椿とX 2
Xが自我を意識し始めたのはいつの頃からだったか。椿が産まれた頃からだったかもしれないし、椿が物心ついた頃からだったかもしれない。
いつだってXは椿と共に生きてきた。しかし椿が幼い頃のことをあまり覚えていないのと同じように、Xも昔のことを思い出すことができない。ただ、Xが椿と共に生きてきたのはそうと望んだためではない。望むとも望まないとも関わらず、椿と共に歩むべき存在としてこの世に発生したのである。たぶん。
Xは椿のことを知りつくしている。本人よりも知っていると言っても良い。いわば、生ける椿の情報の城である。しかしマニアではない。Xは、なにも好んで椿なんぞの情報を得ようとしているわけではない。そんな情報を得たところでなんにもなりはしない。知りたくもないのに知ってしまうのであるし、見ようとしているわけでもないのに見えてしまうし、聞こうとしているわけでもないのに聞こえてしまう。目や耳を背けてもXにしみ込んでくるというわけだ。
Xは己の自我を、この世の存在としては確固たる不動のものとして認めていた。が、己の存在には疑問を持っている。
いったい俺/私/ぼく/あたしはなんなのだろうか。何網何目何科なのだろうか。それはXが考えるべき第一の重要なテーマであった。第二のテーマは椿の人生についてであるが、重要ではないので割合させていただく。さらに言わせてもらえば第三以下のテーマは存在しない。椿の人生というテーマが第二の地位に鎮座できたのは消去法のためである。自分の存在>椿の人生。それだけ。ほかになし。
そもそもXは生まれてこの方、同族と出会った試しがない。あるいは、どこかで出逢っていたのかもしれないが気づくことができなかった。もしもXに同族がいたとしても、どうして気づくことができただろう。眼鏡に人体スキャン機能でも付加されていれば、もしかしたら気づくこともできたかもしれない。
なぜXが椿などという取るに足らない残念人間と共に生きてきたのか。それはXが椿の中にいるからである。Xは椿の身体の中で生活をしている。椿の身体が住まいというわけである。ただし、引っ越しは不可能だ。試したことはないが、試そうという気にはなれない。ヤドカリのごとく、椿という殻を捨てて新しい家を手に入れることができればどんなに素敵なことだろうか。
幾度も考えてきた自分という存在。
答えは未だ、出てこない。