猪鍋
洞窟の上、握手を交わそうとした瞬間だった。
翔の表情が、ふっと強張る。
「……やばい、真司君。後ろ――」
背後の茂みが、ゴソゴソと大きく揺れた。
乾いた草が擦れる音。重い何かが地面を踏みしめる気配。
真司がゆっくりと振り向く。
「んごぉ……んごぉ……」
荒い鼻息とともに、草むらをかき分けて姿を現したのは、体長150センチは優に超える巨大なイノシシだった。
黒い毛並み。盛り上がった肩。土を削る蹄。
鋭く光る牙が、はっきりと見えた。
明らかに――敵意がある。
鼻息は荒く、地面を前足で掘り返しながら、真っ直ぐ真司を睨みつけている。
「やばい、翔さん! 逃げて!」
そう言って振り返った時には、もう遅かった。
翔は、すでに数メートル離れた木に飛びつき、あっという間に枝の上へと逃げていた。
(……速っ)
一瞬、そんな感想が頭をよぎる。
(さっきの崖登りでこの速さだったら……普通に負けてたな)
だが、そんなことを考えている余裕はない。
ドドドドドドド――ッ!!
イノシシが突進してきた。
地面が揺れる。土が跳ねる。一直線に真司へ向かってくる。
「っ!」
慌てて横へ飛び退く。
着地した先は、崖の縁ぎりぎりだった。
体が外へ傾く。
必死に踏ん張り、なんとか体勢を立て直す。
イノシシは急停止し、大きく方向転換して再び真司を睨んだ。
「んごぉ……んごごぉ……ヒュゥゥ……」
鼻息は、さっきよりも激しい。
完全に怒っている。
そして、再び突進。
――その頃。
崖の下では、晴人が首を傾げていた。
「……なんか上、騒がしくないですか?」
「第3ラウンドで真司対イノシシが始まってたりしてなぁ。ウァハハハ!」
圭太が笑う。
「おとうちゃん、うける~アハハハ!」
唯も楽しそうに笑った。
「二人とも縁起でもないこと言わないでくださいよ!
いくら真司君が化け物みたいでも、イノシシ相手じゃ――」
晴人が言いかけた、その時。
崖の上では、本当に“真司対イノシシ”が始まっていた。
突進してくる巨大な影。
地面を揺らす重量。
真司は、ふとラグビー選手時代の光景を思い出した。
全力で突っ込んでくる大柄な相手。
ぶつかれば、吹き飛ばされる。
(ビビるな)
(気持ちで負けたら、やられる)
そう思った瞬間。
イノシシの姿が、なぜかラグビー選手に見えてきた。
不思議と、恐怖が消える。
タイミングを合わせ、半身で突進をかわす。
すれ違いざま、腕を伸ばして首元に食い込ませた。
重い。
想像以上に重い。
一瞬、足が沈み地面に食い込む。
だが、腰を落とし、体重を乗せる。
「うぉぉぉぉぉっ!!」
全身の力で、イノシシを持ち上げた。
イノシシの巨体が浮いた。
だが相手も必死だ。
足をバタつかせ必死にもがく
負けるか!さらに真司は、力を込める。
腕がもげそうなほど痛い。
しかし――
このチャンスを逃したら自分たちがやられる
そう思うとさらに力が沸いた。
イノシシの巨体がさらに浮き上がり宙に舞う
イノシシは、バランスを失ったまま――
そのまま、崖の下へと落ちていった。
ズドォォォンッ!!
大きな音とともに、土煙が舞い上がる。
崖の下にいた三人の目の前に、巨大な塊が落ちてきた。
「キャァッ!!」
「うおっ!?」
唯と圭太が同時に声を上げる。
晴人は声も出ず、ただ立ち尽くしていた。
煙が晴れると、そこには気絶したイノシシが横たわっていた。
崖の上から、真司と翔が顔を覗かせる。
「大丈夫ですかー!」
真司が声をかける。
晴人が、呆れたように見上げた。
「……心配するのは、こっちのセリフですよ」
真司と翔が崖を伝って下りてくる頃には、すでにイノシシの足は縄でしっかりと縛られていた。
圭太と唯が、手慣れた様子で固定している。
「……これ、どうするんですか?」
真司が素直に尋ねると、圭太が呆れた顔で振り返った。
「お前、馬鹿か。食うに決まってんだろ」
当たり前だろ、という口調だった。
「今夜はご馳走だよ~! 猪鍋じゃ~!」
唯が両手を上げてはしゃぐ。
さっきまで命のやり取りをしていた相手だというのに、まるで祭りの前のような騒ぎだ。
真司、圭太、翔の三人がかりで、近くにあった大きな切り株の上にイノシシの体を乗せた。
ずしり、と重みが腕に食い込む。
「こんなに重てぇのを投げ飛ばすなんて、本当に漫画じゃんか……」
圭太が半ば呆れたように言う。
「いやぁ……とにかく夢中だったので。火事場の馬鹿力ってやつですよ」
真司は少し照れくさそうに笑って答えた。
本心だった。
あの瞬間は、ただ体が勝手に動いただけだった。
その時、洞窟の奥から足音が近づいてきた。
振り返ると、晴人が現れた。
手には大きな牛刀。
夕日に照らされたメガネが、キラリと光る。
まるで手術に向かう医者のような落ち着いた顔だった。
「……では、始めます」
短くそう言うと、無駄な動き一つなくイノシシの解体を始める。
先ほどまで本を読んでいた男とは思えない手際だった。
無言のまま、淡々と刃を入れていく。
肉を分け、内臓を外し、使える部分を切り分けていく。
作業は正確で、速い。
真司は思わず見入ってしまった。
淡々と生物を躊躇いもなく解体していく姿に少し恐怖を感じた。
晴人さんってやっぱりこの島に送られて来た人なんだなと――
巨大だった獣の体が、次第に“食材”へと変わっていく。
唯が火を起こし、圭太が鍋を用意する。
翔は薪を追加し、黙々と手伝っていた。
やがて、ぐつぐつと煮える音が洞窟の外に響き始める。
肉と野菜の匂いが、ゆっくりと広がった。
しばらくして、猪鍋が完成した。
「おい、翔。この間、盗ん……いや、“頂いた”焼酎持ってこい」
圭太がニヤリと笑って指示を出す。
「……うん」
翔はけだるそうに返事をしながらも、少しだけ嬉しそうな顔をして酒を取りに行った。
戻ってくると、木の椀に焼酎を注ぎ始める。
全員の前に配られたところで、唯がぱっと立ち上がった。
「よーし、それじゃあ――」
両手を高く上げて、満面の笑みで叫ぶ。
「かんぱーい!」
夕暮れの中、ささやかな宴が始まった。
焚火の火がぱちぱちと音を立て、猪鍋の湯気がゆらゆらと揺れている。
もっと殺伐として、常に誰かが命を落としているような世界を想像していた。
だが目の前にあるのは、笑い声と酒の匂いだった。
真司は、楽しそうに杯を交わす四人の姿を、どこか呆然とした気持ちで見つめていた。
「おい真司、遠慮なく飲んで食えよ~! ウワァハハハ!」
圭太がすっかり上機嫌になり、椀を振り上げながら声をかけてくる。
「……はい」
真司は小さく笑い、鍋に手を伸ばした。
温かい汁が体に染みていく。
「……意外と、平和なんですね。この島」
思わず本音がこぼれた。
その言葉に、焚火の向こうで晴人がゆっくり顔を上げる。
火に照らされたレンズの奥で、目だけが静かに光っていた。
「いやいや」
低い声だった。
「ちゃんと地獄ですよ、ここは」
その一言で、空気が少しだけ冷えた気がした。
続けて圭太が、椀を片手に笑いながら口を開く。
「お前、最初に俺たち独露に見つかったのはラッキーだったぜ。唯に感謝するんだな」
「へへへ」
唯が軽く肩をすくめて笑う。
「独露って……皆さんのことですか?」
聞き慣れない言葉に、真司が戸惑いながら尋ねた。
「そうよ」
圭太が胸を張る。
「俺たちのチーム名、“独露”。カッコいいだろ?」
いかにも気に入っている様子で、得意げに笑った。
だが、その笑顔がふっと消える。
少し間を置いてから、低い声で続けた。
「そしてここはな……“白狼”って異名の、銀って男の縄張りなんだ」
焚火の火が、ぱちりと弾けた。
「こいつがヤバい男でな。敵対した組に単独で乗り込んで、皆殺しにしたって話だ」
何気ない口調だったが、その内容は重かった。
「そんな奴に見つかってみろ。今頃お前は、殺されるか、奴隷同然になってただろうな」
真司の喉が、ごくりと鳴った。
知らず、手が止まっていた。
晴人が、静かに話す。
「そんなヤバい奴らが、七人。それぞれ縄張りを持って、牽制し合ってる場所なんです」
焚火の炎が、ゆらりと揺れた。
少しだけ、空気が重くなる。
「まあまあ、しみったれた話はまた今度にしようぜ。とにかく飲め飲め、ハハハァ~!」
暗くなりかけた雰囲気を裂くように、圭太が豪快に笑った。
唯もつられて笑い、翔が椀を掲げ、晴人も小さく息をついて鍋に箸を伸ばす。
そこから先は、また笑い声が続いた。
酒を飲み、肉をつつき、他愛もない話で盛り上がる。
(こんなに楽しい時間を過ごしたのは、いつぶりだろうか……)
真司は、ふとそう思った。
身代わりになった、あの日。
そこから今日までの出来事が、胸の奥にじわりと蘇る。
気を抜けば、涙がこぼれてしまいそうだった。
だが、今ここでそれを見せたくなかった。
この楽しい空気を壊したくなかった。
真司はぐっと奥歯を噛みしめ、静かに杯を傾けた。
やがて、焚火の火が小さくなり、夜が深くなる。
話し声も少しずつ途切れていく。
気がつくと、真司はその場に座ったまま、いつの間にか眠りに落ちていた。
「……おし」
圭太が声を潜める。
「真司、完全に寝てるな」
その言葉に、唯と晴人、翔がそっと真司の方を見る。
規則正しい寝息が、小さく聞こえていた。
圭太は、少しだけ真顔になり、低い声で続けた。
「……ちょっと、話がある」




