月隠 十
さて……どうしようか。
桔梗は目の前で咲く紫陽花を見つめ、考えた。
しばし様子をうかがう。花自体にはおかしなところはない。けれども普通の花とは明らかに違う雰囲気を醸し出している。
少し前ははっきりとした変化はなかった。しかし今はこの花の周りだけ白く光っている。妖が持ち合わせる空気と似ていた。おそらく只人は気がつかない。人間の目に触れぬよう気配を殺しつつ、されど気づいてほしい気持ちもあるのか、ほんの少し存在を主張しているようだ。そうでなければ術者に悟られるような行動は、極力しないはずだ。
触れてみようか……?
これが妖の類ではなく、少々不思議な性質の、ただの花なのかどうかもわからぬうちに、不用意に触れるのはいささか危険ではある。しかし、いつまでも見ているだけでは何も変わらない。
桔梗は少し迷いながらも紫陽花に手を伸ばした。
柔らかい感触が伝わってきた。先ほど降った雨露が桔梗の指を濡らした。
ふいに、笑い声が聞こえてくる。子供の声だ。
振り返ると、少し離れたところに女の子が立っていた。真っ白な衣を身に纏った子供だ。
笑い声はもう聞こえない。子供は真顔でこちらを見つめている。人間ではない、のは、こうして対峙しているだけで理解した。
ソレは瞬きもせず、
「おねえちゃんは変な術を使うひと?」
抑揚のない声でそう言った。
「そう、だね。おそらく」
我ながら曖昧な返答だと思う。
しかし、排除しなければならないなら、自分は彼女にとって〝悪〟だ。
妖は人間にとって害になるモノだが、不必要なものではない。
この世は陰に分類されるもの、陽に分類されるものがある。ただそれだけのことなのだが、陽に分類されると思いこんでいる人間は、自分たちを脅かす陰を排除しようとする。
実際には、人間ほど陰と陽の両方を持ち合わせ、複雑なものはいないと桔梗は思っている。
そのように考察ながらも、己は何を思い上がっているのかと、桔梗は表情をわずかに歪めた。
他人を偉そうに評価できるほど、経験も知識も足りないというのに。
「……あたしはここに閉じこめられたから反抗しただけよ。そんな風に見下される覚えはないわ」
ふいに子供の声音が低くなった。目を吊り上げて、桔梗を睨みつけている。目の前にいる術者が自分を蔑んでいると思ったのかもしれない。
そうではない、と桔梗が口を開こうとしたとき。辺りの空気がひんやりとした気がした。次いで、頬を見えない指が触れられたような感覚を覚える。風が吹いただけだとわかっていたにもかかわらず、桔梗は少々たじろいた。
「……ちょうどいいわ」
にぃ、と子供が口端を上げる。
「ここの人たちは怖がるばかりでつまらない。だから、ね」
幼子には似合わぬ顔と口調で、彼女は呟いた。
「遊びましょうよ」
それは合図だったのか。途端に視界が歪んだ。
何が起きたのか理解できないまま、桔梗はがくりと膝を落とした。目が回りまともに立っていられなくなった。胃を圧迫されたかのような不快感に、重々しい息を吐き出す。
「……遊ぶ……?」
かろうじて聞き返した。桔梗の声は掠れていて、思うように出せない様子だ。
「そうよ」
子供は桔梗の周りを飛び跳ねる。
その姿を目で追おうにも吐き気をもよおしていて、満足に見ることもできない。後ろ、左、今度は右。真横に来たかと思うと、次の瞬間は遠くに気配を感じる。ぼやける目でも子供の姿はとらえられているのに、相手との距離を測ることができない。
「鬼ごっこしましょ。おねえちゃんがあたしを捕まえたら、おねえちゃんの勝ち」
「……捕まえられなかったら?」
笑い声が正面から聞こえた。桔梗はゆるゆると顔を上げる。
にっこりと笑う子供の顔は、満開の花のようだった。
「死ぬまでここから出られない」
突然の強風に煽られて桔梗の装束がバタバタと音をたてた。飛んでくる木の葉や塵埃が顔にあたる。桔梗はたまらず両腕で自身の顔を庇った。
耳元で轟々とうねる風の音は、誰かの呻き声のようだった。
やがて風が止まった。
そっと腕を外し、桔梗は息を飲んだ。
膝を落としていたのは件の紫陽花の前――建物の外だった。なのに、地面に広がっていたはずの土はなく、代わりに視界に入ったのは木の板だ。
勢いよく顔を上げて辺りを見回した。
見覚えのある天井、御簾、几帳――自分はどうやって建物の中へと移動したのか。桔梗は瞬きすらも忘れるほど唖然とする。
子供の姿はすでになかった。しかし笑い声がかすかに聞こえる。
もう一度注意深く辺りを見回してから、桔梗は近くの柱に手を伸ばした。
なめらかな木の感触は本物だ。けれども何かが違う。
人の気配が一切感じられない。
近くの御簾をかかげてみると、思った通り誰もいなかった。用心深く辺りをうかがってから部屋へと入る。
そこに設置されている調度品には覚えがあった。
桔梗はしばし部屋を観察し、重く息を吐き出した。
ここは飛香舎だ。怪異が多く目撃され、なおかつ桔梗が与えられた局のすぐ隣。人の気配がない以外に変わった様子はない。
「……」
考えるような仕草をして、桔梗は廂を覗いた。
思った通り何もない。しばらくここに住むようになるからと、古い調度品を借りて自身の局にしていたのだが――玄翔の邸から運んだ物すらもなかった。
「どういうことだ……?」
静かな空間に桔梗の呟きのみが響く。考えこんでいるのか、しばらく微動だにしなかった彼女は、そっと簀子へと出た。
外は良い天気とは言い難い灰色の空が広がっている。雨は止んでいるが、先ほど子供と対峙する前と変わらぬ空模様だ。やはり外にも人の気配は感じられない。
簀子の端へと進み、桔梗は注意深く右手を伸ばした。
「……」
硬い感触が手のひらに伝わってくる。簀子より先に手を伸ばしたいのだが、見えない壁がそれを阻む。
力を込めてみるが変化はない。
次に桔梗は囁くような小さな声で何かを口ずさんだ。魔を祓う祝詞だ。そのまま右手を前に押し出すようにする。
「……駄目か」
落胆した声をともに重く息を吐き出す。
せめて〝外〟と連絡が取れればいいのだが、それも叶わないだろう。
一度ぐるりと辺りを見回して、桔梗は歩き出した。
飛香舎から北方面へと向かい、すぐに引き返すこととなった。この先はふたつの部屋があるが行き止まりだ。
今度は南方面へと歩いていき、同じように祓いを試みる。そうやって、桔梗は渡殿を通って建物全体を回っていく。
念のためと二、三回繰り返していたが、ゆるゆると手を下ろした。
「駄目か」
同じ言葉を呟いて、桔梗は眉をよせる。少し迷った後、床に正座した。
両手を広げて床に手のひら全体をぴったりとあて、じっとしている。よく見れば、彼女の口だけが小さく動いていた。時折、祝詞や真言の種類を変えて唱えている。
こうして、地脈におかしなところがないのか確認をしているのだ。
「――っ」
思ったほどの成果が得られなかったのだろう。何度目かの重々しい息を吐き出すと、桔梗は顔をあげた。
顔をあげたら景色が変わっていればいいのに。
桔梗の願いも虚しく、時が過ぎるばかりであった。
どの部屋も、置かれている調度品の類に見覚えがあった。内裏へ参内し、挨拶がてらおかしな物がないか確認をさせてもらったため、よく覚えている。ただ、中身までは確認していないので、まったく同じとは言い切れない。
立ち上がり、近くの部屋へと入る。そして、桔梗はためらいがちに厨子棚に手を伸ばした。両開きの扉をそっと開けてみると、中には何も入ってなかった。
桔梗は不思議そうな顔をする。
棚に置かれた香炉にも見覚えがあったのだ。
頭の中で建物の構造を思い描き、通った順序をそれにあわせて、自分が今どこにいるのか把握する。
宣耀殿で間違いないはずだ。七殿五舎のひとつでここも女御の住まいだ。内裏の北側に位置する。
すると、こちらは淑景舎で、こちらは麗景殿か。
桔梗は西側、南側のそれぞれの部屋へと続く渡殿を見つめる。
ふと、青年の顔が浮かんだ。麗景殿と二条に住まいを持っている、後宮の重要人物だ。彼とは先ほど話をして別れたばかりだ。
この場に異変が生じているのはすでにわかりきっていた。しかし、もしかしたらということもある。まだ調べていない部屋を見て回った桔梗は、ほっと安堵の息をついた。自分以外の誰もいない。
しかし――。
誰ひとりもいない建物は、こんなにも寂しいものか。
『死ぬまでここから出られない』
唐突に子供の言葉を思い出す。
桔梗は背筋を震わせた。あれは、こういうことだったのかと実感する。
術者は己に有利なように、しばしば結界を張る。元々いる場所に他からの干渉がないようにする、もしくは、対象を逃がさないようにするため。今回の場合は後者と考えるべきだろう。
しかも、ここはどうやら知らない空間だ。自分以外が消えたと考えるよりも、自分だけがどこかへ飛ばされたと判断したほうが適切だ。
厳しい目つきでその先を見据える。
とにかく、この結界の術者である子供を見つけ出さなければならない。できるだけ早々に。そうでなければ――言葉通り死んでもここから抜け出せないだろう。
この空間と元の空間が同じ時間を刻んでいるのかすらもわからない。あちらと繋がっているとすれば、まだ夕方にはなっていないはずなのだが。
桔梗はそう思って外を見つめた。
ここから確認できる木々も塀も、あちら側とそっくりだ。ただ、頭上に広がる青空が作り物のように感じられた。いたるところにある雲に動いている様子が見受けられないためなのかもしれない。風がなければ動きがないように思われる雲も、よく観察すれば少しずつ形を変えているものだ。
再度、桔梗は右手を目に見えない壁に押しつけた。
もしかしたら、という思いは捨てられなかった。しかし願いも虚しく。力をこめればあっという間に外へ出られそうなのに、びくともしない。
だが、子供を見つけるか、結界の綻びを見つけることができれば、どうにかなりそうではある。
幸いなことに妖の気配はうっすらとだが感じとれた。
桔梗は神経を集中してその後を追おうとしていた足を止めた。それから見間違いと思い、瞬きを数回繰り返した。
柱の影に、ちらりと白い衣が見えたのだ。
離れたところからしばし様子をうかがうと、衣の端が見えては隠れ見えては隠れ――まるでこちらを誘っているかのようだ。
誘いに乗るべきか無視するべきか。
悩んだ末、桔梗は極力音を立てぬようにしながら近づいた。おそらく向こうは気づいているだろう。意味のない行動かもしれないが、いきなり突進するよりも良いだろうと判断したのだった。
ぎぃ、と床が軋む音が鳴った。
思いがけない大きな音に驚いて、桔梗は息をのむ。
それを合図にしたのか、今まで見え隠れしていた白い衣が、ひゅっと柱の影に隠れた。
「――待てっ」
反射的に走り出した桔梗の足元に何かが突き刺さる。慌てて後方へと退き、その勢いのまま床に膝をついた。
「こういうのは、かっとなったほうが負けなのよ」
大人びた子供の声がした。けれども姿はない。
立ち上がろうとした桔梗の行動を阻むように、緑色の物体が飛んでくる。さほど大きくはなく、厚みもない。遠目には緑色の紙切れに見えた。
桔梗は頭部を守るように両腕を顔の前で合わせた。妖を視る目と、術を唱える口さえ無事ならば切り抜けられると判断したのだった。
風切り音が耳を掠めていく。同時に軽い衝撃が桔梗の全身を覆った。
皮膚が傷つけられる痛みに呻き声をあげる。ひとつひとつはたいした痛みではないが、全身を同時に襲われては堪らない。
やがて音が止んだ。
飛行物体と格闘している間に、妖の気配はまたどこかへ消えてしまった。遠くへ去ったのか、それともまだ近くに身を潜めているのか、現状ではわからない。飛行物体の持つ妖気が辺りに漂っていて、桔梗の判断が鈍る。
「……」
桔梗は下を見つめて嘆いた。
「結構気に入ってたのに」
視線の先には己が身に着けている袿がある。裾から袖の下あたりまで破けていて、見るのも無残な状態だ。
左手の甲から血が滲み出ているのにも気づいて、じくじくとした痛みに顔をしかめた。さほど深くはないようだが、傷口が空気に触れてしみる。続いて、頬にも強い痛みを感じた。
「残念。避けちゃったのね」
唐突に空から声が降ってきた。
勢いよく天井を見上げる。
子供の姿はなく、代わりに緑色のものが目に映る。
天井の一角に、染みのような緑色の塊があった。よく見ると、ひとつひとつは子供の手を広げたような形と大きさだとわかる。それが重なり合ってひとつの固体のようになっている。
緑色の塊が、わずかに浮き上がって見えた。
天井に張り付いていたそれらは方向を変え、尖った先が桔梗を狙う。
向きを変えたことで、平たい緑色のそれらが何なのか見当がつく。柏に似た紫陽花の葉だ。尖った葉の先端が光った気がして、桔梗はわずかに身を引いた。
しかし、遅かった。
「――っ」
全身を突く痛みに耐えながら祝詞を口ずさむ。掌に鋭い痛みを感じたが、桔梗は振り払わず逆に握りしめた。
かろうじて一枚だけが手元に残る。桔梗の衣や身を傷つけて、他はたちまち消えてしまった。
残った一枚を懐にしまい、再度の攻撃を警戒して神経を集中する。
わずかな空気の流れも見逃さないようにじっとしていた桔梗は、妖の気配が完全に消えたことを確認して、ふぅと息をついた。膝をついてその場に座りこむ。
いつまた妖が現れるかもしれないのだが、今は少しでも休みたかった。
全身につけられた傷跡のせいなのか倦怠感が桔梗を襲う。それに、眠いような気もして、桔梗は瞬きを繰り返した。
しばらくしてから自身の足元を見るように下を向く。鋭い刃物で何度も切りつけられたかのようなぼろぼろの衣が桔梗の目に映る。鏡で確認してみないとわからないが、頭の天辺から足の爪先まで傷だらけかもしれない。
頬にかかる髪の毛に気づいた桔梗は、そっと頭部に手をやった。髪の一部を目の前に持ってくると渋い顔をする。
髪が数本、ぱらりと床へ落ちた。見回すと、辺りには切れてしまった髪が散らばっていた。
正確には地毛ではなく玄翔から借りた髢だ。背中へと手を伸ばすと、髢は邪魔にならないようにと括った状態でそこにあった。切れたのは顔周りの一部分のみのようだ。
「これはまずい……かな」
思わず漏れた一言に、彼女の心情すべてが表れていた。
首筋を流れ落ちた汗が不快で、桔梗は乱暴に拭った。
見た目からたいした妖力はないと思いこんでいたのは読み誤りだった。『遊びましょう』なんて生易しいものではない。アレはこちらを弄り殺すつもりでいる。子供の獣は己よりも小さい生き物で遊びながら狩りを学ぶというが、それに似ている。獣は遊んでいるつもりでも、鋭い爪や牙で徐々に弱っていった獲物は、やがて死んでしまう。
小さな獣だと侮っていたらこちらがやられてしまう。外見が子供でも、アレはまぎれもない妖のひとつだ。
両頬を音がするほど強く叩く。
全身にひりひりとした痛みがあるが構っていられない。
己を鼓舞して桔梗は立ち上がった。
格子は開け放たれているというのに、中はとても薄暗く感じる。
誰もいない内裏の各部屋を回っていくだけしかできず、桔梗は小さく息をついた。
消えてしまった子供の気配――妖気をすぐに追うことができないまま、内心途方に暮れる。時折、術を行使してみたのだが良い結果は得られなかった。
けほっ、と桔梗は軽い咳をした。
室内が乾燥しているのか喉がかさかさとする。そういえば、内裏に参内してから白湯を少し口にしただけだったと思い出す。
空腹感はないが、喉の違和感が辛い。桔梗はそれを誤魔化すかのように、咳を繰り返したり呼吸法を試してみたりしている。
「……結界の中でもそういうものなのか」
無意識のうちに疑問を口にする。現実とは異なる空間でも、時が過ぎれば腹が減ったり眠くなったりするものなのだろうか。こうして動いていれば、当然といえば当然なのだが、不思議に思ってしまう。
誰かが側にいるのなら、答えもしくは相手の考えを返してもらえるだろう。しかし、残念ながら今はひとりだ。
少し前に覗いた厨には、清らかに見える水がなみなみと湛えられた大きな甕が備えられていた。
せめて、口の中をすすぎたい気持ちがあるのだが、黄泉竈食い《よもつへぐい》という言葉もある。黄泉の国のものを食べると黄泉の国の住人になってしまい二度と現世には帰れなくなる、という謂れだ。
ここが黄泉の国ではないにしろ、不用意に口にするべきではない。
疑問はこの仕事が終わったら玄翔に訊ねることにして、桔梗は行くあてもなく内裏を彷徨っていた。あれっきり、子供の霊は姿を消してしまい、今もどこにいるのかもわからない。もしかしたら気配すらも殺して近くに隠れているのかもしれないし、己だけ結界の外に出ている可能性もある。
――そろそろ攻撃なりなんなり、変化がほしいものだ。
桔梗は顔をしかめた。
『遊びましょう』と言うのなら、こうして放っておかないでほしい。そうすれば、この結界を破ることもできそうなのに。
そんな考えを読み取ったのか、視界に黒い影がちらついた。数歩離れたところにある、下ろされた御簾の影だ。風もないのにゆらゆらと揺れている。
このあたりは、ちょうど内裏の中央にあたる。
内裏の中をもう何周したかも記憶に残っていない。結界に取り残されてから、どのくらいの時が刻まれたかも定かではない。
もしかしたら、自分はすでに死んでいて、そのことに気づいていないだけではないか――そんな気もしてくるのだ。
悪い方へと解釈してしまう思考を吹き飛ばすように、一度頭を横に振る。一瞬、軽い眩暈が襲ってくるが今は倒れられない。少々体調が悪いほうが、気が張りつめる分集中できそうだ。おかしな気分で塞ぎこむよりもはるかに良い。
桔梗は揺れている御簾に視線をやった。覚えのある妖の気が漂っているので、アレはまだこちらと遊ぶ気でいるようだと考えた。
手も触れず、そっと御簾の向こう側を探ってみるが、何かがいる様子はなかった。
慎重に右手を伸ばし、御簾に触れたのとほぼ同時に掴み上げる。――中はがらんとしていて誰もいなかった。
風が吹き抜けるように、溜まっていた妖気が抜けていっただけらしい。
少しだけ落胆して、桔梗は御簾から手を離した。ぱさりと音をたてて下がった御簾は、その反動で揺れた。まるで何事もなかったかのように。先ほどと同じように。
しばらく御簾を見つめていた桔梗は、ふたたび内裏を調査すべく動き出した。
何でもよい。妖自身でも結界の綻びでも。
一見、繋ぎ目の見当たらない綺麗な結界であっても、必ずどこかに始点と終点が存在する。そこさえ見つけられることができれば、この状況を打破できるかもしれない。
桔梗は焦る気持ちを抑えながら、見落としがないかを確認していく。
そうして、何周目かもわからないまま内裏を歩き回り、
「! なに」
背中にざわざわとしたものを感じて肩を揺らす。
下から上へと背中全体を撫でられたような気持ちの悪い感触だった。腕や首に立った鳥肌が不快感をさらに煽る。
思わず口をへの字に歪め、眉間に皺をよせていた桔梗は、突然身を強張らせた。
妖気の塊を感じた。ここからさほど遠くない場所のようだ。
今の嫌な感覚はこれの前触れだったのかもしれない。
桔梗はそう考えて神経を集中する。こちらを誘いこもうとしているのか、妖気を隠す様子はなかった。
わかりやすい罠なのか、アレの言う遊びなのか。
どちらにせよこれを見逃す理由はない。外へ出る、もしくは妖をどうにかできるまたとない機会だ。
妖気は現れたところから移動していないようだった。今いる場所から南へ行ったあたりか。
すると紫宸殿のあたりだろうか、と桔梗は推測した。
紫宸殿は南部にあり、追儺の儀式など主に政を行う内裏の中心となる部屋だ。
いくら現実とは違う空間でも、そのような尊い場所で怪異をおこすとは大胆な、と嘆息する。もっとも、妖に人間の常識を当てはめるのもおかしな話ではあるが。
桔梗は懐を探った。指先に紙の感触が伝わってくる。
「あと数枚……か」
一枚を少しだけ引き出して、ぼそりと呟き顔をしかめる。真っ白なその紙には、真っ黒な墨で文字が書かれていた。
用意していた符はあと僅かになってしまった。参内するときには十分すぎるほど持ちこんだのだが、懐にはその一部しか忍ばせなかった。もう少し持ってくれば良かったと後悔しても、今となっては後の祭りだ。
符を作成するときは、朝一番に清水を汲んできて、それで墨を摩るのが好ましい。手間がかかるだけ効果がある。凄腕の術者ともなれば、祝詞だけでも十分に効果を発揮するが、経験の乏しい術者は符や霊力あらたかな勾玉などといった道具を用いて己の術を補助する。
部屋に残していった分は、次の機会の事前準備とでも思っておくしかない。
僅かに歪めていた表情を綺麗に消して、桔梗はそろりそろりと歩みを進める。一歩進んでは様子をうかがっているため、移動にひどく時間がかかっている。
無表情を心がけたのは、こちらの手札が少ないことを悟られないためだ。加えて、慣れない空間で弱っていると気づかれても具合が悪い。
ここの角を曲がると紫宸殿だ。
先ほどよりも表情を硬くして、桔梗は足を止めた。
柱の向こうに誰か――否、何かがいる気配がある。御簾が下がっているため、ここからではその姿を確認するのは無理だ。桔梗の出方をうかがっているのか、気配が動く様子はない。
角を曲がった途端に、ぱっと消える、というのもありえる。
相手が近所に住む子供や仔猫であれば微笑ましい遊びなのだが、残念なことにこちらを憎く思っている妖だ。
桔梗は懐に手を差しこんで長方形の紙を一枚取り出した。
何が起きてもおかしくはない。油断するな。
戒めの言葉を心に刻みこんで、桔梗は紙を指に挟んだ。
陰陽師の使う呪いの言葉が書かれた紙は、目標を捕らえるなり力を削ぐなり、結界の中でも効力を発揮するはずだ。
そう思いつつも、嫌な予感がちらりとよぎった。
結界を破ることは叶わなかったのだ。妖の本体に術を行使しても意味がないかもしれない。
「……」
桔梗の動きが一瞬止まる。やがて顎をぐっとひいて、紙を挟む指に力をこめた。足の指にも力を入れて、その勢いのまま角を曲がる。
いるのは子供の妖か、それが生み出した何かだろうと思っていた。
そこに立っていたのは桔梗と同じくらいの背丈で、人の形をしていた。
想像と違っていたことと、薄暗さでよく見えなかったためだろう。目の前に現れた人影にひどく驚いて、桔梗は反射的に後ずさった。少し離れたところから顔を確認して、ぽかんと口を開ける。
「影明……?」
桔梗の心臓がどくんと脈打った。
それは、ここにはいるはずのない少年だった。彼は落ち着いた色合いの束帯に冠という出で立ちだ。
桔梗は訝しげに少年を見つめる。
彼がこのような格好をしたことはない。まだ参内できるような立場ではないのだ。普段は玄翔の元へ行くときには暗めの、そして遊びに行くときは少し明るめの狩衣を好んで身に着けており、烏帽子を被っている。
影明は黙ったまま桔梗を見つめている。
「どうしてここに? ……まさか、巻きこまれたのか?」
何か自分に伝えることがあって。もしくは別の用件で。内裏へ近づいたときに妖の結界の中へ一緒に取りこまれてしまったのか。
桔梗の問いかけにも彼は反応しなかった。眉も口も、指一本すらも動かさず、ただそこに立っているだけだ。
「かげ……あき……?」
うまく口が回らず言葉が途切れ途切れになる。先ほどから感じていた喉の渇きのせいなのかもしれない。
ふいに影明が柔らかく微笑んだ。その瞬間、桔梗の表情が硬くなる。
見慣れた彼の笑顔。なのに、ひどく違和感を覚えた。
違う、と桔梗は声に出さずに呟いた。
本当は、先ほど出会ったときに気づいていた。それでも「もしかして」という思いがあった。ひとり異空間に取りこまれた心細さもあって、顔見知りに出会えたことへの安心感が疑問を綺麗に隠してしまった。
一瞬の油断が命取りになる。特に何かと対峙しているときは。
そのことはよくわかっていたはずなのに。
桔梗は視線を外さないまま、じりじりと彼から距離を取ろうとした。
「――――」
しかし相手の方が少しだけ早かった。〝影明〟は口を開き、何かを口ずさんだように見えた。その瞬間、床が大きく揺れる。ばきばきと、続けざまに木が折れるような音が耳に入ってくる。
均衡を保っていられなくなった桔梗は、飛び退くように移動して、それでも衝撃に耐えられずその場に膝をついた。
桔梗はひそかに息を飲んだ。
今しがた立っていたところの床はひどいありさまだった。鍬か斧で力一杯叩いたかのように壊れ、大きな穴が開いている。数歩後ろへ下がっていたことが幸いしたようだ。あのままでいたら、怪我では済まなかっただろう。
背筋が凍るような思いをかみしめて、桔梗は目の前の少年を見やる。
少年は不思議そうな顔――としか表現できない顔をしていた。口を薄く開き、目はこちらを見ているはずなのに、どこに焦点があっているのかわからない。
歓喜も怒気も、彼から感情というものが一切感じられなかった。
そんなことを考えていた桔梗の喉がひゅっと鳴った。視線は前に向けたまま、じりじりと後退する。
〝影明〟は指一本すら動かす気配はなかった。
しかし直感というものは侮れない。術者でもそうでなくても、己が感じたものはおおよそ当たる。特に嫌な予感は。
桔梗は素早く立ち上がり、後ろに大きく飛び退いた。
目の前に白い光が現れたと思った途端に、それまでいた部分の床がへこむ。
「いっ」
着地と同時に桔梗は呻いた。
足の置き方が悪かったのか、軽く捻ったらしい。じんじんと響く足首を庇いつつ体勢を整える。
うっかり倒れこまなかったのは幸いだった。
続けて繰り出される術をようよう避けて、桔梗は壁に背中をつけて止まった。
〝影明〟の攻撃がぴたりとやんだ。離れたところにいる少年は、首を傾げるような仕草をしている。「なぜ術が当たらないのか」とでも思っているのかもしれない。
再度の攻撃をしかけてくる気配がないことに気づいた桔梗の心に少しの余裕ができた。顔は〝影明〟から逸らさずに、目だけを動かして周囲の様子を探る。
辺りは見るも無残なありさまだった。
御簾は掛けられているとかろうじて表現できる程度にしか形を残していない。上部の片側だけが御簾を掛ける金具と繋がっていて、鋭い爪で何度も切り裂いたかのようにぼろぼろだ。床は、大きな穴がいたるところにあいている。すぐ近くの穴の中は漆黒の闇が広がっていて下が見えない。石を落としても何の反応もかえってこなさそうな、底なしの穴だ。
元々の薄暗さと相まって、いかにも妖が出そうな雰囲気が一帯に漂っている。
いつの日だったか、自邸が夜盗に襲われたことを思い出して、桔梗は薄く笑った。いくつかの調度具が壊れ、式神である瑠璃が傷つけられた。腹立たしい出来事であったが、あの程度で済んだのは良かったのかもしれない。
ふいに、空気の流れを感じとった桔梗は、はっと顔を強張らせた。
少年が右手をこちらに向けている。大きく指を広げたそのさまは、猛禽類が獲物に爪を立てようとする姿を思わせた。
咄嗟に口ずさんだ呪文が攻撃を阻む。
金属を叩きあわせたような音が響いた。想像以上の大きな音と反動に、桔梗は思わず目を瞑った。
「――っ」
空気を通して振動してくる術の衝撃が、手にびりびりとくる。次の攻撃に備えようと慌てて目を開けると、先ほど放った防御の術の一部が、勢いを落とすことなく少年へと襲いかかっていた。
ひゅう、と新たな風切り音が鳴った。
視線を向けると、少年が腕を振り払うように大きく動かしていた。右上から左下にかけて、袈裟がけに刀で斬ったように見えた。桔梗の術を己の術で相殺したらしい。
少年は満足したのか、わずかに口角を上げた。けれども瞳には何の色も浮かんでいない。その笑顔を桔梗に向ける。
反射的に左側へと飛び退く。桔梗の勘は外れず、つい今しがた立っていた場所に穴があいた。
舞い上がる砂埃に耐えられず、桔梗はごほごほと咳きこんだ。涙の浮かぶ目で前方を見やると、少年がゆっくりとした歩調でこちらに近づいてきていた。
笑みを湛えている表情にぞっとする。彼が何を考えているのかまったく読み取れない。
桔梗はあれこれと考え巡らすのをやめて一点に集中する。そして、踵を返して走り出す。アレから距離を取るべきと判断したのだった。
背後から大きな音がした。それにあわせてがたがたと揺れる床に足をとられ、立ち止まらざるを得なくなる。振り返ると、それ以上の攻撃はなく、代わりにもうもうと立ちこめる砂埃が桔梗の目や鼻を襲う。
咳きこんでいると、濁った空間に人影が見えた。
距離はだいぶ取れたらしく、今はまだ遠くにいる少年は、やはりゆっくりと近づいてくる。作ったとわかる笑顔を保ったまま。
顔を強張らせた桔梗は空気を求めて軽く喘いだ。見えない手で首を絞められたかのように息苦しく感じた。
短い呼吸を繰り返していたが、やがてのろのろと足を動かした。
〝影明〟も移動してくる気配がする。しかし攻撃してくる様子はなかった。ただ、同じ速度で近づいてくるのは、後ろを見なくてもわかった。
「……にげなきゃ」
呟いて、桔梗は柱に手をついた。疲労のせいか、何かを支えにしなければ倒れそうだった。
こちらが鬼の『鬼ごっこ』かと思っていたら、追われる側だったとは。
考えながらも桔梗は歩みを止めない。
幸いなことなのか妖の戦略なのか、アレとは一定の距離が保たれている。それは一時的なものなのかもしれないが、現状では見当もつかない。
呼吸の感覚がさらに短くなっていくのを感じた桔梗は焦った。
どうして自分は逃げ回ってるのか。
アレをどうにかすれば解決の糸口が見つかるのではないか。
――アレは何なのか。
早くどうにかしなければまずいと頭で理解しているのに心が拒否してしまう。別の存在とわかっているのに、なかなか行動に移せないのは、外見が彼と瓜ふたつなせいだ。
桔梗は決断できないでいる己を責めるように拳を握った。手のひらに食いこんだ爪がちくりとする。
そのとき。
肌が粟立つのを感じて桔梗は足を止めた。弾かれるように振り向いて、懐から取り出した符を相手へと投げつける。その勢いのまま身体を傾けたが少し遅く、頬から血が流れた。
ほぼ同時に、さくり、と。
軽い音がしたかと思うと、床に何かが落ちた。それは瞬く間に土塊へと変化して、ほどなく風に攫われたかのように消え去った。
不思議そうな顔でそれを見ていたのは〝影明〟だった。左肩から下が袖ごとなくなった状態で、その場に佇んでいる。痛みは存在しないらしく眉を歪ませることもない。
「ききょう」
小さな声だった。ここが結界の中でなかったら、生活音にかき消されてしまうほどの、かすかな声。
桔梗が息を飲む。少年を視界に入れたくなくて目を硬く瞑る。それでも脳裏に焼きついた彼の姿は消えることがなかった。
「……その名を呼ぶな……」
呻くような低い声が桔梗から洩れた。
「彼と同じ顔で同じ声で……」
――彼のふりをするな。
薄く開けられた桔梗の瞳はどこか虚ろだ。その色素の薄い瞳が赤みを帯びたことに本人も気づいていない。
ふわり、と桔梗の衣が浮き上がった。
彼女の周りを風が巡っている。床から天井へ向けて、渦巻いているそれは、桔梗を中心とした竜巻を思わせる。辺りの調度品が風に煽られてがたがたと音をたてた。
桔梗の唇が言葉を紡ぐ。
そっと吐き出された言葉はすぐさま形を成した。鎌のように湾曲した白刃は、桔梗の身体をゆるりと一周したのち、速度をあげながら〝影明〟へと襲いかかった。
一撃目は右腕を落とした。勢いを落とさないままの二撃目は、回転をしながら両膝を後方から切りつけた。
立っていられなくなった〝影明〟は床に膝をついた。よく見れば、彼の膝から下はすでに土に変わっており、半分以上は跡形もなく消えている。
三撃目は膝を貫通後に弧を描きながら〝影明〟のところへと戻っていった。彼の腹を切り裂き、役目を終えた白刃は霧散した。
「わたし、は……なにを……?」
はっと我に返り、桔梗は前方を見やる。
〝影明〟が何かを言おうと口を開いた気がした。
しかし言葉を発することもなく、彼の肌は見る見るうちに乾燥しひび割れていき――やがて土塊と化した。
もう、人の形すらもしていない。ただの土の山となった。




