38歳の義姉、今日も5歳児のフリをして「わざとじゃないも〜ん」と爆弾発言
1.出願締切日に戻った
目を開けると、パソコンの画面には東央県立大学人文学部、総合型選抜のWeb出願ページが表示されていた。右上に記された日付を見たまま、私はしばらく動けなかった。今日は、出願締切日だった。
前の人生でも、個人情報や志望理由、活動実績の入力までは終えていた。あとは最終確認をして送信するだけだったのに、義姉の莉央さんが「パズルゲームをしたい」とパソコンを借りたがり、私が席を外した隙に入力内容をすべて消してしまった。そのうえ大学から届いていた確認メールまでゴミ箱に移され、出願が受理されていないと気づいた頃には締切を過ぎていた。
私は進学を諦めきれず、もう一年受験勉強を続けたいと頼んだ。けれど兄の修司は、女の子一人のために予備校代や受験料を払い続けるのは無駄だと言い切った。
「そんなに勉強して何になるんだ。さっさと働いて、家に金を入れろ」
莉央さんはお気に入りのウサギのぬいぐるみを抱き、兄の背中に隠れた。
「莉央、わざとやったんじゃないもん。難しい字ばっかりで、分かるわけないよ」
買い物もできる。SNSに写真を投稿し、ネットバンキングだって使える。何か問題を起こしたときだけ、義姉は何も分からない子どもになるのだ。
その後、私は母名義の家から兄一家に追い出された。高校の就職活動の時期を逃し、学校推薦も受けられなかった私は、派遣会社を通して物流倉庫の夜勤スタッフとして働くしかなかった。十八歳になったばかりのある夜、仕事帰りに河川敷で酔った男たちに襲われ、翌朝を迎えることはできなかった。
そして今、私は出願締切日に戻ってきた。
震えそうになる手を押さえ、個人情報、志望理由、選抜区分、面接資料を一つずつ確認する。この年度は調査書も高校からオンラインで提出されるため、受験生が郵送する書類はない。自分のスマートフォンで本人確認と入学検定料の支払いを済ませ、受付番号、完了メール、決済記録をクラウドと外付けSSDの両方に保存した。
最後に家のパソコンからすべてのアカウントをログアウトし、パスワードを変更して二段階認証を設定した。画面に『出願手続が完了しました』と表示された瞬間、私はようやく生きているのだと実感した。
廊下から軽い足音が近づいてくる。莉央さんはノックもせず、いきなりドアノブを回した。
「美琴ちゃん、パソコン貸して」
私はパソコンを閉じ、机の下の鍵付き引き出しにしまった。
「駄目です」
いつものように言うことを聞かない私が不思議なのか、莉央さんは首をかしげた。
「ちょっとだけだよ。修司くんも、家の物はみんなで使うものだって言ってたもん」
「これは私がアルバイト代で買った物です」
「ちゃんと気をつけるから」
「前にジュースをこぼして、キーボードを壊しかけましたよね」
義姉の口元が下がり、たちまち目が潤んでいく。
「美琴ちゃん、莉央のこと嫌いになったの?」
私は答えなかった。しばらく待っても慰めてもらえないと分かると、義姉はぬいぐるみを抱いて部屋を出ていった。それから二分もしないうちに、居間から兄の足音が聞こえてきた。
2.五歳児を名乗る義姉
部屋を出ると、兄は食卓で莉央さんに夕食を食べさせていた。三十八歳の義姉は、キャラクター柄の子ども用プレートを使い、飲み物はストロー付きのマグで飲む。少しでも硬い食べ物は細かく切らせ、機嫌が悪い日は兄に一口ずつ食べさせてもらっていた。
義姉は口を開け、スプーンが運ばれてくるのを待つ。
「あーん」
兄は楽しそうに食べさせ、ティッシュで口元まで拭いた。
「ゆっくり食べろ。誰も取らないから」
私は二人の向かい側に座った。
「五歳の子でも、自分で食事くらいできますよ」
兄の手が止まった。
「莉央は子どもの頃、誰にも大切にされなかったんだ。俺の前で甘えられるのは、それだけ俺を信じているってことだろ」
「もうすぐ四十歳です」
「だから何だ?」
莉央さんは兄の腕にしがみつき、肩に頬を寄せた。
「修司くん、美琴ちゃんにあんな言い方されたくない」
兄の顔がたちまち険しくなる。
「莉央は人を疑うことを知らないんだ。少しくらい譲ってやれないのか?」
この言葉を、私は十年以上聞かされてきた。
兄は私より二十二歳年上で、息子の悠真は私より三歳下にすぎない。父が亡くなったあと、遺産分割協議によって郊外の古い一戸建ては母の単独名義になった。結婚したばかりの兄は家族向けの賃貸を借りる余裕がないと言い、莉央さんを連れて一時的に住み始めたが、悠真が生まれても一家が出ていくことはなかった。
料理も掃除も育児も、ほとんど母が担った。ところが莉央さんは、それを当然のように受け取り、少しでも注意されれば兄の後ろに隠れて被害者のような顔をした。悠真が幼い頃、医師から刺激の強い菓子を控えるよう言われていたのに、義姉は隠れてポテトチップスを食べさせ、夜中に呼吸が苦しくなった悠真は救急外来へ運ばれた。
病院へ駆けつけた兄が最初にしたのは、妻をかばうことだった。
「莉央だって初めて母親になったんだ。間違えることくらいあるだろ。悠真はもう大丈夫なんだから、それでいいじゃないか」
数年後、その出来事は「祖母が厳しすぎて、孫にお菓子一つ食べさせなかった」という話にすり替えられた。悠真もまた、ばあちゃんと私がずっと母親をいじめてきたのだと思い込んでいた。
食卓で寄り添う三人を眺めながら、私はもう何も言わなかった。前の人生では、莉央さんが問題を起こすたびに悠真まで巻き込まれるのが怖くて、何度も後始末をしてきた。けれど家族全員で甘やかして育てた問題なら、今度こそ自分たちで引き受けるべきだった。
3.親族LINEの合格祝い
翌日、私はもう一度出願サイトにログインし、受付状況が『受理済み』になっていることを確認した。東央県立大学を選んだのは、人文学部のカリキュラムに魅力を感じたからだけではない。隣県にある大学までは自宅から電車で二時間以上かかるため、合格すれば家を出る理由ができる。
午後になると、親戚から次々に電話がかかってきた。
「美琴、大学に受かったんだって?」
「合格祝いはいつやるの? うちの子も連れていくから、ついでに勉強を見てやってよ」
「大学生になっても、親戚を忘れちゃ駄目よ」
三本目の電話を切り、居間へ向かった。莉央さんはソファに寝転び、親族のLINEグループへ送る写真を選んでいた。私はまだ面接すら受けていないのに、義姉は東央県立大学への合格を発表し、親戚の子どもたちの勉強まで私が見ると勝手に約束していた。
「結果も出ていないのに、どうして合格したなんて書いたんですか?」
義姉はスマートフォンを置き、傷ついたように眉を下げた。
「親戚なんだからいいでしょ。みんなにも美琴ちゃんのこと、喜んでもらいたかっただけだよ」
「まだ面接も受けていません」
「ずっと頑張ってたんだから、落ちるわけないよ」
「これからは私のことを勝手に公表しないでください。進学先も成績も住所も、莉央さんには関係ありません」
廊下の奥から現れた兄が、いきなり私の頬を打った。ちょうど台所から出てきた母は、手にしていた盆を落としかけた。
「修司!」
兄は私を指さした。
「義姉に向かって何て口を利くんだ。莉央が心配してやったことの、何が悪い?」
十五歳の悠真も自室から出てきた。私とは三歳しか違わず、最初から叔母として敬う気などない。
「母さんが親戚に教えてやったのに、何で責めるんだよ」
莉央さんは兄の背後に隠れた。三人から敵意のこもった視線を向けられ、私は熱を持った頬に触れて笑った。
「ごめんなさい。私の勘違いでした」
兄が目を見開く。私は莉央さんへ向き直った。
「全部、私のためだったんですよね。感謝しなくちゃいけませんでした」
義姉の表情が和らぎ、兄も満足そうに肩を抱いた。
「分かればいい。莉央はうちの大事な宝物なんだ。二度と怒鳴りつけるような真似をするな」
私は静かにうなずいた。いつかこの「善意」が自分たちへ向けられたときも、同じように寛容でいられるといい。
4.私の境界線
面接と最終結果を待つ間、私はできるだけ自室で準備を続けた。ドアには内側から固定できる補助錠を付け、重要な資料はすべて鍵付きの収納ケースへ入れた。食事と入浴以外で居間に長く留まることもなくなった。
莉央さんはすぐに不満を募らせた。夜十時になると、ぬいぐるみを抱いて私の部屋の前までやって来た。
「美琴ちゃん、出てきて。ちょっと付き合ってよ」
「面接の準備をしています」
「こんな時間まで、まだやるの?」
「明日は模擬面接なんです」
数秒の沈黙のあと、ドアを叩く音が強くなった。
「莉央、退屈なの。テレビを一緒に見て、それからコンビニでお菓子買ってきてよ」
母が義姉をなだめようとした。
「莉央さん、美琴は明日も予定があるの。私が一緒にテレビを見ましょうか」
「嫌」
その声は急に冷たくなった。
「美琴ちゃんじゃなきゃ嫌なの」
騒ぎを聞きつけた悠真まで部屋から出てきて、私のドアを足で蹴った。
「母さんが出てこいって言ってるだろ。聞こえないのかよ」
私はドアを開けた。すぐに腕をつかもうとした莉央さんから、一歩だけ後ろへ下がる。
「もう十時です。私は明日出かけますし、莉央さんも休んでください」
悠真は不満そうに眉を寄せた。
「少しくらい付き合ったって、何も困らないだろ」
「家には兄さんも悠真もいます」
「母さんが一緒にいたいのは美琴なんだよ」
「それは莉央さんの希望であって、私の義務ではありません」
私はドアを閉め、補助錠を掛け直した。泣いても叩いても開かないと分かると、莉央さんは母に連れられて居間へ戻っていった。
義姉が欲しいのは、誰かと過ごす時間ではない。この家の全員が、今も自分の望みどおりに動くのか確かめたいだけだった。
5.破られた封筒
初冬、私は東央県立大学の総合型選抜に合格した。結果は大学のマイページで発表され、数日後には入学手続の案内、納付書、住まいに関する資料が郵送されてきた。私はすぐにすべてをスキャンしてオンライン手続を終え、原本は防水のファイルに入れて、担任に頼み進路指導室の施錠棚で一時的に預かってもらった。
悠真は私立青陵学園高校の入試に向け、学校の公式サイトで公開されている過去問題や面接練習用の資料を何度も印刷し、書き込みながら整理していた。私は同じ公開資料をもう一部印刷し、大学から届いた物に似た封筒へ入れた。
その封筒を机の上に置き、わざと部屋の鍵を掛けずに眠った。翌朝、紙を引き裂く音が聞こえてくる。私はすぐには起き上がらず、布団の隙間から、莉央さんが中身を一枚ずつ破ってゴミ箱へ押し込み、足音を忍ばせて出ていくのを見ていた。
少し時間を置いてから、私は居間へ向かった。
「莉央さん、大学から届いた封筒を見ませんでしたか?」
ソファで牛乳を飲んでいた義姉は、柔らかな笑みを浮かべた。
「机に袋があったけど、中身が何か分からなかったから、破って遊んだよ」
「私の物に触らないでくださいと、前にも言いましたよね」
「難しい字ばっかりだったから、莉央には分からないもん」
ストローマグを置くと、目元を赤くした。
「大事な物なら、ちゃんと片づけなかった美琴ちゃんも悪いでしょ。全部莉央のせいにしないでよ」
帰宅した兄は、上着も脱がずに義姉の隣へ立った。
「紙を何枚か破っただけだろ。そんなことで大学に入れなくなるわけじゃない」
「入学手続の書類が入っていたんです」
「また印刷すればいいだろ」
兄はうんざりしたように私を見る。
「自分で片づけなかったのが悪い。そんなことで入学できなくなるなら、お前に運がなかっただけだ」
部屋から出てきた悠真も、ゴミ箱を蹴り倒した。
「ただの通知だろ。大げさに騒ぐなよ」
床一面に紙片が散らばる。私はドア枠にもたれ、悠真が怒鳴り終わるのを待ってから口を開いた。
「破られたのは、悠真が整理していた受験資料のコピーだよ」
悠真の顔から血の気が引いた。しゃがみ込んで紙片を拾い、青陵学園の校章と問題番号に気づく。
「母さん、何で確かめずに破ったんだよ!」
莉央さんはきょとんと息子を見返した。
「さっき、ただの紙だって言ってたよね?」
「俺が何日かけて整理したと思ってるんだ!」
「元の資料なら、公式サイトからまた印刷できるよ」
悠真は自室へ駆け戻った。莉央さんは再び兄の後ろに隠れ、「わざとじゃない」と何度も繰り返している。
私は自室へ戻り、大学の入学手続完了画面を改めて保存した。今度こそ、誰にも私の未来を壊させない。
6.合格のお守り
私が大学へ入学する前に、悠真は私立青陵学園高校の一般入試を受けることになっていた。兄夫婦はこの試験に大きな期待を寄せ、悠真は昔から頭がよく、本気を出せば東京の難関大学へ進めると周囲に言いふらしていた。
試験まで一週間となった朝、莉央さんは玄関で家族三人の写真を撮らせた。その写真をSNSへ投稿し、得意げな文章まで添えている。
『今は修司くんに守ってもらって、将来は悠真に養ってもらうの。莉央って、世界一幸せかも』
投稿を見た母は長い間黙っていた。その夜、私の部屋を訪れ、賃貸物件の資料を机へ置いた。
「美琴、決めたわ。私も一緒に東央市へ行く」
「お母さん、自分の家を出る必要はないよ」
「名義が私でも、あの家はもう私の家じゃないもの」
母は大学から電車で三駅の場所にある二LDKの賃貸を見つけていた。近所のスーパーでは惣菜部門のパート募集があり、すでに面接を受けて採用も決まっている。私が授業を受けている間、母も自分の生活を持てるのだ。
私は母の手を握った。
「一緒に行こう」
数日後、莉央さんは意味ありげな顔で私を台所へ呼び出した。
「美琴ちゃんが大学に受かったのって、莉央が手伝ったからだよね?」
期待に満ちた顔を見て、私は話を合わせた。
「莉央さんのおかげです。そうでなければ、こんなにうまくいかなかったかもしれません」
義姉は何かを思いついたように目を瞬かせた。
悠真の試験当日、莉央さんは全員が朝食の支度に追われている隙に息子の部屋へ入った。悠真が鞄を背負って出ていくと、私のそばへ寄ってきて、声を潜めながら笑う。
「悠真の鞄に、合格のお守りを入れてあげたの」
神社で買った普通のお守りだろうと思ったが、義姉の妙に得意げな表情が引っかかった。それでも悠真の鞄を勝手に開けるわけにはいかない。私は中身を確かめず、誰にも何も言わなかった。
7.試験会場で鳴ったスマートフォン
試験開始から三十分も経たないうちに、悠真の筆箱に入っていた古いスマートフォンが通知音を鳴らした。試験監督が確認すると、通信端末だけでなく、文房具の間から『予想解答』と書かれたカンニングペーパーまで見つかった。内容が本物かどうかにかかわらず、通信機器と不正資料を持ち込んだ時点で重大な規則違反だった。
試験はその場で打ち切られ、端末と紙は学校が事情確認のため一時的に預かった。悠真には、確認後に保護者へ正式な処分結果を知らせると説明された。
午後、青ざめた顔で帰宅した悠真は、玄関を開けるなり鞄を床へ叩きつけた。
「誰が俺の物に触った?」
居間にいた私と母は答えなかった。悠真は私たちが陥れたと決めつけ、怒鳴りながら詰め寄ってくる。
「お前ら以外に誰がいるんだよ! 俺を青陵に入れたくなかったんだろ!」
「今日は二人とも、悠真の部屋に入っていないよ」
「嘘つけ!」
母を突き飛ばそうとした手首をつかみ、私は悠真を押し戻した。
「ばあちゃんに触らないで」
悠真は私の手を振り払い、憎々しげににらむ。
「ばあちゃん、美琴を何とかしろよ!」
母はゆっくり立ち上がった。
「今日から、あなたのことには口を出さない。信じたい人だけを信じればいいわ」
悠真が言い返そうとしたとき、事情を知らない莉央さんが寝室から出てきた。うれしそうに息子へ近づく。
「悠真、試験どうだった? 筆箱に入れたスマホと答え、ちゃんと使えた?」
居間から音が消えた。悠真はゆっくり振り返り、母親をにらみつける。
「あれ、母さんが入れたのか?」
莉央さんは誇らしげにうなずいた。
「そうだよ。莉央、すごいでしょ?」
悠真は力が抜けたように、その場へ座り込んだ。
「試験を途中で止められた。学校で確認したあと、正式に家へ連絡するって言われた。俺はもう合否判定の対象に入らない」
義姉の笑顔が固まった。
「どうして?」
「何でスマホとカンニングペーパーなんか入れたんだよ! この試験がどれだけ大事か、何度も言っただろ!」
「莉央は、悠真を助けたかっただけだよ」
「本当に五歳なわけじゃないだろ!」
悠真が初めて母親へ怒鳴った。私は、前の人生で義姉をかばっていた彼の顔を思い出す。
「わざとじゃなかったんだよ」
悠真が勢いよく顔を上げる。私は静かに見返した。
「悠真のためにしたことなのに、どうして分かってあげられないの?」
8.すべてを解決するはずの伝手
その日の夕方、青陵学園から兄へ正式な連絡が入り、悠真の受験は無効となり、合否判定の対象外になると告げられた。帰宅した兄は、まだ言い争っている妻と息子を見ても、莉央さんを責めようとはしなかった。
「その程度のことで泣くな」
悠真が顔を上げる。
「受験が無効になったんだぞ!」
「青陵の設備保守を請け負ったことがある奴を知ってる。学校法人の理事と食事をしたこともあるらしい。家に呼んで話せば、特別に面談の機会くらい作ってもらえるかもしれない」
その人物は兄の飲み仲間の同僚で、理事とは一度同席しただけだった。たとえ会食がうまくいっても、学校が正式に決めた不正行為への対応を覆す権限などない。それでも兄は、その程度の伝手を最後の頼みの綱だと思い込み、相手を自宅へ招いた。
私は兄へお茶を置いた。
「大切なお客様なら、夕食はきちんと用意したほうがいいですね」
兄は得意げに足を組んだ。
「言われなくても分かってる」
「莉央さんなら、兄さんのお知り合いの好みもよく分かっているんじゃないですか?」
母は一度だけ私を見たが、何も言わなかった。兄は私の意図に気づかない。
「当然、莉央に任せる。お前たちはいつも莉央を子ども扱いするが、どれだけ気が利くか見せてもらおう」
褒められた義姉は、すぐに引き受けた。
客が来る日、母と私は台所へ入らなかった。莉央さんは兄から渡された金でデリバリーアプリから料理を大量に注文し、味が悪くないか心配だと言って、すべての料理を先に口にした。食べかけの揚げ物、ひと口かじったステーキ、箸で何度もひっくり返した刺身まで、何事もなかったように皿へ並べ直した。
事情を知らない兄は、客へ酒を勧めていた。ところがステーキを持ち上げた客は、端に残る歯形を見つけ、ゆっくり笑顔を消した。
莉央さんだけが得意そうに胸を張る。
「お店の料理がおいしくなかったら困るから、全部先に味見しておいたんです」
客は箸を置き、玄関へ向かった。兄が慌てて追いかけたものの、相手は靴も整えないまま帰ってしまった。
数分後、兄は真っ赤な顔で居間へ戻り、食卓をひっくり返した。
「お前、何を考えてるんだ!」
義姉は驚いて後ずさる。
「みんなのために、味見しただけだよ」
「自分が食べかけた料理を客に出して、それで気を利かせたつもりか?」
「修司くんも悠真も、いつも莉央の残した物を食べてくれるよ」
「同じなわけがないだろ!」
兄の怒鳴り声が家中に響いた。
「何度も頭を下げて、やっと来てもらったんだぞ。全部お前が台無しにした!」
私は莉央さんの腕を支え、ソファへ座らせた。
「兄さん、莉央さんはわざとやったわけじゃありません」
兄が勢いよく振り返る。
「お前には関係ない!」
「兄さんのためにしたことなのに、どうして気持ちを分かってあげないんですか?」
兄の顔色が、さらに険しくなった。
9.自分たちの選択の結果
味方ができたと思った莉央さんは、すぐに私の手をつかんだ。
「そうだよ。莉央は修司くんのためにやったの」
妻を責めきれない兄は、怒りを私と母へ向けた。
「お前たちは家にいたんだろ。莉央がこういうことを苦手だと分かっていて、どうして見てやらなかった?」
母は、以前のように謝らなかった。自室へ戻り、すでに荷造りを終えたキャリーケースを引いてくる。
「莉央さんは三十八歳よ。私が見張る必要はありません」
兄は言葉を失った。
「どういう意味だ?」
「私は美琴と引っ越します。これから三人がどう暮らすのか、もう私には関係ありません」
兄は立ち上がり、不安を隠すように声を荒らげた。
「勝手に出ていけ! 生活できなくなっても、泣きついてくるなよ!」
母は兄を見なかった。私は自分の荷物を持ち、長く暮らした家を母と一緒に出た。
外から帰ってきた悠真は、私たちの荷物を見て嘲るように笑った。
「やっと父さんに追い出されたのかよ」
私は足を止めた。
「家の名義は、ばあちゃんだよ」
悠真の笑みが固まる。
「今は私たちが自分から出るだけ。最後に住む場所を失うのが誰かは、まだ分からないね」
私と母は東央市の二LDKへ引っ越した。広くはなく、台所も浴室もごく普通だったが、静かで清潔だった。私の部屋には机を置く余裕があり、窓から大学方面へ走る電車が見えた。
母は近所のスーパーの惣菜部門で、新しいパートの仕事を始めた。私は入学準備を進め、兄は初めて家事も育児も自分たちだけで回さなければならなくなった。食事を作る人も、掃除をする人も、義姉の失敗を先回りして止める人もいない。
青陵学園を受けられなくなった悠真は、二次募集を行っていた別の私立高校へ進学した。すべてを母親のせいにし続ける息子に対し、莉央さんはなぜ急に家族全員から責められるようになったのか、最後まで理解できなかった。
10.病室の兄
数か月後、深夜に酒を飲んだ兄が横断歩道のない場所を渡り、左折してきた車にはねられた。胸部と腹部に加え頭部も負傷し、手術では長時間の気管挿管が行われた。意識が戻っても嚥下反射が十分に回復しておらず、医師は翌日の嚥下評価が終わるまで絶食するよう明確に指示した。
ある日、病院の代表番号から私のスマートフォンへ電話がかかってきた。受話器の向こうにいたのは兄だった。
「母さんを戻せ。俺の世話をさせろ」
「戻りません」
「俺は母さんの息子だぞ!」
「四十年以上、十分に世話をしてもらったでしょう」
電話の向こうが静かになった。
「お前が勝手に母さんを連れ出したんだろ。警察に通報するぞ」
「お母さんは成人です。自分の意思で引っ越しました。警察に確認してもらって構いません」
電話を切った。兄の入院を知った母は、長い間ソファに座っていたが、家へ戻るとは言わなかった。ただ一度、私に病院で様子を確認してきてほしいと頼んだ。
病室へ入ると、兄はベッドに横たわったまま、莉央さんに手を拭かせていた。私一人しか来なかったと分かると、不機嫌そうに眉を寄せる。
「母さんは?」
「今日は仕事です」
「息子が入院してるのに、よく働いていられるな」
「保険で賄えない費用は、誰かが払わなくてはいけませんから」
兄は言葉に詰まった。そこへ莉央さんがコンビニの袋を下げて戻ってきた。中には兄の好物だったおにぎりと唐揚げが入っている。
「修司くん、お腹すいたよね?」
兄は食べ物を見た。
「医者から食べるなって言われただろ」
義姉は私から目をそらした。
「少しなら大丈夫だって聞いたよ」
おにぎりの包装を開き、兄の口元へ運ぼうとする。
「看護師さんから、今は絶対に食べさせないよう説明されましたよね」
莉央さんは不満そうに私を見る。
「莉央は修司くんの世話をしてるの」
「検査が終わるまで待ってください」
兄は自分から口を開けた。
「ひと口くらい何ともない。医者の言うことを全部真に受けるな」
私はそれ以上言い争わなかった。莉央さんがおにぎりを食べさせると、二口目を飲み込んだ兄が突然激しくむせ、顔色が見る間に青紫へ変わった。
私はすぐにナースコールを押した。医療スタッフが病室へ駆け込み、私たちは全員廊下へ出された。
11.勝手な善意の代償
重度の誤嚥を起こした兄は、集中治療室へ移された。救命処置で一度は呼吸が戻ったものの、ほどなく誤嚥性肺炎を発症する。状態は数日間悪化と小康を繰り返し、兄は最終的に呼吸不全で亡くなった。
莉央さんは病院の廊下に座り込み、何度も首を横に振った。
「二口しか食べさせてないのに……」
誰も答えなかった。
病状の悪化と家族による無断の摂食には、明確な時間的つながりがあった。病院は看護記録、救命処置の経過、病室にいた者の説明を保存し、院内で事実確認を行った。莉央さんは絶食指示を無視した理由を聞かれ、警察からも当時の状況について事情を聴かれたが、過失の有無はその後の調査に委ねられた。
義姉は兄の法律上の配偶者だったが、混乱して必要な手続をほとんど進められなかった。母は医療スタッフの案内に従って最低限の手助けをし、小規模な家族葬だけを手配した。兄名義の預貯金や債務については、専門家を通して正式な相続手続が進められた。
悠真は父親の死を深く悲しんでいるようには見えなかった。髪を染め、学校を休みがちな生徒たちと付き合い始める。莉央さんは、それでも息子は一時的に遊んでいるだけで、いつか有名大学へ進むのだと信じていた。
母は古い家を売却することにした。家は最初から母の単独名義であり、兄一家は家賃を払わずに住んでいただけだった。母は書面で無償使用の終了を通知し、退去まで二か月の猶予を与えたうえで、不動産会社へ査定を依頼した。
私は母と一緒に、売却に必要な権利関係の書類と、父が遺した古い書類を整理しに戻った。その日の午後、悠真が数人の友人を連れて家へ入ってきた。
莉央さんは息子の腕をつかんだ。
「あの子たちと一緒にいたら駄目。悠真まで悪い子になっちゃうよ」
友人の一人が笑った。
「お前の母さん、まだ難関大学に行けると思ってるのか?」
友人の前で恥をかかされたと感じた悠真は、義姉を強く突き飛ばした。
「余計なこと言うなよ!」
莉央さんは後ろへよろめき、食卓の角に頭をぶつけて床へ倒れた。額から血が流れ出しても、悠真は一度見ただけで友人たちを連れて外へ向かう。
「また大げさにやってるだけだ。放っておけよ」
私はすぐに救急車を呼んだ。病院で重度の頭部外傷と診断され、手術で命は助かったものの、認知機能、言語機能、運動機能に明らかな障害が残った。
12.家庭裁判所の決定
母親を負傷させた悠真は、そのまま家へ戻らなくなった。警察は学校や友人を通じて行方を捜したが、悠真は見つからないよう転々としていた。数日後、仲間とコンビニで窃盗を行い、逃げる途中で店員を負傷させたことで、ようやく警察に保護された。
事件が家庭裁判所へ送致されると、さらに調査が必要だとして観護措置が取られ、悠真は少年鑑別所へ入った。家庭裁判所調査官は、心身の状態、家庭環境、学校での様子、再非行の可能性について調査を進めた。
母は体調を崩して出向けなかった。職員が親族関係を確認し、許可を得たうえで、私は指定された面会室で一度だけ悠真に会った。
私を見るなり、悠真は椅子から勢いよく立ち上がった。
「何で警察を呼んだんだよ!」
「母親を重傷にして逃げたうえに、窃盗と傷害にも関わったんだよ。通報したのは私一人じゃない」
「いつも大げさに泣いてただろ。本当に怪我したなんて、分かるわけないじゃないか」
「莉央さんだって、本当に傷つくことがあると一度も考えなかったからだよ」
悠真は奥歯を噛みしめた。
「ここから出せよ」
「私に決められることじゃない」
「ばあちゃんは? 誰かに頼んで助けてもらえよ!」
兄夫婦に甘やかされ続けた少年を、私は静かに見た。
「ばあちゃんは十五年間、十分に悠真の面倒を見た。これからは自分のしたことに責任を持って」
面会時間が終わると、職員が悠真を部屋から連れ出した。背後ではまだ怒鳴り声が続いていたが、ドアが閉まると聞こえなくなった。
家庭裁判所調査官は、暴力行為、窃盗、家庭環境、学校での状況を踏まえた意見を裁判官へ提出した。少年審判の結果、悠真は矯正教育を受けるため、少年院送致となった。
13.支援を必要とする人
莉央さんは数か月にわたり入院治療を受けたあと、生活介護とリハビリテーションを行う障害者支援施設へ移った。簡単な言葉なら理解でき、自分の希望もかろうじて伝えられるが、金銭管理、服薬、日常生活を一人で行うことはできない。頭部外傷により、重度の高次脳機能障害が残っていた。
医療ソーシャルワーカーと市役所の障害福祉課が調整し、市長が家庭裁判所へ成年後見開始の申立てを行った。診断資料と調査結果を踏まえ、家庭裁判所は莉央さんに専門職後見人を選任した。財産、契約、福祉サービスの手続は後見人が管理し、未成年だった悠真についても、別途家庭裁判所で未成年後見の手続が進められた。
専門職後見人と福祉機関の協力により、莉央さんの私物は古い家から運び出された。家の明渡しが完了したあと、母は正式に売却手続を終えた。母が自分の意思で負担すると決めた葬儀費用と家の整理費用だけを売却代金から支払い、残りは老後と今後の生活のために残した。兄の預貯金と債務は、それとは別に相続手続の中で処理された。
家の引渡しが終わった日、私は支援施設を訪ねた。莉央さんは共用ラウンジの椅子に座り、色あせたウサギのぬいぐるみを抱いていた。私を見つけると、ゆっくり手を伸ばす。
「美琴ちゃん……おうち……」
私はその手を取らなかった。
「もう売りました」
義姉はぼんやり私を見つめる。
「修司くんは……?」
「兄さんは亡くなりました」
唇がかすかに震えた。
「悠真……」
「傷害と窃盗で、少年院へ送られました」
莉央さんは理解できないように首を振った。
「嘘……」
「嘘ではありません」
私は、義姉が抱きしめているぬいぐるみを見た。
「何も分からないから責任を取らなくていいと、ずっと言い続けてきましたよね。でも兄さんと悠真がここまで来たのは、二人自身の選択と、莉央さんが何度も勝手にしたこと、その両方の結果です」
支援員が近づき、リハビリの時間だと穏やかに声をかけた。莉央さんはもう私をつかもうとせず、俯いたままぬいぐるみを強く抱いた。
私は振り返らずに施設を出た。
14.私たちの人生
春になり、私は東央県立大学人文学部へ入学した。授業は思っていたよりも簡単ではなく、学費と生活費も現実的な問題だった。返済不要の給付型奨学金を申し込み、大学を通して入学金と授業料の減免手続も行い、週末は大学近くの書店で働いた。
小さな部屋へ帰るたび、居間には母が残した明かりがついていた。兄一家を中心に生きることをやめた母は、新しい職場の同僚や近所の人とも少しずつ親しくなった。休日には二人で商店街へ買い物に行き、何も買わず川沿いを歩くだけの日もあった。
もう少し生活に余裕ができたら、今より大きな食卓を買おう。そんな話もするようになった。
兄、莉央さん、悠真について耳にすることは、次第に少なくなった。母のもとへ福祉機関や後見人から書類が届くことはあったが、必要な範囲で手続に協力するだけだった。私がなぜ義姉の妨害を避けられたのか、これから何が起きると知っていたのか、母が尋ねることはなかった。
ただ、私の味方でいてくれた。
それだけで十分だった。
前の人生では、家族のために譲り続け、最後には未来も命も失った。けれど今度の私は、誰かを陥れたわけではない。自分の未来を守り、彼らの後始末をやめただけだ。
春の終わり、大学構内の桜はすべて散っていた。枝先には新しい葉が芽吹き、陽射しを受けて明るい緑に輝いている。
私と母の人生も、ようやくここから始まる。
——完——




