0:出会いは瞬殺
しーんと静まり返る、長い廊下の突き当り。
大きな二つ扉の前で、少女は緊張と期待と興奮で胸を震わせていた。
手にしている一枚の書類に書かれた文字を何度も見直し、目の前の扉に掲げられた小さな表札と見比べる。
間違いがないことを確認すると、今日のために用意した新品の肩掛け鞄に丁寧に仕舞い込み、代わりに小さな手鏡を取り出し前髪をさっと整えた。
緊張で少し引きつった自分と目が合った。 取り立てて美人でもなけでば、可愛くもないが、決して不細工ではないはず――そう自分に言い聞かせ、少女は少しでも落ち着くように軽く笑顔を浮かべてみる。
リップを塗り直し、裾、襟元などの身だしなみを手早く見直たら、最後にそっと深呼吸を一つ。
「よしっ」
少女は小さく気合を入れると、緊張で少し冷たくなった手で、控えめに、しかし力強目の前にそびえ立つ様にく佇む鋼鉄の扉を叩いた。
ゴンゴン、という鈍い音が静まり返った廊下によく響く。この静けさが余計に緊張を高める要素になっているのかもしれない。
すると、室内からかすかに足音らしき物音が近づいてくる。
何事も第一印象が大事である。
少女は鞄の肩紐をぐっと握りしめ、扉が開かれるのをじっと待つ。
ぎぃ、と軋んだ音と共に一人の青年が隙間から顔を出した。
目元が見えないくらいまでおろされ銀髪と、そこから僅かに除く銀縁メガネ。透き通るような白い肌は、少し不健康そうな印象を与える。
出てきた青年の特徴を確認すると、少女は勢いよく体を畳むように深々と頭を下げた。
「おはようございます! 私、本日付でこちらの研究室に配属された――」
「お引き取りください」
「……へ?」
朝から念入りにセットしたはずの髪が乱れるのも構わず、少女は勢いよく振り下ろした頭に大きな疑問符を浮かべ、大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。
(部屋、間違えたかな?)
少女がそんな疑問を抱いたのは、重々しい扉が大きな音を立てて閉まるのとほぼ同時だった。
お辞儀のお手本のような恰好のまま、しばらく微動だにしない様子だったが、すぐに何事もなかったかのように身を起こし、少女は果敢にも目の前の大きな壁に挑んでいった。
「おはようございます! 本日付でこの研究室に配属された、セツナ=イノリです!」
白く華奢な拳が、鉄製の壁を物凄い勢いで叩く――ノックと呼ぶには、淑やかさが圧倒的に足りない。
ゴウンゴウンと唸る重苦しい音と、扉の横に表札代わりとして申し訳程度にかけられた木片の小さくカタカタと揺れる音が、古びた廊下に響き渡る。
激しいノックと、かなり大きめのボリュームでの挨拶を何度か繰り返してはみるが、返事はない。
イノリは、穴が開くほど何度も何度も確認した書類を再度取り出し、そこに示された場所と、目の前の訪問先が一致していること、指定された日時が間違いなく今日、この時刻であることを確認した。
自分のミスではないことがわかると、疑問や不安などよりも、沸々と湧いてくる小さな怒りが彼女の心を支配していった。
開口一番、訪問理由も聞かず、部屋から体半分も出さずして「帰れ」と言われた。言葉遣いは丁寧ではあったが、端的言えばそういう事だ。
イノリは根っからの負けず嫌いという訳ではないが、それにしてもあんまりな対応に、少し意地になっていた。
「あの! 先生! セツナです! 本日から先生の秘書をさせて頂くことになっているセツナ=イノリです! 決して怪しい者ではありません!」
怪しい者ではない、と主張すればするほど『怪しい者』に近づいていることも気づかず、セツナ=イノリは一向に反応がない研究室の扉に向かって声を張り上げ、一心不乱に叩きつけた。 一体その小さな体のどこにそんな力があるというのか。
さらに彼女は、肩掛け鞄を背中に背負い込むようにぐいっと持ち直し、片手では足りないとばかり太鼓を叩く要領で両手で交互に叩き始めた。
当初は威圧感すら感じた分厚く大きな二つ扉も「もう勘弁してくれ」と言いたげに重苦しくリズムを刻む。
遂に根を上げたかのように、カラーンという何とも軽い音を立て、小さな木片が床に落ちたところで、イノリは追撃の手を止めた。
かれこれ十五分程は粘ってはみたが、さすがにこれ以上ここにいても成果はないだろう。 そう思ったイノリは小さなため息をつき、自分のせいで廊下に転がる羽目になった古びた表札を拾い上げた。
「楽しみにしてたのにな……初出勤」
そう一人呟くと、何の罪もない表札の埃をそっと払い、元の場所に取り付けた。
先ほどまでの豪快さが嘘のように、イノリはしょんぼりと肩を落としていた。
気合の象徴のように高く一本に結われた黒髪まで、心なしか下がり気味になっているようにも見える。
新しい服も、鞄も、靴も、なけなしの貯金をかき集めて、今日のために用意したものだったが、それらもこんな状況では、ただただ虚しさを際立たせるだけである。
イノリは少し名残惜しそうに表札に刻まれた名前を指でなぞり、小さく口に出してみる。
「……ソウマ研究室」
その力ない声は、誰もいない廊下の静寂にかき消されるだけだった。
最後に冷たく閉ざされた扉をじっと見つめると、彼女は落胆したように視線をそらし、ひんやりとした空気の中、一度も振り返ることなくと先ほど通ったばかりの道をとぼとぼと戻って行った。
初めまして、榎本荘詩です。
初投稿になりますが、細々と頑張っていこうと思います。
よろしくお願いします。