01 本当に、急な、話で……
セリは当惑気味に、家の手前で足を止めた。
少し前から、にわか雨が降ってきていた。山の端から野道を小走りに来たセリは、肩で息をしつつ、頬にはり付いていた黒髪を掌で拭う。
粗末で隙間だらけの軒下に、編み笠を被った里人が二人、あぁ居た、と言うような目で少女を見た。一人は里長、もう一人はその長男だった。
「良いかね」
六十近い里長が、好々爺の顔で戸口を横目に示す。嫌だと言うわけにもいかず、はい、とセリは掠れた声で応じた。
本当は、家に駆け込んで、わんわん泣きたかったのだけれど。こぼれていた涙は、雨と混じってしまっていた。
役に立っているようないないような棒鍵を突っ込んで、セリは戸を開ける。開けながら、何の用なのかと憂鬱が膨らんでいった。
たった一人の身内だった祖母が半年前に亡くなり、セリは今、独りぼっちだ。
迷惑をかけたつもりはなかったが、ここひと月ばかり、里長の三男とセリは噂になっていた。
三男のカシワは整った面立ちで、妙齢の里娘達の憧れを集めている。そんな彼が、独りになったセリにしばしば声をかけてくれるようになったのだ。
当初は戸惑いの方が大きかった。それがほのかな幸せになっていくのに、時間はかからなかったが。
(あの男に関わるのを、やめてくれとでも……?)
二人に薄い座布団を勧めながら、セリは冷めた心地で目を落とす。
セリの父は異国人で、里一番の器量良しだったらしい母を孕ませたと、里人から嫌われていた。
セリを産んだことで母が亡くなった後も、祖母は父を庇って一緒に暮らしており、里人から、ずっと奇異の目で見られていた。父の夭折からも、変わらず、ずっと。
そして、半分余所者で能無しのセリは、さり気なく除け者にされてきた。
笠だけ外し、濡れた服を拭く間も惜しむように座り込んだ二人の客は、白湯も断った。里長が、早々に切り出す。
「急な話なんだがね、お前に縁談があるのだよ」
「――は……?」
カシワと? そんな莫迦な、と浮かんだ。
何故なら、ついさっき山で耳にしてしまったのだ。
『カシワぁ、本気なの、アレに』
『んなわけない』
『あ、やっぱ? あんな鴉の雛みたいなの、気持ち悪ぃもんな』
せわしい瞬きで、睫毛から雫が散った。手の甲に落ちた粒を指の腹できつくこすり、向かいの二人を見たセリの青い瞳が揺れた。
その縁談を断れるのか、無言で確かめる。
里長は人の好さそうな顔で目を細め、長男は早く帰りたそうに見返してきた。
断れない話だと悟る。
「本当に、急な、話で……」
何とかセリがそれだけ絞り出すと、里長は大きく頷いた。
「まったく恩知らずな上に恥知らずな話だ。だが我々は、無用な争いは好まないのだよ」
違和感でセリの眉が動いた間に、里長は続けた。「あちらは図々しくも、今また古の慣習どおりの相手を要求してきた。魔力の無い、若い娘」
長男が、ちらりと父親を見てから、付け足すように訊いてきた。
「何か舞えるか、お前」
祖母から、少しでも里にとけ込めるようにと、踊りを教わってはいた。若い娘達の誰も踊っていない、古臭い型のヤツだったけれど。
あまり自信は無いと応じかけたら、適当でいい、と里長が遮った。
「百年以上前の習いだ。発動しなくとも、魔力が足りないのだろうとでも言ってやれば良い」
話が見えない。
セリはしかし、カシワとの縁談じゃないことだけは理解し、半ば勢いで諒承した。
いずれにせよ、セリの意思などお構いなしで、話はまとまったらしい。
半月もしないうちに、隣国へとセリは出発させられたのである。
セリは里長の言ったとおり魔力が皆無なのに、隣国ミシュマシュは魔法立国だ。魔法士の認定をしている国で、国民の大半が多かれ少なかれ魔力を持っていると聞く。
またぞろ、里と同じように除け者にされる未来しか見えない。
重い気分で山越えの乗合馬車に揺られ、翌日、国境を越える。
国を越えての嫁入りだが、嫁ぐのは田舎の能無し娘となると質素なものだった。
荷物も、旅程上やむない着替えや消耗品程度しか無い。自分の荷包みを自分で持っている。
セリに同行しているのは、地理に明るい里の男ヨモギと、この縁談に最後まで抗議したというカシワの二人だけだ。
里の中で、カシワは泣く泣く恋人と引き離された悲運の男になっているようだった。
少しでも別れまでの時間を延ばしたいと、自分に酔った顔でセリにも訴えてきた。セリはもはや冷めているので黙って首を振ったが、結局、引き渡し人として彼はついて来た。本音は物見遊山なのではないか。
里に似た光景が広がる山の麓を馬車で行き、やがて故郷とは趣の違う畑の一帯を抜けた。米より麦を主に育てているようだ。
とはいえ、人の暮らしはさほど変わりない気がする。魔法の国らしき建物や道具を目にすることもなく、流れる景色をぼんやりとひねもす眺めるうちに、馬車がまた停留所に停まった。
この後は歩きだとヨモギに告げられ、セリ達は長閑な街で乗合馬車を見送る。
明日の昼には嫁ぎ先へ行くそうで、街で一泊となった。
宿の部屋に入ると、ようやく異国に来た実感が強まった。
夕焼けに染まる外と隔て、窓に透明の硝子が嵌めてある。その両脇には薄手の布が吊るしてあった。
布団が、低めの台に乗せてある。硝子張りの魔道具の明かりが卓に置かれていて、魔力の無いセリでもつまみを回すだけで灯りが点くようになっていた。異国の文字と並んで、セリの読める文字でも説明が書いてある。明かりが自然に消えたら魔力切れだろうから、従業員に言えば魔力を入れ直してくれるみたいだ。
日が暮れて徐々に暗くなっていく部屋の中で、灯の柔らかな光がセリの周りを照らし続けている。故郷の燈明よりも揺れの少ない、静かな火だった。
単なる旅で訪れたのなら、もっとわくわくできたろうに。
背もたれのある四ツ足の椅子に腰かけ、セリは一人、項垂れた。
里長に縁談を持ち込まれてから十日以上はあったのに、セリは詳細を殆ど知らされないままだ。漠然と、里の為にこの話を引き受けろという威圧を感じ、ここまで来てしまった。
(今更、逃げ出すなんて駄目だろうな……)
ひっそりと十五年間生きてきて、顔も名前も知らない相手と結婚する羽目になるとは。最期までセリを心配してくれていた祖母に、現状を知られない点だけが唯一の救いかもしれない。
じわりと目頭が熱くなって、セリは掌で眦を押さえる。
この街では里のように皆が皆、黒い髪や目ではなかった。明るい色の髪や目の人が居た。
父亡き後の里ではセリだけが違う目の色で、それでこうして厄介払いされたのかと思ったのに、世の中には別の色なんてたくさん溢れている。
どうして自分だけが、こんな目に遭っているのか。
流されているだけの無力さも、悔しくてしょうがない。
部屋の扉が叩かれ、セリはびくりと肩を震わせた。次いで、名を呼ぶ声に顔を強張らせる。カシワだった。
鴉の雛のようで気持ち悪いとセリを評した友人に、彼は下卑た笑いを含ませて言ったのだ。
『オレ、ヤる時に目なんて見ないから無問題。あいつ、肌はすっげぇ白いぜ。一回、ヤりてぇんだよな』
ここに来るまで話しかけられてもなるべく無言を通してきたセリは、今回も、じっと黙って扉を見た。
向こうから、再度、軽く扉が叩かれる。薄気味悪い猫撫で声が聞こえた。
「セリ、まさかまだ寝てないだろ? 開けてよ、オレら、もう今夜が一緒に居られる最後なんだぞ」
(要するに、最後に一度ヤらせろと? 男って、そんな人ばかり?)
思えば父もこんな風に母に言い寄って、妊娠させ、死に追いやっているのだ。きちんと結婚はしただけ、カシワよりはマシと言えるだろうけれど。
魔力の無い娘を嫁に寄越せと言ってきた先方も、きっとろくでもないに違いない。無力な小娘をいたぶって嘲笑うつもりかもしれない。
開かない扉を揺すった後、しばらく扉向こうに苛々した気配があった。が、やがて舌打ちの音を残して消えた。
セリは目元の雫をぐいっと拭うと、布団に倒れ込む。
先の見えない行く手がたまらなく怖くて、灯りを点けたまま、少女は眠りに落ちていった。
次の日、朝食後すぐに宿を出た。
ヨモギに続いて、カシワもセリも街外れの木立の中へと踏み入る。
森か林か曖昧だったが、秋口でまだ落葉も少なく、鬱蒼としていた。
里の女達からたった一枚用意してもらえた晴れ着を纏っていたけれど、茂みを縫って進んでいく先には丸きり人けが無いように思える。
(古の慣習どおりの相手……わたし、何だか生贄みたい)
ここに到って、セリは自分の結婚相手が人間じゃないかもしれないと浮かんだ。
祭壇のような場所への置き去りや、殺される可能性まで過ぎってしまう。
足がすくんだセリを、カシワが振り返った。どうした、と面倒そうに言ってから、ふっと少女の前で被り続けていた優しい面になる。
「大丈夫か、休むか」
どうとも答えられずに音がたってしまいそうな歯を食い縛ると、幾らか先に行ってしまっていたヨモギが足早に戻ってくる。
「街で引き取ってくれりゃ良かったのにな。まぁ、でももう少しだぞ」
尤もらしく頷いたカシワが、顎を撫でながら不審そうに眉を寄せた。
「昨夜来たってのは、本当にムスタだったんだな?」
ムスタは、セリでも知っている中位魔法士の称号だった。千か万の単位で一人居るか居ないかだと聞いている。里では、ついぞお目にかかったことがない。
「本物の称号証見せてきたぜ。魔法で面でも変えてんのかってくらい、お綺麗な野郎だった」
ヨモギの返答に、カシワは口を曲げた。
「で? 後どれくらいだ。その方角に真っ直ぐでいいのか」
四半刻はかからないとヨモギは答え、地図でも描いてあるのか、紙片を取り出してカシワと確かめ合っていた。
カシワは、里長譲りの人の好さそうな笑みを見せた。
「もう、後はオレが連れて行こう。ちゃんと引き渡すから、ヨモは宿に戻ってくれていいよ」
えっ、とヨモギは洩らしたが、カシワとセリに視線を交互させてから、何か勝手に納得したような顔になった。
「アンタが道具を持ち帰ってくれりゃ、里の者に文句は無いさ」
それだけ言うと、元来た方へと立ち去っていく。
待って、と引き止めかけたセリはカシワの手で素早く口を塞がれた。呻いても、ヨモギは振り向きもしない。後ろ姿が木々の向こうに見えなくなると、セリは横手へ引きずられる。
必死に、もがいた。
「や、嫌……っ」
「嫌じゃねぇっ――散々優しくしてやったのに、異国人の嫁に決まった途端、掌返しやがって――お綺麗なムスタ様に乗り換えるつもりだろ、あばずれがっ」
「知らない、そんな人……っ」
「嘘つけッ」
喚きと共にセリが木陰に引き倒された時、ドッと間近で音がした。
目を上げると、カシワの歪んだ顔のすぐ横、幹に黒い矢が突き立っていた。勢いを示すように、漆黒の矢羽が微震している。
「次は外さない」
何処からか、低く声がした。「女からどけ」
カシワはセリに跨りかけていた体勢のまま、きょろきょろした。相手の姿を見つけられないと知るや、脇に飛び退く。何者かの声に従ったのかと思いきや、セリは無理矢理立たされた。
「こそこそ隠れてんな! 出てきやがれッ」
セリを盾のようにしてカシワは叫んだ。ここまで小狡いと、いっそ天晴れだ。
そう離れていない木立の隙から、人影が現れた。矢だけでなく、手にしていた弓も黒い。
遠目には十七のカシワと大差ない歳に見えた。灰茶の短い髪で、異国人らしい出で立ちをしている。黒っぽい短衣の上に、片側だけゆるりと布を纏っていた。帯の下も同じような布が、女性の腰巻かのように斜めに足を覆っている。股下のゆったりした黒の下衣は動きにくそうに見えたが、滑らかに数歩進み寄る。
カシワが何か言う前に立ち止まり、若者は感情の窺えない声を紡いだ。
「メッセン家当主の二子、デンだ。その女はシノノメから約定によって来た筈」
嫁ぎ先の人なのだと察したセリは、藁に縋る思いでカシワから逃れようとした。けれど、首元に絡んだ腕の力が強まる。
セリが短く呻くと、デンと名乗った若者は悠然と矢をつがえた。セリごと射貫くつもりかのように、真正面から構える。
「離せ。俺の妻だ」
へ、と間抜けな顔になるセリの目の端に、新たな人影が映った。
「まーまー、落ち着くしましょう」
茶色の髪で背の高い、二十代半ば程の男だった。こちらも異国の恰好だ。深い暗色のすらりとした長衣を着て、細長い棒のような杖を持っていた。
男は張りつめた弦のようなデンと違い、のんびりした風情でカシワを見ると、片言を続けた。
「貴男、昨日と人違うけど、シノノメ――えー、三番目ですか? えとですね、奥方、無事来る。それが、お互い、約束果たすです。解ります?」
忌々しげな歯ぎしりが聞こえた直後、セリは背中を突き飛ばされた。つんのめって悲鳴をあげた背後で、ひッ、と声が漏れる。
地面に手をついたセリが振り向くと、カシワは袖の下を木に縫い付けられていた。黒々とした矢が刺さっている。
デンは弓を下ろすと、指に残していた矢を帯に挟む。黙ったまま近づいてきて、セリを片手で引っ張り上げた。褐色の瞳がセリをじっと映して、ついと逸れる。
く、来るな……っ、と声を震わせたカシワに歩み寄ると、デンは袖を縫い留めた矢に小さな包みを結わえ、低声で告げた。
「メッセンもシノノメも、約束を守った」
次いで、異国の言葉で短く何か言うと、デンは一方へ歩き始めた。
はいはい、と理解できる言葉で緩く応えたのは連れの男で、セリに寄ってくると濃い緑の目を和らげた。近くで見ると、カシワが軽く霞むほど綺麗な顔立ちだ。
「奥方、ついて来る。ワタシ、今回、立会と保証人。グリンザ・ムスタ・ローウェルです」
「し、シノノメ里の、セリ、です」
緊張に上擦りつつセリは名乗り、促されるままにデンとグリンザの後を追って歩き出す。
緩やかな上り坂を少し行ってから下方を見ると、カシワはまだ矢を抜こうと苦闘していた。