安尾とキョウコ 2
安尾が彼女とふたたび出会ったのは、椿から扇風機を譲り受けた翌日のことだった。昼前のことである。窓から射す陽射しが安尾のまぶたを強く刺激してはいたが、彼が目を覚ます様子はなかった。徹夜明けで床に就いたばかりであった。
彼を叩き起こしたのは激しく叩かれるドアの音であった。叩かれるのがドアではなく安尾であったのならば、それこそ文字通り叩き起こされたと言えるであったろう。だんだんッ、だんッと強く大きな音に、安尾は目を覚ました。その音には焦燥の色が含まれていた。その音を聞いた者は、なにか尋常ならざることが起こったのではないかと、そう思わずにいられない。
飛び起きて玄関のドアを開けよう、布団の中でそう思った。しかし床についたばかりだったため、あまりに眠く、立ち上がるのが億劫であった。布団の中でいやいやと駄々をこねるようにもぞもぞうごうごする。
だんだんッと再びドアが叩かれる。
ドアをたたく輩には、人の安眠を妨げる権利があるのだというのか。もう昼を迎えているというのに安尾はそう思う。外の輩はドアを叩くことを辞めようとしない。しつこい。まるでドアを叩くことに使命感を覚えた犬のようである。ハッハッハと息を荒げながらドアを叩き続けるのである。気味が悪い。億劫だが、ドアを開けて犬を追っ払うことにしよう、安尾はそう決めた。
が、どうやら起き上がる必要はなかったようだった。
ガチャ、という硬質な音がし、ドアの開く音が続く。
びっくりして飛び起きる。部屋主に断りなくドアを勝手に開けられたのだ。近頃の人間は勝手な行動が多すぎる。勝手に部屋に上がりこむ幽霊だとか勝手にドアを開ける犬だとか。
ドアのほうを見た。思わず、うなってしまう。同時に、ドアが開いた理由を理解した。
女がいた。それも、ドアからこちら側――部屋のなかにだ。
強風に煽られた綿毛のように、眠気が一気に吹き飛んだ。
女は、あの女だった。あの幽霊だ。いやいや幽霊だと決まったわけではないが。
なんだなんだなんだなんだ?
安尾の頭の中は「なんだ?」でいっぱいになった。安尾のポンコツ脳メモリでは目のまえの現状を処理しきれない。バグが発生している。いや、エラーだ。エラーである。ピーピーピー。大変である。目のまえで不可思議なことが起こっているためエラーが発生し、信じられないものを見ているつもりになっているのだ。
「ああ、ありがと。それじゃあね」
と女は言った。
安尾からは見えないが、ドアの向こうに誰かがいるようであり、女はその誰かに話しかけたようだった。
喋った。
安尾は驚いた。己の脳が生み出したエラーあるいは幽霊が喋ったのである。いや妄想の住人が喋ってはいけない、幽霊が喋ってはいけないという道理はないが、なんというか、「ああ」「ありがと」「それじゃあね」という少ない言葉がなんとも日常的であり安尾をいくばくか落ち着かせた。あまりに人間味を帯び過ぎていた。
女が部屋のドアを閉める。その動作でさえも、安尾の城を、やはりというかなんというべきか、我が物顔に見えて仕方がない。
安尾はどうしていいかわからずにぼんやりとしていた。女は昨日と同じく、身体の線がよく出るピンクのTシャツを着て、身体つきに似合うデニムのズボンをはいている。女の姿は現実的だったし、先ほどの日常的な言葉のせいで恐怖はあまりなかった。
安尾が何もせずにじっと女の様子を見ていると、ついに女が視線に気づいたようだった。女は束の間、不思議そうな顔を見せるも、ややあって肩越しに背後を振りかえった。まるで安尾がじっと見ているものは背後にあるとでも思っているかのように。不思議なものは女自身だというのに、犯人を背後に探している。眼鏡を額にかけたままメガネメガネと呟きながら地面を手探りしているようなものだった。見当違いもいいところである。
探すことを諦めたのか、女は安尾を振りかえったが、特になにも言わずに窓のほうへと歩いて行く。窓を背もたれにして座り込み、安尾をじっと見る。安尾も女をじっと見たままであったため、見つめあう形になった。それだけで安尾の胸はぎゅんぎゅん躍り出した。倒れてしまうのではないかと思うほど、動悸がする。どくどくと血流が激しく流れるのを感じる。うおおおおおと少年漫画風に擬人化された血流を、ついイメージする。とてもオトコ臭い。
「な」と安尾は口を開く。無言で見つめあっていることに耐えきれなくなったのだった。「なんでしょうか」
しばらくのあいだ女はなにも応えなかった。が、やがて「あれ?」と言って首を捻った。
「もしかして今、わたしに言ったの?」
もしかしなくともそのつもりであった。
安尾はなにか言おうと口を開いたが、言葉が思い浮かばなかったため、口を開けたまま頷いた。舌を出したままでついそのことを忘れてしまった猫のような、非常に間の抜けた姿であったが、あまりに驚いてしまったために二人とも気がつかない。
「っていうかわたしのこと見えてるの?」
見えているもなにも、見つめあったではないか。
「えっと」と安尾はようやく言葉を思いついた。「幽霊さんですか?」
その言葉に、女はぷっと吹き出す。
「幽霊さんですか? はい、幽霊さんですー」
うひひと口角をあげて明るく笑う女。
気持ちよさそうに笑うんだなあ。
安尾は女の笑顔を見てそう思った。胸の奥が、ココアでも注いだかのようにぽかぽかと暖かくなる。
「幽霊さんですか? うひひひー、ツボだわこれー」
現実離れという言葉があるが、ついに腹を抱えて笑いだした女の姿はその言葉の真逆である。現実じみている。まるで幽霊には見えず、普通の笑う女に見える。
奇奇怪怪な容姿で現れたり、静かにじっと見つめてきたり……安尾のなかの、おどろおどろしく人を恐怖に追いやる幽霊像がガラガラと崩れ落ちた。代わりに建てられた幽霊像はといえば、抱腹絶倒を文字通り体現したような女の幽霊だ。像の足元にはこう書かれている。『怖いの卒業! 来たれ、新時代の幽霊!』忠犬ハチ公よりもメジャーな待ち合わせ場所になりそうだ。すくなくとも安尾はそこで用がなくとも待つだろう。
なんにせよ、笑う女はとても素敵だった。素敵という言葉では表せないほどステキだった。
女の口から覗く白い歯。楽しそうに揺れる肩。涙でも出てくるのではないかと疑うほどギュッと瞑られた目じり。
うわあ。やっべ、かわいい!
安尾は息苦しささえ感じながらも、そう思った。なにをしたわけでもないのに頬がほんのりと赤みを帯びる。
「ごめんごめん」安尾の頬を羞恥と勘違いしたのか、女は腹を押さえながら手の平を振るった。「あんまりにも面白いこと言うからさ」
「そりゃ光栄です」
安尾は態度を決めかねて、ついつい硬くなってしまう。
その態度を、揶揄されて腐ったのかと勝手に思い込んだのか、
「ごめんってば。この通り!」
両手をすり合わせながら拝むようなポーズをとる。
幽霊が拝んでいる。
楽しそうな女を、もっと楽しくしてやりたくて、安尾はつい口を開けた。
「なむさん!」
安尾の声に、女は両手を離してぽかんとした。
はずした。
女をさらに笑わすどころか、あたたかく和んだ空気に冷たいトゲを差してしまったと思った。藪蛇だった。
が、直後、女は己の両手を見つめ、ついで安尾を見つめ、納得がいったというような表情を作り、パン! と手の平を合わせた。
「なむさん!」
真剣な顔で女が言う。
数秒後には、なっはっはっは、と女の笑い声が部屋のなかを反響した。
安尾はといえば、女と見つめあってしまったことでドキマギしていたため、女に合わせて無理にでも笑うしできなかった。