12 もうもう、もーぅ、デン様!
遅い夕暮れ時には水のにおいが強まって、より涼やかな風が吹いていた。
梢の先に細い月が姿を見せ、透きとおった藍空に星々も散らばり始める。
湖の畔には幾つか篝火が焚かれ、真ん中に拵えられた炉では赤々と炎が踊っていた。上に乗せられた金網で獲れたての魚が炙られ、滴り落ちる脂で火の粉が散っている。果実の汁がかけられると、何ともいえない香ばしさが鼻をくすぐってくる。
燃える薪の間には、大きな葉で何重にもくるんだ一品が押し込まれている。醤にひたしておいた兎肉と薬味、芋と米。
脇の竈ではパンや夏野菜を焼き、湯も沸かしている。カフィの豆や酒も用意されていた。
まだぁ? と皿を持った子供二人が、親達の周りをうろうろしている。
小骨に気をつけろ、と旦那さんが焼けた魚を皿に乗せていく。男の子はそのままかぶりつき、慌てたように口をつぼめて熱を逃がしていた。女の子は、フォクでせっせと身をほぐし始める。
同い年の二人は今回の旅行でも仲良く行動していることが多かったけれど、こういうところは全く違っていて面白い。
セリは伸ばした生地の上に、蒸し上がった葉包みの中身を移していく。これはパイにするのだ。シノノメ里とメッセン地方の味を合わせ、賄い夫妻と考え出した料理である。
作業しながら見ていると、女の子はほぐした白身と野菜へ甘辛いタレをかけ、焼き立てのパンに挟んでいた。その食べ方も、なかなか美味しそうだ。
視界の端で、パッと光が閃く。
防壁の魔法図を広げているデン達の所から、真っ白な光の玉が打ち上がっていった。再び子供の歓声があがる。
光は、宙に星が増えたかと見間違える程に散らばった。それが降るように光の筋を生み、ややの間ちかちかと明滅して、消えていく。
「すっげーっ」
「きれーい」
最後の魔力を込めたのはスゥヤだ。
初めての魔法を発動させるのは、危険が伴う可能性がある。初めはグリンザが発動させるつもりだったみたいだけれど、当主代行の妻として、わたしがやります、とスゥヤが決意した表情で申し出て、彼女に任された。
丁寧に丸め直した図面をグリンザが家へ置きに行き、デンとスゥヤは食事会に合流した。鉄板に並べたパイを竈に仕込んだセリは、お疲れさまです、と声をかける。
デンは黙って頷き、スゥヤはほっとした笑みを返してくれた。
すぐにグリンザも戻ってきて、本格的に夕食となる。
大人達の間に、小さな杯で酒が回った。未成年のセリと子供達は、果汁を入れた水で我慢だ。
女の子と同じようにしてセリが食べてみた魚は、臭みも無くてほくほくしていた。パンのほのかな甘みとタレの辛みも混じり合い、予想よりずっと美味しい。
魚を綺麗に食べ終えた男の子が、セリの傍で火を背にして指を組み、地面に影絵を披露してくれる。鳥が羽ばたき、犬が吠える。カニという生き物も教えてくれた。足が多いみたいだ。
セリが珍しがったら少年は得意そうに繰り返してくれたが、野菜を食べろと母親が皿に盛ってきたら、大慌てで逃げていった。
笑って見送った先に竈があって、セリも慌てて露台から立ち上がる。パイを忘れていた。
恐る恐る覗き込んだら、火が弱めてあって、いい焼き加減になっていた。
何となくデンを見やったら、彼はさり気なく視線を杯に落とす。
(もうもう、もーぅ、デン様!)
恥ずかしいのと嬉しいのとごっちゃな気分で、セリは革手袋を嵌めて鉄板を引っ張り出した。寄ってきた奥さん達が、いい焼き色、と目を細めてくれる。ちゃっかり舞い戻った男の子が、素早くフォクに刺して持っていった。
人数分作ったから、セリは皿に二つ乗せてデンの横に座る。皿を差し出しながら、小声で告げた。
「ありがとう、デン様」
うん、と何食わぬ顔で応じ、デンは指先でパイをつついてから素手で一つ取る。
パクリといって、もぐもぐ咀嚼して、うん、ともう一度鼻で言った。すぐにもう一口食べ出す。
セリは安堵して、自分も食べてみる。外はぱりぱり。中は肉に噛みごたえありで、染み出す旨味と柔らかにすり潰した芋と米が、喉越しを良くしていた。屋敷で作った時より、いい感じだ。取り敢えず、デンと一緒に食べると概ね美味しい。
セリが満足して爽やかな風味の水を飲んでいたら、男の子の母親がつつっとやって来た。今度、パイの作り方を教えてほしいとこそこそ言う。
「リコラの葉、あの子、気づかずに食べてる。今まで細かく刻んでも、臭いとか苦いとか、すぐ気がついて、よけてたのに」
後で紙に書くと約束し、セリと奥さんは陰で固い握手を交わした。
皆が食事から談笑に移り始めた頃、デンがカフィの支度を始めた。
楽しみにしながらセリが眺めていたら、見たことのない、大きな黒っぽい実を膝に抱える。漆黒の投げ矢が手に現れ、それで実に穴を二つ開けていた。
小鍋に実を傾けたら、白っぽい果汁が勢いよく出てくる。
鍋を火にかけた後は、いつもどおりの手順でカフィを淹れ始めた。
向こう側の露台では、女の子が歌を歌い始めている。森で熊に会ったという歌詞だ。死活問題なのに、呑気な旋律である。
二番辺りから彼女は歌詞を間違え出したようで、母親が訂正を入れながら一緒に歌ってあげていた。低めの声だが温かみがあって心地いい。
並んで腰かけていた男の子も、途中から参加する。歌詞を知らないのか、女の子達が一節歌うと真似ている。
何だかいい熊だったらしい歌の次は、羊が可愛いという歌になった。今度は合唱で、羊は真っ白ふかふかのようだ。
(そういえば、帰ったら糸を紡ぐんだっけ)
先日刈った羊の毛は、糸にしていくと聞いている。この一連の仕事は、集落の女性達が喜んでやる。熱心にやればやるほど、どうしてか秋冬に手が荒れなくなるそうだ。
セリは、そろそろ婚礼衣装の準備を始めようとクラカおばさんに言われていた。最低限、帯だけは新調するものらしい。
独特のいい香が鼻に届き、セリが期待の眼差しを向けたら、デンは鍋の中身をカフィのように漉している。牛の乳みたいだなぁ、と思っていたら、どうやら似たような代物らしい。小さな器二つに入れ、子供達へ渡していた。
続いてカフィがセリ達の手元に届く。
辺りはだいぶん涼しくて、あったかいカフィもちょうどいい。夜の外で飲むというのも新鮮だ。
セリが少しずつ味わっていたら、オレもカフィがいい、と男の子が声高に訴えた。わたしも、と女の子も加わる。
デンのカフィはやっぱり美味で、火に照らされた大人達の顔にはそれがありありと出ている。興味と羨ましさが湧いてしまうのも仕方なかった。さっきは一緒に水を飲んでいたセリが、今度は大人達と同じ物を喜んで飲んでいる。それにも納得いかないようだった。
しょうがないな、と、旦那さん達が自分の器を譲ってあげる。何処となくニヤリとして見えた。
子供二人は、喜色を浮かべて器を傾ける。そこまでは良かったが、すぐに揃って顔をしかめた。
「苦いぃ」
わっはっはと旦那さん達が笑い出す。見守っていたグリンザやスゥヤも、笑声をこぼす。
奥さん達が、自分の器からほんの少しを子供達の白い飲み物に混ぜてあげていた。男の子が、なんで入れるのっ、と悲鳴をあげ、ヤダ飲まない、と騒ぎ出す。
その横の女の子に向けて、美味しいよ? とグリンザが笑いかけている。言われるままに女の子は口をつけ、あれっと言う顔になった。
セリの隣で、デンが喉を鳴らして笑った。
「奥殿みたいだ」
呟きのような言葉に、そういえばと思い出す。セリも、初めて飲んだ時は苦いと感じたものだ。
今は、何も加えなくても美味しく飲めるようになってしまった。
「もう少しで一年経つんですね……」
あっと言う間だ。けれど、確実に時は重ねられた。
里から街に着いた時は、不安に押し潰されそうで。デンのことも初めは怖かったのに。すっかり隣が安心になっている。
うん、と言ったデンは、不意にぎごちない空気を纏った。恐る恐るといった感でセリを窺ってくる。
「その……さっきムスタが言ってた、貴女のおねだりというのは何だろう」
一瞬きょとんとしてから、セリは頬が緩む。
デンは叶えてくれるつもりだ。これは是非にねだりたい。
(でも、何をおねだりしよう――?)
大好きな本日のカフィは既に手の中である。
真剣に考え込んだセリは、一度、きゅっと唇を引き結んだ。身を正してデンに向き直る。デンもびくりと背筋を伸ばした。
おねだりとは何だか違う気もしたけれど、セリは願った。
「デン様、わたしをちゃんとお嫁さんにしてください」
デンはほけっとしてから、薄闇の中でも判る程に赤くなった。
「え、うん、それ、は……こ、今夜……?」
「十八になったらです」
「……うん、そうだよな」
何故か、ちょっと遠い目をされた。セリは言い募る。
「わたし、よく解らないままシノノメから来てしまったけど、けど今は本当にデン様のお嫁さんになりたいの。ずっと一緒に居たいの。今度、帯をクラカさんと作るんです。せっかく作ってもデン様がお嫁さんにしてくれなきゃ、嫌です」
デンは赤い顔をうつむかせた。ややしてから、ぽつりと言う。
「俺も、もう貴女でないと嫌だ」
言葉にされたら、それまで以上の幸せがセリの胸に広がった。おねだりらしいおねだりが浮かんでくる。
「デン様、帰ったら魔道具のお花が見たいです」
うん、と応じて顔を上げたデンが嬉しそうで、セリも顔がほころぶ。
目が合ったら、自然と互いに吸い寄せられた。
露台に添えていたセリの手を、デンの指先が確かめるように触れてくる。
ぱちり、と木のはぜる音が、妙にはっきり聞こえた。
鼻先が触れ合いそうな距離で、セリとデンは動きを止めた。止めて、視線を横へ流す。
周りから、息をひそめて注目されていた。賑々しかった筈の子供達にまで。
慌てて身を引いた二人は、カフィの器をほぼ同時に引っ繰り返した。
狼狽しながら器を拾い上げる二人の背後で、黙ってたのにチューやめちゃったよ、なんでー!? と子供達が声を響かせ、ホントなんでだろうねぇ、とグリンザが笑みを含んだ声音で応えていた。