第3話【1】『不協和音の聖域』
地下四階の練習場は、もはや音楽を奏でる聖域ではなく、人間の精神を内側から解体する高周波の実験場へと変貌を遂げていた。
打ち放しのコンクリート壁に設置された四基の大型スピーカーからは、心臓の鼓動を強制的に同調させるような不規則な超低音と、鼓膜の裏側を鋭利な針で掻き毟るような高音が、交互に、あるいは幾重にも重なり合って吐き出されている。その音圧はもはや単なる振動ではなく、目に見えない質量を伴った「濁流」となって、少女たちの肋骨を軋ませ、三半規管を無慈悲に掻き回していた。
「……う、あ……あ、ああ……っ」
るなが耳を塞いで床に蹲り、胃液が逆流する不快感に耐えかねて嘔吐く。だが、影山はその細い手首を無機質な力で掴み、無理やりその防衛反応を解除させた。
「耳を塞ぐな。その不快感こそが、今の君たちに必要な『世界の真実』だ。心地よいメロディ、調和の取れたリズム、予定調和な拍手……そんなものは、満たされた豚が嗜む安価な麻薬に過ぎない。君たちがこれから放つのは、聴く者の安寧を根こそぎ奪い去り、生存本能を呼び覚ます『不協和』の汚染源だ」
影山はタブレットの波形エディタを操作し、さらに音の位相を数ミリ秒だけずらした。
シュアアア、という不気味なノイズが室内に充満し、空気そのものが粘り気を帯びたように重くなる。
異世界において、呪詛師ジルバ・ド・ラ・ヴァルは、この「音の干渉」を用いて、一国の精鋭騎士団を狂気に陥れ、互いの喉を掻き切らせたことがある。人間の脳は、特定の周波数の組み合わせに触れると、前頭葉の機能が一時的に減退し、扁桃体が過剰に反応を始める。恐怖、怒り、攻撃性……それらを増幅させる「精神の鍵」を、彼は現代のデジタル音響解析と、前世の呪術的理論を融合させることで、現代に蘇らせていた。
「神楽ほむら。前に出ろ。……マイクは使うな。機械のバフに頼らず、そのノイズに負けない『魂の汚濁』を喉から絞り出せ」
ほむらは、ふらつく足取りで巨大なスピーカーの真正面に立った。
三十六時間の断食を経て、影山が与えた琥珀色の「禁忌の栄養液」によって強制的に覚醒させられた彼女の感覚は、今や剥き出しの神経束のように敏感だ。一ミリの風の動き、一滴の汗が肌を滑る感覚さえもが、脳髄に巨大な刺激として突き刺さる。その鋭敏すぎる感覚に、スピーカーからの不快な音が暴力的なまでの情報量で叩きつけられた。
「……あたし、何を……。どう歌えば、あんな綺麗な人たちに勝てるの……?」
ほむらの問いは、もはや疑問ですらなく、救いを求める悲鳴に近かった。だが、影山は彼女の背後に立ち、その細い肩を背後から包み込むようにして、逃げ場を完全に塞いだ。
「歌うなと言ったはずだ。君の喉にあるのは、音楽を奏でるための楽器ではない。世界を呪い、君を最底辺に留め置いた不条理な運命を呪うための、排気筒だ。……あの『ステラ』の眩さを思い出せ。彼女たちの背後にある莫大な資本、彼女たちに跪くメディア、そして君たちを石ころのように踏みにじった群衆の顔を。……その『どす黒い憤怒』を、声帯の震えに乗せて増幅させるんだ。君の音痴は、君の欠陥ではない。この腐った調和を破壊するための、神が唯一君に与えた牙だ」
影山の指先が、ほむらの喉元を薄いナイフのようになぞる。その冷たさに、ほむらの背筋が凍りつくと同時に、体の芯から得体の知れない熱が逆流してきた。
彼女は目を閉じた。
脳裏に、昨日のGプロ本社での光景がフラッシュバックする。
一ノ瀬マイの、憐れみに満ちた、完璧に手入れされた微笑み。
自分たちに向けられた、マイクという名の冷たい銃口。
(……壊したい。全部、壊してしまいたい)
自分でも驚くほど、醜悪で、底の抜けた破壊衝動が胸の底から湧き上がった。
頑張っても報われない。清らかであろうとすればするほど、泥を塗られる。
だったら、その泥を、世界中にぶちまけてやる。
自分たちを「欠陥品」と呼び、消費し、最後にはゴミ箱へ捨てようとした世界そのものを、道連れにして奈落へ落ちる。
期待されないことへの安堵と、無視されることへの猛烈な、狂おしいほどの自己主張。
それらが混ざり合い、真っ黒な粘液となって喉元までせり上がってくる。
「……ああああああああああああああああああああああああッ!!」
ほむらが叫んだ。
それは音楽ではなかった。だが、単なる絶叫でもなかった。
影山が流していた不快なノイズの波形に、ほむらの「音痴」という名の異常な周波数が、狂った時計の歯車が噛み合うように合致した。
――キィィィィィィィィン!!
練習場の空気が、目に見えるほどの衝撃波を伴って爆ぜた。
防音材が摩擦熱で焦げたような、特有の金属臭が立ち込める。部屋の隅、影山の背後に置かれていた予備の照明バルブが、内側からの圧力に耐えきれず、一斉に破裂した。
凛も、くるみも、紬も、思わず両耳を抑えてその場にのたうち回った。それは、聴覚を通り越して、脳幹に直接「死のイメージ」を送り込む呪詛の旋律だった。
「……いい。素晴らしいぞ、神楽ほむら。今の響きだ」
影山は、狂気すら感じさせる静かな愉悦を瞳に湛え、呆然と立ち尽くすほむらの耳元で、恋人に囁くような甘い声で告げた。
「君のその声は、この腐った世界の偽りの調和を破壊するために、俺が前世から探し求めていた、最強の『不共鳴』の触媒だ。君が絶望すればするほど、その声は鋭利な刃となり、観客の無意識に致命傷を与える」
ほむらは、肩で激しく息をしながら、震える自分の手を見つめた。
喉が焼けるように熱い。血の味がする。
だが、今の叫びによって、自分の中に溜まっていた「負の感情」が、世界を汚染し、支配するための確かな力へと変換されたという、恐ろしくも甘美な確信があった。
「他の四人も続け。一人ひとりの内面にある、最も醜悪で、最も美しい地獄の周波数を特定しろ。五人の呪いが重なった時……その『和音』は、聴く者すべての正気を剥ぎ取る猛毒の霧となる。……ステラのファンが、自分たちの愛した偶像を忘れて、君たちの地獄に酔い痴れる瞬間を、俺がプロデュースしてやる」
影山のタクトが、再び死の宣告のように振られた。
地獄のレッスンは、もはや肉体の鍛錬という次元を遥かに超え、彼女たちの魂そのものを、社会という巨大な怪物に打ち込むための「毒針」へと鋳造する工程へと進んでいた。
だが、その熱狂の陰で、一人の少女だけが、別の「闇」に囚われていた。
鳴海くるみ。
彼女は、影山の背中を見つめながら、自分のスカートのポケットの中で、まるで心臓のように震え続けるスマートフォンを、強く、強く握りしめていた。
画面に表示されているのは、昨日彼女を公開処刑の舞台へ誘った、Gプロダクションの幹部・肥後の名前。
『――君だけは、救ってあげてもいいんだよ。くるみちゃん。あの男は君たちを壊そうとしている。本当のスターになりたいなら、今夜、一人で来なさい』
くるみの瞳に、激しい迷いの色が走る。
影山が与える、命を削るような「力」への陶酔。
そして、かつての自分が憧れ、手にしかけていた「清らかな光の世界」への、断ち切れない未練。
その精神の亀裂を、影山は見逃さなかった。
だが、彼はあえて何も指摘せず、ただ不協和音のボリュームをさらに上げ、少女たちの悲鳴をかき消した。
裏切り、嫉妬、不信感。
それらすべてを煮詰め、発酵させ、最高濃度の『デバフ』へと昇華させることこそが、彼の真骨頂なのだから。




