら地図上の湖に白点が近づいた頃、デン狼が下矢印のつまみに鼻先を向ける。
意志を持った褐色の瞳と目を見交わしたセリは、一つ息を吸い込むと、それを押した。
一瞬、身体が浮いた。
さっきよりも急激に下降する。
喉の奥から息とも声ともつかないモノが吹き出し、次の瞬間にはデン狼に服の端を咥えられ、セリの身体は宙に飛び出していた。
デンはひと駆けで甲板の手すり近くに着地すると、ひびが入っていた防壁に尻尾を叩きつける。
幾度か叩いて大きく割れると、半ば後ろ向きの恰好のまま、凄い勢いで船外へ吸い出された。
遥か眼下に、濃い緑の豊かな広がりと、鏡のように陽光を反射する湖が見えた。船首を少々上にして、魔球船が先に落ちていく。
風圧に、顔も手足も攣る。息がし辛い。風の唸りしか聞こえない。
この高さからでは、水に落ちても相当の衝撃ではないか。
それより、ここ一帯はグリンザ特製の防壁魔法がかけられているではないか――
セリは、迫る死を覚悟した。
でも、最期までデンと一緒なのは、いい。
開けていられず閉じた瞼の向こうが、光った気がした。