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第3話【2】『不協和音の聖域』

 深夜二時。眠らない街・新宿の喧騒から、幾重ものコンクリート壁で隔絶された地下練習場。その冷たい床に座り込み、鳴海くるみは一人、スマートフォンの青白い光に顔を照らされていた。

 画面に映っているのは、Gプロダクションの幹部・肥後から届いた、一通のメッセージ。そこには、都内最高級ホテルの最上階ラウンジの地図と、彼女の自尊心を執拗に撫でまわすような、甘い蜜の誘い文句が並んでいた。


『君は元々、あんな泥にまみれて朽ち果てるべき器じゃない。三歳でデビューし、一世を風靡したあの頃の輝きを、私は今でも鮮明に覚えているよ。影山という男は、君たちを「兵器」として使い潰すための消耗品としか思っていない。……今すぐそこを抜け出しなさい。ステラの「四人目」としての特等席を、君のために空けて待っている』


 ステラの四人目。

 それは、昨日までの彼女なら、魂を売ってでも欲しがったであろう、約束された「光」への片道切符だ。

 くるみは、ボロボロになった自分の爪を見つめた。影山の過酷なレッスンのせいで指先は絶えず震え、極限の飢餓と脱水により、かつて「天使」と謳われた子役時代の瑞々しい肌は見る影もなく荒れている。影山が与える琥珀色の液体は、確かに奇跡的な活力を与えてくれる。だがそれは、命の蝋燭を無理やり太くし、黒い煙を上げながら燃やす、狂気の業火のように感じられた。


「……あたし、何を迷ってるんだろ。あんな死神についていくより、こっちの方が……ずっとマシなのに。ずっと、人間らしいのに」


 くるみは自嘲気味に呟いた。だが、脳裏にこびりついて離れないのは、影山が去り際に彼女の肩に置いた、あの指先の異常な冷たさと、そこから伝わってきた微かな、だが確かな熱だ。

『君のその醜い執着心だけは、あの聖女(理想)の輝きよりも価値がある』

 業界の大人たちが口にする「可愛いね」「頑張ったね」という薄っぺらな賛辞ではなく、自分の奥底に隠した「醜悪な本音」を、初めて正しく肯定された。その事実が、逃れられぬ呪いとなって彼女の足をこの暗い地下室に繋ぎ止めていた。


「――行くなら、止めはしない。それが君の選択ならばな」


 背後から響いた、感情を排した氷の声。

 くるみは心臓が口から飛び出すほど驚き、スマートフォンを床に落とした。硬いコンクリートに当たった画面が、無残な亀裂を走らせる。

 影山が、暗闇の中から音もなく、霧が晴れるように姿を現した。彼はくるみの動揺を一切無視し、落ちたスマートフォンを拾い上げると、無造作にその割れた画面を覗き込んだ。


「……ステラの四人目か。肥後らしい、浅薄で退屈極まりない餌だ。君という劇薬を、あの無機質で清潔な造花の中に混ぜれば、一体どうなると思う? ……せいぜい一週間だ。一週間で君の鋭利な個性はバフ(平均化)の波に飲み込まれ、誰にでも代わりが務まる記号として消費され、消えるのが関の山だ」


「……あんたに何がわかるのよ! あそこに行けば、あたしはまた、みんなに愛される『可愛い鳴海くるみ』に戻れるんだよ! あんたみたいに、人を呪いの部品扱いする奴と一緒にいるより、百倍幸せに決まってる!」


 くるみは叫んだ。それは影山への怒りというより、自分の中に巣食う「光への未練」を強引に振り切るための、悲痛な拒絶だった。

 影山は表情一つ変えず、くるみの至近距離まで音もなく歩み寄った。逃げ場を奪うように壁に手を突き、彼女の瞳の奥、その魂の深淵までをも暴き立てるような、冷徹で深淵な眼差しで覗き込む。


「『可愛い子』か。……そんなものは、路傍の石と同じだ。君が本当に求めているのは、愛されるという受動的な癒やしではなく、世界を君の足元に跪かせるという能動的な支配ではないのか? 子役時代、周囲の大人が君の顔色を伺い、その一挙手一投足に一喜一憂していた、あの全能感……。それをもう一度、今度は借り物の光ではなく、自分自身の『牙』で手に入れたいと、君の細胞が飢えた獣のように叫んでいるぞ」


 影山の長い指先が、くるみの頬を、まるで壊れやすい美術品を検品するかのような不可解な精密さでなぞった。

 冷たいはずの指が、触れられた場所から発火しそうなほど熱く感じる。

 くるみは息を呑み、金縛りにあったように動けなくなった。影山の瞳の中に、かつて異世界で彼が「救えなかった少女」への氷のような後悔と、それを遥かに凌駕するほどの「今度こそ、完全な兵器として完成させる」という狂気的な執念を見たからだ。


「……裏切りたいなら、今すぐ裏切ればいい。だが、スパイとしてあちらへ行くなら、相応の手土産が必要だろう? ……肥後にこう伝えておけ。二週間後のライブ、Lumina 5は『一切の電子音響設備を使わず、剥き出しの生声だけで歌う』とな」


「……は? 生声? そんなの、あんな巨大なライブハウスで聞こえるわけないじゃない! ただの自爆行為よ!」


「いいや、逆だ。……音響設備という『人工的なバフ』を徹底的にデバフ(遮断)することで、君たちの呪いを、空気の振動として直接観客の脳髄に叩き込む。……その情報を流せば、肥後は勝利を確信し、油断するだろう。君は『最高の功労者』として、あちら側に迎え入れられるはずだ。……その先で何を選ぶかは、君が決めろ」


 影山はくるみの震える手をとり、彼女のスマートフォンを無理やり握らせた。

 

「……俺を信じるな、くるみ。君自身が、どちらの地獄で踊るのが相応しいか……それだけを、その汚れた魂に問い続けろ」


 影山は翻り、再び闇の深淵へと溶けるように消えていった。

 後に残されたくるみは、自分の手のひらに残る影山の異常な温度と、ひび割れたスマートフォンの重みを見つめ、激しく、気が狂わんばかりの葛藤に身を投じていた。

 

 ――翌朝、レッスン開始の時刻になっても、くるみの姿は練習場になかった。

 ほむら、凛、紬、るなの四人は、隠しようのない動揺を顔に浮かべていた。

 

「くるみちゃん……本当に、行っちゃったの? あたしたち、捨てられたの?」


 紬が泣きそうな声で呟くが、影山は一瞥もくれず、無慈悲な声で宣告した。


「欠員が出た。……だが、レッスンの強度は一分たりとも変えない。むしろ四人で五人分の『呪詛』を賄え。……一人でも欠ければ、残された者の負荷が増える。それが、この世界の冷徹な不条理デバフの仕組みだ」


 影山は冷酷にタクトを振る。

 だが、その瞳の奥では、既に次の巨大な盤面が動き出していた。

 くるみの不在。肥後の傲慢な介入。

 それらすべてを最良の「毒」として抽出し、最高濃度の『不協和音』へと煮詰めていく。

 影山仁という男の計略にとって、メンバーの精神的な離反すらも、世界を覆すための不可欠な部品デバフに過ぎなかった。


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