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やどかり  作者: くつした
6/7

安尾とキョウコ 4

 アパートに着くなり、よっと、と声をあげてキョウコが後輪から降りた。安尾が自転車を止めるや否や、DVDの入った袋をかっさらって扉へ駆けてゆく。鍵はかけたはずだったが、その勢いたるや問答無用で扉を壊してでも部屋に侵入しかねない。幽霊だから扉をすり抜けるのだろうかと安尾が見ていると、ほいっという掛け声とともにぴょんと軽やかに飛ぶ。やや前かがみになりながら、それでもドアのすぐ手前でキョウコは両手を広げて飛行機のように着地をする。着陸成功。尻が、まるでこちら側に突き出されたかのような姿勢だったため、ジーンズ越しにその形をまじまじと見た安尾は思わず、うーむと人類初の発見を見出した科学者のように唸ってみせた。史上比類なき素晴らしいフライトであった。

 アパート横の自転車を駐輪場へ置いているあいだにも、はーやーくーと急かされる。はいはいと面倒くさそうに応えるも、安尾の顔はついにやけてしまっている。それに気がつき、自転車のスタンドをおろしながらふいと顔を伏せる。

 だってこれは、にやけてしまうのも仕方ないでしょう?

 誰にともなく心の中で弁解する。駐輪場は玄関からすすんだ先を曲がったところにあったため、玄関のドア前にいるであろうキョウコのことを安尾は見ることが出来ない。が、見えない場所から、はーやーくーと急かされるのである。これは、なんとも言えない素敵な気分になれた。

 大真面目な顔で教科書の西郷隆盛に落書きをする中学生のような心持ちで、誰にもそうと見られないよう顔を無表情にするよう努める。いやこれがなかなかに難しい。下唇と、頬の筋肉が千切れてしまうのではないかと思う。だらりとにやけようとする顔の力とは、こんなにも力強いものだったのであろうか。

 にやける顔を我慢するため、とりつくろった無表情。安尾本人は必至だったが他者から見れば生産性のないただの独り相撲。大柄の横綱であるにやけ乃関と、無表情花はがっぷり四つに組んでいる。今にも無表情花が寄り切りで押し切られそうな状態である。

「なににやけてんだ」

 すぐ傍で、声がした。

 驚いて横を見ると、強面で大柄な男が立っている。つい先ほどまで傍には誰もいなかったため

「うわあっ」

 やたら大きな声を出して驚いた。

 男はゆうに一八〇はあるだろう。見上げる程の大男だった。焦げ茶のサングラスをかけている。ダークグレーのシャツの袖から覗く腕は、丸太のようにたくましい。

「なににやけてんだ? あ?」

 大男はもう一度、すごみを利かせながら言う。頬に傷があったり小指がなかったりすれば、完全にそちらの世界の人間だと安尾は思ったことだろう。しかし幸か不幸か、あるべきものはそこにちゃんとあり、ないものはなかった。

 いつのまにかに横綱は逃げ去り、無表情花は背中をどんと押されて舞台から消え去っていた。サーッと漫画の擬音が聞こえた気がする。いわゆる血の気が失せるとはこのことであろう。土俵に現れたのは青い顔である。

 安尾は冷静に相手の出方を窺っていると――思わず何も言えずに固まってしまっていると、男はサングラスの上の眉をキュッとひそめた。つッと舌打ちが聞こえ、安尾は飛びあがる思いをした。

「ねえ、まだー?」

 キョウコの声が聞こえ、安尾はそちらに顔を向けた。大男への恐怖より、キョウコへの恋心のほうが、天秤にかければ重いと決めたようである。

「調子のってんじゃねえぞ」

 その言葉に、天秤の重みはアッサリ逆転した。恐怖側の皿がガクンと音を立てて降下した。簡単なものである。

 サッと男に振り返る。

「え?」

 大男はいなかった。列をなして横断歩道を渡る園児のように、右を左をまた右をと顔を向けるがどこにもいない。

 ほんの束の間のことであったのに、大男はすんと消えてしまったのだろうか。

 まあ、百害あって一利もないような男だったなと安尾は思い、キョウコのもとへ、軽やかな足取りで急いだ。途中、心の内が他者に聞かれているのではないかというよくある強迫観念的被害妄想にやられ、サッと背後を振り返った。が、やはり男はいなかった。

 ホッと胸を撫で下ろし、キョウコの元へ赴く。


 撫で下ろしたはずの手を頬に当て、ムンクの叫びの絵のあの人物の物真似をすることになったのは、それから二時間も経たないうちであった。

 キョウコと共に部屋に帰った安尾は、コーヒーを二人分淹れた。砂糖とミルクの量を聞き、マグカップをキョウコに渡した。翌日の朝も二人薄着のまま安尾が淹れたコーヒーを布団の上で一緒に飲み、マグカップに口をつけたキョウコがわたしの好きな砂糖とミルクの量を覚えていてくれたのねと感動する。

 コーヒーを二人分淹れた、というところから安尾のこれからの行動計画及び単なる妄想であったのだが、いざ実行、コーヒーを淹れようではないかというところで、キョウコに呼ばれた。DVDを早く見たいとせかすのだ。プレステ2の蓋を開け、適当なDVDをセットして電源を入れた。ゲーム機でDVDなんて見れるんだねえとキョウコは感心する。

 映画のタイトルがテレビの画面に現れる。安尾の頭には、これからやってくるであろうめくりめく世界、いわゆるキョウコと映画を見ることにより育まれる多くの感情らが織りなす映画的妄想のタイトルが現れている。それが実現するためにはコーヒーがどうしても必要なキーアイテムであるような気がしてきた。甘い恋愛映画とコーヒー。そう、砂糖とミルクは不要である。淹れたばかりの、熱く苦いコーヒーこそ恋愛映画への類稀なる最高のスパイスなのだ。

 安尾は戸棚をがさごそとやってコーヒーを探したが、生憎、黒や、こげ茶色の粉のようなものは見つからなかった。豆からひいたことなど生まれてこのかた一度もないので、そんな上品なものもあるはずもない。冷蔵庫を開けると、缶コーヒーの六缶セットのものがあったのでそれを取り出した。

 安尾は畳んだ布団の上で胡坐をかき、キョウコは窓にもたれるようにして体育座りをしている。二人とも、時折りカップに口をつけるくらいであとはじっとテレビを眺めていた。

 映画がクライマックスを迎え始めていた頃である。折りしも、安尾の頭の中では、夕焼けを背に、安尾と男が拳と拳で語り合っていた。相手は恋敵であり、何故か駐輪場で出くわした大男であった。丸太のような太い腕で殴られた安尾は3メートル後方に吹き飛んだが、カイワレ大根のような腕で安尾は反撃し、大男を5メートルも吹き飛ばす。玄関のベルがピンポンと鳴った。

 よっこらせと口にして布団から立ち上がり、玄関の戸を開ける。

 大男が立っていた。

 駐輪場で出くわし、妄想の中で殴り飛ばしたばかりのあの大男である。

 あんぐりと口をだらしなく開ける安尾を、男はギロリと睨んだ。その一瞥に明確な殺意のようなものを安尾は感じたが、その考えを否定するかのように首をぶるんと振るう。

「ど」

 どなたでしょうか? と安尾は言おうと口を開く。が、それは遮られた。

「どうもーキョウコさん! お久しぶりですッ!」

 目のまえの男の顔がくしゃくしゃと崩れ、あふれんばかりの笑顔になった。安尾は初めて見る像の尻の大きさに驚く子どものように、さらにあんぐりと口を開ける。なにしろ、「あの人は今しがた刑務所から出たところでしてね、なに、ヒトを二人ほど、ね、チョットね」と噂されていても不思議ではない大男が、戦隊ものヒーローのロボットを与えられた男の子のようにニッコリと破顔しているのである。そうそれはまさに文字のごとく破顔であった。新聞紙を丸めてクシャクシャにするだけでは飽き足らず破いて引き裂いてグチョグチョにしたようなものである。

 男は口の両端を不器用に吊り上げながら、安尾のことなどいないかのように部屋へずい、と足を入れる。

「え、ちょっと」

 安尾がうろたえる。

 どうすることもできない安尾の身体を、大男はどかそうともせず、水や空気でも押しのけるかのように、自分の身体でもって押しのける。

 ここ二度目の無断侵入。一度目は望ましい人物の侵入であり、二度目は望まざる人物の侵入である。

 何事も良いことがあれば悪いことが起き、すぐに平坦になってしまうんだなあと安尾はぼんやりと考える。頭のなかはとうに現実逃避の準備をはじめていた。










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