星降る夜と帰り道
「……」
仕事帰りの人達の足音が単調な雑音になって聞こえてきます。その雑音がすっかり彼女の耳になじみ、彼女は音の中に埋もれていくような気がしていました。
そんな中、彼女は汚れた床を見ながら、何度も何度も同じ事を考えていました。
同じ言葉と同じやりとりを繰り返し、同じ所に行きついて、同じように納得がいきませんでした。
夏休みのある日の事。
もう夕暮れだと言うのに、彼女は家に帰りたくありませんでした。けれど、お金もないからどこにも行くこともできません。
でも、駅なら明るいし、屋根もあるから突然雨が降ってきても大丈夫。もしかしたら、どこからか神様が現れて食事や寝る場所を彼女にくれるかもしれませんでした。もちろん、それにどんな代価をもとめられるのか、彼女だって想像できないわけではありません。けれど彼女の今の気分なら、その代価を支払うことができるかもしれない、とも思えました。
彼女は時々、昼間に買った、今ではすっかり気がぬけた炭酸飲料を口にしながら、携帯をいじって時を過ごしていました。
気温が下がり始め、太陽と人間が仕事を終え、夜と空腹がどこからか顔を出し始めたとき、彼女の前に一匹の黒猫が通りかかりました。
「黒猫……縁起悪」
彼女は黒猫が横切ると縁起が悪いという話を思い出しました。
黒猫は全身真っ黒、夜の一部を切り取ってきたかのように手も足もしっぽもお腹も真っ黒です。そして真っ暗な夜空に月が浮かぶように猫には二つの金色の瞳がありました。
黒猫は彼女の前までやってくると満月のような丸い瞳で彼女を見据えました。
「……何? お前も一人?」
黒猫に見つめられたので、彼女は気まぐれに黒猫に手を差し出します。すると、黒猫はいきなり彼女の手を叩きました。
「イタッ!?」
「こんな時間に何をやってるの? 早く家に帰りなさい」
「え、ええっ!?」
黒猫の猫パンチが彼女の手を叩き、黒猫は鋭い目で彼女にそう言いました。
彼女は驚きのあまり立ち上がり、思わず猫を見つめ、それから自分のまわりを見回しました。
けれど、そこにはお酒に飲まれた人と帰る家のない人がいるだけで、そんなことをいいそうな人は見当たりません。
そう、やっぱり猫がしゃべっているのです。
「ね、猫が!?」
「帰り道に迷ったの? 仕方のない子ね」
猫は母親が一人前になりきれない大きな子供に言うように、少し呆れたように言いました。
「ほら、早く帰るわよ」
「え? いや、そんな……」
「いいから歩きなさい」
「あ、歩いて!? 歩いて帰るの?」
彼女が歩くのを渋っていると、黒猫はニュッと爪を出し、猫パンチを構えました。
さっきの猫パンチは爪が出ていませんでした。今度は出ているので、とても痛そうです。
「わ、わかったわよ、歩けばいいんでしょ!」
とにかくここから場所を移動すればいいや。
彼女はそう思って駅を一先ず離れました。
駅から離れ、しばらく歩いて、角を曲がりました。
「……」
「……!?」
彼女が振り向くと、すぐ後ろに黒猫がついてきているではありませんか。
「なんでついて……」
「帰り道はそっちじゃないでしょう?」
「……」
「道草はくわずに帰りなさい」
「余計なお世話でしょ!」
彼女は思わず声を上げましたが、そんな抗議の声など黒猫は少しも気にしません。まるで猫に文句を言っているようなものです。
それから黒猫は、彼女が違う道に行こうとするたびに「そっちじゃないわ」とか「こっちでしょう?」と言って注意しました。
彼女は仕方なく本来行く道を通ることになりました。けれど黒猫は不思議な猫でした。彼女がいつもと違う道を行ったり、少し遠回りをしたとしても何も言いませんでした。
けれど、反対方向に行こうとしたり、全く違う道に行こうとするとすぐに注意するのでした。
やがて、彼女は黒猫に注意されない歩き方を覚え、自由に歩きはじめました。
彼女の家は彼女が座っていた駅からいくつか駅を越えたところにあります。本当だったら、電車で帰るところですが、彼女はお金を持っていませんでした。彼女はこんなに長い道のりを歩いて家に帰ったことなどありません。
駅から離れ、明るい駅前通りを過ぎて、すでに閉店した商店街を抜けていく。
黒猫も彼女も黙々と歩きました。
長く歩いて、だんだん歩くのにも飽きてきた頃、彼女は何となく話相手がほしくなりました。
もうまわりは真っ暗、そばには黒猫しかいません。けれど、黒猫には何となく話かけづらい感じがします。
だって、猫に話かけるなんて。
「風が気持ちいいわね」
黒猫が突然言いました。
「え、うん、そうね」
一人と一匹はちょうど土手を歩いていました。ここを通ると家には少し遠回りです。けれど、黒猫は何も言いませんでした。この道は家に向かっているからです。
街灯も少なく、住宅街からも離れ、河が近いのでもうあたりは真っ暗です。
彼女は時おり吹いてくる風が心地いい事に、黒猫に言われて初めて気がつきました。
明かりを離れた道では、星に今にも手が届きそう。それは夜空の真ん中を歩いているような気がするほど。
彼女は星を見ながら思いました。何度も考えて、思って、答えがでない事がらを黒猫に聞いてみようかと。
「ね、ねえ、ちょっと聞きたいんだけど」
「何かしら?」
「あのね、えっと……」
なんて言ったらいいんだろう?
彼女が言葉を探していると、ふと空に長い長い尾を引く星が流れました。
「あっ」
その時です。
黒猫は流れ星を追って走りだしました。
黒猫があまりに速いので暗闇の中ですぐに見えなくなりました。
「ちょ、ちょっと!」
彼女は急に一人になりました。今まで黒猫が付いてきてくれた暗い道に一人。
「な、なんでいきなりいなくっちゃうのよ!」
彼女は心細くなって、黒猫の事を呼びましたが黒猫の声は返ってきません。
「えっ? えっ?」
右も左も後も前も暗い道。
今歩いてきた道だって、一人で歩いてきたわけではありません。
どうしよう、どうしよう!?
彼女はさっきまで綺麗に見えていた大きな星空に今は飲み込まれてしまいそう。
彼女は黒猫に対して怒ったり、さみしくなったりしました。
どうしてこんな暗くて遠い道を選んでしまったのだろうと、一瞬後悔もしました。
ここで黒猫を待つ? それとも追いかける?
「ええい!」
彼女は決意を固め、黒猫の走っていった方に走り出しました。
すると、少しも行かないうちにがさがさと音がして、黒猫がひょっこりと顔を出しました。その口には何かくわえられています。
「あ」
「ああ、近くに落ちてよかったわ」
黒猫は走ってきた彼女のそばにくるとくわえていたものを差し出しました。
「ほら、あなたにあげる」
「……それ、星?」
猫のくわえてもってきたのはクリスマスツリーに飾るような黄色い星形の飾り。まるで、空から落ちてきたようにキラキラしてボロボロで、ちゃんと星の形をしていて、誰がみてもそれが星だとわかる星でした。
黒猫に流れ星を渡され、彼女は思わず笑い出しました。
だって、猫に流れ星をもらったのですから。
そして笑う女の子に黒猫は言いました。
「自分で決めることができたのね」
黒猫は彼女が走ってきた事を褒めたり、責めたりしませんでした。ただ、走ると自分で『決めた』という事を喜び、こう付け加えて言いました。
「あなたの願いが叶うように」
「……うん」
彼女は黒猫から渡された流れ星を両手で大事そう抱きしめました。
「あれ?」
気がつくと、彼女は自分の家の前に立っていました。
「……」
明かりが漏れる家の窓。今まであんなに近かった空が今はこんなに離れてしまっている。
彼女は星を握りしめて黒猫を見ました。
黒猫は腰を下ろして彼女を見上げます。
「ちゃんと帰れてよかったわ」
「うん」
「これで明日も歩き出せるわね」
「……うん」
彼女は黒猫に見守られながら、家のドアの前に立つと、黒猫に何か言いたくて振り返りました。しかし、すでにそこに黒猫の姿はありません。
……そっか。もう大丈夫ってことだね。
彼女は手にした星を見て、なんだか妙に安心して、そして家の扉を開けました。
「ただいま!」
おわり




