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水の音

水の音がする。特別気にするような事でもない。多分、さっき水を飲んだ時に、蛇口を緩く閉めてしまったのだろう。ぽた、ぽた、と、断続的に聞こえる音はある意味で聞きなれた音だ。


布団の中に潜りながら、嫌にその音が気になって仕方がない。これもよくある事だ。昔から、音や声に酷く煩わされる身だったから。ぽたぽたと音がする。そこに意識が集中してしまって眠れない。面倒だけれど締めに行こうか、と思いながら、手足はちっとも動かない。面倒がりなのは精神だけではなく、身体も同じことらしい。


ぽた、ぽた、また音がする。いっその事この音に眠気を誘われる性分であればよかった。意識すればするほど、どうにも気になって仕方がない。雨の日なんかもそうだ。パラパラと降り続ける雨の音に気を取られて眠れなくなる。その度に寝不足になっては意味が無いというのに、いつもいつも眠れなくて眠れなくて、夜の深い時間まで目が開く。嫌な性分だ、やはり水道を締めてくるのが一番だ。どの道目は覚めるかもしれないが、このまま音に気を取られたままというのも夜中疲れる。そう思って、手を握り締めた。なんて事はない、単純な行動の予備動作だ。ちょっと面倒な気持ちが遠くへ散ればいいと思っただけ。


ぽ た、と、音がズレた。なんだか嫌なズレ方だと思った。表現が上手くいかないが、こう、とにかく。嫌だと思った。もっと言うなら、違和感を感じた。変に身体の力が抜けない。何に自分が警戒しているのかも分からないが、警戒すべきと脳が司令を出しているような気がした。ぎゅうと握った手のまま、耳を澄ませる。


ぽ た 、ぽた 、ぽた たっ 、一度だけじゃない。またズレた。こんな落ち方をする水の音は初めて聞いた。どうしたら、こんな音が鳴るのだろうと想像してみる。怖いからだ。怖いから、理由を知りたい。

そうだな、水が落ちる音はあまり意識して聞かない。聞く時と言ったら、蛇口を緩く閉めてしまった時。そういう時は、嫌になるほど一定のリズムで水が落ちていく。あれは水道代が嵩張るのだ。しかし、締め直すのがとても億劫になる。大抵、座ったり横になったり行動を終えた後に気付いてしまうのだ。


それから、水が落ちる時。水滴が落ちる時。雨が降っている時は、パラパラ音がする。乾かない洗濯物を干している時は、同じ様に一定のリズムで落ちていく。それから、それから?


ぽ たたっ 、ぽた たた っ、と、水の音が聞こえた時。不意に何かのイメージと重なった。お風呂上がり。床に落ちる水滴。髪から滴る、水の……

そこまで考えそうになって、もう一度手を握り締めて思考を中断した。ダメだ、ダメだ。怖いことを考えてはいけない。自分の想像に飲まれてこれ以上睡眠時間を減らしたくはない。何か別のことを考えて過ごしたいが、意識は完全に音の方に向いている。本当に嫌な性分だ。


せめてスマホで何か、少しでも恐怖心を紛らわせる様なものを、と思ったが。スマホは枕元に置いてある。問題は、スマホを取りたいなら振り返らなければならないのだ。自分は壁側を向いていて、スマホは反対方向の枕元に置いてあって。そして、今の私は怖すぎて指一本動かしたくない。何せ、頭の中でチラついているのは、濡れた髪を垂らした女が台所で突っ立っている様子だ。気配に気付かれたら、と思うとミリも動きたくない。想像上の産物を怖がってどうする、と思っても、こればかりは止まらない。


水の音はまだ止んでいない。背中が嫌にうすら寒い気がする。気のせいだと頭の中で何度も唱えて、遂にぎゅうと目にも力を入れた。暗くなった視界に、けれど何も見えなくなって、当然の様に視界が暗くなったことを何処かで安堵した。見慣れた瞼の裏の暗闇だ。


頬に、水滴が当たった感覚がするまでは。


思わず声を上げそうになるのを堪えた。堪えた拍子に息が荒くなった事に勘づかれたくなくて止めた。けれど息を止めていてもおかしいと気付いて吐き出した。まずい。まずい。何かいる。何かいる。今の行動でバレなかっただろうか。何を?起きていること?これは起きていることに気付かれたらいけなかったっけ。分からない。怖い。とにかく何も無かったことにしたい。何も起こらなかった事に。私はここで寝ていたから何にも気付かなかった。そういう事にしたい。そうであって欲しい。そうだ、眠らなければ。眠れば朝が来る。朝が来れば、こんな怖い事は起こらないはずだ。本当に?ダメだ、想像するな、怖がるな、下手に恐怖だけが煽られていても意味が無い。


ぽた っ、 ぽた た っ、と、頬に水滴が落ちていく。段々と広がる範囲に、覗き込まれている、と感覚で理解した。理解?本当に?分かるわけが無い、私は目を開いていないし、聞こえる音は水の音だけ。ぽたぽたと頬を濡らし、布団の近くに落ちていく水滴の音だけだ。想像でしかない。全ては私の想像。今分かることは、私の頬に水滴が落ちていて、それが何処から落ちてきているのか分からないということ。本当に覗き込まれているのかも分からない。そもそもただの気の所為で、水はなんかこう変な所から垂れてきているのかもしれない。何処からだ。明日の朝になったら確認しなくては。


だから寝なくてはならない。眠らなくてはならない。朝が来てくれないと困る。朝になれば全部どうにか出来る。そうだ、衣擦れの音もしていないし、呼吸の音も、声だって聞こえてこない。聞こえてくるのは水の音だけだ。ぽたぽたという水の音だけ。大丈夫。きっと何かの勘違いだ。眠ろう。寝なければ。明日があるんだ。明日はまたやる事があるんだ。目を瞑って。それで、それで。



じっ、と、じっと朝を待ち続ける内に、気付けば眠っていたらしかった。アラームで飛び起きた私は、濡れた頬と布団を見て本気で悲鳴をあげるかと思ったが、なんて事はない。古い賃貸に住んでいたせいで雨漏りしていた。耳を澄ませば、パラパラと雨の音がする。


……自意識過剰、だったのだろうか。妄想の産物。それとも、夢?


呆然と雨漏りする水滴の音を聞いていたが、そうしている訳にも行かない。隣の部屋の台所へ出てみれば、やはり蛇口が緩かったのか、食器に溜まった水に水滴が落ちていた。ぽた、ぽた、と。


ぎゅう、と、力を入れて蛇口を閉じた。途端に耳障りな音はしなくなった。後に聞こえるのは雨の音。パラパラ、パラパラ。



……あの時、雨の音なんてしただろうか。


雨が降らないのに、雨漏りなんてするだろうか。



部屋に戻ってスマホを手に取る。昨日の天気予報を少し見てみたが、雨は夜の深い時間に降り始めたらしかった。


あの時、そんなに遅い時間にまで目を覚ましていたのだろうか。まだ、夜も、浅い時間だったと、思った筈だ。


まだぽたぽたと音がする。当然だ、雨漏りしている。布団に当たる水の音が、今も。



…………布団に当たる水の音は、ぽたぽた、と形容するような音だっただろうか。



無言で目を閉じて布団から背中を向け、部屋を出た。そのまま玄関に適当に放り投げていた鞄を掴むと、そのまま家から出た。無理である。気分転換の一つや二つでもしないと本当に無理である。余計な事ばかり頭の中に思い浮かんでくる。ちょっと楽しい事して何もかも忘れよう。例え今日の夜に思い出すことになったとしてもだ。例えそれが妄想の産物に無駄金を使うことになったとしてもだ。心の平穏が金で買えるなら安いものだ。


適度な思考停止は精神にいい。雨の中、傘をさして、取り敢えずカフェにでも向かうことにする。何せお腹が空いた。あと、食べる事以上に安心する行為もそうない。


でも取り敢えず、一つだけは忘れずに覚えておこう。


今日の蛇口は、固く、固く閉めておく。なんなら食器も全て片付けておいてしまおう。水の受け皿がなければ、シンクに落ちる水の音は、また違う音になるはずだ。布団に落ちる水の音が変わるように。墓穴を掘った。やめよう。


何にせよ、耳を澄ませていいことは何もない。夜の時間は特に。くだらない想像や妄想が、簡単に人の精神を蝕むからだ。


だから、蛇口は締めなければ。

耳を澄ませてしまう様な音は、無いに限る。

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