安尾とキョウコ 3
女はキョウコと名乗った。自称幽霊。自称というのは、幽霊なのだということを立証できるかどうかわからないからだそうだ。そもそもキョウコ自身でさえ、自分が幽霊なのかどうかわかっていない。
自称だけでなく、他称も幽霊なんじゃないか、と安尾は思う。
それと、キョウコの姿が見えたというのは安尾で二人目だそうだ。
「とは言っても、もしかしたら他にも見えている人がいるのかもしれないけどね。ほら、あたしってばあんまり幽霊っぽくないじゃん? だから例えば街中であたしを見ても『おやっ?』って一瞬だけ気にするくらいで、なんとも思わないのが普通だと思うんだ。街中で合うだけじゃ、通りすがりの通行人ってだけ。通りすがりの通行霊をさァ『あっ、幽霊じゃーん、めっずらしーい』だなんて気が付ける人はそうそういないでしょう?」
でしょう? だなんて言われても、そんな人にお目にかかったことなど一度もない。それでも安尾はうんうんとうなずいてみせた。
「だから特定の条件じゃないと幽霊かどうかなんて判断できないと思うんだ。たとえばほら、この部屋に住んでみて、そこで初めてあたしを見えているんだと確認するみたいに」
うんうん。
「いやあ、それでもさ、あたしが見える人にまた会えるなんて思わなかったよ。この部屋に越してくる人が鈍感なのか、あたしが見えにくい部類の幽霊なのか、そんなの知らないけど、あたしのことが見えない奴ばっかり住むんだもん」
つまんないよねー、と言う。
見える部類の幽霊、見えにくい部類の幽霊。そんなものいるのだろうか。見える部類の幽霊にはあまり出くわしたくないものである。
安尾はぼんやりとしていたが、キョウコはやたらと喋った。お喋りな幽霊。そんなものもいるんだなあ。幽霊が喋る幽霊と言えば、「こんな顔ォ?」とおどろおどろしい声で問い詰める、真っ白な顔ののっぺらぼうが思い浮かぶ。口もなにも、発声のための器官が見当たらないのにどうやって喋っているのだろうか。人体の不思議である。そう言えば、「あたしキレイ?」の口裂け女は漫画だと美人さんが多い気がするなあ……などと楽観的に考えられるのも、初めて見た幽霊がキョウコであるせいだろうか。二人目には出会いたくないものである。
キョウコは身ぶり手ぶりで大袈裟に話す。自分自身の動きを、間違いがないか確認でもしているかのようにじっと見つめながら話すものだから、安尾の表情など見ちゃいない。安尾は、一生懸命になって話すキョウコを微笑ましい想いで見ている。微笑ましい想いというよりも、鼻の下をゴムのように伸ばしてはいる。今にも伸びきってはち切れそうである。
「他にあたしが見えるのってアイツくらいだからなあ」
アイツ? 伸ばしていた鼻の下を戻して、安尾は思った。アイツって誰だ? さっき言っていた、キョウコが見えるという一人目だろうか? 気になって仕方がない。
アイツという奴について質問しようかどうか迷っていると、
「ねえ、お願いがあるんだけど」と、両手を「なむなむ!」の形にし、頭を下げたキョウコが言った。「……いいかなあ?」
いいに決まっていた。いや、なんのお願いだかまだわからないけれど。
道路と歩道のカゴに入ったDVDが、音をたてて揺れている。
やっぱり暑い。夕方になってはいたが、傾いた陽射しは容赦なく安尾の露出したうなじを照りつけていた。前髪の毛先から汗が粒となって鼻先に落ちる。安尾は思わず瞬きした。
二つの車輪で道路と歩道を跨ぐ。ドーム上の凹凸に前輪がガタンと持ちあがる。そのショックでカゴの中のDVDが跳ねた。安尾はサドルに座りなおし、片手で重なっている十六枚ものDVDを上から抑えつけた。一番上のDVDのタイトルをちらと見る。『猟奇的な彼女』。残りのDVDも恋愛ものである。
思い出すだけで背中がむずかゆくなった。
『恋愛コーナー』に佇む二十一歳の男。空いたもう片方の手にはバスケット。そのバスケットには一〇枚ものDVD。すべて恋愛ものである。安尾は一〇枚を探すために三〇分もそのコーナーをうろうろしていた。
訂正。『恋愛コーナー』に三十分も佇む二十一歳の男、片手には十枚もの恋愛もののDVD。隣に彼女でもいれば周りから羨望の目あるいは納得の目を向けられることだろう。ああ、彼女と一緒に恋愛映画を観るのか、でも恋愛映画一〇本も観られるものなのか、よっぽど観たかったんだろうなあ彼女。しかし他人の目から見れば――うわァあの男の人ずっとあのコーナーにいるよ、いや男の人が恋愛もの観るのっていうことに対して偏見はないけどさ、いやいやいや! むしろいいことだと思うよ、うん、でもさァあんな量を観ることないんじゃないかな、しかもあそこまで一生懸命選ぶなんてどうなんだろ。
さらなる訂正。『恋愛コーナー』に三十分も佇む二十一歳の男と年齢不詳の女、男の片手には十枚の恋愛もののDVD。隣にいるのは彼女ではないうえに人間でもない、たぶん。コーナーの棚を辿っていったところの曲がり角に鏡があるが、そこには男しか映っていない。つまりそういうことである。ともあれ、自分自身が観たいわけでもないのに、まるでそうであるかのように周りから見られていることだろう。実際、恋愛映画は嫌いではないが、こうしてレンタルCDショップで借りるほど好きでもない。
「あーコレ見たかったんだよねー」
キョウコはそう言ってDVDのケースを指で棚からちょいと引く。安尾は何気なく鏡を見て、キョウコが映っていないことについてぼんやりと考えようとしていた。その鏡の中で、棚に並ぶDVDのケースが独りでに傾く。安尾は慌ててそのケースを奪い取った。
「ゴメンゴメン」
んははとキョウコは笑う。
安尾はちらとキョウコを目で見、なにも言わずに奪い取ったケースをバスケットに入れた。
誰もいないところで独り言を呟く、怪しげな青年などとは思われたくない。だから安尾は、岩のくぼみに隠れたカニのようにむっつりと黙りこくっていた。本当は話したい。話したいが、世間体という巨躯の壁が立ちはだかっている。そいつは羞恥心という名前の警備員を雇っているのでなかなか壊すことができない。キョウコと話したい衝動に何度も駆られるが、我慢するしかなかった。むっつりむっつり決め込むしかないのである。だのにキョウコは語りかけてくる。こちらの無反応にはまるでおかまいなしである。むしろ、無反応という反応を楽しんでいるのではないかという疑念さえ、安尾の頭をよぎる始末だった。振り回されすぎている。なんてこったい。
自転車のうえで跳ねたのは、なにもDVDだけではない。安尾の尻と、後ろに乗ったキョウコである。キョウコは安尾の肩に手をついて、後輪の中心にある二つのでっぱりに足をかけて立つようにして乗っていた。安尾がDVDを抑えるために籠に手を伸ばしたせいで、バランスが崩れて倒れそうになる。
パカンと頭をすっ叩かれながらも、安尾はへらへらしていた。後ろに乗ると言いだしたときは、小さいながらもちゃんと自己を主張している二つの丘が背中にむにりと当たるのではないかと期待していのに、いざ乗ってみれば密着したのは肩に体重をかけるキョウコの手だけであった。残念無念という気分にはなったものの、それがなんであれ、触れているだけで嬉しかった。着眼大局。広い目をもってすれば、細かいことも大事であった。つまり、胸が当たればそりゃあ嬉しいに決まっているが手だって重みを感じられるので十二分に嬉しいものである。そういうことにしておく。