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月華抄  作者: 葉月
5/21

月隠 四

 門に近づくと、それはひとりでに開いた。

 内側から門を開けた者はいない。ましてや、桔梗も指一本すら触れていない。正面に立っただけで開いたのだ。

 そんな不可思議な現象に驚く様子もなく、桔梗は門をくぐった。

 被っていた袿を外して片手に提げる。――と、袿の裾が不自然に引っ張られた。

 桔梗は立ち止まり、くいっと引き寄せる。しかし袿は下方に引っ張られたままだ。その状態で数回、合図をするかのように袿が揺れた。

「離してくれ。今は忙しい」

 囁くように言いつけると、相手が手を離した気配を感じた。

 薄手の袿は元通り桔梗の足元で僅かに揺れている。

「ありがとう」

 短く礼を述べて歩き出す。

 背後から、きゃっきゃっ、と楽しげな声が聞こえた。

 敷地に棲む精霊か何かの声だ。

 続けて横から、真上から。ちょっかいを出す別の声がするが、桔梗はまったく反応しない。

 都度対応していたら日が暮れてしまう。

 無視を決めこんでいると、桔梗を追いかけていた声の主たちはつまらなそうに離れていった。

 玄翔の邸は広い。

 実際には平均的な広さの土地のはずなのだが、中へ入ると倍の大きさに感じる。

 門から邸までの小道には、左右に草木が植えられていて、四方を緑色に塗った回廊のようだ。視界を埋めつくすほどのこの草木は、外から侵入する邪気を浄化するものらしい。

 非常に長く思える小道を抜けると、日光が目に入った。眩しさに瞼を閉じた桔梗は、瞬きを繰り返してやり過ごした。

「あれ……」

 軽い立ち眩みと倦怠感を感じて、しばしぼんやりとする。頭の中に霧が立ちこめるような感覚にも襲われ、まともに立っていられず身体がぐらりと傾いだ。

 しまった、と桔梗は反射的に目を瞑る。

 次に起こるはずの衝撃痛はなく、代わりにがっしりとした男の腕に抱きとめられた。

「何をしているんですか桔梗様」

 頭上から降ってくる呆れまじりの声には覚えがあった。しかし、次第に強くなる目眩に考えが纏まらず、桔梗はすぐに返事ができなかった。

「忍……?」

「はい」

 忍が首肯する。

 どうしてここに、と言いかけて桔梗は口を閉ざす。そういえば、今朝玄翔に呼ばれている、と言っていたのを思い出した。

「……もう大丈夫。ありがとう」

 腰の辺りにあった支えが離れたのを感じて振り返ると、黒で統一された衣服が視界に映った。

「声をかけようかと思ったら、急に倒れこむので驚きましたよ」

 忍が桔梗の顔を覗きこむ。

「少し青いですね。今朝の薬は効かなかったようだ」

「いや。朝の体調不良と今のは少し違う気がする」

 桔梗はかぶりを振って否定する。何がどう違うのかと問われたら、返答に困ってしまうのだが。

 ともかく一時的な立ち眩みでもう平気だと伝えるが、忍は信じていない様子だ。頭ひとつ分ほど背の低い桔梗を真顔で凝視している。まるで原因を突きとめようとしている陰陽師か薬師のようだ。

「……今夜出かける前に薬を煎じていきましょうか」

 今朝飲んだ薬の味を思い出したのだろう。桔梗の肩がびくりと揺れる。

 その様子を目にして、忍が相好を崩した。

「出かける前って、どこかへ行くの?」

 彼が玄翔から命じられている主だった仕事は、まだひとりでは心許ない桔梗の護衛だ。その任を離れるほど、重要な用事ができたらしい。

「ええ。玄翔様に頼まれまして、故郷へ行かなければならなくなりました」

「じゃあ、しばらく戻らないね」

 故郷は洛外だと聞いていた。急いでも二、三日はかかるだろう。

「その間は邸を空けることになりますが……誰かに代わりを頼みましょうか?」

「いらないよ」

 桔梗はその申し出を断った。

「お師匠様ほど強いものではないけれど、結界は張ってあるし。それに……うちは曰くのついた邸だからね」

 邸に住むようになって悪い評判も少なくなっているが、現在の主人である桔梗ですら、いまだ消えぬ胡散臭さは自覚している。興味本位で侵入しようとする者はいないはずだ。

「陰陽頭の弟子が住んでいるのですから、滅多なことでは近づかないでしょうね。不興を買ったら呪われそうですし。私も、近づきたくはないですね」

 忍は後半を強調し、

「薬草の知識に長けた用心棒もいますからね。どんな仕打ちを受ける事やら」

 と付け加えた。

 一瞬、何を言っているのか理解できなかった桔梗は、きょとんとした表情をみせた。彼の言葉を反芻して、ふっと笑みを浮かべた。

 玄翔の弟子は、広い意味で忍も含まれる。注意すべき住人は術者見習いだけではない。

「確かに。御免蒙ごめんこうむりたいな」

 顔を見合わせて笑っているうちに、全身の不調は消えていた。

「そろそろ行くね」

「桔梗様」

 呼び止められて、桔梗は振り返った。

「この後の予定は?」

 問われて考える仕草をする。

「えっと……何もないよ。邸に帰るだけ」

 忍が目元を和ませた。

「では共に帰りましょう。私も傍輩ほうばいのところに顔を出してきますので」

「わかった。また後で」

 忍と別れた桔梗は、真っ直ぐ玄翔の部屋へ顔を出した。

 玄翔は眉根を寄せながら書物と向き合っていたが、桔梗を見るとたちまち顔を綻ばせた。二、三言葉を交わし、玄翔はおもむろに立ち上がる。そのまま移動するので、桔梗も後に続いた。

 着いたのは玄翔邸のとある一室だった。

 桔梗が中央で坐禅を始めたのを見とめ、玄翔は扉を閉めた。

 外部の音はほとんど遮断され、桔梗の規則正しい呼吸のみが響く。

 部屋の中は漆黒が広がり扉を閉め切った塗籠と似ているが、そことは違う内装のようだ。いくつかの空気穴があいているだけで、一面白壁に覆われていた。家具らしい家具はひとつも置いていない。

 ここは、玄翔が特別に造らせた空間だった。瞑想は己の精神と気力を整えるために必要である、と常日頃から口にしていた玄翔は、寝殿造には似つかわしくないこの部屋を特別に造ったのだという。

 以来、玄翔や彼の弟子は精神統一のため、事あるごとに使用している。特に桔梗をはじめ、まだ未熟な者たちが基本の修行として度々瞑想を行う。

 桔梗の正面に玄翔が座った。目を細め桔梗を見つめている。じっと、探るような目つきで。

 瞑想を始めてからどのくらいの時間が過ぎたのだろうか。不意に玄翔が身じろいだ。衣擦れの音もたてずに静かに立ち上がる。

 玄翔は暗闇の中を難なく移動して、懐から何かを取り出した。それから、迷うことなく火打石を叩く。

 火花が飛び移り切燈台に火がついた。

 ほんのりと、辺りが明るくなったのを感じて、桔梗は目を開けた。

 火を灯したのは終わりの合図だった。

 桔梗は深く息を吐き出した。途端に言いようのない違和感を覚えて、腿の上の両手に力をこめた。

 頭がくらくらする。鳩尾から胸のあたりが重苦しく感じる。

 姿勢を保っていられずに、桔梗はとうとう前屈みになった。片手を床について荒い呼吸をしている。

「どうした桔梗」

 玄翔は驚いた様子をみせた。

「めまいが……」

 それだけ告げるのが精一杯だった。荒く短い呼吸を繰り返し、俯いたままだ。桔梗の肩だけが上下に動いている。

 桔梗は倒れそうになる己を心の中で叱咤して、震える指を床につけて身体を支える。末端から冷えているのか、床に触れている感覚がまったくない。

 近づいた玄翔は桔梗の上体を僅かに起こし、彼女の背中をさすってやる。

「ふむ……」

 しばしそうしていた玄翔は手を止めた。次に掌に己の気をこめるように意識しながら、桔梗の背中を押す仕草をした。

「――っ」

 桔梗の肩が跳ねた。強い気の塊が身体の中心を通り抜けていく感覚に、不快感が増した。

 だが、それも束の間。

 驚くほどあっけなく、身体を蝕んでいた痛みや吐き気は綺麗に消え去った。

 玄翔は己の〝陽の気〟で、桔梗の身体に溜まっていた〝隠の気〟を押し出したらしい。

 桔梗は額に脂汗を滲ませているが、体調はかなり良くなったようだ。深く息を吐き出してから玄翔に向き直る。

「ありがとうございました。お師匠様」

「弟子が困っていたら助けるのは師匠の役目であろう。……それより、何やら奇妙な〝火の気〟だったが、心当たりはあるのか? ……ねっとりとした異質な火よの」

 陰陽五行をぴたりと言い当てられて、桔梗は目を見張った。玄翔ほどの実力者ならば当然なのだが、桔梗の身体から隠の気が抜けていくあの僅かな間に判別できるのは、流石としか言いようがない。

 火は本来陰陽五行で〝陽〟に属するのだが、桔梗を蝕んでいたのは陰湿な気に変質していた、と玄翔が付け加える。

「あります」

 姿勢を正してそう答えると、玄翔も座り直した。

 邪気祓いを頼まれた曰くつきの巻物の話、今朝方見た燃える村の話――思いつく心当たりを話す桔梗の顔をじっと見つめる玄翔の目は鋭い。話の端々から何かを探ろうとしている様子だ。

 内心困ったのは桔梗だ。

 力強い眼光に射られる気持ちになりつつも、顎をぐっと引いて、桔梗は己が知り得る事実のみを話し続けた。

「ふぅむ」

 一通り話し終わったところで、玄翔はのんびりとした声をあげた。

「なるほど。たしかに現実味を帯びているようだ」

 夢には何かしらの意味がある。隠された意味を解くのも術師の仕事だ。

 もちろん中には深い意味のない夢もある。しかし、炎の熱さを感じるほどのものを「たかが夢」と突っぱねるにはいかないだろうと玄翔も察した。

「その巻物が原因かは不明だが、何かしらの影響は受けているようだな」

 玄翔の目に浮かぶ光は穏やかなものに戻っている。

「付喪神は、古い物に霊魂などが宿ったもののことを指すのだが、それとは別のものもある」

「別の物……ですか?」

 桔梗は首を傾げた。

「人の想い、人の心、などだな。物に込められた感情は、時に呪術と変わらない作用が起きる」

「呪術?」

 意味がわからない桔梗は鸚鵡返しに訊ねた。

「然様。一番簡単な呪詛は『不幸になれ』と念じることだ。更に効力を発揮させたければ、相手に念を込めた物を渡してしまえばよい。呪具は呪いたい相手の身近にあればあるほど有効だ。特別力を持たぬ常人でも、ある程度の呪詛は可能になる」

 そう言って、玄翔は眉根を下げた。

「簡易的な呪いの道具といったところか。憑けた感情が自我を持ってしまえば、あとはソレが勝手に動いてくれる。強い妬みや憎悪……人の想いというものは侮れん」

「……お師匠様は、そんな経験があるのですか?」

 玄翔は少し困ったように嘆息する。

「思いこみで判断を間違えたことも多々あった。油断は命取りになると初めて知ったのは、いつだったかのぅ。それもよい経験になったが。……ほれ。これは油断のひとつだ」

 玄翔が手を見せた。右手の指と掌に火傷の痕があった。皮膚の一部が変色してひきつれている。見るからに痛々しい。

 当然ではあるが、陰陽頭にも未熟だった頃がある。

 興味を覚えた桔梗は軽く身を乗り出して質問したが、やんわりと断られた。

「その話はまた別の機会にしてやろう。わしの見立てでは、お前の場合は物に染みついた残像を夢という形で体験したのかもしれん」

「残像ですか」

 復唱して考えてはみたものの、やはり覚えはなかった。少なくとも仕事を頼まれた物品の中にはないと言い切れる。

 では一体何だ。

 あれこれと桔梗が考えを巡らせていると、玄翔が声を出して笑った。

「思いつかないのならば、深く考えるでない。ふとしたときに真実にたどり着くかもしれん。今はお前にできることを優先してはどうか?」

 と、玄翔は諭した。

「そうですね」

 何かの予兆を掴んだのだとしても、今の自分では解明も解決も難しい。ならば技能や知識を身につけて、次に同じような状況に直面したときにすぐさま対処できるようにしておく方が良いだろう。

「お前はまだ若い。だからこそ悩んで経験を積んで、少しずつ成長していけばいいのだ」

「はい」

 力強い返事を聞いて玄翔は頷いた。桔梗のことを弟子というよりも、孫の成長のように喜んでいるのだろうか。皺だらけの顔に更に皺を増やした。

「――ときに、桔梗」

 咳払いとともに緩んでいた表情を引き締めた玄翔は、そっと訊ねた。

「なんでしょうか」

「体調はもう良いか?」

「はい。いつでも続けられます」

 修行はまだ序盤だ。軽い目眩はするが、先ほどよりは随分楽になっている。

 意気込む桔梗を制して玄翔が表情を和らげた。

「そんなに張り切らんでいい。今日はもう終いじゃ」

「ですが」

「桔梗」

 言いかけて、桔梗は黙りこむ。

「お前は真面目なのが取り柄だが、いささか真面目すぎてつまらん」

 笑みを零しながら否定されて、桔梗は僅かに口を尖らせた。その様子を見ていた玄翔は声をたてて笑う。

「すまぬのぅ。久しぶりに愉快な気持ちになってなぁ。この程度で心を乱されるようではいかん。……独り立ちしたとはいえ、まだまだ子供よ」

「お師匠様」

 桔梗はとうとう声を荒げた。

 だがそれは逆効果だったらしい。室内に喜色を露わにした玄翔の声が響く。

「いいですけれど……。お師匠様もご老体ですから、長生きしてくださるのでしたら、いくらでも笑わせてさしあげます」

 精一杯の嫌味を投げつける――が、まるで効果はなかった。桔梗を見つめる玄翔の瞳は和んだままだ。

 きっと、どれだけ成長しても、いつまでも子供同然なのだろう。

 半ば諦めて桔梗は小さく息を吐いた。

「もう夕暮れか」

 玄翔はついと外に目をやって呟いた。

 西の空は茜色に染まりかけている。まもなく陽が落ちるだろう。

「さて。今日最後の課題は、帰ってゆっくり休むこと、だ。よいな? 常に体調を万全にしておくのも術者の務め」

「わかりました」

 桔梗が素直に返事をすると、玄翔は満足そうに頷いた。

 ふたりは他愛ない会話をしつつ、邸で最も暗いここから玄翔の部屋へと移動する。その頃には、一番明るい星が東の空に瞬きはじめていた。

「それではお師匠様。体調を整えておきますので、次もよろしくお願いします」

「気をつけてな。今日は何も考えずゆっくり休むといい」

 かけられた優しい言葉に笑みを返し、桔梗は深く一礼した。



 渡殿から桔梗の後ろ姿を凝視していた玄翔は、すっと目を細めた。穏やかな笑みを形作っていた唇は、今は厳しく引き締められている。顎に手を添えて、何か考えているようだ。

 桔梗の姿はとうに見えなくなっている。それでも佇んだままだった。

 夕方の少し肌寒くなった風が吹いた。直衣の袖は陽炎のようにゆらゆらと揺れている。

 やがて何事もなかったかのように、玄翔はその場を去った。



 門のところまで来たが誰もいない。

 徐々に薄暗くなっていく玄翔邸の敷地内で、桔梗は辺りを見回した。誰の姿もなく、しんと静まり返っている。

 忍はまだ仲間と一緒なのだろうか。普段から口数が多いとは言えない忍だが、今日は話が弾んでいるのだろうか。

 桔梗は訝しみ、彼が仲間といるであろう随身所ずいじんどころへと足を向けかけて止めた。そのまま門の外に出る。思ったとおり、少し離れた場所に忍がいた。

 だが彼はひとりではなかった。

 忍よりもずっと背の低い人影が側に佇んでいる。誰なのか、ここからは確認できない。

「え……」

 その姿を目視できる距離まで近づいて驚きの声をあげる。

「玻璃?」

 予想外の者がそこにいた。

「……桔梗様」

 明らかにほっとした声音で忍が言う。彼の表情から珍しく戸惑いが感じられた。

「ごめん。待たせたね」

「いえ、外に出てからさほど時間は経っていませんので」

「それで……玻璃? どうしたの? お前が出歩くなんて」

 玻璃が邸から出ることは滅多にない。

 着の身着のまま出てきた、という感じで、彼女は何も持っていない。瑠璃に用事を頼まれた様子もなかった。これから市井に行く途中だとしても、玄翔邸とは逆方向だ。

 玻璃は幾らか不思議そうな顔で桔梗を見ると、首をかしげる仕草をした。

「誰かに呼ばれた気がしまして。桔梗様ではないようですね」

 そう言って玻璃は黙りこんだ。己の勘違いを恥じた訳ではなく、彼女はいつもこうなのだ。思ったことは口にするが、必要最低限しか話さない。

 それ以上話す様子がないので、桔梗は困り顔で玻璃に問うた。

「特に用事はないんだね? じゃあ、帰ろうか」

 訊ねながら何か探れないものかと玻璃をじっと見る。

「はい」

 頷く玻璃の顔からは、やはり何の感情も読み取れなかった。

 遠くで烏が鳴いた。

 いつまでもここでこうしている訳にはいかない。

 桔梗は諦めてふたりを促した。桔梗と忍が横に並び、玻璃はその後に着いていく。

 大路へ出たが、辺りには人影も少なく、三人の足音のみが聞こえる。昼間耳にした幽霊騒ぎの件で、夕方以降に出歩く者も少ないようだ。

 桔梗は後ろをちらりと振り返り、今度は忍に質問する。

「どういうことなの?」

 忍は困惑した表情のまま口を開いた。

「私にも不明です。桔梗様が戻られる頃合いを見計らって外へ出ましたら、彼女がぼんやりした様子で立っていまして」

 一度戻ろうかと思ったが、玻璃をそのまま放っておく訳にはいかず、一緒にいたのだという。

 桔梗もまた眉をひそめて唸った。

「そっか。話してくれないんじゃ、判断できないし……」

 どうして呼ばれた気がしたのか、呼んだ人物に心当たりはないのか、など――玻璃とはごく最低限の会話しかできないので、想像するしかない。

「もしかして物の怪の類かな……。大路に幽霊が出たって話だけど」

 市井の噂話が引っかかり、何とはなしに呟く。

 それに反応したのは忍だった。玻璃にも聞こえているはずなのだが、黙ってふたりの後をついていく。

「件の噂は聞きましたか?」

「うん市井でね。忍は誰から聞いたの?」

「今日、玄翔様から。たいそう興味を持たれているようでした」

 言葉を濁しているが、玄翔の様子が目に浮かぶ。

 桔梗は次の言葉を待った。

「そうなんですかと答えましたら、つまらん、と……もっと驚いてほしかったようですね」

 嬉々とした玄翔と、素っ気ない忍。予想通りのやりとりで、桔梗は苦笑いをする。

『つまらん』は玄翔の口癖だ。兄弟子の中には時折それは不謹慎だと窘める者もいるのだが、当人は『わしは老い先短いのだから楽しませよ』とそれらを突っぱねている。

 困った老人ではあるが、いざというときには誰よりも早く凶事に気がつき、今の都で最も頼りになるひとだろう。多少の問題点は目を瞑るべきなのかもしれない。

 桔梗が嘆息する。

「それはお師匠様が悪い。影明やわたしなら食指が動いただろうけど」

 陰陽道に少なからず関わっている人間であれば惹かれる事柄である。しかし、関係のない分野の者が興味を持つことはなかなかない。

「いえ。玄翔様のお世話になり、今は桔梗様の側にいるのですから、やはり少しは気にしなければならないでしょうね。あまり重要視していませんでしたが、刀で妖を斬るのは難しいですし」

「どうしても関わってしまうからね」

 頷いて、桔梗は思案顔をする。

「対処法くらいはいくつか知っておいた方がいいかもしれない。……と言っても、わたしはまだ教えられるほど知識はないから、お師匠様か兄弟子の誰かに聞いてもらうしかないけれど」

 桔梗の声が僅かに小さくなる。それに気づいた忍は真顔になり、静かに訊ねた。

「本日の修行の成果はいかがでしたか?」

 桔梗は力なく項垂れた。

 相手に他意はないのだが、頭上から降ってくる言葉に責められているような気持ちになってしまう。

 しばらくしてから、ふぅと息を吐く。

「やっぱり体調が優れなくって。ほとんど進まなかった」

 弱々しい告白を受けた忍は怪訝そうに桔梗を見る。

「いずれ聞こうと思っていたのですが……元々身体は弱かったですか? 玄翔様のお邸で、あなたが臥せっていた記憶はありませんが、私の勘違いだったのかと考えていました」

 弱くはない、と桔梗は首を横に振って否定する。

「どちらかというと、強いと思う。雨にずぶ濡れになっても平気だから。……自分が思っている以上に疲れているんじゃないかな」

 環境が変わり新しい生活に慣れる頃。それまで張っていた気が緩んだときに人は体調を崩しやすい。

 きっと自分もそうなのだろう、と桔梗は考えた。

 歩きながら己の手に視線を落とし、指を無造作に動かす。

 早朝や玄翔邸で感じた不調は、もうすっかり良くなっている。冷えきっていた指先にも血がかよい、体内を良い気が巡っているのがわかった。

 念入りに確かめるように、桔梗は指を動かし続けた。あの体調不良はなんだったのか、と誰かに八つ当たりしたいくらい、けろりと治っている。

「……疲れているのではなくて、物の怪に憑かれてたりして」

 ぼそりと呟かれた言葉に、弾かれたように振り仰いだ。

 忍が何を言っているのかわからず、桔梗は一瞬言葉に詰まらせる。内容を理解して、眉をひそめた。

「……笑えないよそれ」

「そうですか?」

 とぼけた様子の忍は、だがしかし少々不服そうだ。目を細めて何か言いたげな顔だ。

 おそらく、彼なりの冗談だったのだろう。

 桔梗はふっと口元を緩めた。

「……桔梗様」

「えっ?」

 不意に背後から声をかけられて肩を揺らした。

 声の主は玻璃だ。肩越しに振り返ると、彼女は相変わらず無表情だったが、心なしか顔を強張らせている。

「玻璃、どうし――」

 言いかけた桔梗は口を噤んだ。

 まもなく邸に着く。

 玄翔邸からここまで距離があるため、すでに陽は沈み、夜が訪れている。辺りに人はおらず、いつもの風景がそこにあった。

 ――はずなのだが。

 瞬きも忘れて桔梗は目を見開いた。

 見た目には変化はない。だが、ほんの少し、空気がさざめいている。

 しばしの沈黙のあと、忍が数歩前に出た。彼も何かに気づいたようだ。

 忍の身体越しに前方を見やると、邸の門が開いていた。

 出るときにはきちんと閉めているし、玻璃がぼんやりとしていたとしても、閉め忘れることはないように思える。仕事の報酬代わりに門の建て付けを直してもらっているので、勝手に開くとも考えられない。

 何かあったことは一目瞭然だ。

 一足先に入っていった忍に続いて邸へと足を踏み入れた桔梗は、無意識にうめき声をもらした。

「な……に……?」

 御簾が破れ、屏風は倒れ、床には草鞋の跡が残っている。まるで、ここへ移り住んでくる前のように邸の中が乱れていた。あらかた片付いてはいるが、壊れた物はそのままだ。

 寝殿に近い渡殿に忍が立っていた。瑠璃の姿も見える。

「まぁ桔梗様。お帰りなさいませ」

「瑠璃、何があったの?」

 いつもと変わらぬ瑠璃の笑顔にほっとしつつ、桔梗が問いかけた。

「ほんの数刻前なのですが」

 眉をひそめて話しはじめた瑠璃は、困ったように苦笑した。ちらりと辺りを見回してから、まっすぐ桔梗の顔を見る。

「突然見知らぬ男が侵入してきました。もしかしたら、以前住みついていた賊かもしれません」

 瑠璃は右手を頬にあてて、ほう、とため息をつく。

「何も盗らずに逃げていきましたが……」

 一度言葉を切り、瑠璃はすっと左腕を前に出した。

 桔梗は一点を凝視してぎょっとする。立ち回りには慣れているはずの忍も、少し衝撃を受けたようだ。

 袖が刀で切り裂かれたようになっており、かろうじて一部分が繋がっている状態だった。だが驚いたのはそこではない。

 瑠璃の左腕。肘から先がなかった。

「切りつけられて、すっぱりいってしまいましたわ。賊も驚いて逃げていきました」

 と、瑠璃は周囲の人間があっけにとられるほど平然として笑う。切り口は石を真っ二つに切ったかのように滑らかだ。

「他に問題は?」

 思わずたじろいだ桔梗を我に返らせたのは、冷静な忍の声だった。

「えぇと……」

 呟き、瑠璃が考える仕草をする。

「ないですわ。ご覧のとおり東対は少々壊されてしまいましたが、他の場所は大丈夫です。その前に切られてしまいましたので」

 瑠璃は真顔で囁いた。

「桔梗様にお怪我がなくてよかったですわ。わたくしか玻璃でしたら、大概のことは平気ですから」

「それでも、身近なひとが怪我をするのは嫌だよ」

 ぽつりと呟くと、瑠璃は桔梗に優しく微笑みかけた。

「わたくしたちは主人を守るために作られ存在しているのです。桔梗様が心を痛める必要はありません」

 〝作られた〟と瑠璃が言うように、彼女と玻璃は人間ではない。

 瑠璃は桔梗と玄翔が、玻璃は桔梗ひとりで生み出した式神である。術者が未熟なためか、ひとりで試した〝玻璃〟は少々反応が乏しい。

 ふたりは桔梗の身の回りの世話をし、あるときは姉のように、またあるときは友人のように接している。

「人ではなくても、ふたりはわたしの大事な家族だ」

 はっきり言い切ると、笑みを深くした瑠璃はそっと桔梗に歩み寄った。

「そんな風に仰っていただけて瑠璃はとても嬉しいです。桔梗様は何よりも大切な、大切なお方ですわ」

 強調されるといささか気恥ずかしい。

 桔梗は照れているのを誤魔化すように視線を外した。

「――桔梗様。瑠璃の腕ありました」

 話している間に探していたらしい。玻璃が声をかけてきた。無機質な瑠璃の腕を両手に抱えている。

「ありがとう。瑠璃の腕、直さないとね」

「お願いします。このままでは不便で」

 ひらり、と瑠璃は左手を振るように動かす。

 しんみりとしていた雰囲気が一転した。

 腕がないまま、あまり気にもせず、くすくすと笑う光景は、はっきり言って不気味だ。

 そう思った桔梗を誰が責められようか。

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