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先生!  作者: 榎本壮詩
7/11

6:ゲンちゃん


 扉を開けると、窓際に小さな事務机と椅子が空っぽの部屋にポツンと置かれていた。

 昼間の木漏れ日が室内ほんのり明るく照らし、薄く開かれた窓からそよ風が吹き込み、薄桃色のカーテンがひらひらとはためく。

 イノリは『待機』を命じた薄情な上司から与えられた紙袋と数冊の古本を抱え、机の傍まで来ると、抱え込んだそれら全てを机の上にぽいっと放り投げた。

 机に乗り切らなかった本は床に落下し、紙袋からは中身がほとんど飛び出してしまったが、彼女は全く気にもしない様子で、傍らに置かれた椅子に荒々しく腰を掛ける。


「……椅子が固い」


 不機嫌そうにそう溢すと、一つに結んでいた髪留めを鬱陶しそうに取り払う。

 胸元あたりまで伸ばされた黒髪が風に舞い、イノリはちょっとした開放感を得たようで、その表情は次第に落ち着きを取り戻していく。

 苛立ちが収まると、今度は何とも言えない空しさが彼女の胸を満たした。

 これから始まる新生活に心躍らせていた気持ちも、昨日の失態を取り戻して役に立とうと張り切っていた気持ちも、全部が自分の一人の空回りだったことにイノリは気づいたのだった。


(私、なんのためにここに来たんだろう)

 そんな疑問が頭に浮かぶ。

秘書室としてあてがわれた小部屋をぼうっと見回すが、やはり、机、椅子、紙袋、古本以外の物は何一つ見当たらない。


――共用備品と秘書室以外のものには一切触らないでください。


――業務に必要なものは一通り揃えてありますので、ご心配なく。


 そう言い残して出て行った薄情な上司を思い起こす。


「ここに座ってお茶飲みながら本でも読んでじっとしてろって事ね……」


 どちらかと言えば前向きな方だ、と自覚しているイノリだったが、考えれば考えるだけ落ち込んでいく要素しか見つけられず、どうやらそれは勘違いだったと思い直す。

 気晴らしくらいにはなるかと、散らばった本をぱらぱらと捲ってはみるが、堅苦しい言葉や聞きなれない単語の羅列ばかりで、彼女の萎れた心を癒してははくれなかった。

 もういっそのこと帰ってしまおうか、とやさぐれ始めたその時、イノリはリズミカルに響く小さな音に身を震わせた。


――トントン


――トントントトン


――トン、トトン


 イノリはその音、そのリズムの意味に気が付くと、からっぽの秘書室から飛び出し、研究室の入口へと飛んで行った。


「ゲンちゃん!!!」


「こんにちは、ノリちゃん。 ちょっとお邪魔してもいいかな?」


 扉を開けると、一人の老紳士が満面の笑みを浮かべて立っていた。


「ゲンちゃーん!!!!!会いたかったよおおおお!!!」


 見慣れたその笑顔ですっかり気が緩んだのか、イノリはその老紳士へ思わず飛びつく。


「おお!? どうしたんだい? さっそく先生にいじめられてしまったのかな?」


 小さな子供のようにぎゅうぎゅうとしがみ付いてくるイノリをあやすように、ゲンちゃんと呼ばれたその男はイノリの背中を優しくぽんぽんと撫でる。

 

「いきなりごめんね、ゲンちゃん」


「そんなこと気にしなくって良いんだよノリちゃん、お願いしたのはこっちなんだからね」


「うん……あ、どうぞ入って、お茶くらいなら出せるから」


「ノリちゃんのお茶が飲めるなんて僕はなんて幸せなんだろうねぇ、じゃ、遠慮なくお邪魔するよ」


 イソギンチャクよろしくへばりつき、「うー」とか「ぬー」とか訳の分からない声を発して愚図っていたイノリだったが、なんとか取り乱した心を静め、やっと『ゲンちゃん』を部屋に招き入れた。


 机に積まれたままになっている本の山を脇に寄せ二人分のスペースを作る。

 そして、共用備品として手を触れる許可を頂いた茶器や卓上コンロを慣れない手つきでいじり回す。

研究室に設置されているコンロは最近発売されたばかりの魔石装填型の最新式コンロのため、イノリは使い方が分からず、湯を沸かそうにも一苦労である。


「ちょっと時間かかっちゃうかもしれないけど、ちょっと待っててね」


「ゆっくりで大丈夫だよ、僕には時間がたっぷりあるからね」


「ん、ありがと」 


『ゲンちゃん』の優しい言葉の後押しもあり、結局、貯蔵庫から取り出したお湯と、なんとか見つけ出した茶葉で、イノリは香り豊かなハーブティを入れることに成功した。

ちなみに、最新式のコンロは使い方が分からず、早々に諦め、そっと棚の奥にしまいこんでしまった。


「んー、やっぱりノリちゃんのお茶は最高だね」


「ありがとう。 いっぱい待たせちゃってごめんね……」


「このお茶が飲めるんなら僕は何時間だって待つさ! 一家に一台ノリちゃんがいてくれたら、いつでもこのおいしいお茶が飲めるのにねぇ」


「もうっ、またそんなこと言って」


 元気のないイノリを気遣ってか、『ゲンちゃん』は他愛もない会話を繰り返す。

 軽い冗談を織り交ぜながらも、押し付けがましさなおない明るい雰囲気を演出するところは、さすが年の功と言ったところだろう。

 硬く凝り固まった心そっとがほぐされていくのを感じ、目の前でチャーミングな笑顔を浮かべる年上の友人の優しさにイノリはますます心温まる思いだった。


 イノリにも笑顔が戻り、ハーブティも残すところ半分に差し掛かったころ、老紳士は本題を切り出した。


「ノリちゃん、ソウマ准教授とは上手くいってるかな?」


「あ……」


「よかったら、聞かせてみてくれないかな?」


「……」


「無理にとは言わないよ。でも、ノリちゃんをスカウトした身としては、心配でね。僕にできることは少ないけど、話を聞くことぐらいはできると思うんだけど、どうかな?」


「……ゲンちゃん、呆れない?」


「もちろんさ!僕はいつだってノリちゃんの味方だからね!」


「……あ、あのねっ」


 イノリは後悔の念やら、溜りに溜まった鬱憤やらなんやらを全て吐き出すように、今までの出来事を洗いざらい話した。


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