忘却献花
郊外にそびえ立つ、大きな総合病院。
私は今日もまたそこで、地下の霊安室へとエレベーターで降りていく。
同乗者は、女性の看護師さんが一名と、友人のジュンだ。
B1と1のボタンを押されたエレベーターは、1階を通り過ぎて地下へと進み、扉を開いた。途端にお線香の香りが、漂ってくる。
「あははっ。地下1階、霊安室でございまーす」
踊るような足取りでエレベーターから下りながら冗談めかしてそう言うと、ジュンが苦笑した。
「リコ、ふざけすぎだ」
あーあ、まぁたジュンはいい子ぶっちゃって。
二三歩進んでくるりと振り返る。
「そんなこと言って、ジュンだって楽しんでるでしょ?」
意地悪くジュンの顔を覗き込むと、ジュンは、まあねと答えた。
ジュンの後ろでは看護師さんが、困り顔で閉ボタンを押している。
「はあ、またなのね。ここのエレベーター、どうしていつも地下に行くのかしら」
「それは私たちが遊んでるからさー」
ニヤニヤしながら看護婦さんをからかっていると、またジュンが良い子ぶりっこを始める。私の肩に手を載せると、呆れ顔で嗜めてきた。
「やめなってリコ。どうせ聞こえてないんだから」
「ん、そだね」
あっさりと頷いてあげる。
ジュンの言う通り、病院の人たちはいくら私たちが遊んでても気付かない。なぜなら、私たちは……。
「死んでるもんね」
真っ直ぐ霊安室へと入ると、台の上で白い死装束を着たおばあさんが横たわっていた。
台に近付き、死に顔を覗き込む。
「あーあ、303号室の小川のばあさん、死んじゃったんだ」
「ん、そうだな。リコは本当にここに来るの好きだよな。そんなに死体を見たいのか?」
私の後ろで尋ねたジュンに、首を振って答える。
「ううん。ただ、さ。私はどこにも行けないから」
私は3年前、交通事故で車にひかれてこの九重病院に運び込まれた。気付くと私は自分の体を見下ろしてて、それが霊安室に運ばれるのを見て、初めて自分が死んだんだって気付いた。
暇して看護師さんたちをからかってるうちに見つけたのがジュンだ。
私は物に触ったり、他人に認識されたりするのがとても難しい。できなくはないんだけど、疲れちゃうんだ。
それでぶらぶらしてた。
ある日、透過ごっこで通路にいる人たちの体を片っ端からすり抜けて遊んでたら、ジュンにぶつかった。
てっきりすり抜けると思ってたからびっくりしたけど、よくよく話を聞けばたいしたことない。
ジュンも幽霊だったんだ。
それからは二人で遊ぶことも増えて、まあ楽しくやってる。
「ジュンは火事だったよね? 半年くらい前だっけ」
「まあ、そうなるな」
震えた声で、ジュンが言った。
「なあにぃ、気のない返事しちゃって」
台に手をつき、上半身だけで振り向く。すると、ジュンは冷や汗をかき、苦しそうな表情を浮かべていた。
「ジュン、どうしちゃったの!?」
私たちは幽霊だから、体なんか壊さないはずなのに。
「まさか……」
ジュンが呟く。
「リコ、ちょっと来てくれないか?」
「えっ、で、でも。ジュン、なんかヤバイって」
「いいから」
ジュンはさっさと歩いていき、エレベーターを呼び出した。仕方なく私も後に続く。
私たちが行き着いたのは、病室だった。ジュンは迷わずにドアを開けると、目線で私を促す。
病室にいた人間は、一人だった。でも……。
「ジュンがどうして」
個室のベッドに横たわっていたのは、ジュンだ。よくわからない機械やチューブに取り巻かれ、ジュンと全く同じ顔の男の子が眠っている。
「もしかしたら、もう起きるのかもしれない」
そう呟いたジュンに目をやると、姿は透け、向こう側が見えてしまっている。
「ジュン、どうしちゃったの……?」
「実はオレ、まだ死んでないんだ。半年くらい前だったか、火事で意識不明。そのまま植物状態になってた。何度も言おうとはしたが……おまえには言えなかった」
「…………」
「いつも楽しそうに笑ってたおまえにだけは、言えなかった。植物状態になったら、目が覚めることはまずない。だから、言わなくても同じだって、思ってた」
ジュンは、消えていく腕で私の頭をくしゃりと撫でた。
「ごめんな」
笑顔だけを残して、ジュンは完全に消えた。入れ替わりに、苦しそうに、横たわるジュンの腕がシーツを掴む。
ふと、機器のうちの一つから、異音がしているのに気付く。故障、なのかな……。
私の心に影が差した。
このまま放置すれば、ジュンは目覚めることのないまま死を迎えると思う。今度こそちゃんと死ねば、またジュンと一緒に遊べる。
またずっと、一緒に……。
ジュンの顔を見る。
苦しそうだった。
眉はひそめられ、手だけがもどかしげに動いている。
一つ、大きく深呼吸する。
そして、そっと手を伸ばして私は……ナースコールを押した。
一分もしないうちに、医師と看護師が慌ただしくかけてきた。
私はその足音を聞きながら、彼らと入れ替わりに病室を出た。
今だけは、ジュンの顔を見られなかった。
ジュンが目覚めてから、半年ほど経った。
今日もジュンは、ささやかな花束を持ってやってくる。彼は屋上の隅にそれを置くと、立ち去っていった。
私は白い百合の花弁が風に弄ばれるのを、じっと見ていた。
白百合は、私が一番好きな花だ。いつかジュンに話したのを、覚えていてくれたんだと思う。
私のための献花。
でも、あんまり嬉しくない。
花なんかよりも。
私は、ジュンがいてくれる方が、ずっとよかった。
遠ざかっていくジュンの背中に、心の中だけで問いかける。
ジュン。最後に来てくれたのって、半月前だったよね。
私、気付いてるよ。
だんだん間隔が広くなってきてるの。
次は、いつになるのかな……?
声に出されることすらないこの問いにも、いつか答えは貰えるだろうか。
そうして一月が経った。
屋上でずっと待ってたけど、ジュンは来ない。替える人間のいなくなった白百合は、茶色く変色し、干からびていた。
いつかこうなるっていうのは、わかってた。
ニチジョウっていうのは大事なもので、いつまでも私みたいな幽霊に構っていられるものじゃないことなんて。
だからこれは、アタリマエなんだよね……?
寂しいけど。
苦しいけど。
それでも私は。
ジュン……。
「私のこと、やっと忘れてくれたんだね……。ああ、幸せだなあ」
ジュンが幸せになれて、幸せだなあ。
無理やりに笑顔を作った。
ぽろぽろと、涙がこぼれおちる。
こんなの嘘だ。
忘れられたくなんかない。
だけど、私は虚勢を剥ぎ取れない。
朝の空は痛いくらいに冷たくて、私の視界はぼやけていく。
私の目には、雨の滲んだ灰色だけでなく、あの日の光景が映し出されていた。
ある晴れたの日。
ジュンと二人、屋上で陽射しを浴びながら、町並みを見下ろした。
『なんで私たち、こんなになってもここにいるんだろう』って、笑ってた。
私は、どうして自分が存在するのかわからなかった。ジュンに会うまでの孤独な時間は途轍もない苦痛を伴ったし、シニゾコナイの私の存在でセカイが変わるとも思えなかった。
けれど。
ジュンを生かすためにだったっていうなら。
「悪くなかったかもしれないね」
自分でも、バカなことをしたかなって思ってる。あそこで私がジュンを助けなければ、ずっと楽しい日々が続くってわかってた。
それでも。
ジュンが死んじゃうのは、どうしても嫌だった。
私はもう手遅れだけど、ジュンが生きていられるなら、また一人になってもいいとさえ思ってた。
後悔はない。
不思議と、とても晴れ渡った気持ちだ。
傍らに置かれた、枯れた花束を一瞥する。
雨粒はもう私を濡らすことはないけれど、色褪せた花弁を、容赦無く潰していく。
ふと、手に暖かい温度を感じた。
ゆっくりと腕を持ち上げると、指先が透けて、皹が入ったコンクリートの地面が見えている。
説明なんかなくても、理由なんか知らなくても。
それが意味するところは、すぐに頭に染み入った。
「もう、おしまいかぁ」
呟き、屋上の縁に足を進める。
眼下に広がる整然とした街並み。
きっとあのどこかで、ジュンは笑ってる。そう思えば、ひとりでに私の口は笑みを形作る。
まだもう少しいきたかったような、やっと終わるというような。
なんだか、名残惜しい気分だ。
街並みに、手をかざす。指先がすっかり消ると、加速的に消失は進む。腕さえも薄らいでいき、視線を落とせば革靴を履いた足が、爪先から消え始めていた。
「……バイバイ、ジュン」
そっと呟き、目を閉じる。
瞼の裏で広がるのは、無数の綺麗な雫。桜の花弁のように、微細な雨粒がざぁっと音を立てて舞い散る。
その一つ一つが、ジュンと過ごした日々の、雫みたいに弾ける思い出。
温かい想いを胸に、私もまた薄れ、消えゆく。
頭の中で、心の中で。
雨は、絶えることなく響いている。
ジュンの幸福を祈りながら、私の意識は雨音の隙間に消えていった。
____潤、私のこと、忘れ__
この物語は、いちいが以前聞いた、ひとりでに地下一階へと下っていくエレベーターの噂を元にしました。