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月華抄  作者: 葉月
20/21

月巫女 七

 飛ばした式は、とある邸の前に落ちた。桔梗は呆然としながらもそれを懐にしまう。

 なぜ、ここに……?

 しばしの間、瞬きを忘れてしまうくらい邸の門を凝視して、そっとくぐる。

 たどり着いたのは玄翔の邸だった。

 中へ入ると、耳が痛くなるほど静かだった。いつも草木の回廊を通るときに感じる不快感は一切なかった。

「……誰か、いますか?」

 緊張からか掠れた声しか出なかった。桔梗は唾を飲みこんでもう一度同じように呼びかける――やはり返事はない。

 しかし人の気配はある。

 一瞬尻込みしたものの、邸の中へと入っていく。しんと静まり返っていて、少々不気味だ。慎重に進んでいき、あれ、と思う。

 どこかで感じた空気だ。術や妖気にも個々の癖があるもので、それが似ている。

 桔梗は立ち止まり、考えを巡らせた。

「……内裏……?」

 関わったことのある事件らしい事件はごく少ない。大半は物にかけられた呪いを浄化する仕事だった。だからそれ以外は印象が残りやすい。特に内裏での出来事は最近のことで、ひどく苦労したから、いわゆる残り香はよく覚えている。

 あの紫陽花の妖ではない。では、同じ術者が? 当時はそんなことなど思いつかなかったのだが――。

 騒ぎを起こした妖の裏に術者がいなかったとは言い切れない。

 前方を睨みすえて桔梗は先へと進む。

 玄翔が巻きこまれたとは考えにくいが、油断はできない。

 手前の部屋から順に中を覗き、いくつ目かで桔梗はびくりと肩を揺らした。人が倒れている。

「どうした?!」

 うつ伏せに倒れているその人を抱き起こして声をかける。頬を数回叩いてみるが、気を失ったままだ。しかし呼吸は穏やかで安堵する。

 眠っているだけのようだが顔色は悪い。生気を取られているらしい。ふたたび声をかけてみるが変化はなかった。ひとまずそのまま寝かせて、桔梗は別の部屋を確認する。

 やはり人が倒れていた。

 面識のある者もいれば、見知らぬ者もいた。みな気を失っている。

 そうだ。〝気を失って〟いる。

 桔梗は眉をひそめた。

 普通に生活していて、生気が身体から抜けるなんてありえない。妖に取られたのだと考えられる。

 この程度ならばしばらくすれば目を覚ますだろう。不幸中の幸いか命に別状はない。

「……」

 よくよく視れば、敷地内を覆っているはずの結界が消えていた。そして玄翔の気配はない。出かけているだけなのかもしれないが。己の邸に異変があれば、彼も何らかの行動を起こすはずだ。

 このままひとりで動くのは危険かもしれない、が。

 少しだけ躊躇して、玄翔の部屋へと足を向ける。妖が潜んでいるかもしれないから、注意深く周りを見ながらだ。

 いつもよりも時間をかけて目的の部屋へと到着した。

「お師匠様?」

 念のため名を呼んでみる。

 返事はない。妖もいない。

 下ろされている御簾に手をかけ、そっと上げる。

 誰もいない。

 なぜか、人が使っていたという気配が感じられなかった。長い間空き部屋だったような、そんな雰囲気だ。ここへは何度も訪れていたのに、どうしてそう思うのか。おかしなことを思うのは初めてだ。

 太陽の光が入っていないからだろうか?

 桔梗は視線を巡らせる。

 元々、光が入りにくいところだなとは思っていたが、今は特にそう感じた。

 音を殺しながら部屋へ入り、何か手がかりになるものはないかと隅々まで探す。しかし目に付くところにはなかった。

 あとは調度品の中だが――。

 少しためらった桔梗の指は、結局棚を開けた。――開けなさいと、どういうわけか囁かれた気がした。

 中には、透明な欠片があった。全体的に丸みを帯びている。硝子玉が割れたのだろうか、と桔梗は考えた。

 小さな欠片を手にとって軽く力をこめると、ぱきん、と音を立てて崩れた。指に残る感触は、乾いた砂のようだ。

 何かがあったのは間違いない。けれども、荒らされた様子がまったくない。

 他の部屋ももう一度確認しようと振り返った桔梗は、突然現れた人影に大きく身体を揺らした。

「瑠璃……?」

 ちょうど日のあたらないところに瑠璃が立っている。部屋が薄暗いことと俯き気味なために顔が良く見えない。

「どうした?」

 自分は呼んでいない。だとしたら、玄翔が? しかしここに彼はいない。

「瑠璃?」

 話しかけるが瑠璃は反応しない。ねじが止まったからくり人形のように、ぴくりとも動かない。

 桔梗はいぶかしんで手を伸ばした。

「――!!」

 指に鋭い痛みが走った。つ、と指先に液体が流れたのがわかった。己の血だ。

「瑠璃、何を……」

 思わず一歩後ろへと下がる。

 俯いたままだった瑠璃が、緩慢な動きで顔をあげた。目の焦点があっていないのに、まっすぐ桔梗を見つめている。

 瑠璃の顔をしたソレが、にぃ、と笑った。手に持つ小刀が血で汚れている。桔梗の指を切ったのはこれだ。

「玄翔様は、殺さずできる限り綺麗なままで連れてこいとおっしゃいましたが」

 薄暗い中、小刀がぎらりと光った気がした。桔梗は無意識に後退する。

「わたくしでは太刀打ちできないので、多少の怪我は仕方ないと思いません?」

 瑠璃の赤い唇が紡ぐ言葉が理解できない。

「ねぇ? 桔梗様?」

 そうして瑠璃は笑う。口角をあげただけの不気味な表情で。

「――っ」

 桔梗が右へ飛びずさるのと、小刀が宙を切るのはほぼ同時だった。

 勢いで滑る足をどうにか耐える。

「玄翔様の支配下にいたままならば、楽にことが済んだのに」

 口惜しそうに呟く瑠璃を、信じられないとばかりに凝視する。

 軽い身のこなしで追いかけてくる瑠璃を避けるが、とうとう追い詰められた。背中が壁に当たる。

 ゆらりと瑠璃の体が動いた。少しずつこちらに近づいてくる。

 狭くて逃げ切るのは難しい。どうする、と桔梗は唇を噛む。とにかく一度広いところへ出たほうがいいだろう。

 強行突破すべく腰を低く落とす。多少の怪我は諦めるしかない。

 頃合を見計っていた桔梗の目の端に、小さな黒いものが飛んでいるのが映った。

「くっ」

 瑠璃がうろたえる。

 小さなそれは蝶だった。黒い蝶の群れが瑠璃を取り囲む。闇雲に小刀を振り回しているが、視界が悪いためか切り落とすことは叶わず、蝶は動じない。

 一匹が桔梗の周りをくるりと回った。

 逃げろ、と言ってるように感じた。

 迷ったものの、桔梗は邸の外へと飛び出た。そのまま走って門をくぐる。

「?!」

 ――空が赤く染まっている。

 夕焼けとは違う。特に色濃いのは……内裏の方角だ。

「なにが……」

 ちらりと視界に赤く揺れるものが入ってぎょっとする。近くの邸から赤い炎が吹き出ている。しかし、熱さはない。

 突然吐き気をもよおして桔梗は膝をつく。

 目が回る。

 何も見たくなくてきつく目を閉じる。それでも暗闇がぐるぐると回っている感覚に襲われる。

「炎……」

 ぽつりと呟く。

 暗闇の中、小さな炎が現れた。小指の先ほどの火は、あっという間に桔梗の脳裏を焼き尽くす。

 喉をひきつらせて声にならない悲鳴をあげた。

 ――炎が一気に集落を焼いた。草も木も家も、人も。すべてが炎に飲みこまれた。

 黒い煙と真っ赤な炎しかこの場に存在しないのではないか。そんな勘違いをしそうだ。

 ――人がいる。

 少し離れたところに立っている男に気づいた。派手な模様の水干を着崩したその男は、熱風を物ともせず悠然とした足取りでその場を離れようとしていた。

 しかし、歩みを止めた男は、ついとこちらに目を向けた。冷め切った瞳は一転して、愉快そうな色が浮かぶ。

「生き残りか? 知らぬまま死んでいれば苦しまずに済んだものを。泣いて願うなら、幻で夢現のまま死なせてやってもいいが。歯向かうのならば、瘴の気で生き地獄を味あわせようか?」

 不躾に睨みつけられるが、不思議と恐れや不安といった感情は沸き起こらなかった。

「何の用だ? この俺に仇討ちでもしようっていうのか?」

 あるのは憎しみ。

 我らが何をしたというのか。

 ひっそりと山奥で暮らしていたのだ。月の神を崇め奉り、人ならざる力で生計を立てている集落だ。気味が悪い集落だという噂も知っているし、中には恨んでいる者もいるだろう。

 だがそんなのは我らだけではない。

 しかし――この男は。

 秘術を盗みにきたわけでもなく、恨みを晴らしにきたわけでもなく。

 怒りで神経がずたずたになりそうだ。

 男の唇が妖しく歪む。

 炎の爆ぜる音がすぐ近くで聞こえた。じきに今立っているあたりも炎に巻かれるだろう。

 この男に勝つ秘策はない。何もできないまま捻り潰されるのはわかっている。

 それでもこのまま終わらせない。

「お前が、村に火を点けたのか」

 男は笑うのをやめた。

「そうだ、と言ったら? 復讐するか?」

 質問に答えるつもりはない。

 男がはっとしたように顔を強張らせた。少しだけ視線をこちらから外し、己の身を包みこむ炎を睨めつける。幻ではなく本物だ。衣も肌も焦がされているのに、ちっとも動じない。

「お前の力には興味があるが……肉体と意識は邪魔だな」

 愉快そうに言って、男はついと腕を宙に滑らせた。全身を包んでいた炎が男の右手に集まり、それは炎の玉となった。

 浮き上がりふわふわと男の側で漂っていた炎の玉が、一瞬にしてこちらへと飛んでくる。

 避けられない。

 熱い炎に全身を飲みこまれ気が狂れそうになる。それでもただ真っ直ぐ男を見据える。

「お前の魂は、この俺が大切に使ってやろう。ありがたく思え」

 男の目が冷たさを帯びた。ぱちん、と指を鳴らす音とともに心の臓がひきつれる。

 これで終わらせない。

 ――最期に見たのは男の厭らしい笑みだった。

「――っかはっ」

 ひゅうと喉が鳴る。

 息苦しさに桔梗は喘ぐ。頭に流れこむ記憶に押し潰されそうだ。

 元々自分が持っていた記憶ではない。知らないけれども、間違いない。これは姉の――神威が見て感じたことだ。

 どうして今まで気づかなかったのか。何が思い出すきっかけだったのか。私たちの故郷は消し去られた。まだ曖昧な部分ばかりだがこれは間違いない。

 極力〝外〟と関わらずに静かに暮らしていた。けれども術者の里となれば噂を聞きつけた者たちがひっきりなしに来ることもあった。

 簡単にはたどり着けないよう術が施してあった。強い術者は難なくやってくるが、割合友好的な者ばかりで脅威はなかった。

 ある者が「見事な〝竹むら〟ですな」と言ったのを覚えている。

 善からぬものを排除する結界は、地面から歪みなく真っ直ぐ上に、いくつも生えている。天の月へたどり着くのではないかと思うほど高くそびえるそれを見た者は、竹やぶのようだ、と言った。

 竹やぶ、または竹むら。遠い昔にそれが転じて(たかむら)と呼ばれるようになったのだと教えてくれたのは、近しい誰だったか。

「――っ」

 桔梗は嗚咽を洩らしそうになるのを耐えて立ちあがった。

「行かないと……」

 重い足を引きずるようにして歩くが思うように動かない。

 玄翔の邸と内裏は目と鼻の先だというのに、動けない。

 とうとう桔梗は足を止めた。そのままずるりと膝から崩れ落ちた。震える指を握りこむ。

 記憶も状況もまだ完全には把握できていない。内裏へ行ってどうするのかと思わなくもない。

 ゆるりと立ちあがり、内裏へ向かおうと一歩踏み出した。

「!」

 背筋がぞくりとして、勘で右へと飛ぶ。

 がりっという音とともに砂埃が舞う。視界が悪いが、先ほどまでいた場所に大きな影があるのが見えた。

 涙が滲む目でそれをじっと見据える。

 ぐるるるる……と獣の咆哮がする。ようやく砂埃が治まると、大きな影がその姿を現した。

 真っ白な虎だ。鋭い牙を口元から覗かせて桔梗を狙っている。

 本物の虎ではない。血の通わないモノであることは気配でわかる。おそらくは式。術者がよく使う、紙でできた単純なものだ。しかしそのようなモノでも本気でかかられたら怪我をする。

 少しずつ距離を取ろうとするが、硝子玉のような綺麗だけれども生気を感じない瞳が、桔梗が身じろぐ度にぎょろりと動く。

 こんなモノがこんな狭い路で暴れたら洒落にならない。

 そうぼやいて、桔梗ははたと気づく。

 ここまで人に会っていない。この辺りは内裏に近いこともあって貴族の邸ばかりだ。獣の咆哮で下人が何事かと様子を見に来てもおかしくはないのに。

 獣はこちらを睨み据えたままで動く気配はない。

 少し考えて、桔梗は意識を己の周りから外へと移す。――やはり結界が張り巡らされている。

 こちらも内裏の術と同じ臭いがした。

 桔梗はふたたび獣に視線を向けた。

 これを倒せば結界は崩れるはずだ。幸いなことに虎は動かない。監視だけの目的なのかもしれない。

 ならば先手必勝か。

 視線を虎から外さずに指で印を結び術を紡ぐ。

 思い違いでなければ、この虎は玄翔が作ったモノ。おそらくは――内裏での騒動も。

 どういう意図があるのかは本人に問いたださねばならない。

 とにかく今は、これをどうにかしないと。

「――」

 術の完成まであと二言。

 突然虎が動き出した。

 油断していたせいもあるだろう。攻撃は避けたものの、地面のくぼみに足を取られて転倒してしまう。

 その隙を虎が見逃すはずもない。大きく振りかぶった獣の腕。鋭い爪がぎらりと光る。

 ――あぁ、(これ)()られるのだ。

 桔梗は他人事のように思う。

 振り下ろされる獣の腕は、ひどくゆっくりとした動きに感じられた。これなら逃げられたかもしれないが、身体は動かなかった。

「な……に……?」

 目の前に人の影が立ち塞がる。

 がりっと硬い物が砕ける音がした。そのひとは、がくん、と膝から崩れ落ちた。

 驚いて桔梗は目を見開く。

 どうして彼女がここにいる。

 全身が怒りに染まる。

 残りの二言を紡ぐ。感情を唇に乗せて虎へとぶつけるように。

 ――音もなく、土から綱が生えてくる。それは虎の四肢をきつく縛りあげた。もがけばもがくほど絡みつき、ぴくりとも動けない。がっしりと固定された虎は、それでも拘束から逃げようと身を捩じらせている。

 しつこい。

 桔梗は続けて術を重ねていく。

 だが、虎も必死だ。抵抗して足掻き続ければ、ほんの少しでも状況は変わる。絡んでいた綱が一本、千切れて宙に消えた。

 悔しさに唇を噛む。

 これを押さえこんで術の解析をしようと考えていたのだが、そんな時間はなさそうだ。

 虎の咆哮に気圧されて、桔梗の足がわずかに後ろへと下がる。

 再度術をかけるが、また一本拘束の綱は切れてしまった。

 このままでは逃げられる。

 去られるだけならまだいい。術を完全に断ち切られて反撃されたら今度こそ命の保障はないだろう。

 そしてまた一本。切られる度に新しい綱で絡めるが、これでは埒が明かない。

 虎が前足に力を入れたのか、ざりっと砂の擦れる音がした。――にやりと笑った気がした。隙はないかとこちらを狙っている。

 だが、と桔梗は思う。

 命をさぁどうぞと差し出すわけがない。

 言葉を紡ぎ新たに術を編みこんでいく。

 視える者が近くにいたならば、漁に使用している刺網に似た薄い膜が、虎に覆いかぶさったのがわかっただろう。

 全体を包みこむように拘束して、桔梗は少しだけほっとする。が、すぐに身体の不調に襲われる。

 頭から血が抜けていくような感覚と、ぶれる視界。

 気の緩みがわずかでも生じたら、あっという間に黄泉へと旅立つことになりそうだ。

 崖っぷちの状況だとわかっていても有効な策は見つからない。

 幸いなことに虎は先ほど切り捨てた束縛の綱の他は、己でどうにもできない様子だ。

 あとはどちらかの気力が尽きるまで睨みあいになる。

 けれどもさっさと終わらせたい。

 気ばかりが焦ってしまい均衡が保たれていた力の押しあいが崩れそうになる。

「――っ」

 どうなるか、わからないが。

 桔梗は腹を括った。

 いつまでもこうしていても時間ばかりが過ぎていく。ならば。

 右手を虎にかざすようにして、新たな術を重ねようと口を開く。

「え……」

 目の端に、黒い物がひらひらと舞うのが見えた。

 先ほどと同じだ。

 初めは一匹だった(それ)は、一匹また一匹と瞬く間に群れを成した。虎の体を覆いつくし、そこだけ夜の闇があるかのようだ。

 少しずつ黒い闇の塊が小さくなっていく。気のせいかと思ったが違う。少しずつ、だが確実に縮んでいく。

 ほぅ、と桔梗が安堵の息をついたときには、蝶が地面を離れて舞い上がるところだった。

 ――虎の姿はない。

 蝶が喰べたのか。虎は元々術の塊なのだから解術したのか。桔梗には不明だ。

 そんなことはわからなくてもいい。

 今は。

「瑠璃」

 倒れたままの女を抱き起こすと、腹の辺りがふにゃりとへこんだ。一瞬うろたえて動きを止めるが、そっと瑠璃の頬に指を這わせる。

「るり」

 もう一度名を呼ぶと、まつげを震わせた瑠璃がゆっくりとこちらを見た。

「ききょうさま……?」

 掠れた声でそう言って、わずかに微笑んだ。

「どうして」

 聞きたいことは山のようにある。けれども桔梗はそれっきり何も言えなくなる。

 震える瑠璃の指が桔梗の顔に触れて、つ……と流れる涙を優しく拭った。

(わたくし)(ききょうさま)を守るのは、当然でしょう?」

 だから泣く必要などありません。

 掠れた声とともにずるりと滑り落ちた瑠璃の腕はもう動かない。

 一瞬の後、瑠璃の体は小さな紙切れになる。人型に切り抜いた式神の元となる紙だ。もう、何度術を重ねても。

 ――意味がない。

 動けないでいる桔梗の側に人影が佇んだ。確認をしなくても誰なのかわかる。

「桔梗」

 小さく声をかけ、神威は桔梗の肩を抱く。

「泣かないで」

 桔梗の手ごと紙を己の両手で包みこむ。

 手の中の重みが増した気がして、桔梗はそっと開いてみる。

 紙はそこにはなく、代わりに小さな石があった。藍色のそれは、日の光を受けてわずかだが煌いた。

 瑠璃色の石。

「もう少し条件がよければよかったのだけれど。これが精一杯」

 つるりとした表面は石特有の冷たさがあるのに、なぜか温もりを感じた。

「どうして」

「一族が崇めている月は、死と再生の神だもの」

 にっこりと神威が笑う。

「残したくないモノは完全に殺したかったから、元の姿にするのは叶わないでしょうけれど、核になるものはきちんと残っているから」

「え……」

 そんなことを言われても、桔梗にはさっぱり理解できない。

「あの男のかけた術すべて」

 神威の言葉に桔梗はぐっと喉を詰まらせる。

 瑠璃に襲われたときに彼女が言っていたではないか。

〝玄翔様のために死んでください〟と。

「玄翔様が……」

 やはり信じられない。

 瑠璃と神威の主張で元凶がそう(・・)なのだとはっきりしたが、逆に言えばふたりの言葉しかないのだ。ふたりがどういうわけか共謀して、謀られている可能性もある。特に神威はまだ出会ったばかりだ。――色々と、記憶が巡ってきてはいるが。

「玄翔様は、なぜ……」

 ぽつりと呟くと、神威はわからないと首を振った。

「そう……だ。玻璃は?!」

 瑠璃が玄翔の術に嵌っていたのなら、同じ式である玻璃もその対象のはず。

「あの子は大丈夫よ」

「でも」

「玻璃は、桔梗がひとりで作ったのでしょう? 主以外の命など聞かないわ」

 瑠璃はまだ玄翔の邸にいた頃に、習ってふたりで作ったのだ。未熟な桔梗の知らぬ間に、いくらでも操作ができる。

 そして、玻璃はその後復習のつもりでひとりでやってみたのだ。誰にも言わず試したので、後でそのことを知った玄翔も少々面食らった様子だった。

「それでも多少の影響は受けていたようだけれど」

 ひとつ思い当たることがある。

 時折ふらりと玄翔の邸周辺にいた玻璃。あれはもしかしなくても〝呼ばれて〟いたのではないか。

 切れそうなほど強く唇を噛みしめていると、神威の手が肩に触れた。無機質な血の通っていない手。

「神威も式なの?」

「似たようなモノかな」

 元は人間だったのだ。厳密には式とは違う。だがもう、人ではない存在。

 どうしてこんなことになってしまったのか。

「行きましょう」

 神威がうながす。

「もう、あまり時間がないから」

 はっとして、神威の顔を見つめる。心なしか艶が失われている。

 おずおずと手を伸ばし彼女の頬に触れると、ざらりとした感触が伝わってくる。ぱらりと落ちるのは土だろうか。

 土を固めて人形を作り、それを(まじない)に使うことは稀にある。

 紙を使うか土を使うか。他の物を利用するか。材料になるものはいくらでもあるし、術者ならば使役する存在を作ることは普通だ。

 問題は、人の魂を使っていることだ。

 お互いの利害が一致しているのならばいい。式となった者がそう望んだのならば。

 だが、強制的にされてしまったら。死後もなお辱めを受けるのと変わらない。

「もう平気よ」

 桔梗の考えを読み取ったのか、神威は微笑んだ。

「術は完全に解けているから、あとは消えるだけ」

 だから時間がないの。

 そうこうしていると、神威の小指がぱさりと下に落ちた。それは落ちたと同時に土と化して形をなくした。

「――っ」

 目の当たりにした桔梗は、ひゅっと息をのんだ。

 頭ではわかってはいたものの、実際に目撃してしまうとひどく驚く。たしかに出会ったときから異彩を放っていた女性であったが、あのときはこうだとは思いもよらなかった。

「行きましょう」

 急かされてぎこちなく頷く。

 一帯に張り巡らされていた結界はあっけなく解けた。ほぼ無音だった空間に喧騒が戻ってくる。一瞬の耳鳴りの後に空気が動く気配を感じた。

 辺りを見回せば大路だった。また、大路だ。

 式の虎と遭遇したのは脇の小路だったと記憶していたのだが、術に嵌ったときに無意識のうちに誘導されていたのかもしれない。

 龍脈と呼ばれる気の流れは都の中心に位置する大路を北から南へと流れていき、都全体へ広がっていく。これほど術者にとって都合の良い場所は他にはないだろう。

 大路を行き交う人々がいつもよりも騒がしいと感じた。

 焦っているような様子はないが、おそらくの原因は予想がついた。みな同じ方角を見て、何事かと噂話をしている。

 まだ夕焼けには早いのに、空がうっすらと赤く染まっている。あの方角は内裏だ。

 焦る気持ちを抑えて桔梗は内裏へと急ぐ。

 門の近くで慌てふためいている役人を横目に奥へと進んでいく。

 自分と身の回りのことで手一杯なのだろう。部外者の桔梗たちが走っていくのを誰も見咎めない。

 急いできたものの、どこへ行けばいいのか見当もつかない。

 しばし迷って、特にざわついている左側の方へと足を向けた。

 宴松原(えんのまつばら)という、大内裏にある松林だ。ここにまつわる怪談話もある、少々不気味な場所だ。

 そこに、見知った姿があった。

「影明」

 名を呼ぶと、影明はこちらを向いて「あ」と声をあげた。

「何があった」

「たいしたことはないよ」

 素っ気なく返される。しかしその言葉の端々からは、事の次第から遠ざけようとしているわけではないことは理解した。

 眉尻が下がりどこか戸惑っているような、そんな表情をしている。

「霊が出ただの鬼がいただの。何もないところから炎が出ただの、そのくらいだ」

 などと、事もなげに言うので、今度は桔梗が困惑することになる。

 それのどこが〝たいしたことがない〟のか。

「怪我人は?」

 辺りを見回しながら訊ねると、少し離れたところにいる青年と目があった。龍安だ。彼は側に控えていた男と二、三言葉を交わし、こちらへと歩いてくる。

 鋭い眼光に射られた気がして、桔梗の背筋がぴんと伸びる。

「龍安様」

 桔梗の視線をたどり、影明が言った。

 龍安は無言のまま影明の隣に立った。ちょうど桔梗の目の前だ。背の高い彼に見下ろされ、思わずごくりと喉を鳴らす。蛇に睨まれた蛙の気分だ。

 何も悪いことはしていない――いやしている。許可もないまま勝手にここまで侵入してきたのだ。叱責されるのは覚悟した方がいい。

「お前も来たのか」

 しかしながら非難はなかった。冷たさを帯びた口調は普段と変わらない。

「はい。火事かと思い、気になってしまって」

 言いながら、あれ、と思う。

 木材が燃えたときの臭いがしない。すぐに鎮火したとしても一切の痕跡がないのはおかしいだろう。

「火事か……」

 龍安は嘆息を洩らした。

「たいしたことはない」

「そう、ですか……」

 兄弟子に言い切られては引き下がるしかない。気にはなるがこの場は関係者に任せるしかない。自分も玄翔を探さなければならないのだから。

「龍安様」

「何か」

 桔梗はこれまでのことを話した。大丈夫だとは思うが、玄翔の邸に人が倒れているのだ。そちらも保護してもらわなくてはならない。

「なんだよそれ」

 先に声をあげたのは影明だった。目を真ん丸にして、二の句が告げないでいる。

 対して、龍安はわずかに眉を動かしただけだった。

 普段から冷静沈着な彼だ。動揺を表に出さないだけなのかと思ったが、どうも様子がおかしい。人を呼び、すぐさま邸へ向かうように指示をする姿は、いつも通りなのだが――。

「……桔梗、瑠璃は?」

 そっと訊ねられて、桔梗は懐へ手を指しこむ。取り出した青い石を見せると、影明は桔梗ごと包みこむように手を重ねた。

「冷たいな」

「うん」

 無機質な石だ。つるりとした感触のみで熱は伝わってこない。それは当たり前なのだが、人型のときは触れたらなぜか温かさを感じた。

 式なのだから体温があるはずがないのに。

「違うよ。お前の手」

「え」

 両手で包み直されて桔梗はどきりとする。手のひら全体に優しい温かさを感じて、知らず力が入っていた肩のこわばりが解ける。

「術の使いすぎ? それとも緊張? 一人前の術者の真似事なんてするから」

「うるさい」

 からかう態度に心の硬直までもが解消される。

「もう、平気だ」

 囁くように告げると、影明の手がそっと離れた。

 わずかな温もりが残った石を一度握り締めて桔梗は懐にしまった。

「龍安殿!」

 一人の検非違使が走ってくる。

「どうした」

 男は桔梗をちらりと見やり、言いよどむ。

 髪を隠す衣など忘れてきている。噂は聞いているだろうが、部外者の前で話すような内容ではないのかもしれない。

 早々に立ち去ったほうが良いだろう。

 桔梗がそんなことを考えていると、

「これの責任は私が取る。構わず続けてくれ」

 たいした問題ではないと言わんばかりに龍安はうながした。

 どういうつもりかと彼の顔を見ると、目があった。威厳のある目が、桔梗が立ち去ることを善しとしていないのは理解した。

 思わず背筋を正して検非違使の言葉に耳を傾ける。

「市井でも同じような炎が上がったとの報告が」

「――っ」

 今すぐ走り出したくなるのをどうにかこらえて、桔梗は検非違使を凝視するにとどめた。

「同じような、か?」

「ほぼ同一と見て間違いないかと。触れても火傷ひとつしないとのことです」

「影明」

「ん?」

 龍安の邪魔をするわけにはいかず影明に話を振る。

「そ、幻影。全身炎に包まれてもちっとも熱くないし、肌が焼けた痕も残らない。けど、そんな目にあったら取り乱しちまうからな、心には傷を負ってるかな」

 内裏はそんな感じだよと影明はため息をついた。

 だから混乱している割に〝何もない〟のか。桔梗は安心していいのか、複雑な気持ちになる。

「平静さを失ったのが数人と、失神したのが数人いるけど、大きな被害はない」

「そっか」

 ならば市井に発生した炎もさほど心配はないだろう。しかし怪異に耐性のない者にはかなりの精神的重圧がかかる。

 たいしたことがないと言っても、内裏の混乱はまだまだ治まらないはずだ。役人はここで手一杯になる。

 市井へ向かおうと決めて、桔梗はこの場を離れる旨を告げようと口を開く。

「桔梗」

 その前に、龍安がこちらを向いた。

「はい」

「――玄翔、様を探しているのだろう? 早く行け」

 桔梗は目を丸くする。

「都は私が静める。影明も一緒に行け」

「俺も……ですか?」

 思わず顔を見合わせる。影明も桔梗も訳がわからない。

「僭越ながら」

 ふたりが視線を交わしたのち、影明が切り出した。

「我々が闇雲に探すよりも、龍安様が行かれるべきかと思いますが」

 他にも有能な術者はいる。騒ぎの原因が幻影ならば十分対応できる。龍安が向かうほうが適切だと桔梗も思った。しかし本人の考えは違うようだ。

「そうしたいのは山々だが――」

 そう言った龍安は深く息を吐いた。

「ひどく足が重くなって、思うように動くことができなくなってな」

 しかし〝外〟へ行くのを止めれば、先ほどのは思い違いだったのかと己に落胆するほど軽くなる。

「有効な手立てが思いつかん」

 苦々しい口ぶりからして何やら知っている雰囲気だ。

「……龍安様は、知っていたのですか?」

 場所が場所だけに桔梗は言葉を濁して訊ねた。

 龍安はそれでも聞きたいことを察してくれたようだ。少し顎を引いて、頷くような仕草をした。

「確信はなかったが」

 それでも違和感は常に纏わりついていた。何かおかしいと思うことも度々あったが、ふとした拍子にそれは消えてしまう。考えると身体の不調に悩まされることになるのだが、それすらも考えが行きつく前に勘違いだと思ったり、己の管理がなっていないのだと失意に陥る。

 だが、それは今ならわかる。工夫が凝らされた(わな)だったのだ、と。

 玄翔邸の入口にある草木の回廊がその役割を担っていたのだ。

 訪問するたびに眩暈や吐き気がしていたのは、何らかのよくないモノを拾ってきているからだ、と思っていた。何の症状も現れなかった者もいたからだ。

 あの不調は、実際は無意識に術を跳ね除けたときの反動だったのだろう。事実と異なるものを正しいと思いこませるのだから、対象者の精神負担は大きかったはずだ。

「特にお前は気に入られていたからな。念入りに術をかけられていただろう」

 それは支配されていたと言ってもいい。祖母だと思っていた人は存在しなかったのだから。

「今も昔も、お前のことは信用していないが、私も術に絡めとられたままだから、人のことは言えぬ」

 忌々しげに龍安は鼻を鳴らした。

「動くこともできぬなら、動ける者に託すしかあるまい」

 龍安は懐から取り出した紙を手首をしならせて空へと放り投げた。白い紙は宙で一回転すると、ふわりと桔梗の肩へ乗った。腹が真ん丸とした小さな鳥だ。丸い目が周囲をうかがうように忙しげに動く。その可愛らしい姿に少々尖っていた空気が和らいだ。

「事の真偽はこれで確かめる。私の目の代わりになるものだから、防御や攻撃は期待するな」

 ただ見たものを術者に伝える式なのだろう。あとで何があったのかを話すよりも明確で誤魔化しがきかない。嘘偽りを見抜くとともに桔梗たちを守るものでもある。

「……鷹とか鷲とか作りそうな顔してるのに、ずいぶん可愛らしい式にしましたね」

「うるさい」

 まじまじと鳥を見て感想を述べた影明に、龍安は無愛想に返す。だがしかし、冷淡さを感じないのは穏やかな眼差しをしているからだろう。

「さっさと行け」

 ぱたぱたと手で追い払う仕草をした龍安は、桔梗たちに背を向けた。そのまま検非違使と話し出す。

「行こう、桔梗」

「うん」

 桔梗は頷いて、先に駆け出した影明の後を追った。

 少し遅れて内裏の門へたどり着くと、懐から紙を取り出す。先ほど玄翔の邸へと道を示した、妖を写し取った式だ。これがあれば彼の元へと案内してくれるだろう。

 式を飛ばそうとして、ふと影明の視線に気がついて首をかしげる。

「どうかした?」

 影明はこちらを向いているが、桔梗のことは見ていない。桔梗の真横辺りを見据えている。

 そこには、神威が立っている。

 何かを探るような目つきの影明は、桔梗の問いかけには答えない。

「神威さん……だよな」

 やがてぽつりと言った。

「何を……」

 言っている意味がわからずに、桔梗はふたりの顔を交互に見やる。すると、少し困り顔の神威の姿が、うっすらと透けたような気がした。

「神威?」

 慌てて彼女の腕を掴む。身体に触れている感触はあるのに、実体がそこにはないような、不思議な感覚に陥る。

 桔梗の動揺が伝わったのだろうか。神威は小さく笑った。

「本来なら、もう存在しないものだから。あべこべで、視覚がびっくりしているのね」

「存在しないって、どういうことですか神威さん」

 くすくすと楽しそうにしているが、どこか悲しげに感じるのは気のせいではない。

 そんな会話をしている間に、神威の手首から先が落ちた。

「先に言っておくわ。私はこの通り役に立たない。いつまで保てるかはわからない。――急ぎましょう。あの男が待っている」

 神威の視線につられて同じ方向を見る。

 ここからでは果てしなく続く空くらいしか確認できない。しかし見ている方向は、陰陽道にかかわらない者でも気づく。都の丑寅。鬼が出入りするとされる不吉な方向だ。

 あの辺りには鬼門封じの寺院が建っているため、都は守られている。つまり塞き止められた陰の気が周辺に溜まっていてもおかしくはない。それらを好むモノにはとてもとても心地よい場所だ。

 唇を噛みしめ桔梗は式を放った。

 式は一度くるりと回転し、思ったとおりの方向へと移動を始めた。一定の高さと速度を保ちながら進んでいくそれを見つめ、影明はしかめっ面をする。

「……結構、離れてるよな」

 目的地まで徒歩だ。牛車など自由に乗れる身分でもないし慣れてはいるが、歩いていくには少々骨が折れる。

「こっちがひーひー言ってるの喜んでるんじゃないだろうな」

 小走りになっているために息が上がる。げんなりとしている影明に、桔梗は苦笑するしかない。

「龍安様も監視の式じゃなくてあっという間に目的地へ到着できる移動の式にしてくれりゃよかったのに」

「それだけ元気なら何の問題もないよ」

 にべもない桔梗の返しに気分を害する様子もなく、影明は「わぁひでぇ」と笑う。

 問題は山のようにある。

 騒ぎになっている都を放っておいてよいのか。その原因であろう者のところへ向かうのはこの顔ぶれでよいのか。龍安に送り出されたのも本当は計略ではないのか。

 考えるほど悪いほうへと寄ってしまう。だからこそ重みのないやり取りが心にしみる。

 そうこうするうちに、辺りの雰囲気が変わった。

 どんよりと重い空気が漂う感じに、桔梗は眉間に皺をよせる。

 桔梗たちを先導していた式はぱさりと地面に落ちた。肩に乗っている(りょうあん)の鳥が、ぴぃ、と鳴いた。

 ここがそうなのか。

 草木が鬱蒼と茂っている。どこか玄翔の邸と似ていた。

「行こう」

 太陽はすでに西へと傾きはじめている。

 明かりを点す術も暗視の術も扱えるが、日が完全に沈む前に決着をつけるほうがいい。

 影明を先頭に人ひとりが通れる程度の獣道を進んでいく。傾斜は緩やかな山だ。いや、丘の方が近い。

 生い茂る緑とは別に澱んだ気が視界を悪くする。だんだんと濃くなっていくから、この先で間違いないだろう。

「――っ」

 吐き気をもよおして桔梗は息をつめた。そっと背中を擦られると楽になった。

「ありがとう神威」

 鼻や口から少しずつ体内に入ってくる瘴気は放っておいたらどのような異常をきたすのか。

 短く息を吐き続けて内から外へ悪いモノを押し出す。

「――」

「影明? どうした?」

 前を歩いていた影明が突然立ち止まった。

 まだ頂上にはたどり着いていない。中腹の開けたところだ。何も言わない影明を訝しんで、桔梗は彼の肩越しに前方を見やった。

「……玄翔様」

「おう。待ちくたびれたぞ」

 そこには、飄々とした老人が立っていた。顎を少し上げ、楽しげな表情でこちらを見ている。

「儂の邸を荒らすモノを追いかけてきたんだが、見失ってなぁ。そうしたら、お前たちの気配が近づいてくるから、こうして待ってたのさ」

 そう言って、玄翔は目を細めた。

「内裏と市井も騒がしいようだが、あっちは若い者に任せておこうかと思うてなぁ」

 少々芝居じみた物言いは、いつも通りだ。あぁ困ったと言いながら実際にはこれっぽっちも困っていない。そういうひとだ。

 今まではそんな白々しい態度も影明の言葉を借りれば〝あのたぬき〟といったところだが、それも含めて一種の戯れだった。

 しかしもう、作り事に乗っかることはできない。

 視えるのは真実のみ。

「俺の〝視る力〟はお師匠様のお墨付きなんだろう? 人の皮を被った妖」

 玄翔が感情を読み取らせない目で影明を見つめ、にぃ、と笑った。

「ほぅ、何が視える?」

 何、と言われて桔梗は顔をしかめた。

 瞬きを忘れるほど玄翔を凝視する。身体に纏わりついている黒い(もや)のようなものは、妖気の類だろう。本質を見極めようとしてもそれしか視えない。

 しかし、影明は違うようだ。

 まやかしは消えた。

「七情が」

 と、低く言った。

 (よろこび)(いかり)(かなしみ)(おそれ)(いとしみ)(にくしみ)。そして欲。これらの七つの情が人間には備わっているという。

「人だけじゃないな。獣――妖も混ざっているか。特に欲と喜が強い」

「ほぅ」

 玄翔が心底楽しそうに笑う。

「最初は、恨み辛みを抱いたまま命を落とした霊魂の寄せあわせかと思ったけど、感情の塊だ。感情程度ならただの怨霊と変わらないけど、無駄に知識を得ている分、やっかいだ」

 笑みを濃くして影明を眺めている玄翔から嬉々とした様子が伝わってくる。影明の声が硬いために薄気味悪い。

「でも、その体はもう終わりなんだろう?」

 答えるかのように玄翔の腕がぱさりと落ちた。たちまち形をなくして土になる。

 神威と同じだ。

 ちらり、と横に立つ神威に目を向けると、彼女は眉ひとつ動かさずに玄翔を見ていた。桔梗の視線に気づいたのか、少しだけ目を動かしたが、それだけだった。

 何を思っているのか傍目からはわからない。もう、立っているだけで精一杯なのかもしれない。神威の肌が少しずつ少しずつひび割れていく。

 できる限り視界に入れたくなくて、桔梗は前方を見据えた。

 喜色満面でこちらを向く玄翔は、腹が立つほど落ち着き払っている。経験不足の若造がとでも思っているのだろうか。追い詰められているという焦りはまったく感じられない。

 玄翔が目を眇めた。

「神威はもう駄目か。案外早かったなぁ」

 つまらんのう、と不満がっているが、相変わらず口元には笑みを湛えている。

「……何のために」

「うん?」

 静かに口を開いた影明に、玄翔は短く問いかけた。

「怨霊が、何のためにこんな手間のかかることをしているんだ。恨みを抱いているのか、それとも政権を握ってこの世を支配する気か」

 影明にしては苛烈だ。

 無理もない。

 利用されるだけ利用されて裏切られたという感情が溢れてくる。

 ふん、と玄翔が鼻を鳴らす。

「他人のせいにするでないぞ」

 瞳がにやりと歪んだ。

「相手が何であろうが頼って利用していたのは人間も同じであろう? 儂ばかりが責められる筋合いはないと思うが?」

 狐と狸の化かしあいではないが、ずる賢い者たちが立ち回らなければ情勢が動かなくなってしまうのも一理ある。

 しれっと答えられては返す言葉もない。

「……ひとつ訂正しておくかのぅ」

 のんびりと玄翔は続ける。

「儂は、怨霊なんて、そんな大層なモノじゃないさ」

 掠れた声は年齢を重ねた者特有の響きがある。それが、瑞々しい青年の声になった。

「何でもない、ただの感情が固まっただけの卑しい存在さ」

 かと思うと、可愛らしい女のそれに変化する。

「この、欲にまみれた卑しい存在は、人間と呼んでもよいのかもしれんがなぁ」

「目的は」

 影明の遮りに玄翔は片眉をつりあげた。

「目的? ――そんなものはない」

「ない?」

「妖に怯え逃げ惑う――その者を助けるもよし、しばらく放置してたいした力もないというのに抗い続けて自力で退けるのを見るもよし。弱いのに強い。揺るぎない心を持っているのかと感心すれば、次の瞬間には簡単に心を折る。だから人間は面白い。良い退屈しのぎになったよ」

「面白い? ……そんなことで」

 声が震え気味の桔梗を小馬鹿にした笑いが襲う。

「つまらぬとわかりきっていることをしても仕方あるまい? 楽しいから酒を飲む。楽しいから恋を語らう。それと同じこと」

「同じじゃないっ」

 聞いていられない。とうとう語気を荒げる。このまま好きにさせていたら、さらに耳にしたくないことをべらべらと喋りそうだ。玄翔の爛々とした目が物語っていた。

「そうか。まぁ、安心せい。お遊びもここまでよ」

 それまで置物のように口以外がまったく動かなかった玄翔が、ついと右足を後ろへと引いた。

 次の出方に息をつめて身構える。と――。

 がくん、と玄翔が膝をついた。

 突然のことに唖然とする。桔梗も影明もその様子を見ていることしかできない。

 膝をついたと思ったが、そうではなかった。膝から下が土と化したのだった。重心が安定しないのか、玄翔の体が左右に揺れる。

「さて、もう終いだが」

 顔が半分朽ちる。

「土に還り大地に喰われるが、いくらでも喰い返せる」

 物語を唄うかのように口調は滑らかだ。

「大地に染みついた感情は蓄積されて新たなモノを生む。(げん)が生じるかそれとも(しょう)が湧き出すか。お前のその恨みも儂の糧よ。すべては繰り返す」

 上半身が崩れ落ち、とうとう頭だけになる。

「それがいつになるか、そのときにまたお前たちに会うかは知らぬがな」

「――っおい!」

 音もなく。

 完全に土となったその塊を前に、桔梗はなすすべもなく立ちつくすしかなかった。

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