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先生!  作者: 榎本壮詩
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2:窓際の不審者


 気持ちの良い昼下がり、柔かいそよ風が木々の幼い緑をゆすり、艶めいた新緑がキラキラと光る。今朝はまだ冬の名残を感じる冷たさがあったが、正午を過ぎる頃になれば、春の陽気が温かく体を包んでいく。

 そんな穏やかな空気をぶち壊すように、どこからともなく不穏なうめき声が響き渡る。


 どこから出しているのかも分からない唸り声を発しながら、高く結わえたころ髪を振り乱し、高さ五メートルもの大きな木によじ登る一人の少女。

 ほんの数時間前まで、今にも泣きだしそうな雰囲気でしょぼくれていたはずだが、何を思ったのか、今度は先ほど対峙した鉄製の扉よりもはるかに大きなモノと格闘を始めていたのだ。

 呼吸困難患者のような、か細く、荒い息継ぎのせいか、イノリの口はヒューヒューと音を立て、額からは大粒の汗が大量に噴出していた。


 掴めるような枝ない上にが、幹が太く、非常に上りにくい部分を乗り越え、三メートル程の高さまでやっとの思いで上りきると、少し太めの枝の上に腰を下ろし、小休憩をとる。

(十八歳にもなって、木登りする羽目になるとは)

 新品だったはずの服は土だらけになり、顔や髪の毛については言うまでもないだろう。

 白く柔らかな手は見る影もなく、擦り傷だらけになってしまった掌を見つめ、乱れた呼吸を整えるように、イノリは深く大きく深呼吸を繰り返す。

 イノリの体はすっかり疲弊きっていたが、その瞳にはしっかりと力強い意志が宿っていた。


 イノリは、あと数メートル先に見える窓に向かい、きっと睨みを利かせると、襟元まできっちり締めていたシャツのボタンを数個外し、長い袖も肘あたりまで捲り上げる。

「よしっ、絶対あの部屋に入ってやる」

 ここから先は枝を伝って登ればすぐに目的地まで到達できるだろう。だいぶ呼吸も落ち着いてきたところで、イノリは木登りを再開した。


 途中何度か、ひやりとする場面もなくはなかったが、登り始めに比べると枝の数が多く登りやすくなったためか、思っていたよりも順調に進み、あっという間に目的の窓辺に一番近いの枝までやってきた。

 イノリはとりあえず、中の様子を探ろうと試みるが、窓に太陽光が反射して何も見えない。幹にしがみついたままでは無理と判断し、もっと枝先へ移動して窓辺に接近することにした。

 様子を伺うどころか、もしかしたらそのまま室内の人物と目が合ってしまうことも考えられたが、それはそれでイノリにとっては好都合である。

 さすがに窓から人が訪ねてきたら、何かしらのリアクションが期待できるはずだ。

「今度こそ、無視なんてさせないんだから」

 イノリは僅かに震える足を鼓舞するようにつぶやくと、じりじりと慎重に歩を進めた。

 それなりに太い枝ではあるが、さすがに枝先へ移動すればとミシミシと音を立てて撓り始める。

 

「くっ……あと、ちょっ、と――っと……ふぅ」

 バランスを崩さないようゆっくりと腕を伸ばすと、どうにか壁から僅かに突き出た窓枠に手が届いた。

 ギシギシと鳴る枝の警告に冷や汗をかきながら、イノリは内心舌打ちする。

(ベランダでもあればもう少し楽なのに)

 窓枠についた右手との力を頼りにして、イノリは勇敢にも窓へぐっと顔を寄せた。



*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*



 ゴンッ――


 背後から聞こえてきた不可解な物音が、ソウマの鼓膜を揺らした。

 自席まわりに散乱した資料の整理をしていた手を止め、音がした方向に視線を向ける――と、常識では到底考えられない光景がソウマの視界に飛び込んできた。

 大抵のことはクールに受け流し、興味の出ない事柄には大した反応も示さない彼も、驚きを隠せないようだった。

 びくりと体が跳ねた拍子に机を大きく動かしてしまい、手元に避けておいた資料やら薬品やらその他もろもろが床にばら撒かれる。

 しかし、そんなことを気にしている場合ではない。

 

 ――窓の外に人がいる

 

 ソウマは素早く窓辺に近寄り、大急ぎで外開きの窓を片方だけ開け放ち、今にも落ちそうになっている明らかな不審者である少女の腕ををがっしりと掴み、力任せにぐいっと引っ張り上げた。


 窓枠の僅かな突起に両手と顔面の摩擦を使ってしがみつき、右足だけはかろうじて大きな木の枝に絡ませてはいるが、それ以外の下半身は殆ど宙に浮いている状態だった少女は、突然引き上げられた腕に必死に縋り付く。 そして引き上げられた勢いそのままに、窓際に置かれていた本や植木鉢などをなぎ倒しながら、ソウマの上に伸し掛かるようにして倒れ込んだ。


(この子、今朝のうるさいかったあの娘か)


 ソウマは、自分の上でぜぇぜぇといつまでも息を荒げている汗と泥まみれの小さな不審者の正体に気づくと共に、気づかなければよかった、と心の底から後悔した。


「……そろそろ、どいてくれませんか?」

「あ!す、すみません!」


 ソウマの言葉に飛び跳ねるように反応した少女は、起き上がるなりばたばたと身なりを正し始める。どう頑張っても直しようがない程汚れているにも拘らず、必死に髪を撫でつけ、服のしわを伸ばし、土をぱんぱんと払う。

 

 今度は何事か、と身を起こしたソウマに向かって、少女は今朝の続きとでも言うように、地面にのめり込みそうなくらい勢いよく頭を下げ、こう言った。


「本日付で、ソウマ先生の秘書として働くことになりました、セツナ=イノリです!よろしくお願いします!」


 彼女はそう言い切るとがばっと身を起こし、達成感と満足感に満たされた表情でソウマの顔をまっすぐに見据えた。


 ソウマ自身、言いたいことは山ほどあった。


 だが、もう全てが面倒になっていた。

 正直なところ、こんな意味不明ではちゃめちゃな娘とは一切の関わりを持ちたくない。それがソウマの率直な感想だった。


(三ヶ月。 三ヶ月の辛抱だ)


 そう自分に言い聞かせ、いつものようにすいっとメガネを押し上げると、至ってクールな態度で一言だけ「よろしく」と、答えた。


 少女は意外なものを見たかのように大きな目をぱちぱちと瞬かせると、今度はあきれるくらい能天気そうな表情で、ふにゃりと笑った。


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